ブッククラブニュース
平成19年12月分

 今年も一年、ブッククラブにおつきあいくださいまして本当にありがとうございました。十二ヶ月が経っているとは思えませんが、もう師走です。温暖化とはいえ甲府も冷たい風が吹き始めました。今日から店の前庭のモミの木に電飾を入れましたが、この山の中では毎年なんだか場違いの感じがしています。でも、一年の終わりを締めくくる行事です。あとは、イヴと新年を静かに迎える時間。

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 十二月といえばブッククラブではクリスマス絵本が主役です。でも、最近は何もかもが前倒し。カレンダーの仕入れ案内がなんと八月初旬からです。クリスマス絵本も十一月に注文したら一冊もありません。「そんなに急いでどこへ行くんだ、日本よ!」と思います。試写会で映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」を観ましたが、「日本にもあんなにゆっくりと生活できた時代があったんだ。」と感慨に浸りました。でも、翌日のゆめやはクリスマス絵本の入荷、仕分けで大忙し。流れるラジオのニュースは防衛省の汚職やガソリンの高騰、強盗や殺人ばかりです。
 そんな中で、下の娘が箱から出す仕分けの仕事を手伝いながら、ある絵本を懐かしそうに手に取りました。そして「……この本。読んでもらった子は大きくなっても悪いことができないよねぇ……。」と、言うのです。見ると「くつやのまるちん」でした。ほとんどの子の六歳に配本される基本中の基本絵本。「トルストイ民話集」の中の話を絵本にしたものです。短い話ですが珠玉の短編。長い物語だけが良いとはかぎりません。娘たちにもよく読んでやった本でした。こんな内容です。
 ……奥さんも子どもも死んでしまった靴屋のマルチンが淋しく暮らしていると、神様が「明日、おまえのところに行くよ。」と夢の中に出てきます。マルチンは次の日、仕事をしながら神様が来るのを待ちました。でも、最初に来たのは雪かきのおじいさん。疲れていたようなので温かいお茶を入れてもてなします。次に通ったのは赤ちゃんを抱いた貧しい母親。マルチンはスープと上着を与えます。その次はおばあさんからリンゴを盗んだ子。マルチンは、おばあさんをなだめ、許してやるように頼みます。子どもにはおばあさんに謝るように諭します。 なかなか神様はやってきません。暗くなってもやってこないので、マルチンは灯りを点して聖書を読み始めました。すると、昼間出会った人々…おじいさんや貧しい親子、おばあさんや子どもが幻のように次々と現れ、こう言うのです。「マルチン、私がわからなかったのか? あれは、みんな私だったのだ。」…… いつも、どこかで誰かが、その人を見つめている…という考え方がキリスト教の浸透している欧米ではあるようです。アラブにもアジアにも必ずあるでしょうね。よく「日本人は無神論だ」と言われますが、じつは特定の神がいないだけで、どこかで誰かが見ているという意識はあるはずです。
日本でも昭和三十年代くらいまでは、朝日を拝んだり、山に手を合わせたりする人がけっこういました。そして「悪いことをすると天罰が下る」と・・・。
ところが、高度成長の後、この気持ちが失われてきたように思います。神様に代わってお金と物が拝まれるようになり、「豊かなことこそいいことだ」という考えになってきたのでしょう。
私も聖人君主ではありません。盗む、殺す、不倫をするなど「十戒」にあるようなことはできませんが、「雪かきなどサボりたい」、「リンゴのひとつくらいいいじゃあないか」と思ったりします。でも、どこかで誰かが見ているような気がして、できないのです。わずかでも災害地に募金を送り、ホームレスに古着や余った食品を送り、どこかの誰かに褒められようと思っているところがあります。
偽善だとは思いますが、そのくらいしか「善」ができません。やはり、どこかで見ている誰かを意識しているのでしょう。きっと「おまえは善いことをしたな。あれは、みんな私だったのだ」という言葉を聴きたいのでしょう。
絵本を読み返している娘に私は言いました。「まぁな。人間なんて生きているかぎり欲も出れば悪いことも考える。問題は実行するか、しないかだよ。悪いことをすれば、シッペ返しが来る。見られていないようでも誰かが見ているから。」お金のために小さな子どもまで殺してしまった老人も天罰が下りました。きっと小さいころに心を育てる環境がなかったんでしょうね。
どこかで誰かが見ている意識があれば、おぞましいことはできません。「ALWAYS続・三丁目の夕日」は、多くの観客がどういうわけか涙を流していました。私は、現代の日本人の心の中にもまだ壊れていない何かが残っているのを知って嬉しくなりました。聖夜に開く1ページ、聖書には「貧しい人、家のない人、病気の人の中に私はいます」とあります…ここをもう一度じっくりと読んでみましょうか。

 冬はじめ。北極の氷が解けているといいます。なるほど窓から見える南アルプスの連山も富士山も白い雪の筋はあるものの中腹から下はまだ青い。甲府の周辺の木々も紅葉しないまま枯れ始めたものもあります。いろいろなもの、いろいろなことが大きな変化を始めたように思います。でも、変化とは関係なく時間はめぐる。一年は終わる・・・なにはともあれ、この一年、ブッククラブのご利用、ほんとうにありがとうございました。

