ブッククラブニュース
平成23年10月号(発達年齢ブッククラブ)

今年は「国際森林年」だったらしい

 山梨県は山ばかりの国です。周囲には3000m級の山なみが連なります。おかげで台風が通ってもたいして風も吹かず、雨もそこそこ。ブトウやモモも良く育ちます。山が多いということは林や森も多いということで、ちょっと入れば雑木林、もっと入れば深い森、さらに青木ヶ原樹海なんて入ったら出てこられないようなスゴい森もあります。
 しかし、御多分に洩れず(他の森林がある県と同じように)、森が荒れているのです。だから、熊が出たり、猿が出たり、イノシシが出たり、大変です。夏には、ブッククラブ会員で林業をされている佐藤さんという方が、ゆめやの後ろにある昇仙峡の奥でツキノワグマに襲われて大ケガをしました。話を聞くと、熊に噛まれたのですが、何と熊をハガイ絞めして鼻に何発も拳骨を食らわしたら、熊が逃げて行ったそうです。冷静沈着に加えて勇敢さを発揮したから助かったのでしょうが、熊が噛まずに手で殴ってきたらその力でダメだったかもしれないということでした。こわっ!
 町に近い里山でも熊の警報が出ますし、私の散歩コースも山際ですので注意報も出ます・・・山梨の山際の(ほとんど山際)小学校では、熊対策、サル対策が小学生に教えられているようです。北杜市明野町の会員の話では、通学のためにカウベルのような音の出る鈴を生徒に六年間貸与するところもあるそうです。

森が荒れる

 なぜ熊が下りてくるのか、サルが町まで来るのか、それは森が豊かではないからです。里山に人が入らなくなり、間伐もしなければ、下草も刈らない・・・林業が衰退したことによる森の荒れ。ナラにもブナにもドングリがつかなり、動物の食物が激減しているから食料を求めて山から下りてくるわけです。
 森は手を入れなければ荒れて植生や生態系が崩れます。間伐は重要な仕事ですが、伐採に従事する人は激減してしまいました。安い外国産の材木が輸入されて国内の木材利用がなくなったので林業が発展しないのです。儲けることが先決の国の政策は国土をダメにしていくというわけです。地産地消どころか国産国消ができなくなっている事実があります。経済成長のためなら、なんでもする。公共工事で森を破壊し、山を生かせない政策。山梨県も貧乏県にありがちな箱物造りで、なかなか森が生かせません。海がないので原発の誘致こそできませんでしたが、歴代の知事の仕事がコンクリート至上主義の公共工事ということから見れば、もしこの県に海があれば、原発が立ち並んだことは間違いないでしょう。今でも原発は、かつて貧しかった県に集中しています。山梨は原発こそないですが、リニアを始め環境破壊を伴う工事も多いです。美しい森や正常な生態系を子や孫の世代に残したいのですが、「今儲かれば先のことはどうでもいい」という風潮が官民挙げて強くて大変です。今年は国際森林年・・・そんな荒れる自然を保全に向ける年でもあります。

本→紙→パルプ→森

 本屋は「本(もと)」を正せば森の恵みを受けています。紙は木からできますからね。本は、レアアース(希土類)や核物質は使いません。だから、紙を消費する本屋は、森を大切にしなければいけないと思ってきました。
 国際森林年の今年、どうやら、その機会がめぐってきたようです。山梨プロデュースで固める企画を練っている甲府のNPO法人「つなぐ」の駒井さんと出会い、南アルプス市の木の玩具工房メイフラワーズの柴田さんを紹介され、どこの間伐材を使うのかお尋ねしましたら、山梨市の飯島製材所(木材チップでペレットを作るなど環境保全を重視している企業)・・・何とぐるぐる回ったら元はブッククラブの長い長い会員の方の飯島さんまで輪がつながりました。これでいけば、オール山梨プロデュースが成り立ちます。そこで、早速企画が始まったのですが、何と震災勃発! 遅々として実現ならず、出発が遅れてしまいました。「いつ発売ですか?」と催促まで受ける始末でゴメンナサイ。

