ブッククラブニュース
平成21年12月号新聞一部閲覧 追加分

今年もありがとうございました

 「派遣切り」で始まった2009年が、もう余すところわずかな日々になりました。始まったばかりのような気がするのに終わりつつある・・・いやはやハイスピードの世の中です。なんだか早回しの映画を見ているような一年でしたが、皆さんは何か心に残ったことがありましたか? すべてが、どんどん過ぎていきます。オバマ大統領就任も、政権交代も、ハダカで酔っ払っていたタレントのことも覚醒剤を使っていた子連れの女優の事件も、バラバラ殺人も整形を繰り返した逃亡犯の逮捕も・・・・みんな次々と移り変わる幻燈のようです。すこし経てば、みんな記憶の外、夢の中・・・・  その中ではひとつひとつを深く考えることがなくなり、探る勇気も失われ、身近な人を思いやる感覚や子どもの立場で生活を進めることもなくなってきているように思えます。長く続くものはないものでしょうか。  長く続いているのは新型のインフルエンザ。ゆめやにもマスクをつけた子どもたちがたくさん来ます。大人がマスクをしていると不気味なこともありますが、子どもはどんなかっこうをしてもカワイイですね。子どもに力点を置いた生活や社会を考えないと国自体が危なくなるのですが、どうも大人たちの間でエゴイズムが目立ち、子どもが置き去りにされている現象も起きてきています。  こういう時代ですから何があるかわかりません。体調にだけは気をつけて、良いクリスマス、良いお年をお迎えください。今年も一年、お付き合いくださり、ありがとうございました。

心に響くクリスマス?!

生活時間に余裕がなくなってきて・・・

 さて、クリスマスがやってきます。毎年のことですが日が短いうえに年々日常生活が忙しくなっていますから、家庭で祝うクリスマスやお正月は買い物や準備も大変です。クリスマスは一晩で終わる行事ですから親は忙しいです。ケーキを予約して、ツリーを飾って、そうそう、その前にプレゼントも用意しなくては・・・ただでさえ年の瀬であわただししい。「どうせ、保育園でクリスマスパーティをやってくれるから、ま、家庭ではテキトーでいいっか!」なんて思ってしまいますが、子どもが喜ぶ姿を想像するとそうもいきません。子どもは、ほんとうにクリスマスが好きですものね。  日本ではクリスマスといえば、お祈りも教会もありません。ただただケーキと鶏を食べてプレゼントを贈るだけ。キリスト教信者には怒られるかもしれませんが、それはそれでいいんじゃないかと思います。それが行事として定着してもいます。いいではないですか。日本人は、入ってきたものをみんな自国流にアレンジして自分のものにしてしまう国民です。もともと救世主信仰もないし、原罪なんて誰も感じていませんからね。子どももプレゼントがうれしいから好きなのでしょう。

今の子どもたちは感動しない?!

