ブッククラブニュース
平成22年3月号新聞一部閲覧

3月3日は開店記念日

 この三月三日で、ゆめやは創業三十一年目に入りました。現在の会員、それから過去のたくさんの会員の方に厚くお礼申し上げます。開業は1980年、それは奇しくもファミコンが生まれたサブカルチャー元年でもあります。まだコンピューターはなく、バブル景気もなく、奇妙で異常な犯罪もなく、おだやかな生活が残っていた時代でした。  そして、それから三十年・・・ゆめやは内容もやっていることもまったく変わりませんが、周囲は激変です。ゆめやが、「子どもの心に影響が大きく出る」として批判し続けてきたアニメ、キャラクター、マンガ、ゲームなどもう当たり前、というか、なんだか日本の文化として定着したような気さえします。今年は電子ブックも登場。いずれ絵本も子どもの本もダウンロードして電気音声が読み聞かせてくれるような機械化が起こるかもしれません。親は忙しくて、子どもの面倒を見る時間も子どものことを考える時間もなくなっていますからね。この背後には、減っていく労働力を確保するために、女性にまで労働力動員をかけている教育や豊かさをチラつかせて稼がせようと煽るメディアがありますが、まあ、その来し方と行く末を睨んでの30年でもありました。  それにしても最近のお母さんたちは大変です。子どもの教育からお仕事まで八面六臂で飛び回っています。忙しくて読み聞かせもきちんとできないというお母さんの声も聞こえてきます。もちろん、一方では優雅なお母さんたちも・・・・いわば二極分化で、分りやすくいえば格差社会になってきたというわけでしょう。

あれは小泉改革からでしたね

 とにかく小泉改革からひどいことになっています。みんな、あのときはうまく乗せられていました。市場の自由化、自由な競争、合理的にすれば何もかもがうまく行く。ゆめやの新聞では「コネズミ改革は人間の価値を否定している」と書きましたが、安く売るための人件費のカットは「人を大切にしない」表れでした。でも、多くの人が支持した。で、忙しさとお金を求める欲だけが膨れ上がって、子どもは見捨てられているような気がします。これは政権が変わろうと変わるまいとひどさはつのるばかり。学校の先生も忙しい。父も母も子も忙しい。格差が出ているから、その格差の下のほうに行かないようにみんな必死です。その忙しさのなかでどんどん大切なものが見失われていき、いろいろな絆もプツン、プツンと切れ始めているように思います。働くことは重要ですが、大切なことを見失って働くばかりでは何のために生きているのか分りません。もっとも、その「何のために働くか」も考えるヒマがないほど忙しい日々になっていることも現実のようです。小泉改革とは合理的にすれば経済が膨らみ、競争に勝てば生き残れるというグローバリムそのものを具体化した政策でした。人件費はカット、無駄はなくす・・・一見、聞こえはよかったのですが、こんな社会になってしまいました。

それでも「活字離れ」はなかった

 ただ、私は(まったく個人的な意見ですが)意外に楽観視しているのです。まず、読み聞かせについては問題ありません。子どもとの言葉での接点を持ちたい親は、そうそうかんたんに減るものではないからです。社会一般では激減の部分があるでしょう。しかし、ブッククラブの推移を見ていて、「では、配本をやめる人がたくさんいるかどうか」ということになるとそうはいません。そういう階層は読み聞かせは当たり前のように毎日やっているわけです。この人たちは肉声で読みたいのですから、ギャルママのようにケータイでダウンロードした絵本を自動的に読みあげる絵本など好まないでしょう。どっちみち、ギャルママたちはもともと本など読まない人たちです。そういう人たちに育てられた子どもが本を読むようになることはあまり考えられません。昔から、読む/読まないの比率はそうそう変わらないのです。だから読書人口も極端に減らないはず。これは多くの方が自分のことを振り返って考えてみれば分ることです。受験勉強やスポーツで青春時代に読書なんかしなかった人は大多数です。昔から読書人口が多かった日本ではないのですよ。昔、日本人は二人に一人が読書家だったなんてことはまずない。おそらくは十人に一人か、二十人に一人でしょう。まず、本当の意味で読書できている人は百人中数人、実用的な読書(HOW TO本や雑誌)人口でさえも十人に二人か三人でしょう。多くはメディアからの「また聞き」知識。他の人との会話で得た経験知識・・・・。こんなものは読書の成果ではありません。よく、読み聞かせおばさんたちは「活字離れ」を叫びますが、活字離れは(そのおばさんも含めて)昔から起きていたことなのです。起きていたというより読書に関しては何も起きていなかったというのが実情でしょう。

