ブッククラブニュース
平成21年9月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
C読み聞かせは本来は不要のもの?

●35年前の変化●

 およそ三十年前のことですが、私が見ていて大きな変化がありました。「家庭が忙しくなっている」という印象を初めて持ったのは、それよりちょっと前ですが、三十年くらい前から親が子どもにあまり手をかけなくなってきた感じがありました。高度成長期ですから働く女性も増えていましたが、まだまだ専業主婦も多かったのです。それなのに「手をかけなくなってきた」と感じた主な原因はテレビでした。三十五年くらい前からテレビのカラー化とともに番組が充実?し始めて、子どもが見るものが増えたのです。テレビを見せておけば手が抜けることを、その時期の親は最初に体験した人類なのかもしれません。これが実は「親が子どもを自分にひきつけることで育てていく」という伝統的なヒトの子育て技術を忘れさせました。成長してからのテレビの影響は少ないのですが、乳幼児期のテレビの影響は大きいのです。一歳前後の赤ちゃんが注意力に欠け、散漫であるのは読み聞かせをした親なら誰でも知っています。すぐに他のことに気をとられて、なかなか本に集中してくれません。でも、何度も繰り返すことで、だんだん親に抱っこされて何かを読み聞かされているということが快感になるわけです。

●赤ちゃんの注意力●

 この時期の赤ちゃんの集中力はほんの短い時間しか持続しないので、親から見ると落ち着きがないように見えます。いくら読み聞かせようとしてもなかなかページを見てくれない子も多いのです。ただ、ひじょうに特徴的な性向が見られます。それは色、音、動きに対して刺激的なものなら集中力が持続するということです。これは、自分の子どもに実験したことがありますが、生後八ヶ月の娘に後ろからいきなり音楽を出すと音量が大きければ大きいほど関心を示して寄ってくる現象です。さらに動きのあるものを見せる(色布を振ったり、動きの大きなパフォーマンスをする)とじっと見ているのです。これは、テレビのCMで急に音が大きくなると振返って見るのと同じで、多くの親たちが知っている現象でもあります。つまり、その意味でテレビは赤ちゃんにとって大きな影響力を持つ存在なのです。テレビ画面が赤ちゃんの立った高さ、視線の高さにあることも影響を高める原因です。ここでは注意力は散漫にならないで、集中の持続時間は長くなっています。つまり、親は手抜きができるわけですね。問題は、親が注意をひきつけないで語りかけや対話をしないとどうなるか。当然、注意力、集中力は散漫なまま、大きくなっても赤ちゃん状態の注意力しかない子どもができる可能性が出てきます。
 机の上に水の入ったコップがあっても倒してしまう5歳児、人の話を聞くことができない6歳児が出現することになるわけです。

●注意力欠陥障害●

 こういう親と子のかかわりがなくテレビなど刺激の強いものにだけ囲まれて育ってしまった子は遺伝的な「注意力欠陥障害」とは違うが、ひじょうに似たパターンの散漫な子どもが増えてしまう結果をもたらします。こういう注意力が欠けた子どもはわが国には少なかったのです。こういうと、なんだか「先天的な障害なのに、人為的、それも親の育て方で障害が生じると言われているように感じる」人もいるかもしれません。でも、上述のように人間は注意力散漫で、もともと欠陥部分があるわけです。それが、緊張感や集中力が養われないと、「注意力欠陥障害」のようなことは引き起こされるわけです。
 日本とアメリカの統計を比べればそれが分かると思います。日本は、もともと親が子どもの注意をひきつける子育てをしてきていますから、しつけも含めて注意力の欠陥はなかなか出なかったのだと思います。川の字に寝る、乳幼児期に親とのかかわりあいがたくさんある。・・・・日本では注意力欠陥障害は出にくいわけです。ところが、遺伝的でない欠陥障害(ADHD)はアメリカに多いことが知られています。乳幼児期に親と子のかかわりあいが少ないこと、テレビ育ちが多いことなどが環境要因として指摘されてきました。日本でもここ30年で、かなりの数が増えてきています。つまり、今後はアメリカと同程度の発生になるかもしれません。人口比率からいえば、もうその段階に入っているのかもしれません。そこで消極的な方法としてですが、ゆめやは、三十年前に絵本の読み聞かせに脚光を当てたわけです。絵本を親が肉声で読み聞かせれば親と子のかかわりになりますからね。その意味では親子のかかわりが昔のようにある家庭であれば、読み聞かせは不要なものかもしれません。

