ブッククラブニュース
平成22年9月号新聞一部閲覧

桂歌丸は語る

暑さと異常な世界

 暑い夏でした。いやぁ、まだ暑い! 暑さ寒さも彼岸までですが、このまま日本は熱帯の国になるのではないか、と思ってしまいます。暑いと人間の精神はダラケます。八月はおかしな事件ばかり起きました。これは暑いからなのか、それとも国がグチャグチャになりはじめたのか、人の心が崩れ始めたのか、私にはわかりませんが、まあ、どれも当りなんでしょうね。
 23歳の母親が育児放棄をして二人も子どもを死なす、「hikikomori」がオックスフォード大辞典に載る、若い人を批判しているのではありません。中高年が無謀な山歩きをして救助隊を事故に巻き込んだり、百歳を越えた両親をミイラにしてもまだ年金をもらったり、老人もまたおかしくなっています。かと思えば、アニメ漫画のコスプレ・ショーに50万の人が集まり、中年のおばさんが韓流スターの自殺を悼んで1万5000人も献花に訪れるという「巨大な平和」も見られます。たしかに、この国では何をしても自由という誤った状況があるのですが・・・・やはり、どこかおかしすぎる。

教育は昔より発達したのに

 教育に対する情報が山ほどあり、幼児からお稽古ごと、早期教育が行われ、塾や家庭教師での中、高、大までの猛烈な受験勉強。こうしたものがありながら、なんだか昔に比べて人間が壊れて来ているような感じがするのは私だけではないと思います。と、いうことは、そうした「教育なるもの」が、じつは人間をつくるうえで、何の役にも立っていないことを知るべき時期に来ているということではにでしょうか。
 思うに、現在の教育は言葉=意味、書き、読みの理解で、人間を形作ることを何も考えていないのです。明治の福沢諭吉以来、学問は立身出世の方便で、人格とは無関係に進化してきたものです。いまや塾の受験テクニックという異様な発達をしたのが「学問」で、もはや人間そのものとは無関係なのが「学問―お勉強―授業―学校」なのではないでしょうかね。人の心の形成と関係がなく行われている教育や家庭の生活。「相手の気持ちはどうなのか」、「人の行為としてはどうなのか」を考えないから、日ごろ言うことと行動に矛盾が起きてしまうのでしょう。世の中を生きるということは「相手のことを考える」ことなのですが・・・・。すべてが、儲けること、お金を得ること、物質的に人の上に立つつこと・・・「ビジネスチャンス」「ビジネスチャンス」なのです。

拝金主義で目的を失った教育

 上は政治家から下はそんじょそこらにいる大人まで相手のことを考えることができなくなっています。国民の利益を考えない政治、生徒のことを考えない学校、子どものことを考えない大人・・・・この結果が、産み捨てや親の放棄にまで現れてきました。そして、メディア上では、私が言っているようなことが「偉そうに・・・!」「おまえだって裏では同じことをやっているんじゃないか?」といった乾いた言葉で反論が飛び交うのです。「何がそうしたか」、「何でそういうことをみんなが思い始めたか」ですって? 市場主義社会に影響されてお金を拝むようになったからですよ。お金にならないことはしない・・・・子どもをなぜ教育するかというと「お金を稼げる人間にするため」という答えが平気で戻ってきます。バブル期に青春時代を過ごした人が親になり、お金、物を拝み始めたからです。こういうバカ親の下では家庭教育どころか、あいさつひとつ教えられない「無しつけ」状態が起こります。まさに「ブシツケ」です。

