ブッククラブニュース
平成22年6月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのある生活へA

 読み聞かせという生活習慣は、「余裕」というものを要求します。朝から晩まで忙しかったら、まず読み聞かせ楽しむ時間の余裕が生まれません。義務的にやったところで楽しさもないでしょうし、効率主義になったり、合理的な?読み聞かせをしたりすることになってしまいます。いっぺんに二十冊の本を次から次へと読んでいけば、子どもは味わうことも内容を楽しむこともなく、親はただ「読み聞かせた!」で終わりです。図書館から山のように本を借りてくるより、一冊か二冊を楽しんで読み、それを積み重ねていく方がずっと効果的なのですが、忙しいとそれもできなくなります。受け取りの方は配本を溜めないでくださいね。三か月分は子どもには多すぎる数です。
 さて、そうはいうものの以前とちがって(若い世代ですが)お父さんが子育てに関わるようになっています。おそらく、ガムシャラに働いても、それに見合った幸福感が得られないことが背後にあるのでしょう。現在の二十代の人は、バブル体験もなく高級志向もない時代が青春時代だったので、物の豊かさより生活の豊かさを求め始めたのかもしれません。アラフォー世代の「経済優先」「ブランド優先」とは違う「実質を重要視する」人々が生まれてきてるような気がします。小さい変化ですが、ようやく貧しさが正常な部分を紡ぎだした感じがします。
 実際、厚労省人口問題研究所の調査でも三十代以下で「母親は育児に専念したほうがいい」という人が増加していて、団塊世代やアラフォー世代のような「伝統的価値を否定して物の豊かさだけを追求する」組とは一線を画す傾向が出ているらしいです。これも若いうちに平成不況や経済の停滞を体験したことから生まれる現象なのでしょうね。正社員でも長時間労働でクタクタになり、お金も昔のように楽に稼げないとなると生活規模が小さくても「家族楽しく」に向っているのかもしれません。厚労省も、この労働条件や経済環境で「女性の間でも仕事への意欲が低下して、主婦になって子育てに専念したほうが楽と考えるのは当然」と言っています。十五年前は外で働きたい人が半数以上だったのに2003年あたりからパート程度で働く専業主婦が50%以上に増えてきているのが、それを端的に示しているのではないでしょうか。
 個人的な意見ですが、私は「働くな!」「専業主婦になれ!」というのではなく、働き方を変えてほしいと思うのです。赤ちゃんを外部に任せて朝から晩まで働くというのはどういうことなのか・・・読み聞かせひとつできないどころか夕食を与えて、お風呂へ入れて寝かすだけの家庭生活になってしまったらおしまいです。経済的な余裕ではなく、時間的余裕・・・その余裕が「言ったことは守る、約束は実行する」という信頼できる人間をつくっていくと思うからです。

A―1歳前半までの読み聞かせ―

 一歳前後の赤ちゃんについて「本を噛んでしまう」、「舐めてしまう」、「ペラペラめくることばかりして聞いてくれない」という相談を受けます。当然、まだ本というものがよくわかっていない子も多いのですから、これはある意味、自然なことです。とくに男の子でそういう子が多い。女の子でももちろんありますが・・・。ですから、そういう傾向、すぐに飽きてしまう散漫な部分は「この時期特有のことでふつうだ」と思っておいたほうがいいでしょう。だからこそ、この月齢から読み聞かせをすることは重要なのです。
 ただ、最初に知っておいてほしいことは二つあります。
@「本は初めがあって、そこからつながりのあるスジがあり、やがて終わるもの」ということ。初めから終わりまでをどう楽しめるか・・・それが、この時期の読み聞かせ技法のポイントでもあります。なかなか気が散って最後まで聞いてくれないこともありますが、子どもは初めから本が好きで、いきなり内容を楽しむわけではありません。まずは、お母さんとの接触、交わりが好きなのです。それがしたいがために、いずれお母さんとの媒体となる本に関心が向くようになるわけです。この赤ちゃんの習性を利用したのが「読み聞かせ」です。いずれ本が好きになるための準備です。そして、物事には初めがあって終わりまできちんとしたスジがあることがわかるようになるわけです。じょじょに長いものも集中して楽しめる力もついてきます。つまり、最初の「論理性」が養われるわけですね。
 この成果は一石二鳥の効果ももたらします。それは初期の子どもの成長初期における母と子、親と子の絆を無意識の形でつなぐ効果、次に本を読むというところに結びついていく効果・・・というわけです。これは絵本が出現した近代から始まったことではなく、じつは遠い遠い昔から「語り」の形で生活の中、子育て野中に定着していたものです。いわば、遺伝子に組み込まれたものといえます。