サブカルチャーとどう向き合うか
D警告も意味を持たない時代

サブカルチャーの闇は人に混乱をつくる

 最近、出版された本で「おテレビ様と日本人」(林秀彦・著、成甲書房)という本がある。昔、NHKの朝ドラ「鳩子の海」などを手がけたシナリオ作家で、その後、TV界を嫌ってオーストラリアへ移住した著者である。ここでは、テレビがしかけてきたさまざまな罪が描かれている。読んでみたいと思う人は1680円出して買ってみるとよい。全編流れているのは、林さんが若いころ体験したテレビから受けた恐怖とその後遺症である。さらに、テレビがもたらした最悪の状態がきちんと分析されている。多くの日本人はテレビを最初から「恐怖もなく漫然と受け入れて、後遺症も感じずに生活の中で同居した」が、彼はそうではなかった。「テレビという機械は人間が作ったものだが、やがて、その機械が人間を操るようになり、精神生活が破壊されていく」ことを物語っている。彼は「おテレビ様は一億の人口を白痴化しただけではない。日本という社会を白痴化し、その構造を破壊した。国民が白痴化すれば国家も白痴化する。おテレビ様、その罪は重い」と書き始めたが、なるほど、読むにつけ、考えるにつけ、テレビが言葉を無意味化する機械であり、同時に思考力の退化、良心の崩壊、購買欲を煽り立てる道具であることを認めざるをえなくなる。戦慄さえ感じる。なるほど、タダより高いものはない。CMが及ぼす計り知れない心の破壊と頭の幼児化は、日本人を完全にダメにした原因でもある。百の解説をするより、この本一冊でテレビの恐ろしさは理解できる。

メディアは絶対にサブカルチャー批判をしない

 しかし、サブカルチャーはテレビが日本人に及ぼした悪影響以上のものを無差別に広げつつある。思考力が退化してしまった日本人は、これまた恐怖もなく漫然と受け入れて、後遺症も感じずに生活の中で同居していく。社会が混乱、崩壊のきわみになっていることもわかっていない。じっさい、あらゆる警告や抑制をまともに受け取る人が減っているのである。これは、もうしかたがないことだ。生まれたときからサブカルチャーに囲まれて育った人間が、そういうものがない生活と比較して自分の生活を見つめる目をもてるわけがない。「利便性が高い」「快い」「周囲もやっている」と、なんだかんだ理屈をつけながら同居する。DSが出ればDSを買い、PSのゲームをやり、地デジ・・・といわれれば地デジに対応していく。自分で考え、自分で行動することがどんどん奪われていくとどうなるか? 「自分だけは大丈夫」「自分だけは鬱病にならない」「自殺しない」という安心幻想が生まれていくだけだ。比較が出来るはずの老人世代もテレビには無抵抗である。哲学的な深さも人生を考える力も何も持っていない。これでは、大人も子どもも混乱に向かっていくことになるだろう。学校がサブカルチャーの問題を指摘するだろうか? 何度も言ってきたように学校も図書館もサブカルチャーの批判はほとんどしない。では、行政はするか? 見たことも聞いたこともない。

軽く見すぎている大人たち

インターネット情報を見ていれば分かるが、ネットが知的媒体にならないことは誰もが感じているだろう。想像力や思考力を掻き立てる力はないのである。目の前を流れていくだけにすぎないものが、人の頭に良い影響を与えるわけがないのである。それは、テレビの番組が「古典」を生まなかったのと同じことだ。「古典」を持つ書籍(本)は人に精神的な「向上」をもたらしたことがあったが、テレビの登場と進化のなかで「向上」どころか「停滞」を生み、さらには「劣化」までつくった。本には「良い本」と「悪い本」があるが、テレビには「良番組」、「悪番組」の区別がなく、ただ目の前を過ぎ去っていくだけのもの、たまに神経を刺激、興奮させる映像はあるが、情緒や思考を刺激するものはない。多くの大人はテレビやインターネット、その他、雑誌、ゲーム機などの媒体からあふれるサブカルチャーの影響についてただただ鈍感で、「そのくらいたいしたことはない」「自分もそういうふうに育ってきた」と思っている。テレビなどのサブカルチャーが日本人をおかしくしたことを誰も考えず、平気で異常を正常に切り替えようとしているだけのことである。 よく周りを見回してみよう。どこかおかしくないか!? 何かおかしくないか?! おかしなことがまかり通っている。 だが、もはや歯止めはかけられない。親の子殺し、子の親殺しから始まる社会の異常はすべてサブカルチャーに起因しているといっても過言ではないが、最近目立ったテレビの異常は・・・●北朝鮮のミサイル発射に対する過激な取り扱い●覚醒剤を使った芸能人の逮捕がテロップに流れるほどニュースバリューの変化●宗教団体が母体の新しい政党が無数の選挙区で候補を立てたのに完全無視、・・・だが、テレビメディアが客観性も公平性もなくして行き着く先なのだと思う。こういう中で、国民の思考力はどんどん落ちていき、小泉劇場がダメだから民主圧勝という揺れ戻しにすぎない現象が起きる。その先に希望はなくて混乱ばかりが生まれるだろう。