石油製品から抜け出すために

 遊びも含めて現代の子どもたちは自然との接点がないといわれます。プラスチック全盛・・・そろそろ石油からの脱却も図らなければならないでしょうね。
 近年、若いお母さんの間でも「森の幼稚園」が人気になっています。想定外のことが起こる時代になってきたわけで、人間が作った環境の中だけではなく自然の中に戻ることで身体感覚が育つということなのでしょう。こういうことは若いお母さんのほうが時代を読むのに鋭敏で、行政などにぶら下がって子育て活動をする世代から抜け出して、自主的な活動で子育てを考える人たちが増えてきました。五十代のお母さん方などは、旧態依然の学歴主義しか持たず子どもをとにかく上の学校に進めることばかりが子育てでしたが、いまや大学を出ても仕事はなく、大変なのです。それが分からず相変わらず昔の価値観でいけば、こりゃあもう子ども世代も崩れていきますよね。それを感じて、若いお母さんの中に自然主義的な子育てが始まっているのかもしれません。森の幼稚園も国際NGO森林管理協議会(FSC)も森の国ドイツが発祥。消費しつくす社会ではなく、森を大切にするドイツの考え方に倣って、持続可能な世の中に一歩でも近づけたいではありませんか。
 化石燃料から抽出される製品は、たしかに便利で廉価ですがゴミになります。燃やせば公害が発生します。さらなる悪循環は大量消費につながってしまうのです。これはなんとかしなければならならい。地から生まれたものは地に戻る・・・この考え方はもともと仏教的な考え方でもあるのです。それが、どういうわけか、とくに戦後は、アメリカの実用主義、大量消費主義の台頭で日本も自然保護より、より儲かる石油製品の製造にシフトしてしまいました。

何が森をダメにしたのか!?

 日本も、もう一度、脱原発と自然資源保護でドイツとイタリアと同盟して大量消費国家と戦って・・・あ、それは冗談、冗談・・・戦争こそ最大の大量消費ですからね。これは絶対にいけません。
 それにしても話は脱線しますが、戦争と言えば、第二次世界大戦は植民地を持つ国と持たない国の戦いでしたよね。で、植民地を持つ国が勝ちました。負けたのは楽劇(ドイツ)やオペラ(イタリア)や歌舞伎(日本)という歌劇を持つ国でした。たしかに歌劇を持つ国は過激に戦いましたが負けた。文化を持った国が欲の深い国に負けたともいえます。それはそれでいいのですが、植民地を持つ国が勝ったことは正しかったのかどうか・・・戦後の世界は、その植民地を持っていた国同士の物資の争奪戦で、それが結果的には現代において大量消費につながっています。日本もアメリカに倣って、そっち側についてしまいました。木材ひとつ取っても植民地だった低開発国の森林は大国に買い叩かれ、森の面積は激減しています。アマゾン流域の熱帯雨林がおそろしい勢いで消えているのを知っていますか。そして、その安い外国産の材木が幅を利かせたため日本やアメリカ、カナダなどの森は逆に荒れ始めました

偶然にもFSCのシンポが甲府で

 さて、日本ではFSC森林管理認証の森の38%が山梨にあるのです。恩賜林面積も大きいため、まさに森の県と言っても過言ではないでしょう。そういうことから、先月11日に甲府でFSCのシンポジウム(サミット)が開催されました。そして何と国際NGO森林管理協議会事務局長のアンドレ・で・フレイタス氏も來県し、「森林環境への日本の消費者の意識は低い。今後、日本市場でのFSC認証木材製品のキャンペインのサポートをしていく」というコメントを出しました。
 これは応じなければならない環境の問題であり、森の国に住む人間としての義務のようにも思えます。間伐をどうするか、間伐材をどう使うか。この要請に応じたのが「オール山梨プロデュース」の間伐材を使った木の玩具なのです。
 木の玩具の概要は6月号ニュースで書きましたが、発売は十一月からとなります。発達段階に応じたものを6点製作していただいています。皆様の信頼を得るために納得のいくものを製品化するつもりです。もちろん「箱物」のアイテムもあります。こちらは箱物造りではなく箱物作りですが・・・ギフトも含めて、ぜひ長くご利用くださいませ。価格的には一般の高価な木のおもちゃにくらべてはるかに廉価な値をつけました。

クロノスに追われて

 秋の日は釣瓶(つるべ)落としだ。こういうニュースやお便りを発行していると、すぐ次の月になってしまう。私は資料を読むのが遅いし、文章を書くのも遅い。さらに、手描きのカットも入れなければならない(面倒だから後ろ姿ばかり)ので時間が取られて、すぐ次の号を書くことになる感じ。分業すれば合理的に仕事ができるかもしれないが、全部、仕事は女房と二人でやっているので、分業といっても二分の一以上には分けられない。 
 ゆめやの規模が大きくならない理由のひとつが分業できないというところにある。とにかく子どもの本屋というのは能率の悪い仕事で、ネットで受注して配送するなどということは活字を扱うものとしてできない。顧客とのコミュニケーションも緊急時以外はメールではなく郵便やFAXで血の通ったものにしなければならない。切手代、電話代はかかる。まことに前現代的なことをやらなければならないのである。こうなると時間がいくらあっても足りない。
 しかも一ヶ月単位で繰り返される仕事だから、とにかくヒマが出てこない。在宅労働なので、仕事と同時に家庭のこともしなければならない。窓にはゴーヤを這わせて、枯れたら始末。来店客に殺風景な店は見せられないので四季のガーデニング、扇風機を出しては引っ込め、暖房機を出して片付け、分業もただの二分の一。まさに柴を刈るおじいさんと洗濯をするおばあさんで、ここで上流から桃太郎が流れて来たら大変なことになってしまう。とても桃太郎の面倒を見ることなどできないから、ロクな桃太郎はできず、鬼が島も征伐できずに戻ってくるような状態になるだろう。しかし、幸い?我が家は女の子二人で、我々はかぐや姫のおじいさん、おばあさんと同じ。せっかく育てても月の世界に嫁に行ってしまったが、まあ、これだけ儲からない仕事を後継ぎでやらせるのも酷なものなので、せいぜいゆったりとした人生を別世界で送ってもらうのも子育ての結果でもある。

