ブッククラブニュース
平成21年10月号新聞一部閲覧

配布したニュースでお知らせの
神奈川大学外国語学部紀要(PDF)のアドレス
「心理学的発達対応と形態学的発達対応」

 先月号ニュースでお知らせしましたところ、「読みたい!」という方が数名いらっしゃったので、アドレスを表示します。 これをコピペしてくだされば、白須康子先生の紀要である「0から3歳児を対象とした絵本の選書」のなかで、ゆめやの発達対応による選書がユング心理学選書と比較対応されて紹介されています。小樽の児童文学センターの選書と私の選書の比較です。1ページ目は英語ですが2ページ目から日本語になっています。ご照覧ください。

今どきの若いもんは・・

 「今どきの若いもんは・・」と言い始めたら老人になった証拠だと言われた。たしかに、若い頃は当然、そんなことは言えなかった。ところが、やはり年齢を重ねるとついつい「今どきの若いもん・・・」は思ってしまう。「老人になったのだからしかたないじゃないか」と言われてもシャクだから、なるべく言わないようにしている。しかし、最近は、この「いまどきの若いもんは・・・」というようなニュアンスの言葉を若い人からも聞くことがあるのだ。私たち年配の人間にとっては十年が一昔で、だいたい十歳下から後の世代を「若い世代」として「今時の若いもんは・・・」と言う。だが、現代の若い人たちは二歳違っても考え方や行動パターンが違うらしい。まだ三十歳にもならない保育士さんが「今どきのお母さんは・・・」と言って、例を話してくれる。ブッククラブには保育園に勤めている方も会員になっているし、私自身が出入りしている園もいくつかある。ついつい「聞かずもがな」で耳に入る。今どきのお母さんは、その保育士さんより年長であることもある。

自分をダメ親だと思われることを嫌う親

 こういう中のもっとも共通した例は「ダメ親だと思われたくないあまり子どものことより自分の立場を優先してしまう」傾向。自分が悪く評価されるのを恐れるあまり、子どもの園での状態を聞けない親がいるらしい。他人の評価にビクビクしていて、ダメ親と思われたくないために実情を話せない・・・時に親はなりふり構わず、子どものことに集中しなければならないのにこれでは困るのだが・・・これも、塾や学校で身に付いた自分を防御し、生き延びる方法なのだと思う。先生には疑問もぶつけず、批判もしない。そりゃ内申書に響くから、しかたのない見の守り方なのだろう。自分はひたすら悪くない。良い点数で見てもらいたい、という体制の中から出た生き方である。学校のなかでは、それで良かったかもしれない。しかし、世の中では通じない。この意味では偏差値教育の影響は大きいなと思う。
 つまり、彼らの自分を守り、自己評価を高めるやり方は、大人になって子どもが出来る状態になると方法と実際が乖離してくるのだ。
例1) 子どもが熱があったり咳込んでいても平気で登園させて、担任や園長に判断をゆだねる・・・いわば自分の責任の解除。熱が出ていることは自分の子育ての失敗であり、それを批判させるのを恐れて、結果を外部にゆだねてしまう・・・ここでは大切にしなければならないのが子どもそのものであることが忘れられている。
例2) 子ども同士のトラブルのばあい、絶対的に自分の子どもは悪くないと主張する・・・相手の責任にすることで自分の子育ての結果が正しいという主観的な見方
こういう例は、枚挙の暇がないが、それが乖離しすぎになったのが、非常識な論理を振りかざすモンスターペアレントなのだろう。

関わらずに記録するだけの子育て

 さらに、上述とは逆の(おそらくどこの園でもあるのだろうが)運動会や保育参観などのときに、ほかの迷惑顧みずビデオ撮影したりする、自分の子しか目に入っていないタイプ・・・「記録することで親をやっているのだと周囲に見せつける」傾向。いわば、記録が子育ての証になると思っているような人である。IT時代に多くなったタイプかもしれない。これは子どもへの集中とは違って、ただお定まりの子育てイベントを「記録しておこう」というものだ。記録しておけば、子育てした証拠が残るというわけである。これも一種の免罪符のようなものである。よく、学級日誌を毎日書いて分厚い冊子にして発行する教師がいる。「そんなヒマがあったら生徒と関わる時間を増やせよ!」と思うが、こういう記録魔的な人間が親になると、運動会をビデオで撮り、七五三を写真で撮り、カメラ屋でデジタル・アルバムを作ってもらい、ということになる。「そんなことより子どもと遊べよ!」別に子どもと関わってどうするこうするというものではないらしい。
 「写真撮っている暇があるなら、自主的に園のイベントにも参加して働けよ!」と思ったりする。私のときはイベントがあると準備や設営にかかわった。その中には、実際に行われるときには忙しくて出席できない親もいた。今ではすべて「おんぶに抱っこ」が親の方で、そんな手伝いを園が親にさせたら入園希望者が激減してしまうかもしれないので園側も要求しない。保育士さんたちに聞くと、準備、設営で「年々忙しくなっている」とのことだ。親が関われば、それまで挨拶しかしなかった周囲とのコミュニケーションもできるし、子どもも見ているから親子のつながりが強まると思うが、今の親は「お金を払っているのだから準備設営など園がやってあたりまえ!」なのだろう。けっきょく、楽になりたい一心で逆に孤独になっていのである。

