ブッククラブニュース
平成23年8月号新聞一部閲覧 追加分

訪れてみたい絵本美術館・2

B小淵沢絵本美術館

 小淵沢周辺にはとくに絵本美術館が多い。この辺は立秋ともなれば、文字通り秋風が立つ。青い空の下を流れる高原の風を吸い込みながらめぐる美術館もまた豊かな時間をもたらしてくれると思う。
 まず小淵沢美術館。静かな田園の中にある落ち着いたたたずまいの美術館だ。エロール・ルカインの原画が常設されている。ルカインの絵本は個性的な絵で、配本には入れにくい物語が多いのだが、それだけに独自性のある絵はすばらしい。一度は見ておくのをお薦めする。
 山梨県北杜市小淵沢町上笹尾3331-441
 中央自動車道小淵沢I.C.から車で5分 電話0551(36)5717

Cフィリア美術館

 保養施設のリゾナーレからすぐのフィリア美術館。ここもなかなか静かなたたずまいで、ゆったりとした時間が流れている。八月に訪れたい理由は、ここがアウシュビッツにまつわる常設展示をしているからだ。「ケーテ・コルヴィッツ」「ミエチスラフ・コシチエルニアク」のアウシュビッツ関連の絵が展示されている。今年8月の企画展は、「森のきのこ・・・」菌類を描く小林路子さんの絵画展である。ちなみに、絵本専門店ゆめやの看板はこのフィリア美術館のすぐ隣にある大原木彫工芸館の館長が彫ったもの。手彫りの一品があるので、ここもご覧になることをお勧めする。
 山梨県北杜市小淵沢町上笹尾3476-76
 電話 0551-36-4221 水曜定休

Dくんぺい童話館

 ここは、早逝された絵本画家・東君平さんの美術館。奥様がやってますが、奥様は赤毛のアン大好きの方で、室内は、まさに赤毛のアンの部屋風。東君平さんの絵本はブッククラブでは「くろねこかあさん」が配本に入っているが、単純なモノクロの切り絵風の絵は知っている方も多いのではないかと思う。それにしても、東君平さんは46歳の若さでお亡くなりになりました。不幸な少年時代、不遇の青年時代を越えて、ようやく作家として認められたのに、早い死でしたね。緑多い森の中で、コミカルな作品を見ながら、  山梨県北杜市小淵沢町上笹尾 3332-930 0551-36-5371(八月中は無休)

E作家・杉山亮さんの自宅

 美術館ではありませんが、ここまで来たら、作家の杉山亮さんの自宅で毎年恒例の「おはなし会」に参加してみるのも妙案。小淵沢アウトレットの北側にある森の中にご自宅があります。もちろん、個人宅で行なわれるおはなし会ですから予約は必要です。人気が高いので日本国中(外国も?)から聴衆が来ますので、必ず予約をお願いします。
 昼間でしたら、アウトレットの一番上(北側)の駐車場に車を置いて歩いて行かれます。杉山さん宅では駐車は6台までです。
 八月一日(月)〜三十日(火)までの水曜日をのぞく毎日。午後一時からと二時半からの二回。各回四十分くらい。参加費・小学生以上一人五百円。

夏のおばけ話ライブ

 これも恒例のお化け話ライブ。ろうそくをつけてこわい話を語ります。八月六日、十一日、十二日、十三日、十四日、十五日、二十日、二十七日、二十八日、二十九日。
 午後八時から四十分くらい。参加費・小学生以上一人五百円。
 場所はひじょうに分かりづらいところなので、(車でないと行かれません)下記にお問い合わせください。ゆめやの来店会員の方は当店で地図をご案内できますが、まずは予約を取ってからですので、ファックスか電話でお確かめください。・・・・FAX0551-36-5566 TEL0551-36-5566
 杉山亮さん・・・BC配本では「空を飛んだポチ」の作者です。あと、「ドラキュラ」「青空晴之助」「用寛さん」なども配本に入っています。

読み聞かせから読書へ・・・そして・・・
C系統的に読み聞かせると

「良い本」よりは「応じた本」を・・・

 配本を数年受けている会員なら、配本の体系が発達に応じているものだと感じられることは多いと思います。それに、3歳半くらいからは、配本もそれなりに高度になっていって、系統的に読み聞かせてさえいれば、じゅうぶん、そういう高度な内容もわかってくる、楽しめるということもご理解いただけると思います。
 子どもの本が大人の本と大きくちがう点は、この「段階を追って系統的に読み聞かせる」という点です。いくら内容的に優れていても読み聞かせる年齢(極端にいえば月齢)が違えば、子どもには内容が不適ということもあります。
 ただ、ここで困るのが(ほんとうは子どもが生き抜く能力でもあるのですが)子どもは受け入れる力が大きく、何でも受容してしまうことです。とにかく、一番大好きなお母さんが快く読んでくれるのですから、何でも聞く。聞けば、その内容を年齢なりに受け入れます。