九十日の民

 こういうグチをコボすと「そんなことは、どこの家だって同じだ!」と言われそうだ。召使いがいて、掃除、洗濯、手入れを行なっている家なら別だが、たいていの家は家族だけ。まだまだ、ロボットもロクでもないものばかりしかできていないので、自動掃除ロボットくらいで、まず、ほとんど役に立たない。召使もロボットも金がかかる。みんな自分でするよりない。皆さんだって、手のかかる子どもがいて、休みとなればどこかに連れて行かねばならないし、夏なら海水浴、秋なら行楽と学校や園の行事に追い回されるだろう。人によってはたまには実家に帰省することもしなくてはならない。このために道路は渋滞し、列車も飛行機も混む。日本という国はじつに忙しいのだ。
 この状態をよくよく分析すると、だいたい90日周期で時間に追われていることがわかってくる。扇風機を出すのもコタツを立てるのも部屋を片付けるのもほとんどが四季折々、つまり365日を四つに分けたサイクルで回る。そして、私たちはけっこう几帳面に次々に物事をこなしていく。「すべてはアラーの思し召し」などとは思わないし、一年中、のんびり暮らす南国の生活もしない。勤勉といえば勤勉である。しかし、それは時間に追い掛け回されている勤勉でもある。これを、昔、「日本人とユダヤ人」を書いたイザヤ・ベンタサンが「九十日の民」と名づけた。けだし、適切な形容である。忙しく働く日本人、めまぐるしく生活する日本人、勤勉と言えば勤勉、後も先も考えずひたすら生活に追われる日本人・・・90日周期で繰り返される多忙・・・確かに勤勉だが、その中ですべてを忘れ去る勤勉でもある。

時という怪物

 時間とは人間を追い掛け回して食べてしまうクロノスという怪物だと西洋人は言う。このクロノス時計のクロックの語源でもあるし、時間が経過したものはクロニクル。人生もクロニクル(年代記)だ。
 日本のように時間に追い掛け回されている民は、「何事も過ぎてしまえば何とかなる」という習性が身につく。台風一過・・・喉もと過ぎれば暑さを忘れる・・・問題は全部先送り・・・過ぎてしまえば何とかなる・・・しかし、ほんとうにそうだろうか。たしかに自然はそうかもしれない。暑さ寒さも彼岸まで・・・しかし、子育ても家庭生活も時間に追い掛け回されて、何一つ充実しないで過ぎ行くままだったら、どうなるのだろう。子どもと一緒に過ごせる時間など人生ではわずかなものなのに・・・・。「忙しい」、「忙しい」、「時間がない」、「時間がない」と言うが、それは時間を浪費している忙しさにすぎず、じっくり、ゆっくり時間を楽しみ、考え、あるいは苦しみ、またあるいは喜ぶということすら忘れたものなのではないか。昔のように大家族制なら子どもも身近に暮らし、孫の相手をしながら長い時間を楽しめるが、現代は人生もあわただしく過ぎていく。親が人生を楽しもうとすると、どこかでクロノスに追いかけられて、やがて人生そのものを食べられてしまうことにはならないだろうか。
 この国の豊かさは大きな借金を返しもしないで先送りして、我慢もしないで消費していく脳天気さに支えられている。すべてを先送りしていったとき最後に何がやってくるのだろうか。想像したくはないが、確実に子どもの世代には降りかかってくる負担。遠い未来の話ではない。でも先送り、先送り・・・嫌なことは先に送ればいい?? 日本人は、嫌なことは水に流し、目先の繁栄のためには未来さえ担保にいれる人種になりさがっている。汚染水は水に流したら大変だし、国債は先送りしたら破綻しか待っていないが、それでも勤勉、多忙・・・の中で、何事にも無関心。
 でもね、ふくらんでいく借金を横目に公共事業の無駄遣いを認めている国民では無理でしょうね。失敗したら国民負担では・・・たまらないのですが、この国はすべてが他人事になりつつあります。



(2011年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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