ブッククラブニュース
平成21年5月号新聞一部閲覧

絵本「なぜ戦争はよくないか」


 毎年三月、平凡社から別冊太陽「この絵本が好き!」という雑誌が出る。国内外出版の一年間に出版される絵本二千冊余りからベストを決めるもので、児童書専門店主、書店児童書売り場担当、児童文学者などが選んだベストテンがランクされる。今年は、国内絵本では湯本香樹実・文、酒井駒子・絵の「くまとやまねこ」が一位。たしかに、この作品、絵本作家・酒井駒子の人気で、選ぶ人が多かった。いわば今年の絵本屋大賞受賞作品というわけである。 毎年、絵本、児童書が大量に出版されると選ぶ方も大変である。それでも、多くの新刊に目を通し、瞬発力で選んでいくと残るものは残る・・・良いものが眼に留まる。どうやって選ぶのかを説明するのはむずかしいが、二千冊以上のすべてに目を通している人はほとんどいない。長年やっていると、出版社や作家によって多くをふるい落とし、これはというものに目を通して吟味するコツが身についてくる。だが、外国絵本は選ぶのがむずかしい。古典の作家ならいざ知らず、無名でもすぐれた作品を出す新進気鋭もいるからだ。選書眼を鍛えないで、選ぶ力をおろそかにすると、秀作を見落としてしまうことも出る。 そんな思いで昨年出版の外国絵本に目を通していくと、まっ黒な絵本で「なぜ戦争はよくないか(偕成社)」という本が目に留まった。そこで、これをベスト・スリーのトップに挙げた。

 しかし、それを挙げながら「多くの人は、この絵本に目は留めないだろう」とも思っていた。ストーリーは詩的で哲学的。戦争が世界を飲み込んでいって絶望的なものを残す最後のページとなる。おそろしいということが絵と文で感覚的に訴えられているだけだ。不快な絵本として取る人も多いかもしれない。ま、ヘソ曲がりの私くらいしか、こんな絵本をトップに持ってこないだろうと思って選んだ・・・しかし・・・三月発売の「別冊太陽」を開いてみると、なんと、こんな地味な「なぜ戦争はよくないか」が四位にランクされていた。「私の選書眼もまだ老いてはいないか!」と自画自賛・・・そして、さすが、みなさんも卓見!(笑)
 しかし、その後、テポドン騒ぎがすごい。瀬戸際外交の北朝鮮のやりかたに日本はまじめに反応している。笑えたのは国の対応と行政の対応・・・もう撃ち落したくて撃ち落したくてしかたのない人がいる。七分で日本に届くミサイルの発射から着弾までの情報がいくつもの機関を通って市町村役場にFAXで送られてくる。送信ミスもあり、「国内に落ちた」なんて誤報もある。そうこうしているうちに「こういうばあい、憲法に触れない法律の枠内で敵地を先制攻撃できる」なんて息巻く議員が出る。この騒ぎを見ていると、なんだか子どもの遊びのような感じだ。実際に攻撃が行われれば、とても間に合わない粗雑な体制だが、日本の行政は上位下達をまともに受けて、命令どおりにやっている。間抜けだがまじめ、粗雑さが複雑さを生み出している。