 でも、「子どもが楽しいことだけが好き」・・・これが子育て中の私には具体的によく分りませんでした。我が家の娘たちが五歳か六歳のころ、アンデルセンの物語を読み聞かせたことがあります。ところが、「ここで感動だよ」というところで感動しません。例えば「マッチ売りの少女」を読んでやっても思うような反応が引き出せないのです。でも、それは読んだ年齢も環境もが私とは違っていたからです。  なぜなのか考えてみました。物のない時代にお腹を空かせていた少年時代を送った私には、マッチ売りの少女の飢餓感がよくわかったのです。つまり、想像というよりは生理的体感ができたのでした。だから、本の中の女の子に自分を重ね合わせることが可能だったのではないでしょうか。だから感動できたのです。裸足で立っている冷たさ、心細さが痛いほどよく分かるのです。こういう連想ができると、暖かい部屋でおいしいものを食べている時に窓の向こう側にマッチ売りの少女が立っているのではないかという気が起こったりするのです。物語の中で追体験は、あらたにそういう感覚を生み出す効果があるのかもしれません。やはり、幼児期や少年期の実体験は想像力をさらに増幅するのですね。  しかし、いくら我が家が貧しかったといっても娘たちは飽食の時代に生きています。クリスマスの食卓には母親が作ったケーキが置かれ、食べきれないほどの鶏の足や料理が湯気を立てていて、飲み物はジュースでも紅茶でもなんでもあります。まさにマッチ売りの少女が覗き込んでいた窓の向こう側にいるわけで、当然、暖房も施されていて寒くはありません。朝、起きれば手作りながらプレゼントも枕元にありました。それが、当然、それが普通・・・こういう中で、いくら「マッチ売りの少女」を読み聞かそうが、自分で読もうが、その感動が薄いものになるのはしかたがないことです。  この意味では童話や絵本の効力など知れたものです。それなりの想像力を引き起こす体験がないと物語りの中のものを感じたり、思ったりすることができないわけです。つまりは「体験なくして物語なし」というわけでしょう。でも、なかなか相手の状態に心を移して共有することはできない育ち方になっているのが現代なのでしょうね。マッチ売りの少女が死んだのは、「死」で読者の感動を高め、「同情」や「思い」を引き出そうというアンデルセンの作為だと思いますが、この時代は子ども達から(いや大人たちからも)その同情さえ引き出せないやるせなさがあります。

同情できない状態

 たとえば給食費が払えない子どもがいます。かわいそうです。同情に値するかもしれません。でも、その子がブランド物の体操着を来て、高価なマウンテンバイクに乗って登校し、下校時にはファミレスで夕食を食べていたら同情できるでしょうか。「かわいそうだな」と思える子どもも飽食の時代だと一瞬の同情でおわってしまうことにもなります。  これは、子どもだけでなく大人でもそうです。親子関係や夫婦関係など家庭的な問題で悩んでいても、高級な外車に乗り、豪邸に住んでいたら、同情が涌きにくいのです。そりゃそうですよね。同情する人よりかわいそうな人の方が豊かであれば同情は湧きにくいでしょう。  人間は社会的動物ですから「同情したい」という感情が必ずあります。ただ、「同情」が持つ語感の良さとは違って、実体は「自分よりかわいそうな人がいることで安心する」感情でもあり、「他人の不幸は蜜の味」と表裏一体のものでもあります。でも、たとえ偽善であっても世の中のバランスを保つうえでけっこう役に立つ感情でもあるのです。しかし、それさえ現代では希薄になっていることが否定できないでしょうね。これも豊かな時代の悲劇かもしれません。昔だったら同情されて助けてもらう・・・そういうことが当然のように起きました。でも、誰も助けてくれない不幸が、マッチ売りの少女の時代と同じように現代でも生まれているのでしょう。つまり、対象の不幸さに誰も関心を払わなくなっている時代なのです。

