ブッククラブニュース
平成23年12月号新聞一部閲覧 追加分

今年度のまとめ(2011年version)
読み聞かせ〜高度な読書へ

 日本における「読書」の問題は、識字率が高い国民であるにかかわらず、さまざまな阻害要因が大きく、本来的な意味での読書(高度な)ができる人口は比率としてひじょうに低いものがある。この原因となっているものは、おそらく学歴主義による成績偏重ではないだろうか。つまり教育システムのなかで成績(学歴)が最優先されるために読書(本)よりは勉強が基本に置かれるからである。このことは、読み聞かせを経て一人読み読書に入る小学校低学年で極端な本離れという現象が起こることで証明されている。識字率の高さが読書に比例しないということだ。
 成績というマニュアル処理の能力と読書での人間形成は大いに意味が違うのだが、学校教育の現場でも家庭でも優先されるのは教育システム内での成績が中心である。
 競馬新聞と女性週刊誌しか読まない家庭も識字率はカウントされる。「坊ちゃん」も「蜘蛛の糸」も「豊饒の海」も「砂の女」も読んでいなくても大学には合格する。さらに言えば、読まないほうが合格するというシステムだから、この識字率と言うのは曲者である。
 読書を薦める側でも「学習優先・成績優先」という常識があり、読書による人間形成などは事実上、主眼におかれていない。実際、学校図書館を含め、公共図書館などの読書推進運動を見ていても、貸し出しコンテストや朝読、あるいは的外れな読み聞かせイベントが行われ、子どもが成長していく上での対応型選書や高度な読書が可能になるガイドラインはまったく提示されない。

サブカルチャーの影響

 こうした学校教育的な価値観にさらされた読書の現状のほか、一般家庭のレベルでは、さらに読書を阻害する強力な要因が1980年以降、蔓延しはじめた。サブカルチャーの登場である(詳しくはブッククラブニュースに添付した資料参照)。
 読書の推進は、ここで大きな壁に突き当たることになり、2000年以降は、高度な読書への可能性はさらに低くなったといえるだろう。この状況を見ながら、ブッククラブでは1980年から成長への対応型選書と系統的に本を与えるという形で高度な読書へのガイドを行っているが小学校6年までの成功率は6割、中学では1割という成果しか得られていない。
 それは、そうだろう。子どもは園や学校で遊びの情報を交換していくから、流行のものの情報がどんどん入る。サブカルチャー全盛となれば、その関係の情報はゴチャマンと入ることだろう。

ほんとうは読める本だが・・・

 しかし、成長段階別に見れば、ブッククラブ選書の本は一般ではほとんど読まれないグレードのものであるため、上記の数値はさほど低いものではないともいえる。たとえば、小学校2年で「国のはじまり」などが入る。また4年では「だれも知らない小さい国」が入る。「モモ」や「南総里見発見伝」は5年だ。6年では「はてしない物語」や「神秘の島」も入る。ふつうなら、40人クラスで一人も読んでいない本なのだ。
 営業30年を経て、年を追うごとに一般の子どもたちへのサブカルチャーの影響は大きいものがあり、ますます高度な読書への可能性は薄れているが、ここでひとつ興味ある結果が出ている。ブッククラブ選書で年齢に合った本を読んできた子は、かなり高い確率で高度な読書ができるということである。いわゆる聴く力がすべて。それが読み聞かせである。読み聞かせを受ければ、言葉が増え、当然、脳を刺激する。耳が重要なのだ。
 さらに特異な例を出そう。視力障害を持つ子どもたちの読書である。
 アニメ・ビデオ、TVゲームなどほとんどのサブカルチャーは、ビジュアル(視覚)なものが主体で、聴力は音楽的なもの、あるいはサウンドのみに限定されている。精神への悪影響はきわめて大きい。デジタル絵本というものもあるが、これも読書へつなげる効果は皆無と言っても過言ではないだろう。このような中で、サブカルチャーの影響を受けにくい視力障害者が高度な読書へ入りやすい可能性を持っていることが判明した。下地づくりとして、読み聞かせ用のライブラリーや拡大写本の充実が必要だが、言葉が聴覚によって広範囲の想像力を引き起こし、本来的な読書の効果を高めるには有効だと考えられるからだ。
 私は、上記の選書体系を成長対応型選書と系統的な配本を発達心理学を基準にしないで発達形態学を元に構成したが、ここでも聴力の重要性は最初から証明されている。読書の基本は感性にあるわけで、感性の育成を言葉によって行うためには聴力はきわめて重要な要素だと思うのである。現代において、一般の子どもたちがサブカルチャーと成績本位の学習によって感性がはぐくめない状況になるなかで、皮肉にも視力障害のある子どもたちには高度な読書への道がかなり開かれたものが用意されているというわけだ。

耳が大事・・・耳がすべて?