歌丸師匠は語る

 さて、この夏、この問題を指摘した言葉の専門家がいました。落語芸術協会会長・桂歌丸・・・中学しか出ていない言葉の達人です。彼は言います。
 「近頃、家庭教育がまるでできていない世の中になってしまった。しかし、家庭での教育は子どもが成長して世の中に出て行くときにとても重要なものになる。なぜ、家庭教育ができなくなったかというと、今の子どもは学歴優先で勉強ばかりさせられる。だから、家庭で教えられることがない。かわいそうといえばかわいそうだけれど、そういう親に育てられて、人間の本質にかかわることを学ばないで大きくなってしまうわけで、ほんとうにかわいそうだ。」と言うのです。
 これに似たことは、私もこのニュースでずっと言ってきました。でも、中卒の大落語家が言う教育批判ですからケタ違いの迫力があります。中卒をバカにしているのではなく、中卒が大学や大学院を出ている人よりすぐれているからそういうわけですが、  「人間の本質というのは決して学歴ではない! 何かをする能力だ。」なるほどです。「親は子どもの能力を見出して、その能力が発揮できる道へ導くのが親の責任であり仕事ではないか。」と語る歌丸師匠の話は説得力があるのです。
 たしかに! どんな人にも何か能力があり、学校の勉強が基準になった尺度で行くばかりが子どもの進む道ではありません。歌丸師匠は「何で落語家になったかというと勉強が嫌いだったからだ。ずっと落語をやってきたが、この商売を辛いので辞めたいと思ったことはない!」と言います。その勉強嫌いが、多くの人を相手に言葉を使いこなす人になっているわけです。私も学校の勉強が嫌いでした。好きな人はあんまりいないでしょう。でも、ちゃんと生きています。歌丸さんと同じく、多くの人が自分の仕事を辞めたいと思わずにがんばっています。学歴で何を目指すか・・・教育ママの気持ちはよく分かりませんが、自分の子の力を見つけられず、心が壊れてしまうような家庭教育だけはやりたくありませんよね。

今年は国民読書年だったらしい

 まったく知らなかったが今年は「国民読書年」らしい。「読書週間」もそうだが、いつも読んでいないから「このときだけは読もう!」という希望や願望のようなもので、それを言葉にしたのが「読書○○」・・・。で、文字・活字推進機構(へぇ、こんなものがあったんだ! 機構と名の付くところは天下りの巣らしいが)が熊本で大会を開き、読書についてのパネルディスカッションをした。理事長が、政治家で児童文学者で薬剤師、しかも子どもの読書推進活動の法案を通した肥田美代子さんという女性。すげぇー。私なんか自分ひとりでやっているひとつの仕事もまだまだ何もかも不十分で他に手を出すなんてとんでもないのに、児童文学を研究するわ、処方された薬は処理できるわ、議員でもあるわ、で、二足のワラジどころか、三足も四足も履いて、まるでムカデのように縦横無尽に世の中を歩けるような人らしい。
 で、その熊本大会の席上のことである。

教育熱心で識字率が高ければ読解力はつくか?

 彼女が、こう言った。「日本は教育も熱心だし、識字率も高い。それがなぜこんなに読解力が低くなってしまったのか?」・・・なんとも短絡的な疑問で始まるわけだが、この方、読解力はあるらしいが、世の中の仕組みが読めていない。私は現行の教育(明治以来の教育)が読書にむすびつくとはまったく思っていないし、一般的な現代人の間で高度な読書ができるほど識字率が上がっていないと思っている。逆に数十年前に比べると識字率は下がっているといっていい。
 まあ、肥田さん自身の読解力を尺度にして、若者をはじめ、現代の日本人の読解力のなさに驚いた結果の言葉だろうが、なぜ「教育や識字率も読書できない原因のひとつ、読解力が上がらない原因のひとつだ」と考えないのだろう。さらに、原因は幼少期から大人に至るまで生活の中に山ほどある。ところが、それに一切、言葉が及んでいない。これは、とても不思議なことだ。学校も読書推進運動をする人々も読書を妨げる源になっているさまざまなこと(サブカルチャーや受験勉強など)にまったく触れず、「子どもの読解力が落ちた!」と騒ぐのは何だかおかしい。たしかに肥田さんは「有害情報を子どもたちから遠ざける法案」を通そうとした実績があるが、読解力を教育や識字力に依存するというのはおかしな話である。考えてもご覧。読み聞かせを受け、小学校くらいまではけっこうの読書ができていた子どもが中学生になり高校生になるとまったく本が読めなくなるのはなぜだろう。そこを考えて欲しい。受験があり、部活があるからですよ。親はよりよい上の学校に行ってもらいたいから「読書より勉強!」となる。学校は「不良化、非行化を防ぐために部活命になれ!」と言う。忙しくなったら大人だって本なんか読めない。明治この方、日本人が本を読んで深い思考をしてきたたmしはないのだから、分析力も競争力もヘッタクレもないのだ。
 谷亮子に投票した大人は読解力があるのかどうか・・・を含めて上は老人から下は20歳くらいまでの「世の中分析力」を文科省は逆に検証すべきではないだろうか。自分の意見が持てているかどうか、あるいは自分の意見に基づいた行動ができているかどうか・・・・などを含めて。つまり文科省の言う読解力が何を意味するのかわからないが、すくなくとも新聞やテレビの情報から自分の意見に基づいて世の中を読み解き、判断を下して、行動できるなど少数も少数。かなり読書をしている頭の良い人たちでしか無理な話なのだ。