 でも、こうして国や行政が大慌てで臨戦態勢を煽ったわりには国民は冷静だった。ひょっとすると、「情報を信じない」という感覚が育っているのかもしれない・・・なんて思ってしまう。そんなことないか! しかし、上のほうには着実に日本が戦争ができる準備をやっている人たちがいるから困るのだ。国民もそういう状況を容認している。昔から国が国民を守ってくれたことなどないのに、国民の中にも大国意識丸出しで・・・戦争をやってもいいというような気運が芽生えているのかもしれない。つまり、国が国なら国民も国民で、いい大人がサバイバルゲームと称して、山野のゲーム場で軍人を真似て、おもちゃの鉄砲を撃ち合う遊びをやっている。千葉や東京にそのゲーム場がたくさんできているらしい。戦争ゴッコなど小学校のときに終わっているんじゃない?!そういう遊びをバカバカしいと思わずに真剣にやる大人がいること自体が仰天なのだ。なるほど「詰め込み教育とサブカルチャーは遊びを奪うので頭が大人にならない」というのがこの一事で分かる。「たかがゲーム」と寛容に見ているとロクなことはない。国民に銃を向ける軍隊などすぐできあがる。戦争をやりたくてしかたがない大人は、じつは国を見捨てている人たちでもある。借金が一千兆に達している国を何とかするためには戦争が一番手っ取り早い対策だ。勝てば相手国から賠償金や何かしらの利権が取れる、負けたって責任を取らなくていい。軍隊は国を守るという名目で動くが、国民を守るかどうかはわからない。危なくなれば、国民を尻目に逃げることもある。
 さらに、いまは、もう国と国の戦争なんて古臭い戦いで、海賊とかテロリストが相手の戦争だ。私は、いかなる理由があろうと良い戦争などはないと思っているから、戦争自体を人間悪とする絵本「なぜ戦争はよくないか」の結論に拍手を送った。「その通りだって!」ね。だいたい、子どもたちから笑顔も笑い声も奪ってしまうのが戦争・・・たしかに腐った平和で、イラク戦争を超える毎年三万人も自殺者が出たり、精神病的な社会ができていることは事実だ。こういうことを何とかする必要はある。しかし、いかなる正義の戦争よりも腐った平和のほうがいいと思うのです・・・。ほとんどの戦争は、「自分たちを正しいと思う力」のぶつかり合い。われわれの神が正しいと主張すれば、別の神を正しいと思う人々と戦いになるでしょうね。みなさんは、どうでしょうか。テロリストや海賊をやっつけなければならない時代・・こんな時代に憲法は合わないから九条は破棄ですか?
(ニュース・2009年五月号一部掲載)

「よい子への道」ふたたび


 十数年前、「よい子への道」を選書して採用したときのこと。ちょうど一年生になった会員のお母さんから「ゆめやが選ぶ本とは思えない。どうして?」という問い合わせがあった。奈良県の方だったように記憶しているが、「六歳までは、ほんとうに良い本ばかりだったのに残念です」と言って退会した。なるほど五、六歳で入れている絵本の文の長さから見れば、「いちねんせい」や「よい子への道」は短い。「いやいやえん」「てぶくろをかいに」「おしいれのぼうけん」「エルマーのぼうけん」は「よい子への道」の数十倍の長さを持つ。それらが5歳〜6歳の配本に入っているのに、一年生になって長さが二歳児並みの内容の長さの本では不審に思う親もいるかもしれない。急にレベルが落ちたと感じたのかもしれない。挿し絵も格調の高い絵本の絵から見れば漫画のようなイラストである。常識で子どもの本を見ている人にとっては不都合な本だったのだろう。去る者は追わず、来るものは人によっては拒む冷たいゆめやとしては「しかたないな!」という気持ちでいっぱいだった。
 その後、十数年が経過した。今年、大学に入った子が遊びに来て「一番、のめり込んだ本は『よい子への道』だったなぁ。」と言った。初めて自分一人で開いて読んだ本は、「いちねんせい」と「よい子への道」だという。そして、暗記していた「いちねんせい」の「わるくち」という詩をスラスラと口にした。

 「よい子への道」は、一瞬のひらめきで選んで入れたものだ。この逆説、このアイロニーが分かる子なら先に進める、おかしな常識を打ち破る子が出るかもしれない、というひらめきだった。失敗なら翌年からは外せばいい。でも、成果はあった。子どもたちの支持があったのだ。いわば「選書に歴史あり」である。
 ここで、ほんとうのことを言うが、生後十ヶ月からの選書はすべてベスト選書という不動の選書体系ではない。毎年じょじょに変化するもので、基本は変らないが入れ替わるものは多い。実験的に入れて反応を見るものもある。あの衝撃的な名作「もこもこもこ」を最初に選んだのはもう二十五年も前のことだ。最初は実験的に1〜3歳まで入れて、一番反応のあったのが1歳半。そして不動?の選書となった。何人もの親から「おかしな本だ。こんなものをなぜ子どもが喜ぶのだろう!」という声が寄せられた。今もそれは変らない。つまり、そういう入れ替え、新書発掘などでブッククラブ配本は毎年アップデートするものなのである。

