ブッククラブニュース
平成20年4月分

入学おめでとうございます

桜・四月・入学・一年生

入学式は、四月七日の月曜日のところが多かったようですね。甲府は、ほぼ日本列島の中心で、この時期、桜が咲き誇ります。この南北に列島は長いので、桜が蕾にもなっていないような入学式もあるでしょうし、咲ききってしまった入学式もあるでしょう。でも、春はすべてが芽生えの季節、入学にはふさわしいシーズンです。暖かな光、桜の花、木々の芽吹き、小さな花々の開花・・・子どもが幼児から少年少女になる区切りとしてピッタリの季節です。今年はあまりにも寒い冬で、この春はレイチェル・カースンが予言した「沈黙の春」になるかと思いました。でも、やはり植物は健気に花を咲かせました。庭にはメジロやオナガがやってきています。温暖化で危険な状態になっているとはいえ動植物の生命力の強さにおどろくばかりです。季節に合わせて成長し、変化していく巧妙な生命の力には脱帽することがあります。
そういえば、日本人も四季に応じて多様な力を発揮する動物ですよね。一時期、欧米に見習って「入学を九月にしよう」という議論が出ましたが、いつか立ち消えました。季節に敏感な日本人には受け入れられなかったのでしょう。グローバリズムで、いろいろな変化や異常が起きている世の中ですが、それでも花は咲き、鳥がさえずります。子どももどんどん成長していきます。

喜びと不安

 でも、子どもを新しい社会に送り出すたびに喜びとともに不安がつきまとうでしょう。親として当然のことです。「よくもまあ大きくなったものだ!」という驚きから「「大丈夫かな?」「やっていけるかな?」という不安まで・・・。これが育てるということなのかもしれません。
たしかに、以前とちがって子どもの周囲は多くの問題があるように見えます。常識崩壊の親に育てられた子が教室を跋扈(ばっこ)することも考えられます。子どものころから無制限に流行り物を与えられてきた子が特定の子をいじめることも今始まったことではありません。
ところで、春は卒業と入学の季節で、その挨拶にたくさんのお母さんとお子さんが店を訪れます。中学に入った子、高校に入った子、大学に入った子・・・幼かったときとは背丈も顔もちがってきていますが、いずれも共通して目の輝きがあり、相変わらず私と会話が弾みます。こういう子たちを見ていると、世間で騒がれているような、おかしな子どもや青少年がほんとうにいるのか、とさえ思えるくらいです。お母さま方と接していて、話題になっているようなモンスター・ペアレントと一度も出会ったことがないのと同じです。考えてみれば、ふつうの家庭で、ふつうの親に見守られて育ってきた子どもがおかしくなるわけもないのです。小さいころに、ちゃんとしたサポートがあり、読み聞かせや遊びで親との時間を共有してきた子が、椅子に腰掛けていられないとか授業中でも騒ぎまくるということなどあるわけがありません。安心していいわけです。ちゃんとやっていくはずなんです。

変化の波は来るけれど

学校もどんどん変わっていくでしょう。ここ数年でかなり変わりました。親が抱いている学校観とは違ったものになっています。市場原理の波さえ学校を襲っています。効率優先、数値で測る・・・
何を目指しているのかもわからなくなっています。子どもを何にしたいのかさえ・・・。でも、いずれ、それがどうにもならなくなって、みんなが元に戻らなければダメだと気がつきます。
 これは、環境問題や他の社会問題と同じ。こういうことをしていたら、けっきょく自分の首を絞めるのだということが分かってくるでしょう。いくつかのすぐれた本の中には、この状況を打開して安心に暮らせる術のようなものが述べられていますが、なかなかそういう本の影響は現われません。まだまだ世の中は元には戻りませんが、最先端では良い方向への変化も起きています。実際、数年前まで話題にも登らなかったイケイケドンドンの消費が「環境によくない」、「みんながダメになる」という意識も生まれてきています。 しかし、子どもは、動物や植物と同じで柔軟に周囲に対応しながら健気に生き抜くものです。親が思っている以上に・・・・。

一番遅れているのは大人のほうかもしれない

 この国を指導している人もだんだん低劣になっています。日本がどこに行くのかもわからないから羅針盤を見ても舵が切れないのでしょう。教育は変化が一番遅くやってくる分野です。元に戻す研究や活動がもっと進めば変わるかもしれませんが・・・。この間、古い中国の映画を観ていたら、学校の先生が小学校一年生に教科書を音読している場面がありました。先生が一行読むと生徒が後を追って大声で続くのです。「人の世に生まれたら志あるべし/書を読み、字を習い/見識を深める/字を書き、計算ができること/どんなことでも書き記すこと/今と昔を知り、天と地を知ること/そして、どんな出来事も心にとどめていよう・・・」一年生の可愛らしい声がこの言葉を繰り返します。・・・いま日本の学校で行われているもの・・・「字を習い/字を書き、計算ができること」だけでしょうかね。こんなものをいくら高度にやったところで人間は頭がよくなるわけもありません。全部をやらねば・・・・。
福島県では「会津っ子宣言」というのがあり、子どもが「卑怯なことをしません。」などと大声で唱えているようです。これは教育効果が高いと思いますよ。
 高校も大学も誰でも入れるようになっている、というか、かなり成績が悪くても入れるようになっています。実際、大学生と話しても議論はできません。それなのに学校はまだ競争を進めています。学力(成績)をあげることだけを目標にして・・。今の小学生がが大きくなるころはもっとレベルが下がっていることでしょう。そういう状態から抜け出る子どもにしたいですよね。

