ブッククラブニュース
平成20年9月分

つながり

 今年の夏、ゆめやには遠方の方々のご訪問がたくさんありました。近くは東京、横浜、遠くは大阪、仙台・・・いえ、一番遠くはイギリスやアメリカなどの海外の会員でした。こんな山の中の不便な店を訪ねていただけるだけでもありがたいことです。どなたも小さい店で驚かれたことと思います。でも、この変化の大きい時代にまったく変わらず、ここまでやってきて・・・・・・実は指摘されるまで私も分からなかった?のですが、このニュースも先月で300号・・・12で割ると25・・・ブッククラブも25年以上になったわけです。
 開店以来28年・・・配本を受けていたお子さんが結婚して再びブッククラブに入ってくるケースも出ています。うれしいというか、時間の経つ速さに驚くというか感無量です。まったく宣伝もしないで、クチコミだけに頼ってきたのですが、ほんとうに紹介による「つながり」の強さを感じています。実際に遠くのご家族が会いに来てくれるのですからうれしいです。
夏、お盆の時期、相次いで三家族の訪問も得ました。ゆめやのブッククラブを描いたNHK甲府・制作の番組「小さな絵本屋と4つの家族」に登場をしていただいたご家族・埼玉、東京、山梨の方々です。放映は5月で山梨県限定の視聴でしたが、8月2日には「NHKワールド・プレミアム」で海外(アジア)にも流れました。
 番組ではブッククラブの会員の親と子どもの関わり、成長の様子が描かれています。本を通してどのように親と子どもがつながるか・・子育てがどんどん外部委託になっている時代の中で強くつながる親と子の貴重な環境を映し出しているように思えました。読み聞かせを受けて読書に進んでいく子どもは、「おかしな人間にはならない!」と感じました。CMなしの30分番組は意外に長いものでしたが、そこには読み聞かせが作り上げた家族の肖像が浮かび上がっていたように思います。そして、登場した家族に実際にお会いしてみると、「なるほど、こういうご家庭なら、さもあらん!」と、その家族の「つながり」の深さに感じるものがありました。
 ガソリンが高騰している中をたくさんの会員がわざわざ「ゆめや」に来ていただいたことを感謝するばかりですが、私もお盆で実家に戻る車の中でふと思いました。高速道路は帰省の車で渋滞していましたが、多くの人が短い期間に実家に帰るのです。こんな国は、そうたくさんないでしょう。お盆、正月に実家に向う・・・「これは親を求めて、あるいは子を求めて、つながろうとしている現象ではないのか?」・・・散らばっても伝統行事を利用して家族を再確認する行動をする・・・この習慣が残っている限り、過酷なグローバリズムにさらされていても「つながり」を消してしまうことなく生きられるのではないだろうか?と思うのです。
 競争や複雑な生活なかで、個人個人が孤立を深めている世の中ですが、帰省でき、親と子がつながっている家族は強いのではないでしょうか。人間は一人では弱い動物ですが、集団になると強さを発揮します。そこには守る、守られる、の関係「つながり」があるからでしょう。
 親はいくら歳を取っても子どものことを考えています。子どももいつもどこかで親のことを考えています。それが家族。アジア的なつながりですが、共通の時間を過ごしてきた思い出の共有者です。強い「つながり」をつなぐのは、ごく些細な取るに足らない経験の共有かもしれません。食事をする、読み聞かす・・・どこかに行く、話す、これが、つながって、やがて家族や実家になっていきます。まだまだ希望はありますね。日本も・・・・

子どもと絵本・・・D科学絵本

科学絵本とは・・・?

 配本では、多く四歳以降に入ります。代表的なものは「むしばミュータンスのぼうけん」や「きょうりゅうたち」ですが、その他、性別や個人別でかなりの数の科学絵本と呼ばれるもの「ぼくのぱんわたしのぱん」「どろだんご」などを配置しています。しかし、ほんとうを言うともう少し増量したいのです。でも、やはり金額面のこともあって、毎月、科学絵本を組み入れていくことができません。
 科学絵本というのは、幼児期では物語絵本です。科学的なものを語る物語です。けっして図鑑ではありません。幼児が科学的なことに関心を持つのは他の分野と同じで、語られることから始まります。

