ブッククラブニュース
平成21年12月号新聞一部閲覧

山の上の雲

 また、一年が経ってしまいました。時代スピードも速いのですが、それに応じて生活スピードも早くなっていて子どもたちも大変です。なんだか、「読書なんて時代に合わないもの」のような気もしてきました。(それじゃダメじゃん!ですが・・・大きな声では言えませんが、もう若い世代の親たちには本が何をもたらすかがわかっていませんから、本への思い入れもないのです。ゆめやもそろそろ店じまいを考えないと時代に取り残されてしまうかも・・・笑)・・・サブカルなどは、もう世の中では「あたりまえの娯楽」「当たり前の情報源」という感じで、「ゆめやは何で湯気を立ててサブカルを攻撃してるわけ? 時代錯誤じゃん!」と言われそうです。大人の世界でもゲームもテレビもアニメも日本固有の文化だと「お墨付き」が出ているようですから大変です。店に来るお客さんの子どもの口から「わたし、プリキュアがだーすき!」「シンケンジャー、買ってもらった」などという言葉が洩れます。子どもは正直。その背後には、選ぶことも排除することもない、なし崩しの家庭生活が透けて見えます。  一番笑えたのは、「ゆめやさんがおっしゃるように、保育園でもアニメのビデオをバスの待ち時間に流していて、困るんですよね。」というお母さんの横にいる子どもの靴にはポケモンのキャラクター! ほんとうにドーっと世の中が崩れていく感じがあって個人的には怖い感じがしています。  この、一年いかがでしたか? やはり学校のスケジュールやお稽古事、その他もろもろ・・・追っかけられるような忙しい一年になりましたか? こんな山の上の雲の中のゆめやでもヒシヒシと動きが感じられるのですから、都会では大きな変化が起きているのでしょうね。人というものは社会の影響は必ず受けるものですので、この変化も大きな意識のズレを生み出すかもしれませんね。

忙しい!だから要点を押さえるだけ

 おそらくクリスマスにしてもお正月にしても家庭の行事が生活の中で流されていくのはしかたがないことでしょうね。落ち着いて祝うというより、スケジュールをこなす感覚で消化するものになっていくのではないでしょうか。若いお母さんがお便りで「一歳の子を預けて働かねばならないのですが、子どもを園から連れ帰ったらご飯を食べさせて寝かせるのに精一杯になるでしょう」と伝えてきました。困ったものですね。これでは家庭というよりは巣のようなものです。寝るだけに帰る巣、親鳥がエサだけを子のために運ぶ巣・・・「お客さんにそんなこと言って大丈夫?」とご心配される方もいるかもしれませんが、大丈夫です。そういう人たちは長い文章なんか読む暇がありません。ですから、言いたいことを言うためには長たらしい文で言えばいいわけです。読む人なんかそうそういません。  だいたい、ゆめやの新聞、ニュースは活字量がハンパではないのです。でもA4裏表6枚ギッチリ。それすら読めません。それがいくらでも文章を詰め込めるホームページにA判6枚の2倍くらい書いても、誰も読みはしません。ネット全盛の時代ですが、ネットを見る人は斜め読み、飛ばし読み、流し読みで「精読」する人はまずいません。まだ、斜め読みくらいならいいほうです。読みもしない。見るだけ。情報量が多くなればなるほど、忙しさが人の能力を高め?るのです。合理的に要点ばかり探す力・・・つまりいい加減な読み方にして時間省略・・・というわけです。この能力・・・みなさんは誰もが学校で身につけてきたんじゃありませんか。大学センター入試はみんなそういうこと(斜め読み、飛ばし読み、流し読み)の訓練じゃないですか。要点だけで、深く考えたら解答できないようになっています。さすがIT時代、情報垂れ流し時代をうまく生きる術を学校は教えるのですねぇ。  前述のようにブッククラブのHP上では、新聞で書くよりはるかに多い文字数で勝負していますが、ウエブ上の文章をしっかり読む人なんかいません。忙しい母親は読みません。忙しくなくても読みません。ネットなんてそんなものです。紙に印刷して配る新聞だってそうなんですから、いくら書いても大丈夫です。メールが発達してきているかもしれないけれど、メールのやりとりなんて、けっしてきちんとしたものではなく、つぶやきのような短文が並ぶだけと言うのが現状なんではないでしょうか。いわば2チャンネル状態で「そうかよ・・・・」「つまらねぇ」「だから、なんだっていうの?」・・・こういうふうになってきているわけです。

