ブッククラブニュース
平成22年10月号新聞一部閲覧

年中行事は、かなりします

 田舎者といえばそれまでだが、我が家はけっこう年中行事を行う。お正月も雛祭り(娘二人の家庭で、開店記念日でもあるから、これは必ず)もお彼岸もお墓参りは欠かさず・・・つまり、人並みにオセチ、チラシ、オハギを作って食べ、これにお盆、お月見などまで含めると一年間でけっこう行事がある。紅葉狩りもするしお花見にもいく。私は行事の実行にあまり手を出さないからとやかく言わないが、女房は育ちが私よりさらに田舎なのでけっこう行事や慣習にはうるさい。中秋の名月ともなるとお団子を盛り付け、ススキを飾り、お月様が雲に隠れるのを気にしながら、蒸かしたキヌカツギやショウガの味噌付けなどを食べるというわけだ。
 子どもが小さい頃は、この行事の支度は忙しくも楽しい時間だった。食べ物作りのお手伝いをしない私は、ススキを庭から切ってきて飾る仕事しかない。だから、その埋め合わせに、食べるときには、お決まりの「お父さんの馬鹿話」をするくらいのものだ。物を食べながらマジメな話はおもしろくないので、たいていはくだらない話になる。娘が「お月様にはウサギがいるってほんとう?」なんて聞いてくる。「いやいや人間だって住んでいるよ。」と答える。・・・やがて「じゃあ、かぐや姫の話をしてやろう!」というわけである。
 で、始まり!始まり!だが、創作力がないので、元ネタをひねくったものばかりとなる。たいていが、その場で作った即興の話だ。例えば、こんな・・・

かぐや姫

 ・・・遠い月の世界から緑色の細いロケットに乗ってやってきた男の子がいた。そのロケットが竹やぶに突き刺さるとおじいさんがやってきて、スパっと切ってしまった。ついでに男の子のオチンチンまで切ってしまったので、その子は女の子になってしまったけれど、かぐや姫と名付けられて、おじいさんとおばあさんに大切に育てられた。大きくなると美しい娘になったので、「おヨメさんにほしい」という男の人が何人も宝物を持って来たが、月の世界の本当のお父さんとお母さんは、「地球になんかおヨメにやらない!」と言って連れ帰ってしまった。でもね、かぐや姫は帰る時に育ててもらったお礼におじいさんとおばあさんに死なない薬を渡していったよ。二人ともちょっとナメてみたけれど、「ずっと死なない」のは困ると思って、富士山の噴火口に捨ててしまったのさ。全部飲んでいたら、おじいさんとおばあさんは今でも元気に生きていると思う。でもね。人間は生きたら死ぬほうがいいんだよ。そうしないと地球上にあふれてしまって、たくさんの人が海に落ちて死んでしまう・・・・アレ、薬飲んでるから、それでも死なないかぁ。
 でもね。人間はなかなか欲も深いのだよ。毎年、富士山にはたくさんの人が登るだろ。何でか? おじいさんとおばあさんが捨てた薬の残りを捜しているのさ。・・・
 こういう馬鹿話のほうが子どもの記憶には強く残るらしい。大きくなってから「こんな話をお父さんがしたよね。」とこちらが忘れているような話を言い出す。それを聞くと、話の中で親は自分の勝手な思いを入れていたのもバレてくる。「遠くにヨメに行ってはダメだぞ!」とか「しようもない相手を見つけてくるなよ!」「あまり欲ばってはダメだぞ!」とか・・・勝手とはいえ親の親であるがゆえの思いが込められてもいる馬鹿話だ。

異常は異常を生み、普通は普通を生む

 現実の人間は、より遠い遺伝子を求めて行くのが自然だから、この親の思いは通らないことも多い。まあ、月の世界に嫁に行くわけではない。たとえ海を越えた地の果てでも地球上なら想定の範囲内だ。同じ地べたの上である。頭スー抜けの奇妙なファッションの宇宙人と結婚するわけでもないだろう。クスリで狂った人間や極悪非道な人間を配偶者にすることもなかろう。子どもが配偶者を連れてきたときに目が点になるか、ならないか・・・・多くのまともな親は息子がコギャルのような女を連れてこないことを祈っているし、娘がヘビメタのパンク野郎を連れてこないことを願っている。しかし、祈りや願いはともかく、子育ての最後の答えは成長したときでしか見ることができないから、親は巨大な期待をかける。だが、その期待は子どもを潰すこともある。逆に放任で何も手をかけないで育てれば、それなりの大人に育ってしまうことだろう。たしかに子どもは子どもで自分の人生を生きる。子どもの自由は確保してやるのが親でもある。かんたんにいえば人間として大人になるかならないかだ。だが、その根っこには小さい頃の環境や体験や人間関係があり、親は子を育てたときに家庭で何をしてやったかしかない。我が家は、ふつうの生活をしてきたので、今のところ「ふつうの答えが出た」と思っている。