科学は物語で関心が出る

 「科学的」というと、とかく知識主体と思われがちですが、幼児への大量の知識詰め込みは科学的な関心を失わせるばかりでなく、頭を固定的なものにしてしまいます。ですから科学絵本は科学的な内容を物語化したものということになります。これは、少年期になっても基本的には同じことで、「シートン動物記」の中身は「お話」です。「ファーブル昆虫記」もお話になっています。
 以前、就学児の新聞のほうに書きましたが、歴史的なものにしても科学的なものにしても知識を増やそうとするあまり大人はガンガン知識を詰める内容の本を薦めてしまいます。でも、これでは子どもは嫌になってしまいます。子どもが興味を持つのは「お話」なのです。
 たとえば男の子に「かみひこうき」という本が入ります。これは紙飛行機の作り方ですが、尖ったものにするとどう飛ぶか、平べったい翼の広いものではどう飛ぶか・・・ということから工夫や知識を必要とするような内容が語られています。
 女の子には「わたし」という本も入ります。これは科学というより社会科学ですが、自分が別の視点から見るとどういう存在になるかということが語られます。これによって、関心が増せば自分のほうから知識を増やしていくでしょう。

お話から大発見が生まれた話

 トロヤの遺跡を発見したハインリッヒ・シュリーマンの話は有名ですよね。これは、シュリーマンが幼いときにお父さんから「子どものための世界歴史」というお話を読み聞かされたことから始まります。中身はホメロスの「イリアス」や「オデッセイア」などの神話でした。
 その「お話」はとてもおもしろかったのです。これを聞いて育ったシュリーマンは、ほんとうにトロヤが存在したと思い始めました。そして、歴史の勉強や語学・地理の勉強をして、トロヤの位置を特定することを試みたのです。周囲の人は「頭が狂っている」と言いました。遠い昔のおとぎ話だと思っていたからでした。でも、彼はヘクトールを追いかけたアキレスがトロヤ城を4周半したことから城の円周を割り出します。そして、同じ規模のヒッサリクの丘を発掘してトロヤを発見するのです。幼児期に聞いていた話が、その人の人生を決める典型的な話です。天才数学者のガロアも幼いころにお母さんからたくさんの古典の物語を読み聞かされていました。だからといって、「読み聞かせれば大発明や大発見ができる」というわけでもないのですが、「お話」が何かのきっかけになるはずです。これはまちがいありません。
(フレンドシップニュース一部掲載)

いいのか、悪いのか

 長く生きていると、どうしても「過去と現在を比較する」ことに頭が行きます。そうすると、現在起きていることに「変だな」とか「違うだろう」とか「不自然なことを平気でやっているな」とか、いろいろな感じを抱くことになります。ところが、現在だけを生きていると比較ができないで、「現状が当然」であって「普通」という感覚になりますね。あるいは、「まったくごく身近なことしか考えない」で生活してしまいます。やはり、比較ができないと大変です。それは問題解消への第一歩ですから・・・
 例えば、学校は週休二日制です。それはそれでいいのですが、やることが増えて小学生でも一日の時間割がどんどん長くなっていく。行事は前倒しになり、運動会も夏休み明けが普通となってしまった。 俳句でも運動会は秋の季語なのに、練習中に熱中症で倒れるのではないかと思われるくらいの時期に行われます。ならば、昔のように土曜日を半日登校して余裕ある体制にすればいいのに、週休二日は変えずに相変わらず残り五日に詰め込むわけです。「変です」。
 「グローバルな人間になるために」小学校高学年で英語が導入されることが決まり、これにも時間を割かなければならないようです。山梨県などは英語よりポルトガル語やスペイン語を習ったほうが身近で使えそうですが、英語が入ります。やはり他教科のようにテストがあるのでしょうか。通常、公立学校では特定教科を除いて基本教科を一人の先生が教えるのですから、先生方は大変ですよね。英語ネイティヴのアシスタント教師をどう工面するのでしょう。
 それに一週間に一時間くらいで、英語環境がほとんどない日本で、多くの子どもが話せるようになるかどうか・・・「ちょっとやることが違うだろうが・・・」と思います。
 「日本人の心を持つために」国語にも古典的な文章が増えるそうです。すでに学校内に古武道や邦楽が復活しているようですから昔話や伝統的な言語を使えるようにして和の心を養うらしいです。日本語を壊しているサブカルチャーは問題にしないで、教科だけでこういうことをしても「なんだかなぁ・・・」って感じがします。「不自然なことを平気でやっているな」という感じです。
 結果というのは原因があるから出てくるものですが、現在「不登校」が猛烈な勢いで増えています。これも原因があるからです。家庭にもあるでしょうが、学校に原因が皆無とはかぎりません。どこかが不自然になっているので、それに耐えられない結果が出ているわけです。
 でも、ここが問題・・・そういう流れに誰も何も言い出さず、唯々諾々(いいだくだく)と従ってしまう面が出てきていますよね。誰も、「正しいのか悪いのか」「自然なのか不自然なのか」「変なのか変ではないのか」を考えません。「何となくおかしいけれどみんなが従っているのだからしかたないか」です。インターネットから得た情報は人生に役立つのか? ケータイが多機能になれば生活やコミュニケーションにとって安全で便利なツールになるのか?・・・そういうことも含めて何も考えられなくなっているのではないでしょうか。やはり、何らかの形で考えを深めないと、そして物を申さないと、どんどん誰かの思惑通りに悪いほうに行ってしまいます。

