ブッククラブニュース
平成23年2月号新聞一部閲覧 追加分

G読み聞かせのある生活へ

 ブッククラブの会員が読み聞かせにかけている時間はどのくらいなのだろう。多くの人に聞くと一日三冊というから早ければ20分、長いものが混じっても40分くらいらしい。何冊も読む家庭でも一時間はかけていないわけだ。しかし、その短い時間が毎日積み重なっていくと一年では120時間〜240時間というけっこうな数字になる。子どもに割いている時間としては、この忙しい時代では驚異的な時間数だ。
 この話をある学校の先生にしたら、「生徒の家庭で小さい頃に親が、その半分でも読み聞かせをしてくれたら、今のような教室の異常はなくなるはずなんだけれど・・・」と言った。とにかく落ち着きのない生徒が多いらしい。まだ小学校はいいほうで、中学になるとハンパではなく荒れが起こるという。
 どこの都市でも同じようなことは起きているだろうが、甲府南部でも中学校の荒れがひどいらしい。三十年位前の田園が宅地化され、地価の下落で家が建てやすい環境ができた。そこにローンを組んでウサギ小屋が建つ。こういう親は子育てよりローン返済や生活の向上、レベルの維持しか頭が無いから働く・・・子どもなど最初から外部保育だ。そのうち、下層階級では離婚、再婚家庭が出てくる。読み聞かせどころではない。親の虐待も起これば子どもの不良化も始まる。十数年もすれば子どもはそんな子どもが中学生だ。親と接しなかった子が崩壊しつつ大人になっていく。
 これが経済鈍化の日本のかつて中流階級と言われた層の一般的な結果だ。富裕層は富裕層で教育投資をするから「子どもと接しないことから発生する」別な問題が起こっている。

「小皇帝」と「ぼくは王様」症候群

 先日、NHK・BSハイビジョンで「大行進〜中国“小皇帝”たちの孤独〜」というのをやっていたが、これもまたスゴい話だった。急激な経済発展で増加する中国の新富裕層で起きている現象である。一人っ子が甘やかされ、何不自由ない環境が与えられて「小皇帝」と呼ばれている。その結果、子どもたちのなかには、親に暴力を振るうなど、手のつけられない問題行動を起こすケースが増えているわけだ。そんな手に負えない子らを立ち直らせる全寮制の訓練学校の風景を描いたものだが、お金はあるが子どもの面倒は見ず、ひたすら稼ぐだけで、結果的に子どもに「破綻」が現れてしまったというもの。
 しかし、じつは数年前、NHKは「小皇帝の涙」というタイトルで、一人っ子政策で生まれ、富裕な環境で育った小学生を取材した番組を作って放映していた。競争主義のなかの学校で子どもをエリートにしたいバカ親と教育的な正義より社会的な傾向を優先している学校が描かれていた。じつに悲劇的だが、滑稽な風景でもあった。そういう子どもが思春期になって「箸にも棒にもかからない」青少年になり、精神と生活を矯正しなければ社会性が乏しくなっていき、国家にとって問題だと認識され始めたのだ。しかし、じつは日本でも同じようなことが三十数年前から起きているというわけだ。
 と、いうことは、そのとき子どもだった世代は、大人になり、いま親になりつつある。