志を持つ家庭がすべての力です

 私がこの数十年見てきて、ちゃんと成長して大人になった「子」は良い親に恵まれ、その庇護を受け、家族としての価値観や時間をたくさん共有してきた子です。親がロクデナシで子どもが立派に育つことなどほとんどありません。どんな困難でも切り抜ける力は家庭が築いてきた力以外の何物でもないでしょう。これから小学校、中学校、高校と大きな山が待ち受けていますが、家族の力が物を言うと思います。「人の世に生まれたら志あるべし」・・・こういう目標は必要です。ダメになっていく子の(あるいは大人)のほとんどは、この志がないのです。お金などいくらあっても消えるもの。でも志は使えば使うほど、その子(人間)を大きくするものです。今、学校はこれを教えるのを忘れてしまったようです。


(ニュース一部閲覧2008年4月号)

入園おめでとうございます

四月です。ようやく寒く長い冬が終わり、ゆめやの店先にはフジザクラがたくさんの花をつけました。寒冷地の桜であるフジザクラがこんなに早く満開になるなんて温暖化なんですね。
 店の近くには学校も保育園も幼稚園もありますが、寒い冬には子どもの声も響いてきませんでした。でも、このところ下校の生徒や入園式や入学式帰りの親子の声がにぎやかに聞えてきます。桜吹雪のなかをお母さんに手を引かれて園から出てくる子どもたちの笑顔を見ると、こんな私でも「ウチの子たちもあんなふうに元気いっぱいだったなぁ!」という懐かしい記憶で頭がいっぱいになります。帰宅する親子を街角で蛍光色のジャンパーを着た「安全隊」のおじいちゃん、おばあちゃんが笑顔で見守る・・・いい風景です。ウチの子のときはそんなこともなく、女房が前に次女、後ろに長女のママチャリでキーコキーコ汗水垂らして帰宅してました。

違いは違い、同じは同じ

さて、入園。初めて親の手から離れて社会に出る最初の季節・・・子どもも緊張があるでしょうし、思いのままにならないじれったさも感じることでしょう。子どもにもいろいろあって、すーっと園生活に入れる子もいれば、なかなかなじめない子もいます。同じ環境で同じに育てても元々のDNAのなかにDifficult child(むずかしい子)とEasy child(すんなり行く子)の違いがあり、我が家でも上はDifficult、下はEasyでした。プレッシャーを感じる長女とプレッシャーそのものを意識しない次女・・・同じ生活習慣をつけて育てたはずなのに・・・親は戸惑います。でも成長してから考えると、そんなのは子どもの性質の違いのようなもので、あまり神経質に親がカバーしたりすることもないのような気がします。
 とくに園は、最初の社会性を養うところです。みんなと一緒に何かする、同じ時間に同じ場所で・・・という協働(協同・共同)することを覚えるところです。極端に異常な行動をとったりしなければ、見守っているほうが効果的です。それまで家庭でつけた生活習慣をもとにして子ども自身が成長しながらうまく対応していくものです。案ずるより産むが易し、です。

ゆるやかに

 園だって、ビシバシ管理教育をしているわけではないでしょう。準備、終了、片付けなどがストップウォッチで運営されているような園はまずありません。過度な教え込みや整列、極端に挨拶を要求する軍隊のような園はないと思います。この時期はゆるやかに社会性をつけていく時期で、そんなことをすれば「子どもの成長の基礎」などブッ飛んでしまいますからね。そこまでは、しない。
 ただ、最近は「親のニーズを受けて・・・」ということで知育教育を塾なみに組み込む園もあります。そういうところを選んだなら、子どもに成長不対応の精神的な現象が起きても親の「自己責任」ですね。「早く、正確に」は、じょじょに身につけないと、どこかで歪みが出てくるものです。「能力が伸びればいい」という最近の風潮は、やはりバランスの取れた成長を考えるといかがなものかと思います。いつも言うように、現代は多くのシステムが市場経済で動いているため、それに乗る企業は目玉になる宣伝をして消費者の需要を引き起こすことをします。これは幼稚園、保育園(学校も)も例外ではなくなっています。子どもの教育にシフトした家庭は、この宣伝や目玉教育に目が奪われやすいのです。まして教育が外部(園や学校、塾)に依存する傾向はますます大きくなっているように思います。

どこまで行っても家庭は大事

 園といっても最近は3歳、4歳での入園ではなく、乳児から入る子もいますので、昔の様に一概に言えませんが、はっきり言えることは「この時期の子どもは遊びによって成長する」ということです。長く子どもを見てきて、この事実はゆるがないものになってきました。じょじょに多様な人間関係の中で「人間」というものを学習する・・・それが一番重要なことなのだと感じます。ここでは学習は「遊び」なのです。これが、じつは現在一番欠けていることで、一番必要とされていることなのではないでしょうか。偏ったことで成長した少年(青年も大人も)が、さまざまに不幸な状態に陥っているのを見ると痛切に成長に見合ったことをしないとダメだと思います。「そんなこと言われても・・」という親もいるかもしれません。でも、それも自己責任です。そこまでは他人は誰も責任を持ちません。
 まだまだ家庭のサポートは重要な時期です。生活習慣を外部に委託するようなことを考えず、家庭独自のしつけや生活時間を築いていくべきでしょうね。
 子どもは、何かにプレッシャーを感じると不満や葛藤がどんどん溜まっていきます。それがすぐに爆発すればいいのですが、思春期になって出てくるとやっかいなものです。表面は親の言うことをよく聞く子どもが始末の悪い大人になる例は数え切れません。
せっかく、初めて世の中を知るチャンスである入園です。あまり周囲の情報に左右されないで、遊び心や好奇心を高められるような世界をつくってあげてください。人間関係も限定しないで、さまざまな「人間」を観察する機会もたくさんつくってあげてくださいね。


(ニュース一部閲覧2008年4月号)
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