母と子の絆を壊すジェンダーフリー

 ところが、こういうことが、ジェンダーフリーを原理主義にしている連中には分らないのです。彼らは、母と子の交流の重要性よりも母個人の権利の獲得を主張します。その方向は育児よりも仕事という少子化で労働量が希薄になっているこの国の労働政策に加担するものにもなっています。ひょっとすると、少子化対策などの国策の手先として動いている人たちなのかもしれません。実際にやっていることと言えば、親ガ育てることの代わりに、外部の育児施設やイベントで育児のお茶を濁すことばかりやっているわけで、親として育児を楽しむ権利や豊かさなどなくても幸福でいられる方向には決して向かないわけです。親と子の絆を切ってまで個人の権利を確保することが、そんなに重要なものなのでしょうか。身勝手な親が増え、子どもは悲劇的育ち、やがては家族も家庭もバラバラになる・・・こういうことをジェンダーフリの原理主義者は考えているのでしょうかね。それとも、それが目的だったりして。でも、このままでは、親は子どもを育てる技術も感覚も何も覚えないまま年齢を重ねて老いるばかりです。子は方向性を失って、浮遊するだけの人生になりそうです。
 まあ、そういう時代の流れに迎合して不幸になっていく人たちはどっちでもいいです。こちらは、その反対側をめざす「集団」ですからね。
 次に・・・読み聞かせの方向についてです。
A「読み聞かせは読書につなげるもの」という感覚をもってもらいたいということです。人間は言葉から想像できる動物で、やがて文からイメージする力が身についてきます。赤ちゃんは、この想像力が未熟なので絵を補助にして言葉を身に付け、その絵と言葉から想像力を高めていきますが、最終的には言葉→文→物語から想像する力がでなければ「読書」の意味がありません。読書ができない人は絵からばかりの想像です。絵や映像は想像を限定してしまうものなので大きな想像力を発揮できません。アニメ、テレビは論理的でない話し言葉と絵、画像の山です。これでは想像力は高まりません。
 1歳前半では、急速に認識力や理解力が高まるので、ブッククラブ配本では、月齢別に発達に応じた配本を組んであります。動物や植物の認識絵本から生活動作をテーマにした絵本が発達対応順で組まれています。でも、そんなことは意識しないで、とにかく、その時期の絵本を何度も何度も読むことでまずは、絵本のおもしろさ、お母さんとの交流の楽しさを教えてあげてください。

子どもは本がすきか?!
A子どもの読書にガイドは不要か!?

レベルが落ちた?一年生のブッククラブ配本

 毎年のことだが、一年生になった子のお母さんから、「配本が1冊になり中身も短い文でかんたんな内容になったのではないか?」というお問い合わせがある。そりゃあ、「いちねんせい」も「よい子への道」も「たこのななちゃん」も6歳のときの並んだ重厚な絵本・・・「ちいさいおうち」「おしいれのぼうけん」「エルマーのぼうけん」「てぶくろをかいに」「おおはくちょうのそら」・・・に比べれば、薄っぺらな感じだし、文も少ない。まあ、字を読み始める子にプレッシャーをかけないで、じょじょに読んで行かれるようにする配慮である。これは昔も今もほとんど変わっていないので、このままじょじょに読んでいかれれば、それでかなり高度な読書ができる可能性は高いはずだ。あまり心配しなくても、おかしな環境に漬けなければ子どもは自然に読書ができるはずである。BCでは量的に不足なら副読本を加えられる。