今年は「国際生物多様性年だった」らしい

 今年の夏、甲府城のお堀で泳いでいた亀の背中に誰かが「カメデス」とペンキで書いたらしく、その字を消すための捕獲作戦が全国ニュースになって流れた。やがて亀は捕まえられたが、字は甲羅の脱皮で自然に消えるらしく、それまで待つということになった。しかし、亀は再び堀に放されることはなかった。その亀は日本固有種ではなく、よその国からやってきた亀だったのである。
 私は以前、亀を助けたことがあるので、「竜宮から迎えに来た亀が迷ってお堀に住みついたのかもしれない」と思ったが、そうではないようだ。グローバル化で外国の生き物をペットとして飼っている人々が増え、飼育に飽きたり、邪魔になって捨てたりしたものが日本中ウヨウヨしはじめたというのが本当のところだと思う。カミツキガメでなくてよかったが、外来種は天敵がいないので、すばやく増殖する。どういうわけか日本の固有種よりずっと生命力が強いのだ。と、いうより繊細で微妙な季節変化を繰り返す日本の風土に適合してきた種は、みんなデリケートで生命力が弱いのかもしれない。相手のことなどかまわずに自分を主張することができず、周囲との協調を図るために譲歩してしまうのだ。
 しかし、そうは言うものの日本人も劣化してきて、そういう美徳は打ち捨てて平気でご法度を破る人たちも出てきた。ワシントン条約で規制された希少動物を売買する人たちもいて、生物の多様性も危機に瀕して来ているらしい。そういうわけで、今年は国際生物多様性年・・・だったのである。たしかに動植物の無制限の流入は多様性どころか生態系も変えてしまうから困る。

生態系が一様になってしまう

 子どものころに「アメリカザリガニは日本に入ってまだ百年経っていないのだ。それがこんなに増えた!」と言われて、われわれの仲間が山ほど捕ったが減るどころか逆に増えている。小学生の頃に近くの湖にマブナ(ヘラブナはむずかしかった!)を釣りに行ったが、いまやそこはブラックバスしか釣れない湖となった。
 温暖化で、冬越しできる外来種も多くなったらしい。我が家の庭にはオナガもメジロも来ているが、最近インコに似た明らかに外来の見慣れぬ鳥が枝に止まっていたりする。そのうち、下水道をクロコダイルが泳ぎ、側溝からコモドドラゴンが顔を出すかもしれない。
 甲府の近くの石和温泉というところの川にはナイル川原産といわれるテラピアという魚が泳いでいたことがある。温泉の湯が流れ込んで熱帯系の魚でも養殖が可能になり、それが逃げ出して増えたのである。ピラニアのような魚で、おだやかな小川にうごめいているとゾッとする。これは温泉業者が調理用に輸入して飼育していたものである。儲けのためなら世界の果てから平気で動物を連れてくるというのも節操がないが、自国の自然を大切にする気持ちがないのだろう。こういうところから生物の多様性は消えていくのである。

植物の世界でも異変が

 もちろん、動物ばかりでなく植物も外来種が入り込む。西洋タンポポなど古典的植物だが、最近は名も分らぬ黄色い外来の花が空き地に群生し始めているのを見る。数年前には見なかった花が一年ごとに自分のテリトリーを広げているのだ。とにかく繁殖力がハンパではないし、在来種を押しのける力は抜群なのである。
 生物の多様性は、固有の場所で固有種が保全されることでしか守れない。ザリガニは日本の自然法則を守ることはしなかったし、ブラックバスはおとなしく草を食べて生きることを選択しなかった。持ち込んだら最後、手がつけられない結果になるのは目に見えているのだが、この流れは止められることがない。アメリカは遺伝子組み換えを国益と称して利害上の問題からカルタヘナ議定書(「環境問題」の京都議定書のようなもの)の「生物多様性保全会議」にも不参加だ。相手のことなどかまわずに自分をどんどん主張する凄さ。周囲との協調を図るのではなく、周囲を屈服させることだけで生き抜こうとする生命力。これは凄いものがある。グローバル化という名の下で強い者だけが生き残る環境を作っていいのだろうか。その種は、古来生息してきた場所で保全されるべきなのだが、膨張主義で膨らんだ種は平気で他の領域を占有しようとする。
 よその国へ来て相手の迷惑お構いなしでは、下等な動植物でしかない。その国のルールに従わない外来種はなんらかの方法で水際作戦をしないと自然界の混乱は大きくなる。

これからの子どもたちは

 私の子どものころは単純に野山でトンボを追いかけ、ハヤやフナを釣って楽しむばかりだった。もちろん、そのトンボは日本固有のアキアカネでありシオカラであり、ギンヤンマだった。アブラッパヤ、コンゴウハヤ・・・などを釣り、ウグイが泳ぎ、マブナやヘラブナを追う。いずれも日本固有の種だ。しかし、これからの子どもは何が固有種で何が外来種かを判別しなければならず、大変である。大変だが、生物多様性を保全しないと弱い種や繊細な種は繁殖力の強い外来種の前でなすすべがない。つまり、この世界は強い者が勝って、はびこるだけの粗雑で単調な自然環境になってしまう。だからがんばって「お勉強」してもらいたい。持ち込まなければ日本の動植物の多様性は維持できるはずだ。「弱肉強食」などという言葉は、支配したい側の人間が見た「自然界の一面」にすぎない。人間も多様な生態を持つ動物の一種・・・繊細で控え目な種も生きる場所はあるのである。この「生物多様性の保全」は、ひょっとすると「次の時代を考えるキーワード」になるかもしれない。

(2010年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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