国と学校の行き方が・・・

 経済的繁栄を目指す国と労働力を提供する学校に寄り添ってしまった80年代以降の「この国の親と子」・・・いやそれは中国の親と子でもあり、そのつぎはヴェトナムやタイなどの東南アジアの親と子にもつながっていくだろう。その意味で日本の1980年以降の親子や家庭はアジアで先進的な「家庭崩壊」や「子育ての劣化」の見本だったのである。豊かな生活・・・いま、日本はもう豊かな生活どころかバーチャルな消費に向いつつある。
 それでも、社会の閉塞が強まってくると、そんな国の行き方に忠実だった親の子でも偏差値だけで追い込まれて成長した自分でも、「なんだか、これは幸福な方向に行っていない」ということに気がつき始める。
 「便利以上の何かがあるのではないか?」などと思ったりする。子どもが生まれれば、「子育てが孤独なのは問題だ!」などと考える。だれもが一番笑ってしまうのは、「子育てについて考えたい」という活動を起こす母親たちが、「何とかしたい」社会運動に熱くなってしまって肝心の自分の子を放り出して、組織づくりやネットワークつくりに奔走するというものだ。孤独に耐えられない人間が何ができるものでもないのだが、寄り集まって「子育てを考えながら子育てをしない」不善をなしているというわけである。つまり、基本的には、子育てについて「考えたい」が目的で、子育てそのものをやりたいのではないのである。
 いいですか、これは、ギャルママの社会参加を叩いているわけではない。「孤独だ!孤独だ!」とグチをこぼす若い母親の批判でもない。よく、考えてみよ!そのギャルママをつくり、「孤独だ!孤独だ!」と騒ぐ母親をつくったのは団塊の世代やバブル初期の40歳〜50歳の世代ではないか。彼らは、たしかに稼いだことで、年金肥りの金満老人になったり、消費しないと生きていかれないバブル中年である。この連中が作った子どもがゲーム世代、ルーズソックス世代の子ども。いやいや、その子どもがいま親になり、ゲームでしか自分の子としか遊べない父親、芸能界などのバーチャル消費にしか興味が持てない「親」になっているというわけだ。彼らは、国の高度成長と学校の労働力生産にシンクロして、子どもを家庭から切り離すことを行っていった第一世代だ。「鍵っ子(年間四百万人以上が1970年代初頭にはいた)」だった子どもが親になって作り出した世代なのだ。

親が子どもに接していないと・・・

 どの子も小さいうちはかわいいが、小さいうちにするべきことをしておかなかった結果は、学齢期、思春期に現れるわけだ。この意味では何度も言うが「日本は中国やアジア諸国より先進国である」。実際、高度成長期の80年代から、この問題は起きていて、いまだに続いている。社会的には精神病的な事件を起こす結果を生むだろう。日本で起きた少年事件、あるいは青年が起こしている事件・・・これに似た事件がやがて中国でもアジア各国でも起こるはずだ。酒鬼薔薇聖斗事件から秋葉原事件にいたる個別の事件や老人でさえ殺人を犯していく社会崩壊を象徴する事件などが、そう遠くない将来に中国やアジアで起こることは目に見えている。
 だからこそ、120時間〜240時間という読み聞かせの時間は、親と子の関係をつくるうえでも、そしてまた子どもが大きくなっていく段階でも大切な時間なのだと思う。0歳児ならともかく、親が絵本を読んでいるのにソッポを向いて他のことをしている子どもはいない。子どもは相手になってもらうことが大好きなのだ。この重要な時間を、他人に任せる親もいない(いるかな?)。任せるくらいなら読み聞かせをしていないだろう。読み聞かせは、してみれば分るが楽しいものなのだ。それが生活の一部にキチンとあるということは、それだけでも「幸福」の一部を実感できるものだと思う。読み聞かせが終わった親

G-3歳の読み聞かせーその2

言葉を交わす楽しさ

 3歳になると多くの子どもが周囲と自由に会話を交わすことができます。表現する言葉が飛躍的に増える時期でもあります。1・2歳のころに親と子が安定した時間を共有してきた環境があれば、表現する言葉だけではなく理解している言葉もその背後で増えています。だから3歳代ではかなり物語性が高い絵本を楽しめるようになるわけです。
 しかも、この時期の絵本はすぐれた内容のものが充実していて豊富、配本に沿って読んでいってもらえれば、まず問題なく言葉と物語の世界を楽しめるようになります。注意すべきことは季節に対応したもの、自己認識も強くなるので性差を考慮したものを与えることですが、配本は個人別のプログラムなので、そういうことに十分配慮してあります。
 読み聞かせ方法は特別にはなく、展開に沿ってふつうに読んでやればいい。何度も言いますが、もう、声色を変えたり、演出したり、パフォーマンスを加える必要はまったくないです。3歳後半の物語絵本は、「やがて一人で本を読む読書」への第一歩なのですから、ふつうに文を読めばいいわけです。うまく読むことでひきつける「読み聞かせ名人」になる必要はまったくありません。読み聞かせは、言葉を聞いて、想像して分る・・・そういうものです。

