ブッククラブニュース
平成22年5月号新聞一部閲覧

だるまちゃんとあんぱんまん

 寒い春、いきなりの夏・・・なんだか体がついて行かないようなGWで、たしかに時代はボーダーレス。国境を越えて多くの人の出入りが始まったら、「季節の変わり目までなくなったか!」と思っています。なんだか「時代」というものはピッタリの共通性でどこの分野でも起きていて凄いものです。でも、そういうふうに社会現象を感じながらも「みんな時代の変化と同じ方向に行っちゃうのもなぁ・・・」「ゆるがないものはないのかなぁ・・・」などと思っていました。
 そんな時、「だるまちゃん」シリーズや「からすのぱんやさん」で有名な絵本作家・加古里子さんが「子どもの未来」について講演した記事が目にとまりました。絵本作家で工学博士、84歳のおじいちゃんながら精力的に絵本を書いている人・・・作品がブッククラブ配本の中にかなり採用選書されている作家でもあります。
 先生の言うことは、ごく当たり前のことです。子どもの未来に必要なものは「健やかな心と体」。体を育てるためには「外遊びをすること」、心を育てるために「本を読むこと」。そして、最後は家で「お手伝いをすること」でした。はじめの二つは説明が要らないですね。でも「お手伝いをすること」がなぜ必要か。先生はこう言います。「知っていても見ているだけで何もしない人が多い。状況を判断して自分の力で実行する。そういう力を身につけるためにお手伝いが大切。」・・・と言うのです。お母さんが食事を作るときに何か手伝う。命令されてではなく、何をしたらいいかを聞くのではなく、自分から「これをすればいいのかな?」と考えて手伝う・・・・こういうことが社会に出て働くときにものすごい力になるというのです。
 絵本屋を始めたばかりのころ、加古さんの「私の子ども文化論」を読んで、少なからぬ敬意を抱いたことがありました。「子どもの育ち方」、「育つ方向性」と同じものが、ひじょうに分りやすく論理的に書かれていたからでした。その後、たくさんの著作に目を通すと、深い洞察力と人間性の上に築かれたものであることが感じられたので選書をしました。「からすのぱんやさん」(4歳でほとんどの方に入ります)は、その代表のような作品で、カラスの家族を見つめる視点の優しさにはすぐれた文学性が現れています。「困っている人や弱っている人を助ける・・・そういう勇気と実行力が必要だ」と先生は締めくくりますが、まさに「からすのぱんやさん」には、子どものお手伝いが子ども自身の未来を切り開いていく様子が描かれたものです。先生の作品には拙劣な「勧善懲悪」や荒唐無稽な「自己犠牲」はありません。自分もイースト菌という菌で出来ているのにバイキンを悪と見る「あんぱんまん」の勧善懲悪。空腹の人に自分の頭を食べさせるお涙ちょうだいの自己犠牲・・・そんな漫画のような浅薄さはないのです。でも、浅く分りやすい話のほうが一般ウケします。親も子も深い人の悲しみや悩みに思いが行かない人間になってしまうかもしれません。いまや世の中では圧倒的に「あんぱんまん」が幅を利かせ、「だるまちゃん」も「からすのぱんやさん」も片隅に追いやられているのです。
 いま多くの親は自然な育ち方や育てる方向を見失い、良く言えば子どもを大事にして、悪く言えば何もさせずに大きくしてしまいます。勉強さえしていれば何も要求しない親も多いのです。もう一度、子どもが小さいうちに「育ち方」、「育つ方向性」について考える必要が来ている時代なのではないでしょうか。

豊かさが人の成長をダメにする?