学校図書館には問題が多い

 親というものは「学校はきちんとしたことをしてくれるものだ」という意識を持っている。しかし、時代の劣化とともに学校もそれなりに対応するから劣化から逃れられない。学校図書館の選書もひどいところががあるし、とんでもない貸し出し競争をしているところもある。「何で学校図書館に赤ちゃん絵本があるんだ!」と思ったこともある。つまりは子どもの読書のガイドなどまったくなく、「とにかく何でも読めばいい!」という感覚だ。いずれ、一年生を持ったお母さんから学校図書館の問題についてまたお問い合わせがあるだろう。本のことなど何も知らない司書が子どもの本のガイドなどできるわけもないが、そういう司書もゴチャマンといるのが学校だ。そういうふうに司書の質にもよるし、子どもの要望の質にもよるが、とんでもない本を平気で置いてあるところがある。TRC(図書館流通センター)のオススメをそのまま受け入れるウエイトが多い学校もある。司書でも見識のある選書観を持つ人がいれば、いいが大人の本すら読んでいない、いわば子どもと子どもの本が好きだけの人もけっこういる。司書の眼力がものを言うか言わないかで学校図書館の蔵書の質は高まりもし、低くもなるわけなのだが、現状はきびしい。
 いつも槍玉に挙げるのは「かいけつゾロリ」で、ここ数年は圧倒的なリピート率を誇る学校図書館の王者である。同じようなものでは女生徒向けの「まじょ子シリーズ」もある。こういう劣悪な本を手にするなかで、子どもの読書の質が落ちていく傾向に学校図書館が手をかしている可能性もあるわけだ。

ねらいは別のところにあるわけだが・・・・

 およそ十数年ばかり前に学校では朝の読書や親を動員しての学級での読み聞かせが始まった。おそらく、この目的は「多くの子に読書を推進しよう」とか「高度な本が読めるようにする」とかという類のものではなかったはずだ。十数年前・・・それは学校が荒れたあとの一時期、学級崩壊が全国規模で吹き荒れた。やがて、14歳問題、17歳問題という少年犯罪の事件がニュースのトップにくるようになり、子どもの心が問題視されて始めていたのである。その対策として始まったのが読書推進?だ。朝、何でもいいから十分間でも本を読めば気持ちが落ち着く。授業に入れる。貸し出し競争で数がカウントできるから行政的計量も可能・・・・「高学年なんて読書の指導なんてしにくいから自由に何でも読んでOKにして、まじめな低学年でカウントをかせごう!」という考えが見え見えなのだが、親は文句が言えないのだ。「ちゃんとした本を置いてくれ!」「子どもにきちんと読書ガイドをしてくれ!」なんていえない。自分の子どもが「人質」になっているのに学校や周囲の親や子から何を言われるか、いじめられるかを考えれば学校に文句など言えない。困ったものです。

量ではなく質の方向へ

 より多くの子どもに読ませようとすれば、まともな児童文学など歯が立たない子が多いのは昔も今も変らない。いきなり、三年生で「チョコレート戦争」、四年生で「誰もしらない小さい国」五年生で「ナルニア国」と言ったところで、見向きもしないだろう。放っておけば異常な本に走ることもある。子どもの読書は、その子の未来を変えるかもしれない両刃の剣でもある。公共性の高い学校図書館はそこを考えてがんばってもらいたいのだが・・・。それとも、一切、現状の蔵書をやめて「アイパッド」あたりで気を引きながら、ディスプレイ上の管理された文学でも楽しませたほうが効果的かもしれない。そうすれば、おかしな本だけは避けられる(皮)。