早期教育の悪影響

 ところが最近、乳児期から早期教育のDVDソフトで育てたり、生後数ヶ月から他人に預けて育てる親が増えています。そういう親が雑誌か何かで「絵本の読み聞かせが良い」などと聞いて、店にやってきます。当然、自分が本など好きではありませんから、読み聞かせの楽しさなどわかりません。進研ゼミで育っていれば、「子どもチャレンジ」でもやらせておけば頭の良い子が育つなどと思っています。そんな親が育てた子が、まっとうな物語絵本の楽しさにすぐに乗れるはずもないのですが、読み聞かせは親も子も楽しくなければ入っていけるものではありません。まして3歳児はお他人の読み聞かせよりお母さん、お父さんの声を聞きながら快い感じでいるのがすきなのです。3歳までに、そういう教育や接触感のない子育てをしていれば、絵本の読み聞かせはよほどやってもうまくいかないことも多いのです。

大量投与は無意味

 選書では、「やまこえのこえかわこえて」「11ぴきのねこ」など楽しい本は盛りだくさんです。だからと言って「ウチの子はもっと分る!」といって次から次へと図書館から借りてきて大量に与えることは避けたいです。大量投与は子どもの頭の中で本が通過する状態にすぎなくなり、内容を味わうことができなくなってしまいます。この時期は、月に2〜3冊程度を毎日何度も読む。これまでの本あるわけですから、それを何度も読む。繰り返しは、読み聞かせの基本です。自分と外の世界のつながりを楽しみながらわかっていくことが重要な点です。
 例えば「ガンピーさんのふなあそび」。ガンピーさんの操る舟にいろいろな動物が乗り込んできて、ハラハラドキドキ。やさしいガンピーさんがうまく受け入れてくれて、舟遊びがうまくいくというお話。なかなか楽しいストーリーですが、社会性を芽生えさせていくにはうってつけの作品でもあります。三歳代は空想力、連想力を全開させる絵本が目白押しですよ。

3歳までの読み聞かせの意味

 3歳ごろまでの読み聞かせ「人格のおおもとになる脳(大脳旧皮質)の成長に適したもの」と言われています。旧皮質は三歳前に成長が完成してしまうので、ここまでに子どもが安定した状態があるかどうかで、その後の個性や行動パターンが決まるわけらしいのです。
 「愛されているという感覚」「自分は周囲の誰かとつながっているという感覚」が人格の形成の基礎にないと成長の過程や、あるいは成人してからも問題行動が出るとも言われています。近年、世間を騒がす事件の根元には「乳幼児期の育児」が関係しているのではないかと思うものが多いのですが、高度成長で忙しかった親に育てられた子、外部に委ねられた子、家庭で虐待を受けた子…(これは上記で述べました)…それぞれの時代の乳幼児保育の結果が起きる事件の本質と深く結びついていると思うのは私だけではないと思います。みなさんだって、そう感じているはずです。
 エッ!「そういう問題の起こっていなかった時代に育った人たちも昔だから絵本の読み聞かせなんかしてもらっていなかったぞ!」・・・・その通りですね。でもね。親が子に接する時間はハンパでなく多く、「子どもは揺り籠に入って快く揺れているような時間」をすごしていたのです。実際、昭和四十年くらいまでは、そういう子育てが一般的でした。たしかに貧しさで、そういう時間が過ごせなかった子どももたくさんいます。少年事件も今以上に多かったようにも思いますが、精神的に異常なものはほとんどありませんでした。

旧皮質は社会への基礎?