行政は相変わらず通り一遍の理屈だ

 しかし、パネラーの文科省課長は「新聞やインターネットを活用して情報の比較、分析をすれば読解力は上がり、それには学校図書館の利用と充実が必要だ」と言う。当然、それを受けて学校の先生たちは「新聞やインターネットから得た新しい情報から子どもたちは自然に本と向き合う」と呼応・・・なんだかゴマすっているような、初めからシナリオがあるような文科省と教師は上意下達関係なんだなと思わせる構図が見える。そして「ふぅーん、それなら今までだって出来たじゃん。」と思ったりする。ディスカッションと言っても「いいえ、そうではなくて・・・」と文科省に逆らう先生はいないらしい。結果、「見て感じて黙る子よりも、読んで考えて話す子どもをつくる」という玉虫色の見解でまとめてしまった。しかし、現実にはゲームやネットの世界の強い影響で「見て、感じて、黙る子」しか出てこない状態には何も言えないでいる。何で言えないのだろう。i-padが教科書になり、電子黒板の授業が導入されるために電子を使ったサブカルチャーの批判はできないのだろうか。そして、そんなもので子どもたちの読解力は増すのだろうか。合理的な授業が進めば進むほど、子どもの読解力は下がるはずだ。そんなことは塾における効率的な受験テクニックの発達がめざましかったここ三十年の結果を見れば分るだろう。言わないとやらないマニュアル人間ばかりが輩出してお話にならない時代になっているのじゃなかったんでしたっけ。いまや言ってもその通りできないマニュアルも不要な若者が山のように出ている御時世なのでよ。
 でも、もっと深読みの読解力を発揮すると、文科省も学校も「じつは、こういう若者を教育で量産して困っているのではなく、してやったりと思っているのではないか」ということだ。つまり読み取る力がなくなれば、政治批判も何もなくなるから従順な国民ができる。膨大な税金を使って宇宙開発をする裏の真実が「読解力」で見えてもらっては困るというわけだ。とにかく詰め込み教育をやれば長い文章など読めなくなる。それでいいそれでいい、というわけだ。
 こういう現実を見ていれば、全体として、ますます読解力など下がっていくだろう。よく世の中を見てご覧。もはや大人も長い文など読めなくなってブログだことのツイッターだことの短い短い文で用を足しているのが現状だ。当然のことながら長い文を書くことなど面倒くさいということになる。暇なネットオタクの、ブログオタクの主婦かアチラコチラのサイトに目を通し、行動の伴わない意味不明の長文を書き連ねるくらいが、この国の「読解力」の頂点なのだと思う。(ところで、この電子版ゆめやの新聞を読んでいる皆さん!ここまで読んでくれました? 斜め読み、飛ばし読み、流し読みでしたか?)大人だって忙しくて、文を読み込んで理解するなどということができなくなっているのだ。学校から発行されるプリントを読む力さえない親がいるのに、その親の子に読解力がつくかどうか。幼児期から読み聞かせや読書をやってきても読書挫折が起こるのに、新聞やネットの分析で高度な読解が可能になったら何の苦労もいらない。おエラ方も、もう少し現実を見て「読書推進」をしてもらいたいと思う「今日このごろ」である。(新聞・ニュース本文一部閲覧)

(2010年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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