ブッククラブニュース
平成23年10月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのポイント
C3歳児の絵本は大人でもおもしろい

 前回述べたように三歳になると話を聞く集中力が増してきます。ストーリーをつかむ力もおどろくべき速さになります。これに親はびっくりします。物語の把握の力におどろき、記憶のスピードにおどろき、「うーん!これなら大量に読み聞かせればどんどん覚えるのではないか」と思ったりします。「読み聞かせは親子の楽しい時間」というこれまでの意識から「これは知力アップできそうだぞ!」に変わる親も出てきます。このため図書館へ行って毎回十数冊も借りてきて、次から次へ読み聞かせる親も出てきます。また、子どもが気まぐれに何か興味を持つと、その分野の本をやたらと集めたり、関連の物を買い与えたりする親も出てきます。「這えば立て! 立てば歩め!の親心」はここでも生きていますが、すくなくとも私の経験上、そういうものが効果をあげた例を見たことがありません。中には天才も出ているかもしれませんが、半月も経てば内容を忘れていくのがふつうです。記憶のスピードがオウム返し的なので、見かけのすごさに親はおどろきますが、数冊を何度も読み聞かせるほうがずっとしみこむものです。
 ま、個人的な話ですが、私の遺伝子がふつうのうえ、たいした家庭環境がないですから子どもを天才にする気持ちはまったくありませんでした。天才はつくろうとしてできるものではなく、それこそ特殊な遺伝子のなせる業です。天才は「やめろ!」と言ってもどんどんやってしまいますから、じつは手助けなど不要なのです。

その時期に応じた本を

 成長に合わない本より、その時期に応じた本を与えたほうが、ずっと効果的です。配本は3歳児の標準にあわせていますが、ふつう一般のお子さんが与えられる雑多なグレードの絵本ではなく、一応、発達段階にあわせています。ですからあまり発達不対応の本を与えずに、現在配本された本を、これまでの本と合わせて何度も読んであげてください。その量でじゅうぶんだと思います。「人よりたくさん与えれば優秀になる」という幻想は捨てたほうがいいと思います(笑)。絵本はもともと、そういう性格のものではなく、何度も同じ本を
 読んであげることで、子どもたちは深いところで内容がわかってくるものです。ここが大人の本と決定的に違うことなのでしょうね。
 さて、この時期からひじょうにはっきりした形で性差が出てきます。配本のパターンも男の子と女の子で大幅に変えてありますが、極端に性差を強調するような本は選んでいません。「ももたろう」は男の子の本と思われがちですが、男の子に入れたり、女の子にも入れたりします。全員というわけではありませんが・・・・「ぼくにげちゃうよ」などは男女ともに入れてありますので楽しんでくださればありがたいです。ジェンダーフリー主義者の方は、目の色を変えて「性差別」に触れますが、ゆめやの配本レベルのものにではなく、男子強調の「戦隊もの」や女子強調の「プリキュア」ものに攻撃の先を向けてもらいたいものだと思っています。

