ブッククラブニュース
平成22年4月号新聞一部閲覧

入園おめでとうございます

 甲府では今年も早々と桜が咲きましたが、咲いてから肌寒い日がずっと続き、四月に入っても満開のままで、なかなか散りませんでした。温暖化で早咲きになってはいるものの、自然とは健気なもので、律儀に元のリズムに戻そうとしているようです。  そのおかげで、近くの保育園、幼稚園の入園式は桜の舞い散る中で行 われ、「桜と入園は入学・入園には風物詩としてピッタリのものだな」と思いました。そんな話をたまたま電話で北海道の会員の方に話したのですが、そちらはまだまだ蕾も固くて花が咲くどころの話ではないようでした。日本列島の長さに改めて驚かざるを得ませんでした。所変わればいろいろ変わるわけですが、時代が変われば状況もどんどん変わっていくわけで、変化に応じるのは大変なことだと思いました。

大変化・・・たった十五年の間にも・・・

 たしかに、この二十年くらいの日本の変化はすざまじいものがあり、人の考え方や生活様式は、それについていかれない状態になっています。かんたんに言えば足が地に着かないで、フワフワ流れるままに乗っかっていっているとでもいいましょうか・・・・。  たとえば、十五年前のゆめやのニュース四月号をひっくり返してみると、「入園で子どもも不安や緊張があるので最初はなるべく心理的なプレッシャーのない状態を家庭でつくろう」というものでした。ところが、現在は子どもの多くは子育て支援などで乳児のころから外部の保育を体験しています。一時預かりも経験している子も多いでしょうし、乳児から保育園で育って持ち上がりでいく子どもたちもたくさんいますから、あまり不安や緊張は感じていないでしょう。三歳で初めて園を体験する子が多かったために書いた十五年前のニュースは古臭くなっているわけです。現在では、子育て支援を進めようとする母親たちの動きが活発です。一昨年、このニュースで取り上げたギャルママたちの組織も子育て支援を進める団体と連携を取りながら、活動を活発化させているようです。ここで、「そんなことに血道を上げるより自分の子の面倒をちゃんと見ろよ!」とでも言ったら総スカンを食うことでしょうね。「そうですね。それは大切なことですよね。」と八方美人になって、言いたいことを抑えるのが、この時代への適切な対応なのかもしれません。時代が変われば状況もどんどん変わっていくわけで、変化に応じるのは大変なことなのです。

敵を作るやり方も悪くはない・・・

 ところがですね。私は時代が変わっても変えてはいけないものがあると信じている頑固な人間で、状況に応じてコロコロ変わっていく人たちに批判の言葉をぶつけますから、そういう人たちからは嫌われます。図書館子ども室の無節操な貸し出しを批判すると司書たちからは嫌われます。読み聞かせおばさんたちの活動を「自分が光りたいだけのことで、子どもに適切な本を与えることなど考えていない」などと公言しますから、当然、敵視されてしまいます。自分でも、「どうしてこうも敵を作ってしまうのだろう?」と反省することもありますが、思ったことはズバリと言わなければ収まらない性分なのでしょう。でもね。敵が出ようとなんであろうと頑固にやり続けると、味方になってくれる人もたくさん出てくることもまた事実なのです。いやほんと、決して負け惜しみではなく・・・・。  八方美人的生き方は一見うまく世間を渡れるように見えます。「上には逆らわない」、「周囲には同調する」というのも現代の傾向ですが、やはり人間はどこか心の底で、そういう生き方がよくないと思っているところがあり、そのように思っている人は逆に応援してくれたりします。そんな応援があるのがわかると、時代が変われば状況もどんどん変わっていくのはわかるのですが、変化に応じないでかたくなにやっていくのもまたおもしろいものであることが最近わかってきました。

褒められすぎですが・・・

 左の連載コラム(山梨日日新聞2010年3月10日付)は、児童書作家・杉山亮さんのものですが、意外な評価をいただきました。  郵便局にチラシを置いて拡大し続ける怪物のようなブッククラブ・童話館、創業37年という日本で一番古いメルヘンハウス、時代の変化に柔軟に対応しているクレヨンハウス・・・そういうものを差しおいて、ゆめやのブッククラブが「ぼくが知る限り日本で一番しっかりしたブッククラブ」というのは褒めすぎですが、これは頑固さへの応援、あるいは拡大しないというやり方に対しての評価ということで、「ありがたく、お言葉をいただいておこう」と思いました。  もちろん、特殊な例を除いて、「紹介がなければ入れない」「2歳未満でないとだめ」という姿勢は今後も貫きます。さらに赤ちゃんから小学校6年までの選書のガイドラインもブッククラブの命ですので堅持します。杉山さんがおっしゃるように、皆さんは「子どもに本を買ってやる習慣を持つ親」です。これがなければ読書までつながらないでしょう。今年は半数どころか3分の2以上が修了しました。買っていただいた方に応えるやり方の展開・・・・これ、ゆめやのマニュフェストです。もう30年・・・このガイドラインで多くの子どもたちと接してきました。半年そこそこの政権政党のマニュフェストとはちがい、ブレはありません(笑)。  なぜなら、私も子どもたちに「黄金の羅針盤」や「はてしない物語」を読んでもらいたいと思いますし、やがてはトルストイもドストエフスキーも漱石も龍之介も手に届く力を持ってもらいたいと思うからです。  私は、昨年五月の増ページで書いたように、自分が孤立無援のことをやっていると思っていました。でも、中には応援してくれる人も納得してくれる人もいる(会員の多くはそうだと思いますが)わけで、やはり頑固にこのままやるよりないと感じております。時代が変われば状況もどんどん変わっていきますが、変化に応じないでやります。年度の最初に当たり、「このことは公約します」と、いうことは、「これまで通りやる」ということなのですが・・・・  今年度もよろしくお願い申し上げます。絵本専門店ゆめや拝 (ニュース一部閲覧)