 親から子への読み聞かせは、この旧皮質の成長に必要なさまざまな要素を持っているます。どのような読み方をするにしろ、「自分のために読んでくれている」という感覚が子どもには芽生えてくるでしょう。抱っこによる暖かい皮膚感覚、親を独占できる満足感、柔らかい言葉・・・おだやかな状態……このような点から読み聞かせは、人格の基礎になるような部分の成長に大いに効果的なものであると思います。
 こうした時期を経て、外部に適応し始める3歳の段階で与える本は、やはり「自分と社会をつなぐ物語」。相手とのバランス感覚や自分は周囲とどういう関係にあるのか、を知る物語絵本を主に与えたいところなのです。
 だからこそ、上記の「ガンピーさんのふなあそび」(ほるぷ出版)のような、なかなか楽しいストーリーであるとともに社会性を芽生えさせるにはうってつけのものを与えていくのが、この時期の選書のポイントでもあるのです。「おばけのバーバパパ」(偕成社)などもそうですね。3歳代の物語は、多く、人と人の関わりを描くものです。永遠のロングセラー「ぐりとぐら」も相手との関わりと、そこでできたものでみんなが喜ぶというテーマで展開します。同じように、だれもが世の中の何かの役に立つことを奇想天外なスジ運びで描いています。古典的名作の「ぶたぶたくんのおかいもの」も友だち、周囲の大人との関係をうまく描いた傑作です。「いいこってどんなこ?」は、逆にあるがままの自分を受け入れてくれる母親の話。子どもというより親に読ませたい絵本でもありますよね。上記に述べたように3歳代の絵本の傑作は充実しているが、性差も広がるので女の子では「まあちゃんのながいかみ」などを女の子用に配置したり、男の子用に「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」などを入れ、空想力、連想力を全開させるパワーも考慮しています。(ニュース2月一部閲覧)

続・発達に応じるということ

 昨年から、「現代はあまりにもすべてが混乱していて発達に応じたものをうまく与えて育てていくことができない」。あるいは「子ども自身が年齢に応じて遊べない」という問題提起をしてきました。最初は「おもちゃ」を例に出しましたが、発達に応じた「おもちゃはこういうものが良いだろう」と述べても、じつは述べるだけでは提案にすぎません。ごめんなさい。
 おもちゃというものは、用途が限定しているものは子どもの発達を正常に持って行くにはちょっと不足があります。子どもにとって、その広汎な想像力を駆使できるもの・・・そういうものが、なかなかないのです。市場原理で子どものおもちゃも動いていますから、気を引くもの、流行のもの・・・そんなコンセプトでしか作られませんし、売られません。トイざらすなんかに行ってみていると、目がチカチカするようで、こんなもので遊んでいる子どもはやがて学級崩壊の元締めになるかもしれないな、などとおもってしまいます。

なんとかしてみるかな

 連載が終わったあと、会員の方々から「どんなおもちゃが適切なのかわからない。教えてほしい!」というお便りが、かなりたくさん舞い込みました。
 かつては、子どもたちが自然に「年齢に合ったもの」で遊んでいたのですが、そんなノスタルジーを叫んでいていてもしかたがないわけで、サブカルチャーの攻撃から少しでも身を守るためにはなんとかしなければなりません。
 で、調べたのですが、良いものは高額で、安いものは粗悪、なかなか適切なものは探せません。いくら良くてもカワイやネフ社のものは高すぎます。「子どもが多様に使えるものはないか?」と思っていましたが、「これは、もう開発するよりない・・・作るよりない時代になっているかな」ということです。
 じっさい、何で、この森と林がたくさんある国で、子どもの木のおもちゃが、こんなに高額なのでしょう。何でもカンでも輸入して、自国の森を有効利用しない国の行き方が、こんなところまで及んでいるのを見ると寒気がします。