弟妹への読み聞かせ

 子どもが三歳くらいになると下にお子さんが生まれる方も多いかと思います。もちろん何年か離れて生まれたばあいも年子のばあいも大変です。家庭それぞれ生活リズムがあり、同時いっしょに読み聞かせることが多くなります。なかなか下の子には発達に対応したものが読み聞かせられないこともあります。下の子は、とかく背伸びしがちで兄姉の本を読みたがります。我が家は年子でしたが、ブッククラブには三つ子(←写真)に読み聞かせているご家庭もありますし、やはり子どもが増えれば大変忙しいことになります。でも、ある意味楽しい面もあるのです。
 一人の子どもしかいなくて、それなのに「読み聞かせが毎日できない」とか、「読み聞かせ時間を長く取れない」という人もけっこういますが、その忙しさ?はただの時間の浪費・・・目が子どもに向いていず、自分のことだけしか(友人と食事にいきたいとか、息抜きに趣味をやりたいとか)なのではないでしょうか。
 弟妹への読み聞かせの対策は家庭により異なります。適切な対策はないかもしれません。ご主人が分担で読み聞かせをしてくれる家庭、祖父母らが読み聞かせをしてくれる家庭なら、時間差で上の子、下の子に読み聞かせの時間を別々に取ることができます。でも、核家族の家庭も多いですよね。なかなか別々に時間を取ることはむずかしいです。では、弟妹に読み聞かせるポイントを三つ挙げます。
 @上の子と下の子は時間差をつける。上の子が園に行っているときに下の子を読む。下の子なら短時間読みが可能。
 A分担して読む。上の子、下の子をそれぞれ親や家族が分担して別々に読む。
 B同じ時間の交互に読み聞かせる。できるだけ、下の子には下の子に合う年齢・月齢の本を選んで一緒に読む。
 あまり良い知恵は浮かばないのですが、3歳くらいになれば寝るときに読み聞かせの時間はシフトしてくるでしょう。あまり周辺の情報に左右されず、お子さんと絵本を楽しむ時間を広げていただきたいと思います。

読み聞かせから読書へ・・・そして・・・
Eサブカルの入り込みは避けられないが・・・

白旗を揚げましたが・・・

 すでに就学児ブッククラブの新聞で、「サブカルの浸透を防ぎきれない」と私は白旗を揚げています。一昨年の五月の記事でサブカルとの「最後の戦い」を書いたのですけれど、急速に何でも入れていく世の中の流れに勝てるわけはなく、ついに白旗を揚げざるをえなくなったというわけです。どういうわけかほとんど誰もこの危険を指摘しませんが・・・。
 もちろん、すでに多くの子どもは極端に言えば生まれたときからサブカルチュアに囲まれ、2歳でケータイをいじり、3歳でテレビのコントローラーを操作し、親が意識しなければ、そりゃあもう園からも友人間からポケモンは入るわ、プリキュアは入るわ、アンパンマンもディズニーも・・・とにかく、もう親自身がそれで育ってしまったわけですから拒否反応がないわけです。
 これまでサブカルチャーについての警戒をかなり長い間(三十年間も)述べてきましたが、もはや至るところでアニメもゲームもマンガもサブカル本も・・・そりゃあ凄い勢いで市場を占め始めて、家庭に入り込むのを防ぐというのはもはや無理というものです。テレビも平気で「おバカ番組」を垂れ流し続けていますから、末期症状です。もちろん、家庭がそれを防ぐことはできますが、日本の多くの親は「子どもがみんなと同じでないとノケモノにされるとかイジメられる」といった恐怖心を持ちますから、与えてしまいます。

どのくらい避けられるかが決め手になる

 ケータイも多機能化してそこからどんどんサブカルが入って来る。スマートフォン、i-padなどになれば、その中で自由に動き回るのがサブカルチャーだから、こういうものも「便利」「娯楽」を建前に家庭の中に入って来て、もう防ぎきれないというわけです。第一、お父さん自身がそんなおもちゃの虜(とりこ)になっていたり、お母さんだってネットゲームに現(うつつ)を抜かす家庭だって出てきていますものね。ライフスタイルからアナログは追いやられ、デジタルが支配する。いずれ、人の心もデジタルになっていくことでしょう。ま、心が壊れるわけです。
 まず、その特徴は、「大人になっても子どもっぽい」「頭が大人にならない」というものです。ひどいばあいは「精神病にもなる」し、少なくとも依存症になります。どのくらい避けられるか。じつは放射能と同じで、幼児期のほうが強い影響があり、大きくなってからの影響は少ないとも言われています。因果関係がわからないから誰も何とも言わないが、一個の家庭で、子どもが影響を受けて育ったら大変。何もかも壊れていきますからね。親がキチンと考えて子どもに教えていかないとアブナイ結果となるでしょう。