たとえば「はらぺこあおむし」

 1歳児は、この発色のよさと穴の開いたしかけの部分に反応します。あるいは果物などの食べ物のところに関心が向きますが、火曜日から水曜日に進むなどという時間を示す部分には興味が出ません。もっとも3歳児でも時間観念は希薄ですから、そこは頭の中では飛ばしています。でも、確実に何かを受け入れます。その年齢なりの何かを・・・「良い本」かもしれませんが、1歳児には不適当で年齢に「応じた本」ではないということでしょう。もちろん、「子どもは内容になんか頓着しないから、何でもどんどん読み聞かせてもかまわないだろう」という意見もあります。1歳の愛子様もお気に入りの本でしたが、やはり1歳児は1歳児なりの見方しかできないことに変わりはありません。

この逆

 この逆も当然あります。4歳児に「おつきさまこんばんは」なんて与えたら、物足らないどころの話ではないでしょう。これは1歳児の本だからです。ところが、子どもに受容力があることをいいことに、世間一般では平気で成長に合わない本を選んだ読み聞かせイベントが山のように開かれています。困ったものです。こういうことが、最終的に一人で本を読む力を壊してしまうこともあるのです。もちろん、読み聞かせおばさんたちは、そのときだけの反応があれば大喜びですが、子どもはどんどん内容のあるものを聞き、やがて読んでいくわけです。「そこまで視野に入れて読み聞かせて!」と言ったところで彼女らには無理な話ですが・・・・・。まあ、そういうのはこちら側としては適当に付き合って家庭ではきちんと読んであげてください。

一般的な状態は・・・・

 子どもたちの一般的な状態は絵本などに向かっていません。だから、「いろいろ言わず、なんでもかんでも読み聞かせればいいではないか」という意見もあります。一般では子どもにいわゆるきちんとした絵本の読み聞かせなどしない家庭も多く、「子どもに与える本など戦隊ヒーローものやプリキュアのようなもの」と思っている親もたくさんいるからです。ブッククラブ内部では起きていない現象ですが、通常ブッククラブで配本されるような本にまったく関心を示さない子が4歳くらいで多くなるといいます。園などでの子どもの周囲の話題はアニメものなどですから子どもが最初に本離れする時期は4歳ということなのでしょう。次は漫画、ゲームなどが原因で8歳、さらにお稽古事、学習などの影響で11歳あたり。これが幼少年期で本から離れる3つの時期です。ドロップアウトは、ブッククラブ内では8歳が多く、あまり4歳や11歳では本離れは起きていません。でも、一般での関心低下の原因は、あきらかにテレビのアニメもの、キャラクターブック、戦隊もの、関心の高い分野の図鑑漬けなどが原因です。親が忙しくて子どもの周辺に目が配れなくなっていること、子どもに本を与えないのは親自身もサブカル世代で本など読んでこなかったことなども遠因になっています。

選書の意味が分からない親

 ブッククラブ配本は、それなりの年齢対応、性差、生まれ月対応など選書していますが、選ぶということはグチャグチャある物の中から適切なものを選ぶことです。戦隊ものをブッククラブ選書に入れている児童書専門店はありえませんが、それを受け取っている親が連れてきた子が戦隊ヒーローの靴を履いていたり、ディズニーのバッグを持っていたり、アンパンマンのリュックサックを背負っていたりすると、いったい何のために絵本を選ぶのだろうと思うことがしばしばあります。もちろん、そういうことはおかしいとは言いますが、「ヤメロ!」とはいえません。それなりの成長が先にあるわけで、そういうこともまたしかたのないことです。

自然に読書ができれば・・・

 しかし、成長に合うかたちで系統的に読み聞かせをしたばあい、かなりの高率で高度な本が読めるようになるのも事実です。もっとも絵本の質が低ければ、系統的に読み聞かせていってもダメですが、質を落とさずに読み聞かせていけば、6割〜7割の子が、いわゆるその学年に応じた、あるいはそれ以上のレベルの本を読んでいくことができるのです。
 現代では、まともな本を一冊も読んでこなくても大学生になれる時代です。本を読まずしては自分の考えも深まらず、人とまともに話もできないようでは困りますよね。なによりも想像力や相手を思う気持ちも出てきません。平気で恐ろしいことが言えたり、悲しい目にあっている人を思いやる気持ちがなければ、大人になったとはいえません。それも、これも小さいうちからの積み重ね・・・初めは親の読み聞かせからです。電子書籍が子どもに不適な理由Bは次回で。