観察してみると

 ゆめやの店内には木のおもちゃが置いてあって、それを使って子どもたちが遊ぶのを見ていると「なるほど、子どもの創造性はすごい!」と思うことしばしばです。車が坂道を走るオモチャに積み木をドミノのように並べてビー玉を下の器に落とす遊びは(御来店の方々はご承知ですよね)・・・毎回人気です。かんたんにいえば、ピタゴラスイッチの創作バージョンを子どもたちは、さまざまに考えながら遊んで楽しそうです。
 いまや、セットされ、もっと醜悪なものは内部のプログラムの指示通りに遊ぶという、しようもない電子玩具で育った子が、マニュアルで受験を通過し、バーチャルなものに囲まれて生活していく・・・コンビニとケータイなしでは一日も生きられないにねgんは作りたくありません。
 子どもが自分で工夫して遊べるもの。多様に使えるもの。こういうものを木で、しかも比較的安価でできないものか・・・と思いました。思っていると、人は現れてくれるもので、ある山梨県の良さをテーマに活動しているNPOの方が積み木作家を紹介してくださいました。おもしろくて安価で、自然素材で、環境にもやさしいもの・・・注文は多く出ます。できれば県産材で間伐したものを使って・・・。まず、木のおもちゃを・・・。
 たしかに、そうなのですが、物づくりとなるとむずかしい。いろいろ考えてみました。

四歳以上の子どもが使えるものから作ってみるかな

 で、作家の方に試作をお願いしました。山梨県は周囲が山。材木は豊富にありますが、林業家が高齢化で森になかなか手が入りません。だから間伐材なら安価にできるかも・・・そして、積み木としても使え、遊びの多様化、高度化が可能な仕組み・・収納の箱も同じ素材で、かんたんにしまえる。使ったものをしまうというのも、考えなければならないものです。こんな、むずかしい注文に作家の方がどのくらい応えてくれるかわかりませんが、なんとか共同で開発したいと思っています。出来上がったらまた紹介しますが、いまのところ上と下の写真のようなものを作ってもらっています。ちょっとサイズが大きいですので、もう少しコンパクトなものにしたいような感じもあります。改良を重ねて、OKが出ましたら、納得のいく形で製品化したいと思います。山国からの発信・・・・どんなものができるか・・・でも、こういうことは楽しいですよ。大人でも楽しい。乞うご期待!です。 春には紹介できると思います。(ニュース増ページ一部閲覧)

子どもは本が好きか?!
G 読めなくては出会えない人生のヒント

なるべく影響を受けずに中学年の読書へ

 今月、来年度の配本プログラムが発送の会員には入ります。来店の会員は来月お渡しします。
 来年度の配本プログラムを作る際に苦慮したのは、前回も述べたように出版社の小刻みな出荷体制があります。でも、最大要因は、やはりブッククラブ内で一定のグレードの本がなかなか読めなくなっている子が出てきたことです。
 中学年で、この現象が顕著です。この原因は、お稽古事やお勉強で時間的にも心理的にも余裕がなくなったことでしょう。そうなれば息抜きにマンガやゲームをすることになります。読めなくなればグレードを落とすことになりますが、読書内容にまったく関心が持てなければ、いくらグレードを落としても読書離れの歯止めにはなりません。「本はたくさん読んだほうがいい!」と言ったって、くだらないものを百冊読むよりキチンとしたものを一冊読んだ方がいいのが読書なのですが・・・。ほんとうは子どもは本が好きなのですが、読み進められない状態や配本が溜まることがあれば中止も視野にお考えください。
 配本の中止は嫌かもしれませんが、子どもにとって読書が義務になったら、これはもう末期症状です。本は楽しく読めなくては本ではありません。楽しめるグレードは、それぞれ生育環境によって変わってきます。配本が積んでおく状態なら中止しないと、子どもは本自体が嫌いになってしまいます。ぜひ、そういうときは中止を視野に入れて、ご相談ください。

内容が無いよぉ・・・!