物事不感症

 最近、誰もが周囲の出来事に不感症になっていることにお気づきですか? 事件の被害者にばかりでなく、身近な人の不幸や知り合いの死に対して、深く悲しんだり、その人のことを語ったりすることが激減してきました。相手に自分の気持ちを置き換えられないのです。「ああ、お亡くなりになったか。」とは思いますが、「お香典はいくらにしようか・・・」がすぐに頭の中に浮かびます。昔なら、お悔やみいいながら、故人のことについて語ることがふつうに行われていましたが、亡くなった方を思い起こす約束事は消えています。儀式は、本来、人の心を再確認するために執り行われたものだと思うのですが、今や形骸化してこなすべきスケジュールに過ぎなくなっているというのは言いすぎでしょう。これでは人の絆の根本が切れてしまいます。  マッチ売りの少女はアンデルセンが自分の母親をモデルにしてつくった半分実話の物語ですが、彼は誰も振り向かない少女の死に対して、長くそのことを考えさせようと作品化したように思います。おしなべて物語というものは主人公を通して真実を語るものですよね。アンデルセンも「振り向かれることのなかった人生」を読者に考えさせたかったと思うのです。本を読むとは登場人物に自分を重ね合わせて行くことでもありますから・・・。  ところがテレビのワイドショーなどは面白おかしく、刺激的に報道するだけ。これでもか、これでもかと来れば。不感症になるのもしかたないです。虐待死、残虐な猟奇殺人、轢き逃げから戦争まで・・・映像は盛りだくさんですが、次から次へでは「自分は安全圏」「他人の不幸は蜜の味」を増幅するばかりです。でも、当然ながら、そういう興味本位の報道は、人々の心にどす黒い「不安」しかもたらさないのです。  物事に不感症になるのは怖いですよ。精神病的な殺人が起きても他人事、身近で孤独死があっても知らぬこと、亡くなった人への思いが薄くなるのです。十年前、神戸で酒鬼薔薇聖斗の事件が起きたときの衝撃と怒りはすごかったですね。ところが、さらに残虐で残酷な島根の女子大生バラバラ殺人が起きても「ああ、またか」という感じです。だから、インパクトを受けないし、怒りとなって噴出しないのです。でも、心の中には「自分にも起こるかもしれない」という不安が広がります。  やがて、感じる力はどんどん落ちていき、アウシュビッツでユダヤ人たちが陥った「安全妄想」まで広がってくるでしょう。「どんな世の中になっても自分だけは安全だ!」という妄想です。テロが起きてもパンデミックが起きても「自分だけは死なない」「自分だけは罹らない」・・・怖いです。

人、みな歴史を忘れる

 さてさて、話はクリスマスです。マッチ売りの少女が死んでから150年、酪農王国から福祉国家になったデンマークは性的な退廃や社会的な疎外、老人の孤独死や若者の暴走など先進国特有の風潮が蔓延しています。日本も急速に豊かな国になりましたが、前述のように先進国特有の同じようなモラル低下の事件が多発するようになりました。デンマーク人が「マッチ売りの少女」を忘れたように、日本人も「火垂るの墓」の節子を忘れてしまったようです。物語を忘れた国はヤバくなるのです。歴史を失ったり、忘れた国民が不幸になるように、物語されなくなった子どもは虚無に向かうのです。  起きたこと、悲惨なことを忘れない作業は「歴史の学習」です。  ミハエル・エンデが「はてしない物語」で書いていましたね。ファンタジ「エンの国を滅ぼすものは「虚無」という得体のしれないものだったのですが、新しい言葉をつけることで救われる、そのためには勇気が大切だ」というものでした。でも、一度、ダメにならないと人はわからないのです。まだまだ人々は、豊かさにボケています。何が楽しくて、何がおもしろいのかもわからない子どもも増えています。  こういう社会にやってくるサンタクロースは、ゲーム機や極彩色の玩具をたずさえた偽のサンタ。つまり、物で心を釣ろうとするサンタです。サンタというよりサンタの恰好をしたサタンかもしれません。心を配っていくサンタはまだ来ない。そういうサンタがやってくるのはいつのことでしょうね。人々の心が乾ききって混乱や狂気が極まったときに、そんな状態にした大人を倒すためにソリに大量の武器を積み込んでやってくるのかもしれません。そうならないように、私たちの心も子どもの心も早く健全なものに戻さないと大変。子どもはね。おもちゃなんか必要なのですよ。ほっぽっておけば黙っていても遊びます。何にもなくても遊びます。何でも遊び道具にします。忙しいさなかにトイザラスでプレゼント探しをするのはやめましょう。流行のものを与えるのはやめましょう。ゲーム機などは、子どもの頭をバカにするだけの代物です。クリスマス・・・家庭でも事業仕分けや抑制を考えないと・・・子育てはますますむずかしい時代を生きることになりそうです。見かけの楽しさ、きらびやかさに騙されていく薄っぺらな人間にしたくはないですよね。もう、親だってディズニー大好き、アニメで頭いっぱいという話にもならん人が増えているのです。  ま、そういうことをよく考えて(考えられないでしょうけれどね。忙しいのだから)、今年も良いクリスマスをお過ごしください。



(2009年12月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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