 大学の先生と話していると「多様に考えることができなくなっている学生」「自ら何もしようとしない学生」が増えているという。しかし、それは学生たちだけではなく、けっこうな大人でも当てはまることなのではないだろうか。つまり受動的で、セッティングされなければ何もできず、自分が生きる方向のことも考えずに、ただ世の中の流れに流されている・・・わけだ。大人の社会でも同じ傾向は進んでいるのだから、あながち若者ばかりを批難することはできないが、やっぱり問題であることは事実。 
 私は学生と接する機会が少ないが、その学生がもう少し大きくなった世代はよく見ているので、大学の先生が学生に持つ印象は、そのまま私の大人世代の印象でもある。つまり、原因は、ここ30年くらい前からの学校教育や親の育て方にあるのではないかということである。
 以前、親が子どもにあまりにも多くのものを与え過ぎている弊害が目立った。幼児期にその弊害がすぐ出たわけではないが、与え過ぎたことが原因による事件・社会現象が30歳くらいの世代で出ているのだろう。ところが、与えられた幼少期と結果が出た二十歳代の間にはかなりの時間的な隔たりあるし、親が「良かれ」と思ってやっていた意識しかないので「どうしてウチの子が・・・?」とか「なんでこんな子に・・・?」ということになっている。大は「犯罪」から、中は「家庭崩壊」、小は親自身が「???」と思うような育ち方まで・・・・。
 客観的に観察していると原因と結果の関係は歴然なのだが、社会の波・時代の勢いに押されて、子育ての中に原因の種を蒔いてしまったのだからやむをえないことだ。しかし、問題はいまだに、同じことが家庭生活の中で行われていること。親が子どもに金をかける競争をし、おじいちゃん、おばあちゃんがそれに追い討ちをかけるように金を出し、子どもを物漬けにしてしまう状態。あれが流行ればあれを与え、これがいいと聞けばこれを買い、まるで他よりたくさん持っていれば勝ち、たくさんのことをしていれば勝ち、より上の段階のものを与えれば勝ちと思っている価値観・・・。
 絵本を与える分野では、そういうことをされている子は2才くらいで本に反応しない子が出ている。原因は?というと、1歳くらいから膨大な量の絵本や雑誌・ビデオを与えられてきたこと。地味な物語や絵本などにはまったく反応しなくなっている。たくさんのものを与えられれば、より刺激的なものや派手なものにしか行かなくなるのは人間の性向である。〇〇レンジャーや□□ライダーなど刺激の強いものに頭が占領されたら地味な絵本の読み聞かせなど頭の外である。小さいうちからすぐにパっと反応するものだけを与えていけば、大きくなって好きなものが狭い分野に限定されてしまうのは当たり前のことだ。大人になってもくだらないオモチャを集める生活から抜けられなくなる人も多い。趣味分野が限定されるだけならまだいい。ひどい場合は精神病になることさえ起きている。
 何度も言っているように、量の多さに子どもは食傷気味になり、好奇心や物ごとへの関心を失ってしまう『焼き切れ現象=バーンアウト』を生きるうえで起こしてしまったらどうなるか。そんな青年は急増しているし、ローティーンですら、自分の方向性を探る力もなく、なんとなく生きている子が多くなっている。わずかな物を大切にして楽しんでいく方がどのくらいその人間にとってすばらしい力がつくか誰も考えない。みんな、お金をおかしな方向に使いすぎる。子どもなどは、「与えないことによってつく力」のほうが大切なのに、与えることで力をつけさせようとするアホさ加減がこの社会を覆った。さあ、どうなるか。

読み聞かせのある生活へ

 周囲で子育て支援や絵本について関心が高まってきているように見えますが、じつのところ絵本の読み聞かせを生活の中に加え入れる家庭は、そう多くありません。「これだけ読み聞かせがクローズアップされてきた時代にそんなことはないだろう!」と思うかもしれませんが、私の見ているところ幼少期の一時期に行う家庭が三十家庭に一家庭くらい。それもあまりやらないうちにズルズルと周囲の子育てと同じような状態に流れていきます。
 ちゃんと幼児期を通して読み聞かせが継続していくのは五十〜八十家庭に一家庭くらいのものです。この比率は、外で働く女性が増えていけばいくほど悲惨な数字になります。そりゃそうですよね。家庭内滞在?時間が減れば、落ち着いた環境で子どもと接触する時間は物理的になくなります。保育園に迎えに行って帰宅してご飯を食べさせ、風呂に入れ、寝かすだけでもう時間がない。寝かすときに読み聞かせてもベルトコンベア式では気持ちも伝わらない。現実には、百家庭に一家庭くらいが行っているにすぎないのではないでしょうか。
 でも、世間一般では読み聞かせの重要性が叫ばれているので、保育園や図書館や公共施設などの読み聞かせに期待をかけて、家庭内読み聞かせを棚上げする親も出ています。たまの休むに乳児を連れて、イベントへ出かけていくだけでもご苦労なことですが、「専門家に読み聞かせをしてもらったからいいか」という感じでいるかもしれません。
でも考えてください。読み聞かせはいずれ読書に向かうものです。集団で読み聞かせをしたら、一人で中味を楽しむ読書のための訓練はできません。また、親と子の接点としての目的性まで失われてしまいますよね。