 良質な本を楽しく読めれば、しだいに言葉から何かを感じたり、理解したりできるようになるものです。ところが、内容の無いものは、いくら読んでもテーマや意味を感じ取ったり、わかったりすることができません。これでは読書力がつかないので、高度な本に向っていくことができなくなります。ところが、多くの子どもが好んで読む本というものは、内容が無いタイプのものが多いのです。しかし、こういう本も多くの学校図書館では何の選別もなく置かれています。
 まず、一人読みから始まって、じょじょに高度な本に移って行かなければならないのですが、何も知らない低学年の子は「これが読書だ」と思ってしまいかねません。読書は字を読むことではなく、内容を感じ取るものですから、やはり内容はすぐれたものでないと・・・。
 ゆめやの配本では高学年になると、かなり高度なものが並びます。この本を読むためにも低学年からじょじょに読む力をつけないと、読んでも作者が言いたいことがわからないという結果になりかねません。内容の無いものはいくら読んでも、そのときの拙劣な快感にすぎません。まあ、テレビのバラェティ番組のようなもので、こんなものでケラケラ笑っている人間にはなりたくないですね。

なぜ読む力が必要なのか

 読んでいくと、さまざまな力が身についてきます。本の中にはさまざまな人やいろいろな考えや生き方が描かれています。それを知れば、自分の中で、「あんな人間になりたくない」とか「こういう考えは嫌だ」「この生き方はステキだ」・・・などと、いろいろな思いが湧いてきます。自分の位置や他との違いが確認ができるようになるわけです。
 ところが誰が読んでも同じようにしか読めないものは、そうした確認ができないのです。そりゃあそうですよね。あまりにも物事がはっきりしすぎているわけですから、微妙な違いを感じ取ることはできません。
 そういうわけで、読む力がつかないと、せっかく人生の方向を決めたり、悩みを解決しようとするときに良い本と出会っても中身がわからないまま閉じてしまうことになります。つまり答と出会っても答だということが分らずじまいになってしまうわけです。もちろん自分の考えを形作ることができません。

ある程度の読書量がないと

 自分の考えが出てこないので、人の意見に流されてしまう傾向も出てきます。「最近の若者は・・・」とは言いたくないのですが、自分の頭で自分のことを考えられない青年が増えているように思います。その原因については、いままで山ほど述べてきましたが、何でもかんでもしてくれる家庭や学校という環境で育ち、自分で何かしたり、考えることが苦手になっていることです。
 就職や結婚について専門のインストラクターの手を借りる息子や娘をつくりたくないですよね。まあ、一冊もまともな本を読まなくても大学生になれる時代です。読書挫折しても、そんなに心配することはないかもしれません。でも、できれば、読書力はつけておきたいものです。すぐれた本には困ったときに頼りになる人生のヒントが書いてありますから・・・。であったときに意味が分らない、言っていることがわからないでは話にならないどころか、人生のヒントにもなりません。自殺者が多いですが、彼らがもう少し幅広く読書をしていたら決して自殺なんかしないと思いますよ。ケータイもネットも人生を助けてはくれませんからね。(新聞増頁一部閲覧)