園も学校もどんどん受け入れていく

 おそらく学校でも電子黒板や電子教科書内でアニメもどんどん使うだろうし、ゲーム的展開は当たり前のものになるでしょう。人の心の壊れなどどうでもよくなっていますから、多くは「子どもが喜べば何でもよい」ということで無差別な受け入れになっていきます。この国の人々は事の良し悪しより、世の中の流れに乗ることが生きるうえでベストなことだと思っていますからね。学校も例外ではありません。でも、想定外のことが起き始めた現代、自分の子どもがそれでいけるかどうかは結果が決めることになるだろうと思います。
 ただねぇ、このサブカルも放射能と同じで「ただちに心や行動に影響が出るものではない」のです。現代は、すぐに影響が出ないが、やがて致命的になるものばかりがあふれています。おそらく科学が人間のキャパの限界を越えて、動き始めてしまったからでしょう。
 すぐに影響が出ればみんな批判的になりますが、ひどくなるのはかなり時間が経ってからです。さらに個人差もあれば、家庭環境もある。三十年間、言ってきて、やってきて、あきらかにその影響は出ているのですが、真っただ中にいると気がつかないものなんです。オタクが量産されていても感じない社会になっていますからね。異常に気がつかない社会は異常なんですが・・・・皆さん、テレビのバラエティ番組などを見ていて、出てくる人の言動や行動がおかしいと思いませんか。いやいや、もう「選良」といわれる政治家や役人、教師などの仲でも言動や行動がおかしい人はどんどん出現しています。これがサブカルの影響であるかどうかは因果関係を見るのはむずかしいですが、マンガ雑誌が出て六十年、ファミコンが出て三十年・・・ですからね。当然、人の思考様式や行動様式に影響がないわけがありません。
 こういうものは、「便利で快く、危険感もともなわずに浸透する」という性質があります。たとえば電気もそうですが、「便利で快く、危険感もともなわない」・・・しかし、しだいに人間から「人間の本質」を奪っていくように思います。その結果は、かなりひどいものとなるでしょう。
 しかし、学校も何の吟味もなく、もちろん未来の危険を想定せずに取り込みます。まさに原子力を安全神話で固め、いかにも未来につながる「夢」として捉えて、推進してきたように・・・・。やがて、その影響が家庭の内部に出てくるのです。

気をつけるだけでかなりちがう

 実際には、「マンガやアニメのどこが悪いの?」「何でゆめやは、そんなにサブカルを嫌うの?」という声も聞こえて来ます。でもねぇ。何度も言うことですが、便利さの裏で暗黒の世界が生まれ、悲惨なことも起きているわけで、サブカルの後ろにある「この滅茶苦茶な便利さとハッピーエンド妄想、リセットできるという思い込みの行きつくところは大変だ」ということです。
 どのみち、こんな時代では、子どもの頭にはサブカルは入ります。だから、どこかで防波堤をつくっておかないとサブカルは津波のように押し寄せてきて引っ張っていくのです。十五年後・・・・「ああ、こんなつもりではなかったのに・・・」ということにならないようにするのは、まず幼児期に気をつけるよりありません。
 私のような考え方は「世の中が認めるものを認めない変わり者」として今後も無視されていくことでしょうが、さあ、果たして世の中の流れが正しいか正しくないか・・・。その流れの行き着く先が悲惨な社会かそうでないか・・・・もちろん、子育てが終わった私は個人的には、こういうできごとは「高みの見物」です。何をするのも自由な社会・・・そして自己責任すら持たないで最後は崩れる社会。いつまでも「夢」だことの「希望」だことの言っている時代は終わっています。
 私は老女ではありませんが「老婆心」から幼児期のサブカルは避けたほうがいいと思っています。もちろん、大人の情報機器依存もね。精神を壊します。
 ただね。ゆめやのブッククラブ内ですら、そういうものを子どもに与えてしまって(けっきょく周囲に負けて与えるのです。ふつうの親は負けるも負けないもなく平気で与えます)、「絵本も読み聞かせているから大丈夫」などとタカをくくっている親もいます。私は、この商売をやって三十年、サブカルを与えてきた結果が悲惨な形で出てきた例をいくつも見てきています。この結果は思春期から出てきますから・・・・少し先のことで何ともはや