入学おめでとうございます

 親と言うものは、いつの時代でも入学式に新鮮な感じを持つものです。それは、期待がふくらむからでしょうね。さらに、それに大きな影響を持つのが「春」という季節・・・まさに期待がふくらむ季節です。もし、これが秋だったら、期待はあまり大きくなりません。季節感は重要です。一時期、欧米の入学に合わせて「日本も秋にしようではないか!」という論議が起こりましたが、いつか立ち消えたようです。おそらく、「日本人の感覚に合わない」ということで消えたのでしょう。まだまだ、日本人の感覚は健全のような気がします。  グローバル化によってさまざまな矛盾や軋みが出ているこの国ですが、やがて、時間が経てば、きちんと正常な状態に戻っていく、戻っていけば、かなり高度な状態になれると信じています。  だって、日本最初のグローバル化の時代・奈良時代も最初は100%中国風の建物が並び、漢文が上位に来て、まさに中国一色だったと思います。それが長い年月を経て、国風に変わっていく。二番目のグローバル化のときだってそうです。明治維新・・・・何もかもが欧米化・・・英語、アメリカ式生活・・・でも、おそらく時間が経てば、日本らしく着地するでしょう。それには時間がかかります。  それはまさに子どもと同じ。さまざまな色に染められていくように見えますが、ちゃんと自分を持っていれば、やがて大人になったとき、それなりの人になっていくと思います。その第一歩、入学・・・・

アルバムの中で・・・

 今年の入学式は四月第二週の七日や八日の学校が多かったようです。甲府の桜はちょうど散り始めで、桜吹雪の中を新入生たちが歩いていくのを見ることが出来ました。ゆめやの周辺には半径500m内に三つの小学校、二つの中学校があり、この時期は新入生が目につきます。桜とピカピカのランドセルは、まさに新鮮です。こういう風景を見ていると私はいつも自分の子どもたちや、あるいは自分自身の入学のときのことを思い出します。アルバムには着慣れない制服に身を包んで緊張していた娘たちの顔が貼ってあります。さらに古い私のアルバムには、制帽をカチっとかぶった直立不動のランドセル姿の私が写っています。新しい世界への不安と期待がにじみ出ている写真です。個人的な体験で言いますと、やはり小学校の入学式から始まって高校の卒業式まで、ある意味かなり、さまざまなときに緊張していました。もちろん、そういう緊張がほぐれて何かに夢中になったこともあれば、努力もしないでダラダラ過ごした日々もありましたが・・・それでも学校に入るたびに何かしらの緊張はしていたように思います。

不安はあるかもしれないけれど・・・・

 さて、その入学式が行われた日に、何組か新入生のお子さんを連れて立ち寄られた会員の方がいました。その何組かのほとんどが、ちょっと不安そうな面持ちで、同じようなことを話していました。「式の最中に立ち歩く」「落ち着かないで体をゆすっている子がいる」「親がデジカメやビデオ撮りでしゃしゃり出てくる」・・・などなどなど・・・話す会員にとっては、さっき目にした新鮮な話題ですから「クラスが崩壊するのではないか」「自分の子は巻き込まれないように」という危惧があるのでしょう。  でも、聞いている私には、かれこれ二十年くらい前から起きている現象なので、目新しい話題ではありません。「今に始まったことではない」という思いがあります。そういうことは、親が躾けてこられなかったから起こることで、学校が悪いわけでも保育園や幼稚園が悪いわけでもありません。小さいときから「場に応じて緊張する」という経験や訓練がなければ、場の認識すらできなくなります。場の認識ができない子が学級崩壊を起こしてきたわけで、最近は三十年前以前に比べれば恒常的に「学級崩壊」状態である学校だって出てきているでしょう。山梨のような狭い地域でも、地域によっては崩壊状態の格差が顕著なのです。これもまた地域の家庭の問題で、家庭の格差がそのまま、その地域の学校に反映していくようです。  「何でもあり」の家庭で育った子は、どこに行っても緊張感はなく、場もわきまえることはありません。そして、一見、そういう方が強く生きられるように思うこともあるかもしれません。