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 さて、今年、私が感じたいちばん大きな変化は「大人が変ったよなぁ…」ということです。「誠実さ」のない政治家、役人や企業、凶悪事件の犯人のことではありません。そういう人たちが悪いのは「しかたがない」にしても、ごくふつうの大人が変ったと思うのです。温暖化で気候が変ると人間も変るのでしょうか。それとも、メディアや生活用品の進歩に影響されたのでしょうか。もちろん、この変化は賄賂を受け取るとか幼児でも殺してしまうというような過激なものではありません。それは溶けかけた氷山の一角で、小さな変化です。
 たとえば、電話がかかってきます。ふつう電話なら常識として、まずかけた方が名乗りますね。「ゆめやさんですか。私は○○ですが、・・・。」などとね。こちらは「はい、ゆめやでございます。」と出ます。それがいきなり用件を切り出され、こちらとしては誰が何を言ってきているのか分からずに戸惑うことがあるのです。「どちら様でしょうか?」と聞かないと名を名乗りません。さらに困るのは、こちらから電話をしたばあい、ひじょうに身構えて硬くなっている出方です。早く名乗らないと応対がひじょうにブッキラボー。これもケータイの影響でしょうか。かかってくる電話がいかがわしいものや勧誘の電話ばかりからかもしれません。そういうものから自分を防御するためには「しかたのない」ことかもしれませんが……悲しいですね。大きなコミュニケーションの変化です。
この間、山梨大学で読書とコミュニケーションについて話していたら、二年生の女学生が手を上げました。曰く、「私、ケータイ以外の電話は怖くて話ができないのです。」「友人の家に電話をかけるときなんかでも?」と聞くと、「相手が、親や兄弟でもなんとなく怖くて何を言っていいのか。」と来ました。「会社に入ったら電話を受けなくてはならないのです。どうします。訓練しないと大変ですよ。」と答えておきました。メールやケータイ……自分が直接対応しないですむコミュニケーション・ツールが増えた結果でしょう。
 異常な話は、いくらでもあります。ある独身男性が合コンに出た。すると周りの女性は、×1、×2を自己紹介代わりに話し、いきなりアドレスの交換だというのです。彼女らが乗ってきた車
には「child in car」とある。あわてて逃げてきたというウソのような話です。また、 喫茶店で恋人たちが、話もせずにケータイを開いていじっている。いわゆるかつての常識が通用しないという「大変化」が起き始めたのでしょうね。豊かさやコミュニケーションが電気を通したものに進歩する一方で、私たちがもともと築いてきた生活様式や文化が大本から崩れ始めているようです。「礼儀」や「人情」というと時代錯誤にとられるかもしれませんが、どうも、そういうものがグラグラと壊れ始めたようです。

 聖書に「バベルの塔」の話があります。天に届くような塔を建てようとすると、神が怒って人々の言葉が通じなくなるようにしてしまう話。知ってますよね。そんなテーマで描いた映画「バベル」も上映されました。なんだか、今の日本、まさにそんな感じです。高層ビル、言葉や会話が通じない・・・。バベルの塔はおごり高ぶった王様が、天に挑戦して矢を放つたとたんに崩れ始めるのです。同じように「この豊かさよ。天にも届け…」とインテリジェント・ビルが建っています。まさにバベル。このバブル(もといバベルです)の塔が建ち始めたころから、どういうわけかコミュニケーションのつながりが希薄になってきた。常識が通らない。異常な人間が増える。理解不能な発想や商品ばかりが横行する。どこかで確かに日本が変り始めているのです。
もう一度、過去を振り返って、再び良さを発見できるのか。それとも、このままどんどん変って行って、新しい倫理を作り始めるのか・・・それはわかりませんが、TVのばかばかしいバラエティ番組の価値観に押し流されて、バカを言うことが正しいこと、おもしろいことと思ったり、不道徳なことや無軌道なことも多様性として認めるなんてことが常識化しているのをみると不安です。政治は、なおひどい。もはや正当な言葉の世界ではないです。
そんな大人を、また子どもたちが見ている。見ていれば真似する。そして、それが常識だと思い込んでしまう。イジメだって大人がやっているのを真似ているのですよ。新しいツールを使ってさらに巧妙に……やがて、不倫やセクハラのどこが悪いの! 改竄や横領や賄賂のどこが悪いの!・・・という常識が一般庶民のレベルでも出てくるかもしれません。わずかなお金のために人まで殺し始めていますからね。しかし、個人の力では何もできません。おそらく来年は今年より、怖いこと、悲惨なことが起きて、破局に向って大スピードになるでしょう。でも、私個人は自分が築いてきた「常識」を死守する覚悟で新年を迎えたいと思っています。時代遅れと言われようが何であろうが・・・時代に迎合して生きるなら消えたほうがましです。たとえ齟齬やが生じても、丁寧なコミュニケーションからしか信頼や人との交流は生まれないと思っています。子どもを物やお金で何とかしようとした結果が言葉による意志の疎通を失わせているような気がします。通信ツールでなく肉声、心のこもった言葉は大切です。
豊かさばかり得ても、けっきょく、どこか心には空ろなものが生じます。
その意味でも、クリスマスやお正月に子どもたちには本当の心が詰まったプレゼントをあげたいものですね。
では、良いクリスマス、良いお年をお迎えください。


(ニュース一部閲覧2007年12月号)
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