昔話からファンタジーそして古典文学へ・・・(1)

子どもころ不思議に思ったこと

 昔、むかし・・・と、言っても民話のはなしではない。私の子どものころ、小学校に入る前くらいのことだ。つまり、そのころ、不思議に思っていたことがある。「大人とは、いったいどのくらい頭がよく、どのくらいすごい力をもっているのだろう?」というおどろきである。周りの大人はむずかしいことを話し、子どもにはとてもできない仕事をしていた。そして、子どもの私が知らないこと、知らない話をたくさん教えてくれて、誰もが子どもにはとてもできない仕事をしていた。そういうのを耳で聞いて、目で見ていると「大人とはすごいものだ!」「早く大人になりたい!」と思った。
 昔話を読んでいるとさまざまな大人が出てくる。もちろん、子どもも出てくるが、たいていは大人の話だ。これを小学校低学年のときにいろいろ読んで、「なるほどいろいろな大人がいる!」と思ったこともある。まだ身近にはふつうで常識的な大人(親や祖父母、近所の人)しかいなかったが、昔話の中にはそれ以外の多様な大人像があった。昔話を読むことは、世界を広げる上でとても重要だったと思う。成長するうちにズルい大人や非常識な人に出会ったからだ。昔話に造詣の深い瀬田貞二さんや小澤俊夫さんが言っているように、「昔話は、子どもにとって大人と世界の骨組みを知る適切な文学だ」というのは共感できる。

昔話が幼児のものになってしまった

 ところがある時期から昔話が、わかりやすく端折(はしょ)られて、深さがなくなってしまった。幼児が聞いても楽しめるものもあるが、深さはきちとした内容のものを読まないとわからない。アニメ絵本などはまだいいほうで、ページ数にして十ページそこそこのレジ横絵本さえあるが、これでは、おそらく心にしみこまないだろう。
 最近、若いお母さん方数人に、昔話のあらすじを話してもらったが、覚えていない人が多かった。「ももたろう」「つるのおんがえし」などは覚えているが、「したきりすずめ」「うらしまたろう」となるとウロおぼえになり、「きんたろう」「わらしべ長者」などはまったくダメだった。もちろん、知らないことが悪いことだとは言わない。
 ただ、昔話として本で読んでいた人は、かなり細かいところまで覚えていて、その内容から出発する話に発展することができたように思う。昔話が、あらゆる物語の基点とするならば、やはり昔話も「語られるものでもある」と同時に「読むもの」であり、読むことで、やがて高度な本の内容につながっていくはずの「話のエッセンス」をつかみとることができるのではないかと思われる。それがアニメで語られ、マンガで読まれたとしたなら、覚えていたところで、しょせんアラスジで、深い意味を考えて自分にフィードバックしていく力は出てこないことだろう。

ほんとうはむずかしい大人の世界の話

 なぜ、そう言うかというと、さまざまな動物で比喩的に表現される昔話はすべて人間の世界の話で、しかも単純なハッピーエンドや予定調和では終わらないけっこう生々しいものが含まれている。たとえば「かちかちやま」は、原話にはおばあさんを婆汁にして食べてしまうというような恐ろしい話でもある。グリムもそうだが、日本の昔話は、言語表現の中で喩えやエピソードとして使うものでもある。「ヘンゼルとグレーテル」を例に取れば、まさしくこれは現代の話だ。だって、そうではないか、実の子を虐待して捨てる母親、それに何もいえない父親、逆に子どもを過保護にして、自分の支配下においておきたい魔女(母親の似姿でもある)それを殺して、息抵抗と刷る兄妹は実は成長していく男女でもある。こうした寓話をやはり多く読んでおきたいものだと思う。これは本格的な読書の入り口にもなる。(つづく)