 こういう一連の実験は今年もやっている。名は挙げないが、高学年女子と中学年男子の基本配本で一冊ずつ異様な本が入るはずだ。「こんな本をゆめやが選書した!、「ボケたんじゃないか?」「どうみても良い本じゃないな」「だいたい絵が漫画じゃないか」という声が聞こえてきそうだ。ま、だめだったら来年は外しますから、ごかんべんください。モルモットになってやってください。これも子どもの本の発展のためです・・・と、これは嘘。やはり、新しいものの中にも光るものはある。いつまでも過去の名作の栄光ばかりを評価基準にしていると頭も古びる。
 このブッククラブ選書は、じつは発達形態学というものをベースにして、子どもの発達に応じたものを選んでいるのである。多くの子どもの本の選書は現在は発達心理学、とくにユング心理学に負っているものが多い。多くの司書や児童文学関係者が受講する小樽の児童文学センターの選書も心理学がベースだ。しかし、これらがバイブル化して比較や分析がされたことはなかった。私は発達選書論を「山梨子ども図書館」というところで一度だけ、発達形態学と選書論を公開したことがある。すると、受講者の中に神奈川大学外国語学部の白須先生(英文学)がいて、児童文学センターの選書と私の選書を比較・分析したものを紀要にまとめた。自画自賛ではないが、ここでは形態学による選書が心理学の選書より子どもの発達に適しているという結論がある。新刊の取り入れ状態もセンターのものは少なく、私の選書は「アップデートが顕著だ」とあった。
 作品というものは、作者がどう思おうと基本的には「読者が評価するもの」である。このためには新しいものを試さないと、いつまでも古い名作ばかりがリストアップされてしまう。たしかに、名作は文句のつけようがないところがあり、これらの名作を並べれば権威を維持できるかもしれない。ただ、世の中は良くも悪くも変化していて、それに対して名作が普遍であることも少なくなっているはずなのだ。ところが、多くの選書リストは相変わらず不動の名作を並べ立てている。

 選書では天下に名を馳せているはずの「東京子ども図書館」の新版の選書リストを見たが、これも非の打ち所のない?年老いた?名作がズラリで、選んだ人の感覚を疑ってしまった。「こんなの1960年代の選書感覚じゃん!」と言いたくなる。誰が見てもそうだろう。絵本が6冊・・・これが絶対なら、あまりに一人の子どもの発達には少なすぎる数だし、小学生用の本も古典的名作ばかりで数が少ない。しかも、そのリストを売っている。「いったい、これを選んだ人は現代という時代をどう見ているのだろう」と思う。「本は見ているが時代を見ていないな」と思う。ついでに言えば、「本を見ていて子どもを見ていない」と思う。過去の名作も時間が経てば古びるものもある。古びないものもあるが、それこそが名作で、古びる名作は名作ではない。たしかに新しいものに良いものは少ない。しかし、大人の目線で良いものが果たして子どもに通用するかどうか・・・。
 王貞治は「不動の」四番だったが、いつかは引退のときが来る。そして、新しい四番打者が生まれる。いつまでも王や長島が退かなかったから、新しい若手ホームランバッターを育てることができず、イ・スンヨプやラミレスのような外国人に四番を明け渡さなくてはならないのだ。やはり、新しいものからひとつでも実験して探してみる努力も必要ではないだろうか。
 しかし、大人たち・・・とくに児童書関係のボスになりたい地域の子どもの本の推進活動家が、古びた古びた名作を掲げる。十年一日のごとく「あの名作」である。「新しいものも見てみる」・・・この発想がないから小学生になると子どもが本から離れてしまうのかもしれない。
(新聞 2009年5月号 一部掲載)

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