一人読みから高度な読書へ
読みこなせる力を・・・

 溢れるビジュアルなメディアの中で、読書がむずかしい世の中ですが、やはり本を読むことは人間の品格を高めるうえで欠かせないと思うのです。小学校高学年から中学・高校、ここは感受性の鋭い時期ですから一番読書をしなければならないときです。でも日本の学校教育はこの時期になかなか読書ができないシステムがつくられています。それは、私たち親が経験してきたことでもありますよね。なぜなんでしょう。
 たしかに日本の教育は、識字率で世界レベルを作り出したかもしれませんが、大人の世界でも読書とは言えない写真週刊誌や漫画、HOW TO本しか読めないという悲しい現象も出ています。ゲームやアニメ映画の影響かもしれませんが、中・高校生ではサブカルチャー本という低劣な読み物さえ出現してきました。これらは本といっても似て非なるもので、やはり質の高いものへ読書をシフトさせたいと思うのです。読みこなす力は、かんたんにつくものではないからです。
 先日、近くの市の会社の人事部をやっている友人と話す機会がありました。彼は面接で学生に「最近、読んだ本は何か?」と聞いたのですが、学生の答で出た本を知らなかったので、どういう本か聞くとマンガの「ワンピース」というものだったので驚いた!と言うのです。私は「そんなことで驚いていたら、子どもの読書状況を見て目を丸くしますよ。」と言いました。まともな本なんか読んでいなくても大学にも入れますし、当然、学校の先生にもなれます。
 そういう人は昔から多いのですから、何もいちいち驚いていたらいけません。私は、そうでない子に関わりたいし、そんな面接で平気でマンガの名を挙げるような対応しかできない子どもなんか相手にしたくはありません。

小学校を終わっても・・・・

 だから、中学や高校でも文字通り「本物の」の本を読み続けていってもらいたいと思います。つまり、基本的な文学も含めて、思春期相応の読書をしてほしいのです。いつも言うように紙面があれば、その分野の本のリストを列記したものを掲載したいのですが、そういうわけにも行かないので、代表的な例を出しましょう。高学年の配本では組み入れられているものです。(ここから高度な読書への出発です。)
 まず「モモ」や「はてしない物語」。ファンタジーを通して現代の閉塞を打ち破る力を与えてくれる名作です。これは読んでほしい!です。この時期に触れる良質なファンタジーは、大人になってから生きる勇気の根本を形作ってくれるような気がします。次は「ホビットの冒険」。これは、あの「指輪物語」の前置き話。読んでおけば、壮大な指輪の物語が分かりやすいです。また、古代を舞台に繰り広げられる日本のファンタジー・「空色勾玉」も一歩先の高度な読書につながるものでしょう。目新しい現代的な背景を持つ「黄金の羅針盤」も読んでもらいたいシリーズです。これらの一部は配本の中にも入っていますが、続編を読んでもらいたいと思います。

歴史物は押さえておきたい

 この時期には、過去に実際に起きた話、歴史を考えられる話など実録物も多く読んでもらいたいです。南極探検の悲劇を描いた「エンデュアランス号大漂流」、戦争の恐ろしさを知る「悲劇の少女アンネ」、伊能忠敬の苦労を描いた「天と地を測った男」など。歴史的な感覚を養うことはとても重要なことです。現代の子どもが歴史がキライなのは受験の歴史が項目の暗記で物語を欠いているからです。歴史的なものの見方は、刹那的にならないためにも必要なものですが・・・歴史的感覚は塾の歴史の勉強でも学校の勉強でも身につきません。
 さらに、欠かせないのは、「少年少女古典文学」です。ここには、人間の知恵や考え方の基本が山のように詰まっています。これを読破していけばかなりの知恵が身につくはずです。そして、その知恵は成長過程での危険や災難から身を守ってくれる知恵になるはずです。
 例えば「ハイジ」・・・、多くの人は「知っている!知っている。あの話だろ。」ですが、原作を読んだことはありますか?たしかにテレビ・アニメでも知っている話で、数ページの絵本でも出回っている物語ですが、じつは、これ五百ページからなる感動的な名作。感受性の強い中学生が読むべき本でもあります。
 とにかく、情報文化の異常な発達で「心」が危険にさらされている時代です。読書で心の劣化を防ぐ・・・これは、これからの時代、成長のために重要なひとつの手段なのではないでしょうか。ケータイ検索から得た知識などすぐ消えるものです。やはり、じっくり、しっかり読んで、消えない強い心を作りたいです。(新聞一部閲覧)



(2011年2月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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