夏のつづきの話・・・高原を回って・・・

 私は義理堅い(?笑)ので、ニュース七月号と八月号で紹介した美術館を秋風の吹き渡る十月最初の日曜日に回ってみました。十月三日、まさに朝から秋晴れ、雲はほとんどなく、こういうのを日本晴れといいますが、富士山も青く透き通るような全身を見せていました。
 まず国道20号を西へ・・・・「どうぶつのおやこ」の薮内正幸美術館に向かいます。・・・白州の森の秋は早く、入り口で見上げた真っ青な空にはオオタカが悠然と舞っていました。館長の薮内竜太さんといろいろ話しました。基本ができていない絵は見かけだけのもので、薮内正幸さんは動物を書くときまず骨格から入ったという話、微細な表現も点描に飽きないていねいさが良い仕事につながるという話・・・これって、何の仕事にも共通なのですが、なかなかできないことでもあります。
 竜太さんは、「十一月には甲府のNPO山梨子ども図書館の講座で二時限の講義をするのだけれど90分×2の時間をどう話すか苦心している」と言っていました。・・・たしかに、ここの講座は時間的にも大変です。私は、初年度に「発達対応選書論」と「日本神話」を受け持ちました。「日本神話」は90分×2でしたが、「発達対応選書論」は何と90分×2×九日間・・・準備に半年を要しましたから、こういう講座の中身の充実は大変だということは分かっています。もっとも私は講演で食べているような識者でもなく、児童書研究の専門家でもありません。NPO山梨子ども図書館を立ち上げた人間なので、やむをえず講座を担当した素人にすぎません。専門的に従事している人にとっては90分の二倍くらいたやすいのかもしれません。竜太さんが、どのような講座で、どんなこと話されるか楽しみです・・・。

小淵沢は美しい秋の中

 次は小淵沢の美術館・・・近距離に数軒あるので、ここを巡るのはかんたん。一時間で3ケ所回れました。お茶を飲みながらの観覧・・・静かな時間が流れています。三箇所で3杯コーヒーを飲むとさすがにおなかゴボゴボ。
 でも、一時期に比べて来訪者が減ってきている感じがします。いまの若い親は、絵本などよりアンパンマンショーやシンケンジャーヤゴセイジャーのショーに目が向いてしまうのかもしれません。
 そりゃそうですよね。自分が体験してきたものでなければ子どもと接すことができない。美しい秋が広がっていても、それを美しいと思えなければ秋を楽しむこともできますまい。急速に価値観が変わっていると思うのは私だけでしょうか。一時は子ども連れの家族をいくつも見かけた秋の日曜日もいまは閑散としていました。で、受付の方に、それとなく聞くと「今日は運動会がたくさん行なわれているからかもしれません。」とおっしゃっていました。最近は運動会は土曜日にするところが多いとは思うのですが・・・・。

裏八ヶ岳へ

 そこから八ヶ岳を越えて茅野市の小さな絵本美術館へ。途中では何と紅葉が始まっていました。この美術館ではホフマンの後期の作品展をやっていました。「おおかみと七ひきのこやぎ」「しらゆきひめ」・・・石版の重厚なタッチの絵が並んでいます。
 こういうものが昔話絵本のきわみで、話も絵もまさに昔話なのですが、いまでは、こういう種の昔話絵本を楽しめる子どもは減っているようです。そりゃあそうです。生まれたときから子どものはすべてアニメキャラなんですからね。
 そんな子がホフマンの絵を見たら「なんて汚らしい絵だろう」と思ってしまうかもしれません。でも、順に見て歩くとすごい発見がいくつもあります。私ははじめ、絵を描くために写真を撮ったかと思ったものがかけてあったので、隣のそれを拡大した絵を見ていたのですが、じつは写真と思った絵が、細密画でした。写真と見まごう絵。さきほど、薮内竜太さんと話した「微細な表現も点描に飽きないていねいさが良い仕事につながるという話」を思い出しました。

