ブッククラブニュース
平成20年10月追加分

読み聞かせの周辺E 2歳全般の注意

◆二歳代の傾向◆

 二歳代の男の子にありがちな発達特徴ですが、自動車、電車などへの強い関心が見られることがあります。「怪獣」であったり「地名」であったり、「国旗」や「駅名」であったりすることもあります。特別な分野のものにだけ関心が出て、それだけで頭がいっぱいになってしまう傾向です。これは男の子には自然なことで、放っておけば一過性で済んでしまいますが、・・・しかし、記憶力も増加するときなので、親は天才かと思って、どんどん関連のものを与えてしまうこともあります。これをやると、認識のパターンが固定化してしまって、三歳になって物語に反応しなくなることも起きます。ひどい場合はおもちゃや図鑑を集めることで感情抑制が効かなくなることもあります。かわいい盛りですから、親としては要求を満たしてやりたいと思いますが、やはりここでブレーキをかけないとバランスの取れた認識力を形作ることができないと思います。2歳〜3歳の関心のパターンは、その後の人間関係や自分の立場の認識に大きな影響をもたらすといわれていますからね。

◆広範囲なものに関心を持つために◆

 この時期は、まだまだ広範囲に関心を持つようにしておかなければなりません。オタクと同じような思考回路ができると、関心のある世界だけにこもりがちになります。やはり、小さいうちの「好みにおける引きこもり」は避けたいです。三歳になると多様な物語の世界が準備されます。それを楽しんでいく力はつけたいものです。
 親がオタク世界に拍車をかけなければ、二歳段階ではかなり抑制が可能です。また、よく覚えるからといって、図鑑などを買い与えるジジババの介入も抑えたいところです。それをはねのけて強く要求してくるばあいはちょっと異常度を考えるべきかもしれません。

親や子がいる場所F「枯渇(こかつ)」

◆言葉と行為◆

 言葉というものは、実体を伴わないと人の心に働かないものである。「国産」と書いてあって実は中国産だったら言葉は実体を伴わない。「改革」と主張して実は改悪だったらこれまた失望する。「合格」ではないのに改ざんされて点数が上がっていたら、これは虚偽である。こういうふうに言葉というのは実体を持っていることが前提で言葉を交わす人々の間で信頼されるものだった。失敗をしたら責任をとる、あるいは嘘を言ったら社会的に葬られる・・・こういう行為が言葉を信頼できるものにしていたわけだ。それが、いつのころからか行為が伴われなくなってきた。失敗者や嘘つきにもやさしい社会になったからかもしれない。だが、そこでドンドン言葉の意味が枯渇してきて、言葉で人は動かなくなった。政治家のスローガンなどはおよそ誰も信じないだろう。
 これは歌謡曲の詩でも同じで、モーニング娘が歌うツンクの一連の歌の歌詞が「愛」だことの「平和」だことの美辞麗句を寄せ集めても空々しいのと同じことである。実体を伴わない言葉は人を打たないのである。歌手が「愛」を追求し、作詞家が「平和」を求めて行動すれば少しは違うかもしれないが、タバコを吸った吸わないのスキャンダル、CD売り上げの利益追求ばかりでは言葉は行為を持たずに空々しい。人の心は打たれない。

◆夢と現実◆

 言葉の枯渇は、商品の可能性の枯渇ともリンクする。じつは、この三十年以上。家庭生活の中に取り立てて新しい可能性を持つものは発明されていないのである。DVDはビデオの延長、CDはレコードの延長、あらゆるものがすべて三十年以上前にあったものだ。しかも、多くは過去のものをゴミとして捨てる可能性大の環境にやさしくない改良ばかりである。と、いうことは販売量の拡大だけを目指すもので、可能性の枯渇というよりない。
 学校は1970年代から「夢を持って努力すれば・・・」を掲げてきた。この結果、現実を無視した思考が生まれた。70年代の夢は理想を持つ80年代へ入って、やがて虚構の90年代に入る。そうすると現実を無視してきた分、精神がおかしくなる人たちも増えてきた。夢を持って努力して挫折したら立ち上がれなくなるわけだ。これも夢が現実を伴わない枯渇だからである。「金メダルしかありません!」と大言壮語する連中は取れなくても平気、言葉だけ! こういう例は言葉の信頼感に悪影響を及ぼすもののひとつだろう。

◆こういうことはすべて本に書いてある◆

 なぜおかしな犯罪が起きるか・・・先月も親が子を殺して自分でお葬式まで出ている事件があった。東金市の幼女死体遺棄事件などは身の毛のよだつもので、周囲ではもはやそこにいる人々にとっては現実の枯渇で、言葉など入り込めない状態になっている。この二つの事件では会員が近くに住んでいて、感想を聞いたが精神的な不安感ばかりが残ったという。この仕組みについては最近「不可能性の時代」で社会学者の大澤真幸が解説してくれていて、その背景をかなり前に劇作家の別役実が「母性の叛乱」で書いてくれているが、一般人は読んで知ったところで心の枯渇を満たすものにはならないだろう。あまりに現実が枯渇しているからだ。得るものがない。

◆子どもには何を・・・◆

 子どもには、誤魔化さないことが一番だと思う。親でも失敗したら謝って何らかの形で責任を取ることが大事だ。親が政治家やスポーツ選手、芸能人と同じようにアッケラカンと嘘をいい、責任を取らなければ、子どもは言葉を信じなくなる。言葉が信じられなくなれば、言葉で人を騙すことなど平気とある。言葉でいじめたり、殺したりすることにも平気になる。言葉をゲームにしないためにも言葉を枯渇させてはまずい。振り込め詐欺の一日の平均被害総額は9000万だというが、犯人の多くは若者だ。彼らは嘘の言葉が巨額の富を売ることを知ったのである。日本人の若者が同じ日本人の老人を騙すのは悲惨だが、平気で一千万も二千万も出してしまうリッチな老人の人生も枯渇していないとはいえない。かれあらも何かがほしいのだろう。つながりとか、愛情とか。哀れなものである。騙すほうにも、騙されるほうにもならない人間にしないためにも、言葉が空疎か実のあるものかを見抜く子どもがほしい。行ったことはやる。嘘で固めない。これが、子どもに接する最低限の接触法だ。それをしていかないと、言葉の枯渇は子どもの中にかなり悲劇的なものを引き起こすような気がしてならない。じつは少年少女古典文学には言葉が実体を持って迫ってくる話がゴチャマンと描がかれている。枯渇の見抜き方も、そこからの脱出方法も・・・・・


(ニュース一部閲覧2008年10月号追加分)
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