外部委託することばかり考える親の情報交換

 ある保育士の方は言う。「お母さん方が情報交換するのは、お稽古事や学校選びの話。いま現在の子どものことを話す人はあまりいない。さらに、お母さん同士のコミュニケーションも下手で、子どもの面倒を見ながら話している姿はあまり見かけません。保育者から自分の子どもについての厳しい説明を聞いてショックを受けてしまう親もいます。」「昔のお母さんは子どもの管理がきちんとできていたから熱があれば通園させずに休ませたでしょ。自分の子だけしか見ていない親も少なかったように思います。」子どもの未来・将来のことを考えるのもいいが、今・現在とつきあわないで、未来、将来に何が伝わっていくというのだろうか。「こどもチャレンジ」は子どもの能力を保証してくれるのだろうか、学校選びは子どもの将来を豊かにしてくれるだろうか。そんなことを考える前に、まずは、親が子どもとともに何かを一緒にすることのほうが大事なのではないだろうか。
 実際、最近は子どもを見ていない親子も目にする。先日、一歳半の子を連れた母親が来て私に絵本専門店ゆめやのことを聞いていたが、子どもが横で本を引っ張り出し、床に落とし、そのままにしてまた同じことをしていても注意どころか、見てもいない感じだった。こんな親に絵本の読み聞かせなど薦めたところで、うまく行くわけもないので、適当にあしらっていた。すぐに、この子どもは注意力欠陥障害の症状を起こすにちがいない。

脱・外部依存は可能か!?

 今秋、日本は「脱・官僚依存」を標榜する政党が政権を担った。これは、政治を官僚に丸投げしていた政治家たちの腐敗を打ち切ろうというもので、国民の多くが拍手を送り、大量得票になったわけである。ところが、国民は、前の政権が扇動した「労働力が不足して総生産も経済成長も危ういので女性労働力の確保」を、そのまんま受け入れ、女性は子育ても外部に依存するようにしていたのである。新しい政権も、この点は何も変わっていない。本来なら、より長い育児休業や産前休暇を要求するのがスジなのに、「すぐに預けて働け」という風潮を作った。これは学校教育の罪も大きいですね。こういう中で親は外部依存の子育てに走らざるを得ず、とてもとても「脱・外部依存」には到達していない。こんなことでは少々の生活費は稼げても、家の中はグチャグチャになる。親子の絆も上述のように見せかけになってしまい、やがて、見せかけの動きも止まるだろう。ゆるやかなネグレクトは、もう始まっているわけだ。

絆が切れれば家庭も家族も崩壊する

 親子、家族が一緒に過ごす時間は何よりも関係を強固にする。親子の絆が太ければ将来、何の問題が起きても揺らぎはないだろう。だが、しかし、いま、もう家族、家庭の崩壊が深く静かに進行している。
 保育者さんの言葉によれば、「三十年前の親たちは強く、しっかりしていた」ということだが、昔、親だった私は、あまり昔の親を賛美はできない。今のお母さんが三十代だとすれば、そのときのお母さんが今の60代のおばあちゃんだ。すると、孫にはただ甘く、娘や嫁に何も言わない伝えない親になっているのではないか! つまり、簡単に言えば、何も伝えなかったのだ。父親などさらに家庭から遠ざかっていた。今では演歌「孫」の歌詞通りのじいさんになっているわけだ。「今どきの若いもんは」と言うより、自分の娘、息子をダメ親にしないようにがんばらないと、息子・娘たちの家庭が暴走して、孫の世代では壊れていくことにならざるをえない。
 世の中というものは、政治と同じで「親が思うように子はならないが、子どもは親がするようになる」からだ。世代の悪循環が始まれば、その修復はむずかしいですよ。

秋の日のヴィオロンの・・・

店の周辺、子ども急増中?!