与え方や本の選び方も重要な要素

世の中にボランティア好きのおばさんはけっこういて、その向かうところは「子どもたちへの読み聞かせ」などが多いのですが、じつは彼らは、絵本はかわいらしいものだし、かんたんなものだという安易な発想から出発していて、子どもの発達に応じた適切な本を選んだり、どのくらいの子にどのような本がいいのかなどの研究をほとんどしていません。もっと、ひどいのは子育て支援活動そのものが目的で(いうなれば場を得て光りたい人の子育て支援で)、「そんなことに血道をあげているヒマがあったら自分の子をしっかり見ていたほうがいいんじゃない?!」といいたくなるような活動もチラホラあります。世の中のタメには子育て支援より自分の子を支援したほうが効果的?です。実際、社会的に活躍している親の子がどうしようもない例はけっこうあります。そりゃそうです。自分を置き去りにして、世の中のために頑張っている親をきちんと評価して、我慢している子などそうそういるものではありません。
 いくら良い絵本だからといって、六歳くらいが対象の絵本を二才児に読み聞かせても意味がありませんし、その逆はなおさらです。読み聞かせは発達に合った形で、家庭のなかで読み聞かせにふさわしい環境をつくり、親が子に読むものでなければダメだと思うのです。こういう環境がないから成長してから読書に向く子どもの数は大きくならないわけです。
 親と子の楽しい時間を共有する・・・読み聞かせは、この目的のためにあります。あとは、それなりの結果が出てきます。義務で読むのではなく、また外部にゆだねるのではなく、個人的に楽しむことが子どもの読書への方向づけを可能にすると思いますよ。

図書貸し出し数・日本一?

 5月20日付の山梨日日新聞によると、「山梨県中央市の市立図書館は、人口当たり(3万1905人)の貸し出し件数、蔵書数、図書館の図書購入数は全国一だ。」とありました。こりゃあ、快挙です。だいたい、このたった32平方キロの市という狭い地域に3つも図書館があり、それだけでもすごいのに住民の読書に対する意識はもっとすごいというわけ。それは、そうでしょう。読み聞かせおばさんが、手ぐすねひいて読み聞かせイベントを行い、写真にあるように0歳児から読み聞かせをし続けるのだから、そりゃあ本好きな子どもが育つのは当たり前です。おそらく、この写真にウソがなければ、ここの0歳児の視力は3.0くらいあり、きっと集中しておばさんが読み聞かせる絵本に見入っていることでしょう。こういう試みが、つまり少ない人口に対して行政やボランティアの方が手厚い対策や活動を講じていることが、こういう高い利用率が生まれる源なのだと思います。
 ただ、個人的な観察では、この中央市には不思議なことがあるのです。人口当たりの図書貸し出し数日本一はまちがいないのでしょうが、購買数はどうなのか。ここ30年間、ブッククラブをやっていますが、この中央市には会員は昔からほとんどいません。現在では3名です。3万人で3名というのは、いくらゆめやのブッククラブが地元に弱いといっても弱すぎです。この3名はつい最近、中央市に転居した人々で、もともとの中央市の人ではないのですから・・・。で、中央市を通り越して、その向こうにある市川三郷町は人口が1万8000人しかいないのですが、会員が10人はいます。まあ、見方によっては中央市は図書館が充実しているので、買って読み聞かせするまでもないということでしょう。気になるのは、中央市の小学校および中学校が読書で大きい成果を上げているという話がないことです。この地域(田富、豊富、玉穂)の小・中学校のレベルや子どもたちの読書傾向はどういうものなのか知りたいところです。
 さらに知りたいのは、大人の本と子どもの本の貸し出し比率、大人の本のジャンル(実用書が多いのか、小説が多いのか、雑誌が多いのか・・・・)別の貸し出し率・・・・子どもの絵本は一回で何冊借りられるのかなどです。こういう数字の内訳がないと、実質どうなのかわかりません。
 狭い地域に三つも図書館があるのは3つの町村が合併したためにそれぞれの図書館が分館になっただけのことです。だから図書館が3つもあるわけで、人口1万あたりに一館という図書館では、機能していなければ税金の無駄遣いいがいの何物でもありません。でもまあ、貸出率で日本一・・・・機能はしているようです。一回で20冊貸し出して、フラッシュカードを見るように絵本を与えられている子どもはたまらないものがあるかもしれませんが・・・・・。行政の数字発表は、それだけでは実体が見えないものです。次から次へと与えられる絵本に食傷気味になって、やがては本が嫌いな小学生、中学生にならないことを祈るばかりです。

(2010年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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