ブッククラブニュース
平成21年6月号新聞一部閲覧

これもしなさい!あれもしなさい!早くしなさい!

 以前「一日や一年があっと言う間に過ぎてしまうのはなぜか?」と聞かれたときに「そんなの簡単ですよ」と答えてしまったことを思い出します。答えは単純。三歳の子にとって一年は自分の人生の三分の一です。十歳の子は一年が人生の十分の一、四十歳では四十分の一、六十歳では六十分の一。一年を長く感じたり、短く感じたりするのは比較の問題だというわけでした。当然、一日の長さも同じですよね。一歳の子にとっては一日は人生の365分の1ですが、十歳の子の一日は人生の3650分の1です。年をとればとるほど時間は短く感じるわけ・・・と、これが答えでした。

 ところが、ある本(「なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか」ダウエ・ドライスマ著・講談社)を読んで、そんな数学的な単純計算で時間の長さが変わることはありえないと思いました。実際、私が子どものころ(十歳から十五歳のころ)時間はいやになるくらい長く感じていたものです。高校時代はスピードアップした感じがありましたが、大学時代はこれまた一日が異常に長く、一年もまた長かったのです。いつごろから速く感じるようになったかというと三十歳を過ぎたあたりからでした。 

 ところがです。最近、小学校中学年、高学年の子に聞くと「一日が短い!」「もう一年が終わった!」と言うのです。近年の、この感覚の変化は特別なものなのでしょうか。なぜ、そうなるのか! その仕組みというか現象を解説したものがありました。

 「こんなことやっていてどうなる!」「「何をやってもうまくいかない!」・・・こういう徒労感の中にいると記憶が減退して昨日のことや一昨日のことは忘れてしまうというのです。徒労感や焦りの中では、人はストレスから脱するために日常を忘れる。たしかに、異常な状況、極限状態では人間が一時的な記憶喪失になることはすでに証明されています。そうしないと「生きられない」と思ってしまう機能が働くのでしょう。

 ところが、過去への記憶というのは「連続している人生」「つまがっている生活」という意識が安心感を生み出して、生きるうえでは大切なものです。最近はスポーツ界の影響からかプラス思考大流行で、失敗なんか忘れて先だけ見つめるというのがありますが、意外にその考え方は人生ではもろいものがあるような気がします。過去と向き合わなければ目指す未来もない。人生は記録更新が目的ではないですからね。

 こういう意識環境では、時間感覚がスピードアップして、子どもでも若者でも「老人たちが時間が速く過ぎる」と感じるように一日や一年の速度を速く感じてしまうわけです。つまり、いろいろやっても達成感がなく、余裕のないやり方では徒労感が生まれて、人間の時間感覚を麻痺させることになるわけですね。

 通常、三歳くらいまでは時間感覚がありません。三歳でも昨日と明日くらいの感覚でしょう。それなのに、0歳児にも1歳児にもタイムテーブルが用意された生活があったらどうなるでしょう。そこでは効率主義によって達成させようとする働きが生まれるかもしれません。そうなれば、体験したことが嫌なことなら「記憶しない」「忘れようとする」可能性が大きくなります。一回しかない人生です。何も慌てて過ごすこともありません。次々に覚えることがあるより、忘れないことのほうが大切だと思うのですが、最近は親であることや子どもであることも忘れてしまっている事件が頻発しています。

(ニュース本文一部閲覧)

玉虫色

 この時期になると、虫を追いかけていた少年時代を思いだす。「かみきりむし」が庭に出始めると虫を採る少年団が近所で活躍を始める。カマキリとか蛍という収集したくない昆虫も含めて、トンボ、甲虫・・・さまざまなものを追いかける日々が続くのである。当然、追いかける虫にはランクがある。トンボならオニヤンマが最終獲得目標、甲虫ならミヤマクワガタだ。シオカラトンボやカナブンなどは価値の低い虫で飛んでいても追わない。しかし、私たちが追うあらゆる昆虫の頂点にいるのは玉虫だった。あの法隆寺の「玉虫厨子」の玉虫である。最近でこそまったく見かけないが、私の子どもの時代にはなかなか捕まえられなかったが存在していた。あの緑色が七色に輝く玉虫の美しい背中は少年採集団の憧れの的だったのである。虫というのは、あんなに種類が多いのに、それぞれの虫がかなり個性的な形や色をしている。あいまいなものは少ない。見れば何の虫かすぐ分かる。

 しかし、大人になってから、少年時代の最終採集目標の玉虫が「曖昧さを表す玉虫色」という表現で、あまり立派でない形容に使われているのを知った。つまり誰にでも快く迎えられるように批判や個性的内容を取り除いた八方美人型のものを指すときに「玉虫色」という言葉を使うのである。政治の世界でよく見られる表現だが、玉虫色は「曖昧にする」という意味合いが強い。こういうふうな使われ方がいつごろから始まったのかは分からないが、やはり戦後だろう。戦後は民主主義と市場主義の時代だ。批判や個性的内容はいろいろな人々やお客がいるから裏目に出ることが多い。そこで、当たりさわりのない表現を使わなければならない。極端な意見を言って干されるのも怖いから言葉は玉虫色になる。さらには、自分に攻撃が回らないように自分の意見を言わないようにしつけられる。誰もが見て「きれい!」と思うことばかりを言う。行う・・・。自分の意見、主張を極力抑えて、誰もが納得するもの。見かけが美しいものばかりに向う傾向・・・この背後に陰湿なイジメや薄汚いウソがあるのは見て見ぬふりだ。それが玉虫色。一般的に多く受け入れられるものにばかり気が行くと子どもの成長はどうなるだろう。自分の意見や行動を気にしてスタンダードに合わせることばかりを考える子どもになり、その子どもはやがて大人になる。日本人は、飛鳥時代から周囲との「和」ばかり気にしてきた民族だ。憲法第一条に「和をもって貴しとなす」とある。「玉虫厨子」の聖徳太子のつくった憲法第一条が「個をもって貴しとなす」ではないことが注目に値する。事の真偽より、和が大切。ここに個人的な意見を抑える日本独特の考え方の誕生があって、以来1400年間・・・変ることのないスタンダードになってきたのではないだろうか。

 だから、エコバッグが流行ればエコバックになびき、高速1000円ならそれを良しとし、「周囲がやることをやっていればいい」という風潮を作り上げたわけだ。これは早期教育の「ちゃれんじ」から始まって、ケータイを持たせること、ゲームをさせることまでつながっている。すべてそのキャッチフレーズや見かけは「玉虫色」だ。そして、同じ事をしない者を「変わり者」として排除する・・・だから、「なんとなくおかしい!」と思っても流れや周囲を気にして自分の考えは「曖昧」にするのである。まったくこの国では明確に自分の意見を言うのは難しい。言ったところで薄められてしまう。玉虫色のバランス感覚だけで生きるのはストレスがたまるだけなのだが・・・。

(2009年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