予期せぬ出来事

 これを眺めてから、館員の阪井さんや竹山さんと雑談したり、手品を見せたりしていると、何と突然、岡谷の自宅から、さとうわきこさん(ばばばあちゃん)登場・・・おかげで(?)そのあと二時間もお茶を飲みながらわきこさんと話すことになってしまいました。これで何倍目のコーヒー・・・なんだろう?
 わきこさん、語ります。「子どもが忙しすぎるねぇ。これじゃあ、先が思いやられる。子どもが楽しく遊べる時間を持たないと大人になったときに困るのだけれど・・・」やはり考える人は考えております。でも、世の中の流れをどう変えるか・・・。親が変わらねば子どもは変えられません。国が変わらねば親は変われません。国はもうガタが来ていて民をひっぱる力さえなくしています。民は民で見かけの金満状態で呆けています。これを変えるのは、むずかしい問題です。私は、「そうそう」と相槌を打つしか能がなく・・・話は長く引っ張られて・・・結論は出ません。
 長話が終わると秋の日はとっぷり暮れて裏八ヶ岳・標高1200mはもう冬の風が吹いていました。あわてて帰路へ。ああ!!帰りに寄ろうと思っていた八ヶ岳横断道路近くの杉山亮さんの家の近くでは、もう真っ暗。寄るのは失礼なのでパスしました。でも、秋の高原は爽やか・・・オゾンの多い空気を吸って、文字通りリフレッシュできました。まあ、いずれ杉山さん宅は再訪しようということで帰宅しました。

考えている人はいるもので・・・

 そうしたらですね、世の中には義理堅い人はいるもので、なんと杉山さん、逆に、すぐゆめやを訪れてくださいまして、これまたいろいろ話ができました。この春、杉山さんの発案によって「絵本を被災地に送る活動」に及ばずながら協力させていただいたのですが、そのときの大変な話・・・に及びました。集まった児童書の数はダンボールで80箱・・・被災地、とくに宮城に送ったのですが、中には自分の子どもが読み終えたほとんど資源ゴミに近いようなものが何箱もあったようです。仕分けが大変・・・そこまではお手伝いできませんでしたが、ゴミ捨ての代わりに支援物資として送られたらたまりませんね。どういう気持ちなんだろう、そういう人たちは。
 それから原発の話、被災地の子どもに「楽しい話を届けた」話・・・夏の物語ライブだけではなく冬の物語ライブも東京で開く話・・・行動する作家です・・・すごいです。貧しい絵本屋は大したこともできず、・・・まったく敬服するよりありません。それをまたいろいろ楽しく話してくれて。そうか、東京で物語りライブ・・・おもしろい話でね。いつものおなかの底から笑える話・・・チラシを置いて行かれたので東京の会員に今月のニュースに入れて送るお手伝いくらいすると約束しました。物語ライブは小学生なら必聞(こんな熟語はないけれど)ですよ。とにかく楽しい話ばかりです。

「ははため配本」について

 現在、「母のための配本」は第十期となっています。新しい選書は十回目ですが、一期から連続的に選書してますので、どこからでも始められますし、どこでも終われます。HAHATAME会員はメール使用が可能です。メールアドレスのわからない方は、ご連絡ください。来店できない方などは、メールで選書リストを添付ファイルでお送りできます。メールのない方はもちろん郵送でお送りいたします。ご連絡ください。
 また、現在、配本に添付する小冊子「HAHATAME」は@〜Eまで出ています。一年分の配本12冊につき二冊小冊子をお送りします。書評に見せかけた実にくだらない?体験記ですが、読みたい方はお知らせください。これは配本が不定期のため、通常別送りしています。請求がないと送りません。配本履歴はこちらでわかっておりますので、そこから見て、所定の巻数をお送りいたします。途切れた方はご連絡ください。



(2011年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