 少子化なのにどういうわけか、ゆめやの近辺は子どもや若い人が増えたような気がする。一時は歩いているのは健康志向の老人ばかりで秋ともなれば「ひたぶるに物悲し」かった。ところが、最近は若いお母さんが赤ちゃんを連れて歩いていたり、低学年の子が学校から帰るときに元気な声で話している。
 小中学校が近くにあって、下校時間に店の前で掃除などをしていると子どもたちが挨拶をくれる。「都会では知らない人に声をかけない」のが子どもの常識だが、ここの子たちは別である。「こんにちは!」と中学生が声を掛けてくるなんておどろきで、つまりは田舎なのかもしれない。
 たしかに付けマツゲ上下バッチリのギャルは見かけないし、金属チェーンを垂らしながらズルズルとズボンを下げて歩くニワトリ頭の少年も郊外SCに行かないと出会わない。「まんざら地方もダメじゃないな」と思ったりする。
 子どもの声は大人を元気にさせる力がある。聞いていると元気が出てくる。
 もっとも、ゆめやは赤ちゃんから大学生まで訪れるから秋でも毎日陽気で、そのせいで私は子どもの声で個人的に元気なのかもしれない。世の中では、子どもが遊んでいると「ウルサイ!」と言って叱る老人がいるらしいが、真夜中に騒ぐ大人たちではないわけで、叱るのは見当違いだろう。
 さて、そんなゆめやには、夕方にピアノやヴァイオリン、マンドリンなどの楽器をやっている子が来て演奏してくれたりする。美しい音色は声以上に気分を良くしてくれて楽しい。将棋に熱中している子、文学に挑戦している子・・・
 あまりメディアが脚光を浴びせないような分野の子がけっこういるのも楽しいものだ。こういう子たちはみんな控え目でもある。大言壮語の若手プロゴルファーとはまったく違う柔らかで繊細な人格を持っているようだ。

外側はまだ低い意識の人たちも

 また、最近はよく「お店を見せてください。一度、入って見たかったので・・・」なんて、近所のアパートに引っ越してきたという若いお母さんが来ることある。こういうことは、これまで十数年間、なかったことである。来店客は、ほとんど配本会員で、そういう客と話していると、最近の常識が大きな変化をしていることも実感する。お母さんたちの言、・・・「アンパンマンやディズニーは良いものだと思っていた」「子どもは叱ったらダメと思っていた」「かわいいものを与えればいいと思っていた」「周囲の人も学校も何も教えてくれなかった」・・・私は自分ではあたりまえと思っていることを言っているだけだが、こういう言葉を聞くと、「ああ、こりゃあもう・・・」という気持ちも強くなる。ブッククラブの会員の皆さんとばかり接していると、絵本を読み聞かせて育てることなどあたりまえのように思えるが、じつは世の中はそうではないらしい。「読んでやる時間もなくて・・・」「保育園で読んでもらっているようだから」「アニメ本やキャララクター本しか買ってこなかった・・・」・・・なんとも悲惨な現実も見えてくる。
 つまり、この若いお母さん方は、もう現実を「投げて」いるのである。自分は変われないかもしれないが、子どもはまだまだ充分に変われるのに世の中に合わせて同じことをする(アンパンマンやディズニーを与え、子どもは叱れず、かわいいもので囲んで、周囲の人も学校も何も教えてくれなかったとだけ言う・・・・あわれなものだ。

秋の日の・・・

 こういう話を聞くと政権が変わっても世の中が不自然な方向に変わっていくのはまだ止められないようだ。戦後初めて「抑制策」を打ち出してきた政府・・・民主党は、これまでの「行け行け、ドンドン」「成長、成長、経済成長」で来た政権にノーを出したが、国民はまだまだ「誰かがやってくれる」という甘えの構造から抜け出していない。昔から日本人は自力では何もしないで、ぶらさがって生きようとしてきた種族である。みんな誰かがしてくれると思っているわけだ。一時話題になった派遣切りも学生の就職ものびのびと遊ぶ暇もなく外部依存で育つ子が悲しく見えるのは私だけだろうか。
 「秋の日のヴィオロンのためいきの」・・・表題のヴェルレーヌの詩の一節は、ノルマンディー上陸作戦決行の連合国軍側の暗号でもあった。この暗号が流されて、フランス国内のレジスタンスが一斉に立ち上がり、米英主力の連合軍が上陸作戦を刊行したのである。この暗号で、楽劇(ドイツ)とオペラ(イタリア)と歌舞伎(日本)という高度な文化を持つ国が滅んだが、戦争に勝ったミュージカル(米英)の国は、戦後の世界を構築するために、その後どういう人間像を求めていたのだろうか。より戦いに強い人間? マネー資本主義的人間、それとも人生を忙しく生きるだけの人間? そんなもんじゃ、民主主義の時代といわれる戦後世界もなんだか、ひたぶるに物悲しいなぁ。なんとかきちんと物を考え、いけいけ! 経済成長ではなく控えめながら深い内容を持つ穏やかな人間を目指す子どもたちを期待したいなと思う、このごろです。

(2009年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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