子どもより大人の読書状況はひどいもんです

 実際、ある子どもの本の専門家を養成する講座で発達論の講座を受け持ったことがあります。ここに集まった方々は図書館の司書さんや読み聞かせおばさんたちでした。聞くと、みんな「子どもたちが本を読まなくなっているので何とかするために講座を受けている」とおっしゃいました。立派な心がけです。そこで、ひじょうに意地の悪いテストをしたのです。日本文学と外国文学の基本的な作品を二十ずつ挙げて、読んだ本に○を付けてもらうテストでした。・・・・立派な心がけのわりにはオソマツなテスト結果でした。子どもの本をガイドしようとする人が大人の本を読んでいないのです。こういう人たちが、チョコっとカジった子どもの本講座のお勉強で専門家を気取って、若いお母さん方や学校の子どもたちに指導するのを見ると虫酸(むしず)が走ります。  でも、それでもまだ良いほうで、メディアの世界では目に一丁字(いっちょうじ)もない人が幅を利かせています。  昔は本を読まない人は社会の前面に出てきませんでしたが、今は時代が時代ですから大手を振って出てきます。一冊も本を読まないスポーツ選手や芸能人がペラペラ、ペラペラ・・・ゴーストライターまで使って本を出版する。とにかく売れれば何でもやることを背景にする芸能人、スポーツ選手。このさもしい奴等が底の浅い言葉を偉そうに並べます。だから表面的には活字離れが目立つのですが、もともと多くの人が本を読んでいたという歴史は日本にはないのです。高度な読書ができていれば日本の近代はもっと別の道を行ったでしょうね。アニメ、マンガ・・・人は楽に視聴できるものに傾きます。骨の折れる読書などしません。  子どもだって育て方によっては、ニンテンドーDS片手に歩き回ることとなるでしょう。こういう子は電子ブックすら読まないでしょう。昔なら質の高い本を読まないことなど問題ないことでしたが、この情報化+サブカル社会・・・そういう人、そういう子どもの未来は暗いです。

本を読むにはエネルギーがいるが・・・

 「崖の上のポニョ」は2歳の子どもも50歳の大人も見ることが出来ますが、本はそうはいかないのです。読む力が育たなければ読めません。困ったことですが、これは読書ができる人にとっては逆に利点でもあるのです。   読書は思考力も想像力も要求されるものですから、読む力がない人にとっては大変な「苦」なのです。ところが読める人にとっては「楽」で、楽に読めて生き方もハイレベルなものになっていくわけです。  これが、次の時代の階層区分の大きな要素になります。二十数年前は比較的同質だった社会が、いまや大変な格差  社会になっているのは皆さんも実感していることでしょう。階層を下げないために必要なものはニンテンドーDSを家庭に持つことではなく、もっと高度な思考や生活力なのですが、「わかるかなぁ、わからないだろうなぁ。」「多くの人は時代に押し流されて行き着くところまで行かないと分かんないだろうなぁ・・・・」と、高いところから見下ろすように偉そうなことを言っている{三十歳}のゆめやです。

年を経し、糸の乱れの・・・・

 ゆめやの営業も何と三十年を過ぎ、「読書で思考力を高めよう」という企てもブッククラブの内部の方で命脈を保っているだけで、その外側はもうそれどころではなくなっている感じがあります。  ゆめやも三十歳・・・齢を取ると戦う体力も衰えてきます。まるで前九年の役の時に「年を経し 糸の乱れの苦しさに」と源義家が敵の安倍貞任や宗任に向けて投げた上の句のような状態です。「さすがの安倍氏も年を取ると鎧や衣の糸も乱れてくる」という上の句・・・辺境の田舎豪族に雅な和歌など分かるわけもなく、返歌などできまい!と投げた句でした。すると、敵の安倍貞任返歌)「衣の盾は綻びにけり」・・・見事な下の句です。衣川を挟んで対峙する相手に、「衣川に立てた盾も綻び始めたぞ」と返したのですからただの田舎侍ではないわけです。  現代、圧倒的勢いで取り囲むサブカルチャーの軍勢・・・そこから「敏夫経し、糸の乱れの苦しさに・・・」と上の句が投げられます。ああ、これミスプリではなく、私の名は「敏夫」ですから、敏夫経し・・・ですね。つまり「おまえは年を取ってもうだめだよ!」という上の句。そこでゆめやも返歌して「ゆめやの盾も滅びにけり」・・・それじゃ、負けじゃん!ですが・・・。なるほど三十年も経つと内部に同じ考えではない人たちも増えてきてやりにくくなります。クレーマーや非常識な会員もチラホラ出てくるようになりました。