読書の意味 大震災から学んだこと
C仕組みが見えてきた

サブカル社会について、あるお母さんとの会話

 節電で少々暑い店内、長いお付き合いの会員のお母さんと冷茶を飲みながら話していた。
 「この間のゆめやのニュースに『この国がわからなくなった』というようなことを書いてましたよね。」・・・たしかに二度ばかり書いていた。
 「でも、本当はわかっているんじゃないですか。」「いいえ、政治家の言葉や行動も、震災や原発事故についてのみんなの反応も・・・・私が思っているようなものでなくて・・・なんだかチグハグ・・・ほんとにわからない話です。」
 「そうかなぁ。・・・だって、これまで、ずっとこういうふうになるって言ってきたんじゃありませんか。」「・・・??? 何を?」
 「だって、サブカルチャーの影響を受けると、こうなるって、ずっと書いてましたよね。言うこととやることはてんでバラバラになるとか、なんでもありの世の中になるとか、リセットできると思っているとか・・・次々に物事が起こるから、どんどん忘れていくとか・・・」
 「たしかに、私はメディアやサブカルチャーがかなり私たちの精神をおかしくしてしまうと思っていますよ。でも・・・」「そのサブカル的な思考が、ここ数年で世の中全体に行き渡って、こうなったのではないでしょうか。みんなの頭がサブカルチャー的になってしまったということで・・・つまり、他人事にしか見ないとか感じないとか、現実としてとらえないとかゲーム感覚でいるとか、自分は当事者じゃないって思っている、という感じですか、ね。」
 「なるほど・・・・そういうことはずっと、この二十年くらい書いてきました・・・。」
 「いままでは、どこかで、大人や指導的な立場の人には常識が残っていると思っていたのが、最近になって、そういうものがじつは消えてしまっていて、おかしな人ばかり前面に出てきてしまったのですかね。」
 「もう、ウルトラマン世代が50歳を越えているのですよ。正義は最後は勝つという幻想を持っているような・・・。」

世界は自分と関係のない

 私自身が、自分で言っていたくせに実際にそういう世の中になってしまうと、逆に「わからなくなる」ということなのか。テレビでは、昨日は「未曾有の国難」と言っていたのに、今日は「ナデシコ・ジャパンの快挙」となる。国会では「東北大震災が地震兵器によって引き起こされたものだ」などと言うトンデモナイ質疑応答まで出る。放射能漏れ事故でも外見はみんな恐れていない。恐れていないというより、知ろうとしない、見ないようにする・・・そういうことで心理的恐怖から逃れようとしている人たちもいることもわかった。知らなければ、見なければ怖くない。現実に起こる困った物事を先送りして逃れようというのがサブカルチャーの基本である。「だって、現実ではなくて仮想感覚だもん!」・・・つまり世界は自分とは関係ないというのがサブカルチャーの本質なのだから、こうなればサブカル人間たちは被災地を半分は観光対象のように見ているのではないか。どのくらい悲劇的か見てやろう、といった風な・・・とにかく世界は自分とは関係ないのである。サブカル人間は、嫌なこと、悲劇的なことを体験するのを意識的に避け、快いこと、ハッピーになれる感覚だけを大事にする。真にリアルなものを見ようとしないのである。「福島」については事実報道が少ないメディアが「中国高速鉄道事故」をすごく批判するのは、矛先を別に向けることでリアリティをなくす役割なのかもしれない。
 つまりは、メディアは事実を報道するために正確な情報を流すと思われがちだが、そこには理念も基準もないためにバラバラの事象しか伝えられないのである。見えないものの中に真相や真実が隠されているのだが、論理的に見ることができないメディアは核心を読むことすらできないでいる。それを見る我々はさらに核心が見えなくなる。

見えないけれどあるんだよ

 で、この春から私があまり読んでこなかった世界(地震や津波、あるいは原子力)についての本をかなり読んで、この国の仕組みがおぼろげながらだけれども分かってきた。もちろん、多くはすでに読んだ本の中から予測できたが、原子力については知らないことばかりだった。こういうことはメディアや学校の教科書からはまったく学べない。メディアは急に原発のことを言い出したけれど、なぜか、これまで触れては来なかったのだ。学校の教科書は、「原発は危険だ」と教えることすらできなかった。しかし、本の中には、すべてがきちんと書かれていた。びっくりするくらいに。これは五月号ニュースで取り上げたが、「地震と原子力発電所」という本はまさに今回の事故を想定できていたし、
 たとえば、先日、お亡くなりになった小松左京さんの「日本沈没」は、四月号ニュースで「震災に対する予測や予言がきちんと書かれている」と取り上げたが、原子力関係の書籍は、さらに目から鱗だった。一般で知られていることなどは、ほとんどがウソで(しだいに、ボロボロ事実も出てきているが・・・)政府や電力会社が巧妙に隠してきたことがきちんと書かれている。映像では、このカラクリや仕組みはつかめない。つまり、メディアを基にして自分の考えを作ったら、かんたんに騙されてしまうということも分かったのである。
 しかし、事実や真実を述べる側はいつでも力が弱い。ウソを言う側は欲が深いから力も強い。平気でメディアの論調を変える圧力をかけられるし、教科書を書き変えさせることぐらい屁の河童である。やはり、我々は自ら、きちんと真実が書かれた本を探して読むことが大切になってくる。ウソのない国、巨悪が存在しない国なら子どもたちは、本など読まなくてもいいと思うが、どうやら、この国はそうでないことが見えてきた。見えてきたのが遅いといえば遅いけれども、あの日以後の日本はあの日以前の日本といやがおうにも違ってくるはずだから、それも子どもたちは見据えていく必要はあると思う。我々をゴマカしているのはオレオレ詐欺の悪人たちのような人々だけではなく、学校教育が「立派」と折り紙をつけた人の中にもいることを教えたいものだ。オレオレ詐欺は命までは奪わないが、立派な人々は国民の命など羽毛のように軽いと思っている。



(2011年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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