誰にも自分が理解されない電子の時代

 コレを逆手に取るのがゆめやのやり方で、WEB上ではウザイくらいに書きます。そうすれば誰も読まない。こんな長い文から要点を捉えて理解するのには時間がかかるわけで、かんたんにいえば世界中の誰も読まないのです。こんなかんたんなことが秋葉原事件の犯人・加藤某にはわからなかった。彼は書き込んでも書き込んでも返事が来ないので、自分は疎外されていると感じて、ナイフで次々と刺していったのです。二台のケータイに交互にメールして読んでいたという悲しさ・・・合理化、簡素化の行き着く先は孤独です。まあ、彼は独身で関わるものがいないから簡素化も自分の中で納めればよかったのですが、家族を持ち、忙しい日々の中ではどうなるのでしょうか。  問題は、忙しさを追いかけているうちはまだいいのですよ。そのうち手を抜き始めます。十五年前にスーパーの惣菜売り場は多様ではありませんでしたが、親が手をぬく、一人暮らしの人も多いとなって料理から家庭行事まで手を抜き始める人が増えてきています。それが、子どもの成長と精神性に大きな影響を与えることも知らないで・・・・楽に楽に・・・・。これでは、何も伝えられません。買ってきたものには何一つ伝える内容はないのです。子どもも、いつか消費だけが人生だと思い込んでいきます。  しょれに追い撃ちをかけるのが内容のない、考えるきかっけも与えないテレビのバラエティ番組、ポケモンやプリキュアなどのサブカル・・・楽に楽に、かわいい、かわいい、楽しい、楽しいで子どもの頭はバカになり、成長しなくなります。体だけは大きくなりますがね。  それも、これも忙しさの中で、親が社会の悪から子どもを防御できなくなっているからです。

省略と簡素化はますます進む

 クリスマスも・・・さあ、プレゼントを買って、鶏の足を用意して、飲み物も準備・・・・そうそうツリーも飾らなくては・・・電飾もしなくては・・・でも、そんな面倒なことを家でするよりは、最近は全部、園がやってくれるので、家庭で行事は必要ない。お正月だって、飾りは省略、年始客も来ないから、おせちだって作るより買ったほうが手軽だ・・・と考える家庭も多いことでしょう。そうそう、料理の外注といえば、休むために料理の作り置きをするおせちですが、不思議なことに大晦日まで売っていて、翌日の元旦からも同じものを売っているのです。儲かれば何でもするというのが企業ですから、人の精神性などどっちでもよし。それに引っかかって、大慌てで大晦日までにおせちを買いそろえ、また翌日は福袋などに騙されて買いに行くというばかばかしさ加減です。なんおためのおせちか分っていないわけで、これは企業の価値です。消費のために消費するという背後にはこうしたものが原因で、家庭の年間行事の80%が、この二十年間で簡素化され、あるいは行われなくなったという統計があります。お正月、豆まき、お節句、お彼岸、お月見など家庭の行事はけっこうあるのですが、クリスマスさえ忙しさの中で「消化スケジュール」になりつつあるのでしょうかね。

原因は豊かさの追求と多角的な欲望

 でも、この歴史は百五十年も前に始まった日本の近代化に出発点がありました。日本は、あそこから忙しくなったのですね。「学問のススメ」・・・本ではこれが起爆剤となりました。本も人を扇動する力はあるのです。ヒトラーの「我が闘争」などは極端な例でしたが・・・・で、人々は豊かさを求めて、欲望を膨らませ始めたわけです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、太平洋戦争に突っ込んで行った日本陸軍と海軍の初期を描いています。司馬は主人公達を英雄的に評価していますが・・・・いかに明治の行き方が庶民にとってひどいものだったか・・・やはり、戦争への道へ踏み込んだのは否めない事実ですよね。・・・・司馬遼太郎の坂本竜馬好きは有名ですが、彼は食い詰め者が旧体制を打ち倒して、のし上がるというのが好きなのです。司馬は秋山好古・真之兄弟も立志伝中の人物として描きますが、日本を列強との競争社会に導いた旗手でもあるのです。明治政府が帝国大学を頂点にした教育システムで作り上げていった富国強兵、殖産興業はやがて日本を大きな悲劇の中に落とし込んでいったのです。これは誰も否定できないでしょう。  徳川三百年では一度も対外戦争がなかったのに、維新から五十年の間に二度、そこからは歯止めが効かなくなって、次々と対外戦争を行い、豊かさと欲望を追い求めました。これで日本が忙しくなる下地が出来上がりました。なんていっても福沢諭吉の「学問のススメ」は、教育さえ受ければ出世できて、富も地位も手に入るという安直な扇動でしたからね。でも、これって、今でも大手を振って歩いている教育幻想でもあります。