我田引水ではありませんが・・・

 同じ日の夕方におばあちゃんに連れられた兄妹がやってきました。男の子は三年生で、女の子は新入生・・・おばあちゃんは新学期を迎えた孫たちに本を買ってあげたいのでしょうね。でも、男の子は本には関心を示しません。女の子は「プリキュアの本が置いてない!」と騒ぎます。困ったおばあちゃんは、「飛び出すしかけの絵本を置いてありませんか?そういう本なら喜びますから・・・」などと言ってきます。そういうものは置いてないので、まあ、いろいろ出してみましたが、子どもは「こんなの嫌だ!」とまた騒ぐ。けっきょく、おばあちゃんは私が薦めた本を一冊ずつ買ったのですが、子どもたちに満足感を与えることはできませんでした。  女房が「ブッククラブの子たちとは、言葉遣いも態度も全然違うけれど、ああいう子たちのほうが一般では普通なんでしょうね。」と言いました。たしかにそうで、決して我田引水ではなくて「やはり読み聞かせを幼児期に受けてきた子は、家の内と外の違いや身内と他人との違いを即座にわかって、それなりの言動、行動ができる」と思うのです。ところが雑な家庭の子は場が読めない! 極端にいえば、1・2歳児と同じ状態です。生まれてからたった5年くらいで、これだけの違いができてしまうのですから、家庭環境とは大切なものです。  きちんと場に応じて話し、おかしなことを言わないのは、読み聞かせの背後にある家庭の底力でしょうし、ブレない人間になっていく大本を形作るのではないでしょうか。

緊張感を持つ経験は真面目でしっかりした人生をつくるかも・・・

 ただ、皆さんはこう言うかもしれません。「場が読める子は控え目になるので、場の読めない子の強引さに負けてしまうのではないか」「早期教育で字は書ける、九九はできる、英語は言える子の前で萎縮してしまうのではないか」・・・親としては当然の不安ですが、それは短いスパンで見た場合です。もっと長い視点で見れば、緊張感を持って場に臨み、真面目にこなしていく人間の方がしっかりした生き方ができるように思います。一番いけないのは、そういう状況に左右されて、親がブレてしまうことです。子どもは親のブレをすぐに見抜きます。頑固な親になって、「よそはよそ、ウチはウチ」「我が家はそういうことをしない方針なのだ」を貫かないと、子どもは親を疑ってしまいます。そこからおかしくなることもあります。もちろん、頑固さに反抗が出るかもしれませんが、長い時間が経てば、子どものほうで「ブレなかった親を評価していく」ものなのです。  いま、政治だけではなく、企業も学校も園も「客」にこびて、八方美人になる傾向が強くなっています。客の言いなり。「ええ、ええ何でもいたします。」「何でもサービスいたします。」・・・・この「お客様は神さまです!」が、この国の教育を、教育どころか国民生活をひじょうに悪くしたのではないでしょうか・・・・先生は生徒を叱れない。子どもは増長したまま成長する。控え目など美徳でも立派でもなくなって、誰もが自己主張をしないとおさまらない時代・・・こんなことを野放しにしておけば企業倫理どころか学校の方針も歪みます。これで、やがてブレていく。でも、そうはなっても人の心には正常な部分があって、「ブレるものは信用しない」のも人間です。ブレは見抜かれます。  私が、「はいはい、プリキュアですね。ここにありますよ。」「ああ、しかけ絵本ならここにたくさん置いてありますよ。」という姿勢で商売したら、信用はなくなっていきますよね。短期の勝負では見抜けないかもしれないけれど、長期間、見ていれば人は人をきちんと評価できる力を発揮しますから・・・。

状況に負けないこと

 たしかに小学校に入っても山のように問題はあります。読書ひとつ取っても学校図書館の「いいかげんな蔵書問題」「貸し出しコンテストの弊害」「子どもたちの間で流行るサブカルチャーの無批判」・・・「お稽古事やお勉強での余裕のなさ」・・・いずれ皆さんも直面することです。  解決する方法もないことはないのですよ。皆さんが、学校に「これはおかしいんじゃないか!」とか「何でこんなマンガのような本が置いてあるのか!」と批判をすれば学校は帰られるのです。勉強もしないバカな司書の言うとおりにならなくていいわけなのですが、実は子どもを人質に取られているので親はなかなか言い出せないのです。「そんなこと言って子どもがイジめられたら困る!」「浮き上がったら困る!」「回りから、偉そうに!と言われるのはいやだ!」・・・こういう勇気のなさが学校を劣化させているところがあるのです。  でも、まあ、そこまで要求はしません。そういう状況は無視して、「自分の子は、ここまで読み聞かせをしてきて自主的に読書に向かえる」という自信を持っていれば大丈夫です。  「読む子は読んでいくし、読まない子は初めから読んでいかない」そういうことはわかっています。幼児期の読書環境が小学校での読書を決めてしまうことが多いのです。それならば、ブッククラブのお子さんたちは、あまり心配することもありません。成長に応じた読み聞かせを受けていますから、自分で読んでいく力は黙っていても身についています。あとは、「どういう環境なのか」で「読む」、「読まなくなる」は決まるでしょう。あとは、ブレずに行けば大丈夫です。  学校に入っても、焦らず、騒がず、力まないでいきましょう。(新聞一部閲覧)

(2010年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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