続・発達に応じるということ
おもちゃについてA

子どもは何でもおもちゃにできる

 1歳くらいになると子どもは身の回りにあるものをおもちゃとして遊び始めます。本を積み上げたり、テッシュを引っ張り出したり、その好奇心はとどまるところを知りません。こういう時期が過ぎて2歳を越えると何かを何かに見立てて遊べるようにもなります。例えば、石コロを動物に見立てて遊ぶとか、積み木で動物園や遊園地を作るとか、大人の目にはただの石ころ、ただの木片にすぎないものが子どもの目には象にも見え、ジェットコースターにも見えるのでしょう。
 3歳の子にトランプを渡してトランプのゲームをしようとしてもルールを受け付けません。その代わりにトランプの札をクッキーに見立てたり、おせんべいに見立てて「はい、どうぞ!」遊びになります。すごい能力です。
 この子どもの能力は持続させて長い期間さまざまな「見立て」で遊ばせたいし、その能力を高めたいのです。なぜなら、大人になってから自発的な発想や着想をするときの元になる遊びだからです。見立て遊びがじゅうぶんにできれば、何かをやっていくときに大きな力になることは証明されています。ただ、最近は玩具の多くが用途限定されているものが多く、他の物に見立てて遊ぶことができなくなりました。右のような自動車は、他の物に見立てるのは困難です。このためその玩具では一つの遊び方しか出来ない子が増えています。玩具メーカー自体が用途を決めて、それしか遊べないようなつくりに変えているのか、それとも、キャラクター的な商品開発の方向性が、こういう方向に行ってしまうのか原因はわかりません。でも、これでは、玩具が指示する通りに遊ぶだけで、さまざまな発想や試みができなくなってしまいますよね。つまりは複雑で精巧な玩具かもしれないけれど、じつは子どもの遊ぶ能力を減衰させてしまうだけのものなのではないかと思われるのです。やはり、幼児のうちは子どもの見立て感覚の力を生かしていく遊びをさせたいものです。

前回のCの親のばあい

 前回、述べたCのパターンを取る親のばあい、多くは、この「見立て遊び」を期待している方々だと思います。
 我が家は本屋ですからダンボールがたくさんあったために子どもたちは、よくダンボールを使って遊ぶことをしました。彼らにとってダンボール箱は船にもなれば車にもなる。「いやいやえん」を詠んだのは年長のときでしたが、ダンボールのクジラ船に乗ってクジラ捕りに出かけていました。すごいのは、お弁当箱に見立てて、妹を詰め込み、赤や白の服も詰め込んで弁当をつくったこと、ダンボールを長くつなげてトンネルにしたのもおもしろかったです。こういう単純なことは飽きもせずに何回も遊ぶものです。子どもが次から次へと自分の発想で遊び始めますから、大人が相手をしてやることもないので、けっこう有益な結果を生むのではないでしょうか。
 おそらく、この遊びをしているときは子どもの頭は「物語」でいっぱいになっているはずです。物語の中で遊べる子どもは、楽しいと思いますよ。この発想のパターンは大人になったときに、着想豊かな仕事の展開に大きな役割を果たすと思います。

おもちゃを選ぶときのポイント

 おもちゃを選ぶときのポイントは、「ゴミになるときのことを考える」です。最近はプラスチックのおもちゃが多いですが、これはゴミになる確率が高く、物を大事にすることを教える意味でもちょっと問題のある素材です。例えば「トイザらス」で扱っている商品の90%はプラスチックです。また「赤ちゃんちゃれんじ」を取っている方ならお気づきだと思いますが、あの袋の中身の多くはゴミです。ほとんどが一回限りのもので、すぐにゴミになってしまうものですよね。物を大事にするということはやがて人間関係も大事にすることにつながりますから、やはり使い捨て前提のおもちゃは避けるべきだと思います。たしかに、いずれも手ごろな価格で、子どもの目を引くようにつくられていますが、すぐに飽きてしまうものが多いようです。

前回のBの親のばあい

 いわゆる知育玩具と呼ばれる木製のヨーロッパのおもちゃや国内の手づくり工房で作られている木工製品の玩具などを与える親のケースです。これはおもちゃそのものは、さまざまに使うことが出来、よく工夫されているので、子どもの想像力を高めることができます。難点は高価なこと。ネフ社の商品で左の玩具は四万円くらいします。
 くだらないおもちゃも数千円くらいするものもありますから、それを5つか6つ買えば、同じ額になります。山のようにくだらないおもちゃを買うより一点豪華主義で楽しむのもおもしろいかもしれません。多様な遊び方を子ども自身がやっていくでしょう。
 絵本と同じくおもちゃも質・グレードがピンキリです。悪影響の出るものは避けたいですね。少なくとも幼児期に電子玩具は与えないようにしましょう。幼児期の子どもに電子ゲームやテレビゲームの類は悪い影響を与える以外の何物でもありません。「そんなことはない!」という親は自己責任で与えればいいのですが・・・百害あって一利もないと思いますよ。しかし、以前も何度も書きましたが市場原理社会と価値観の崩壊はすざまじいですね。なんとか、まともな感覚で生き残るには、わが道を行くよりないかもしれません。



(2010年6月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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