全国学力テスト

 全国学力テストの結果、秋田、福井が良くて、大阪が悪いという判定になった。そうしたら、橋下大阪府知事がこう怒った。「府教委には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ!」。話題の東京・杉並の中学校の校長を教育顧問にしたのだから怒るのも無理はない。でも学力検査の結果だけを見て、それが学校や教委のせいなのかどうか。秋田や福井に比べて外国人比率は大阪が高いかもしれない。山梨でもそうだが、外国人子弟の比率の多い学校は、言葉が通じにくいのだから授業の効率も下がる。さらに子どもの生活も大きく変化しているから一概に「学校の指導が徹底していない」とは言い切れないだろう。文科省は「与えられた情報から必要な内容を読み取る力が不足している」と指摘したが、それは詰め込み教育の結果かもしれない。

学力は何を目指すか?

 私が不思議に思うのは、昔に比べてはるかに教育環境が整い、学習も合理化しているのに学力が低下していることである。そして、まったく基本的な疑問なのだけれど「学力って何だろう?」と思う。もちろん正答率が高いほうがいいのだろうし、難しい問題がどんどん解けるほうがいいに決まっている。しかし、小学校から塾に通いつめ、大学入試を突破しても基礎的な分数計算もできない理工系学生がいるという。それだけ勉強したにもかかわらず常識水準の漢字も読めない大学生もいるわけだから、現実には大変な事態なのかもしれない。ある人に言わせると「大学生になってはいけない人間が大学に入っているのだから学力は落ちてあたりまえだ」とのことだ。
 しかし、私が不思議に思っているのは計算ができない、字が読めない、ではない。昔から成績の良くない人間は必ずいた。私もその仲間だった。それでも、ここまで生活をしてきている。それはともかく、問題のレベルを上げようが下げようが必ず成績格差は出てくる。100%の正答率にして、どんな難しい問題でも解けるようにして、いったい何を目指すのか、この辺のところが分からない。

学力が高い人は何をやってもいいのか?

 学校は、立派な社会人や誠実な人間をつくることが目標ではなかったろうか。卑怯で無責任な人間をつくるところではなかったはずだ。安倍晋三・元首相は学力向上に熱心で、自身、成蹊大学を出て、南カルフォルニア大学へ留学するくらいだから学力は高かったのだろう。福田康夫首相(もう首相じゃないか!)は早稲田の政治経済学部を出た秀才らしい。それが唐突に自分の仕事を投げてしまう。町工場のオヤジさんだって、受けた仕事を「できない!」と言って投げ出したら信頼など吹き飛んでしまうだろう。学力が高ければ何をやってもいいということではないはずである。

子規は「家庭教育の重要性」を訴えたが・・・

 古い文献で申し訳ないが、近代俳句の祖・正岡子規が「病牀六尺」というコラムの中で、教育について述べている。「・・・読んだ本がそのまま役に立つことはない。つまり常識を養えば十分なのである。」と。そして、家庭での教育が、常識を養うのに重要だと主張する。長いが現代語に直して引用してみよう。 「家庭教育は子供の品性を養っていくのに必要だが、学校でやらないことの細部は家庭で教えられる。お辞儀をすることから始まって来客にはどういう風に接するかなどは親が教えなくてはならない。一家の和楽を失わないようにしていくことは多くは母親の教育如何で善くも悪くもなるのである。ところが今までの日本の習慣では家庭の和楽が乏しい。一家の団欒(だんらん)が欠乏しているのをみても分かる。一家の団欒は、食事の時を利用するのが簡便な方法だが、それさえ行われていない家庭が少なくない。食事の時に一家が一所に集まる。食事をしながら雑談する。食事を終えてまた雑談。これだけのことができれば家庭は平和で愉快なものになる。」
 百年前の日本も今の日本も変わらない感じがするが、貧しくて余裕がなかった昔と豊かさのために忙しい現代が似ているというのもおもしろい。子規は続ける。
 「一家が平和であれば子供の性質も自から平和になる。父、母、姉、兄などの雑談が子供はそれを聞いて良き感化を受けるだろう。むずかしい道徳的なことを話すのではなく、高尚な品性を備えた人の話なら無駄話にも品性が表れるので、聞いた子供は自然に感化を受けるのである。この感化は教える、教えられるということではない。教えられるとも思わないが、その沁みこむこと、学校教育より効能がある。だから家庭教育は学校教育よりも重いと言っても過言でない。」・・・ま、百年前の考えである。古すぎるかもしれないが参考になるかどうか。
(新聞一部掲載)


(ニュース一部閲覧2008年9月号)
ページトップへ