聖書「出エジプト記」にも

 太平洋戦争で痛い目に遭って反省はしたのですが、四、五十年するとそんなことは忘れて、また追求しています。これと同じことがですね。聖書を読んだら出ていた。「出エジプト記」という章にエジプトでひどい目に遭ったイスラエル人がモーゼに率いられて故郷を目指すのですが、欲望と豊かさに目がくらみ、でたらめな生活、邪悪なものを崇めて、堕落した生活に陥ります。そこで、山の上の雲から出現した神の怒りが・・・キリスト教のお定まりですが・・・罰を与えます。ああ、その前に十戒がありますね。「殺してはいけない、盗んではいけない、・・・」という十項目。きっと堕落から殺したり、盗んだりが横行していたのでしょう。イスラエル人は欲望を抑えられなかったわけです。出エジプト記を読んでいたときは、なぜ十戒が必要だったのかピンと来ませんでしたが、大人が勝手なことをしていれば、そこで育つ子どもはさらにひどくなるわけですから、考えてみれば神様から当然のことを言われたわけです。今年、小学生・中学生の暴力事件は6万件に達しました。殺人は相変わらずの状態、自殺は3万越え・・・これが忙しさの結果です。千葉大学園芸学部関連の二つの事件・・・これらの事件の関係者の親達は老人になっていますが、幼児期にきちんと相手をして育てたのでしょうか。市橋容疑者の親は二人ともお医者さんでしたが、コメントを聞く限り、なんだか他人事・・・可愛がって育てたような言葉は微塵も聞こえませんでした。おそらく、お稽古事に漬け、小さいうちからお勉強をさせ、ほしがるものは買って与え、思春期からはサブカルチャーだったのでしょう。モーセではありませんが、邪悪なものを引き入れればこうなるのはあたりまえのことかもしれません。

親は、もう家庭行事を伝えられないか

 話は変わりますが、小説家の藤本義一さんが大阪の少年院に入ってくる凶悪な罪を犯した者を選び出し、専門家達と時間をかけて幼児期からの「家庭環境」「親や子の性格」など多面的に調べたことがありました。ところが少年達の生活に共通項が見つからなかったのです。ただ、偶然なのかどうか分かりませんが、それらの少年たちの家に仏壇がなかったそうです。仏壇がなければ家庭としては墓参りの行事もなさそうです。家々に流れ伝わる、いわゆる家庭の精神文化が途切れていたのかもしれません。こういう社会のゆがみの中で起きた三角波に子ども達もほんろうされ始めたようです。クリスマスもお正月も節分もお節句も、すべて合理的に簡素化して省略する。手間暇のかかるものは避けて手を抜く。手軽に、手軽に・・・その結果が、子どもたちに出ているとすれば怖いですよね。  ヨーロッパに行くと、教会には礼拝に来る人々が多いのに驚きます。蝋燭を点し、祈りをあげて帰っていくのですが、若い世代では減っているとも聞きます。祈りをあげるときには、亡くなった人を思い起こし、自分を省みることをするでしょう。そういう思い、そういう習慣が身についていかなくなったとすれば、これから大人になる人々は無味乾燥で怖い存在になるかもしれません。行事のなかには、運命やあきらめや邪悪なものを避ける方法、よりよく生きる考え方などが組み込まれています。  人間は、おそらく伝統的な行事などから「恐れ多いもの」をイメージして、良いことをしないとバチが当たるとか、過ちは繰り返してはならないことを学習してきたのだと思います。クリスマスも罪もない人を十字架にかけてしまった反省を行事として二千年間も続けて、自分たちの罪を思い起こすことを要求するものだったのではないでしょうか。 おどろくべき勢いで進む家庭内の合理化、簡素化・・・・もちろん、この簡素化、合理化という世の中の流れに逆らうことはむずかしいです。でもねぇ、「家庭のなかでは少しは非合理の実践ができるのではないかな」とも思います。絵本「くりすますのものがたり」を開かなくても、ケーキを作って、ゆったりと聖夜を過ごす・・・そういう時間を子どもには体験させたいです。読み聞かせる時間そのものも実は「非合理の実践」でもあります。べつに絵本を読んだからといって何か特別な利益はないのです。読書をしても目だった成果はないです。でも、そこに費やされた時間は、人生の中で真の意味で豊かな  ひとときになるとすれば、すごいでしょ。良い絵本、書物に囲まれた子ども時代があれば、まず悲惨な大人時代にならない最低限の条件確保になると思いますがね。

(2009年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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