何もかも内部から発生する

 孔子は「三十歳にして立つ」と言います。でも、「ゆめやは三十歳にしてヨロヨロ」・・・になっている感じもあります。この、いつでもトンがっている私が弱気になっているわけではありませんが、なんだか世の中の激変に応じられない感じにはなっています。だって鎖国のように閉ざしているブッククラブにチラホラ異質な人も出てきているのですよ。懐にピストル、靴を履いて羽織袴の坂本竜馬のような人・・・列強に同調して武器商人とでも手を組んで、内部から国を壊した人・・・こんな比喩では分らないかもしれませんね。でも、あまり直接的な表現では語弊が出ますから、うまく書けないのですが、ブッククラブも壊れかねない傾向は出ています。例えば、ゆめやのニュースなどでですね。「最近、人前でも平気で帽子をかぶっていて、挨拶の時にも帽子を脱がない人がいる」と書きました。まあ、芸能人や流行のファッションに影響された連中のことです。ところが、そういう人もチラホラ来店客の中で出ています。ケータイのルール破りもある。話をしていてケータイが鳴ると、やおら手に取っていきなり私の前で話し始める・・・・当然、そういう手合いは、このニュースなど配本にくっついているチラシとしか見ていませんから、何も読んではいない。読んでいないから、平気で、「いま駐車中の車の中で子どもにDVDのアニメを見せている」と話したりするのです。こんな親が、いくらすぐれた絵本を読み聞かせたって、学級崩壊の原因になるような子どもしか育てられないと思いますが、まあ、チラホラですが、そういう人が出てきました。蟻の一穴・・・小さな穴でもあいたら、ゆめやのブッククラブという万里の長城も崩れるかもしれません。  営業、売り上げのためなら、こういう「かつては批判の対象だったニュー、ニューニュー・ファミリー」でもお客にして、生き残りを図りましょうか・・・・とも思います。でもね、それはしない。他のブッククラブは、やっています。でも、それは迎合です。そういう迎合しても、相手がダメ人間ならけっきょく続きません。いずれにしても、頑なにブッククラブをやっていれば、まともな人しか残らないのですから、数は少なくても気のおけない、まともな人たちとだけ付き合って行きたいと思うのです。紹介者の壁、二歳の壁はまだまだ突破されないでしょうから、これも頑なに守りたいと思います。つまり、ブッククラブは、そういう坂本竜馬のような客を暗殺してでも開国宣言はしません。

初心忘るるべからず

 営業を心配される向きもあるかと思いますが、しようもない親を相手に新しい時代を考えてもつまらないじゃないですか。そういう親の子が読書家になったりまともな生き方をするとは思えないからです。ゆめやは大丈夫です。開国するくらいなら倒れるまで戦って・・・と、いう東北「白石同盟」のような気概でやっています。何一つ変えません。ご安心ください。東北の方はご支援ください。高知の方の応援は要りません(笑)!  さて、「初心忘れるべからず」・・・絵本屋を始めたときの気持ちはナンだったのか、思い返しています。最初は、サブカルへの対抗心でした。初めて子どもを持った親の気持ちと同じく、子どもを劣悪なものに漬けたくない、質の高い絵本や児童書で@やさしい人間になってほしい、A豊かな感性を持ってほしい、B子育ての中で親と子に至福の時間がほしい・・・というのが始めたきっかけでした。  もちろん、ふつう、初心は忘れるもので、やがて「もっと多くの会員を!」、「もっと規模の大きいお店を!」、「もっと巨大なシステムで!」・・・ということになります。郵便局にパンフレットまで置いて・・・ネットで無差別に販売・・・お決まりの定型文メールで受け付けて、バンバン売る・・・そこまで市場原理になったら子どもの本屋ではなく、企業ですがね。大きくしたければ従業員がたくさん必要になる。その人たちのために、たくさん売らなければ人件費が出ない。本は利益率の低い商品なので個別の対応などしている暇はありません。そうなれば、より大きくすることでステータスを固めて宣伝するよりないと思います。でも、これでは初心は消えてしまいます。  より大きなことを望む欲は親の方にもあります。親だって、子どもが少し大きくなれば、C頭がよくなってほしい、D知識が増えてほしい、となるでしょう。でも、そうすると@ABで思ったことがしだいに薄らいでいくものです。  町の多くの本屋さんが消えてしまったのに、こんな小さな絵本屋が残っているのは仕事を「売り上げ効率」でやっているからではないからでしょう。同じことは町の魚屋さん、八百屋さん、肉屋さんが圧倒的攻勢をかけてくるスーパーから生き残っているのと同じです。子育てで、初心を忘れたら、子どもが異様な大人になっていって、家庭として生き残れないことも起きます。子育てもバカな夢は追わず、自然にまかせるのがいいのではないでしょうか。  ゆめやは、小さいお店、雰囲気も昔と同じ、変わらない接客・・・などは守ってきたと思います。メディア宣伝も無差別勧誘もしないどころか、かなりの会員数制限までしています。個別に対応するには時間と余裕がないとダメですからね。顔が見えない商売は「お店の商売」ではないからです。同じことが教育や子育てでもいえるのではないでしょうか。見返りばかり求めて、忙しさに負けたとき、良い結果は出ないと思います。(新聞一部閲覧)

(2010年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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