発達に応じるということ
D親の力

1)あきらかに学校教育の成果(?)が見える最近の赤ちゃん絵本の読み

 二十年前には、聞かれなかったことが最近ではあたりまえのように質問となって寄せられます。どういうことかというと、一歳前後から入る、いわゆる認識絵本(例・「どうぶつのこどもたち」、「くだもの」)や動作絵本(ヘレンオクセンバリーの絵本)「おつきさまこんばんは」)など「文字の少ないもの、ないものはどうやって読み聞かせればいいのか?」と、いうものです。
 通常、赤ちゃんを抱いて、本を拡げるときにサクランボの絵を示してブッキラボウに「さくらんぼ!」と読む親はいないと思うのです。
ネコの絵を見て「ネコの子!」といい続ける人がいたらおかしいですよね。ところが優等生教育を受けてきた世代は、余計なことをしたり言ったりすると「間違いになるのではないか」と不安になるらしいのです。つまり正解を求めるわけですね。一歳児の絵本は親と子が絵本の中の事物を媒体にして会話していくものです。内容と無関係でなければ、ある意味、何をしゃべってもいいのです。
 「うわぁ!赤くておいしそうなスイカねぇ。・・・さあ、どうぞ!」です。「ほうら、ネコの赤ちゃんたちが遊んでいますよ。お母さんはどこにいるのかな。」・・・・こういう普通の話で語ればいいわけで、ことさら上手く読む必要もありませんし、詳しく解説する必要もありません。図書館や読み聞かせ会のイベントであまりに上手な読み聞かせおばさまの芸を見せられると不安になるかもしれませんが、子どもはそんな上手さよりも親と居られる安心の時間を望んでいるのです。その証拠に、お母さんより百倍美人の女優が千倍上手な読み聞かせているDVDを見ても、子どもの反応はありません。実際にダッコしたり、寝ながら読んでくれるお母さんの読み聞かせが一番いいのです。
 認識絵本だから!動作絵本だから!覚えるように教え込まなくては・・・という意気込みで、「はい、クマのぬいぐるみね。」「これは月にかかる雲」なんていい続けたら、子どもは本が嫌いになってしまいます。ひたすら親が赤ちゃんとの時間を楽しめば自然に子どもの心は本に向いてきます。「教える」などということは頭から抜いて、子どもとの会話をする時間と考えて親も楽しんでください。

2)1歳代の読み聞かせは、物語絵本へ入っていく基礎

 配本は、急激な一歳児の発達に対応させて、四半期ごとに大きく変化した配本体系になっています。できれば何回も何回も読んでください。一冊の読み聞かせ回数は最低30回くらい(それ以上のことのほうが多い)です。
 新しく配本された本へはなかなか関心が行かないのもこの時期の特徴です。大人と違って、慣れ親しんだ本が一番好きなのですから、新しい本も読み聞かせている冊数に新しい本を1冊加える形で新しい本も慣れ親しむようにしてください。この時期の絵本は大人にとっては物足りないものがあるかもしれませんが、お子さんの反応を見れば分るとおり、本格的な物語絵本へ入る前の下地をつくっているものでもあります。物語絵本は文章語でかかれます。2歳半ばまで文章語の絵本がほとんど入りませんから、口語、会話語、おしゃべり言葉を楽しむのに一番よい時期なのです。文章語の絵本になったらアドリブもパフォーマンスも入れないほうがいいですからね。

ははためブッククラブ配本を受けているお母様に

 「母のための配本」を受けているお母様に、あるいは受けていたお母様にご連絡いたします。お便りをまとめた書評自伝の小冊子「HAHATAME」は@からCまで出ています。配本開始が不規則なため、定期的に連続して送れません。バックナンバーで、まだ届いていないものがあれば、遠慮なくご請求ください。すぐにお送りいたします。ご連絡は、電話・FAX・メール、郵便、振替通信欄、いずれもお受付いたします。
 現在、「母のための配本」は第七期となっています。新しい選書は、来年三月から開始の第八期ですが、一期から重複していきますので、どこからでも始められますし、どこでも終われます。ご希望の方は、ご連絡ください。メールで言ってくだされば、リストを添付ファイルでお送りします。メールのない方は郵送でお送りいたします。ご連絡ください。



(2009年9月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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