 ここで、普通の子にはどのような下地づくりが必要か? ということを考えると初期には聴力を使った成長に対応した読み聞かせ、段階的な読書のための選書などの個別対応を緻密に行っていけば、本来的な意味での読書の成果が大いに期待できると思う。ただ、小学生になってからは読書環境の整備も含め難しいものがある。細かな一般向けの資料は用意してあるので、会員で必要な方にはお渡しすることも可能であるが・・そんな専門的なことよりまずは子どもに本を読んでやればそれでいいのである。つまりはふつうのお母さん、あるいはお父さんとして、赤ちゃんや幼児に読み聞かせをしてやれば、子どもの言語感覚はすぐれていくのである。系統的に段階を踏んで一定の本を与えれば、それなりに読んでいけるものなのあ。
 ところが昨今、読み聞かせおばさんとか図書館司書とかがデタラメな選書で「とにかく読み聞かそう」と張り切る。一回聞いたことなど身にならないし、借りた本の内容など返したときにすぐ忘れてしまうのが子どもだ。繰り返しがなければ意味がない。そういうことも知ってか知らずか・・・行政の路線に乗って「子育て支援」をしてしまう。まったく困ったものだ。何も知らない母親は、それで何とかなると思っている。

大人好みの絵本

 絵本がブームになって以来、大人好みの、あるいは大人のための絵本が増えている。単なるかわいいものへの憧れか。それとも現代人が癒しを求めているからなのか。はてまた難しい思想書や小説が読む力がないので絵本に流れるのか、社会心理学者でもない私には原因が何かは分からない。しかし、長い本を読めない大人や癒された大人が読んでいる分にはまだいい。そういうものが子どもの世界になだれ込んでくることのほうが問題なのである。
 たしかに時代はボーダーレス。大人と子どもの境目をとやかく言うのは時代遅れかもしれない。絵本を子どものものと決め付けるのも問題かもしれない。しかし、どうも世の大人、とくに絵本好きの母親たちの嗜好が変わってきているのも事実。「ジャミバン(江國香織・文、アートン)」「千の風になって(新井満・文、小学館)」「償い(さだまさし・文、サンマーク出版)」、古くは「ラブユーフォーエバー(ロバート・マンチ作、岩崎書店)」・・・たしかに大人にとって癒しになるかもしれない。ただ、子どもにとっていいのか悪いのか。読み聞かされた子が「?」ていどならともかく、不快に思うこともなきにしもあらずである。「ラブユーフォーエバー」など、子育てはやり直しがきかないことが実感できるくらいで、デカい息子を抱きしめて寝かす母親の姿など不快この上ない。
 絵本は子どもが成長の各段階で楽しむものではないか。読み聞かせボランティアたちの絵本好きを否定はしないが、「大人の本を読まない人が子どもにどういうふうに本をガイドしていくの? 子どもだってだんだん大人の本を読んでいかなくてはならないのに・・・」と余計な心配も出る。二歳児にも五歳児にも、そして小学生にも年齢などおかまいなく同じ本の読み聞かせでは場を得て光りたいだけの読み聞かせおばさんのパフォーマンスにすぎないわけで、子どもにとっては迷惑な話である。

読み聞かせは読書への前段階

 絵本は読書のための前段階、やがては高度な読書へ進む第一歩にすぎないと見るのは間違いなのだろうか。どこかに一定の基準がなければ与える意味もないような気がするのだが・・・。
 さらに問題なのは「私は子どもの本をたくさん読んできましたよ」とシタリ顔で読書推進運動をするおばさんたち。自分たちが子どものころに名作であっても、今では古びてしまったものがゴチャマンとあることがわかっていない。しかし、そういう人たちにかぎって「活字離れ・本離れ」を声高に叫んで押し付けてくるから始末が悪い。この国の人々に活字や本に親しんできた歴史などあったかい? 今だって学校は小学校でこそ読書推進を叫んでいるが実は効果を挙げていない。うがって考えれば上がらないほうがいいということなのではないか。中学、高校では読書どころではない。部活と受験で読書などやれない。これはなぜだ! 深く読まれて考える人間が出てもらっては困るからかい。そいいう環境が、我々の教育環境だったのだ。それをこれらの読み聞かせおばさんは見抜けない。
 つまり活字や本への親しみなど、この国の教育にも家庭にも初めからなかったことが、この老人たちには分かっていないのである。この、おばさんたちが知っているのは、高度成長期以前1960年代以前に岩波文庫を抱えて大学にいっていた人たち・・・いわばエリートの姿で、その時期でも、つまり、一握りの大学生が高度な本を読んでいただけなのだ。だが、それを見ていたおばさんたちは、本を読めば大学に入れる→大学に入れば良い会社に入れる→社会的地位が高くなる・・・という幻想を抱いてしまった。こんな発想で読書推進を老後の生きがいにされたら子どももたまったものではない。
 たしかに怒涛のごとく出版される本を見ていると子どもの成長に合わせて何を選んで、どう読めばいいのかも分からない。それが選ぶ側の本音である。しかし、いま、ここで重要なことは、大人好みの絵本、老人趣味の絵本、若い親を狙ったキャラクター本など、もろもろの本を成長にそぐわない要素があるものとしてきちんと見極め、発達に合わせて与えていくことなのではないか。出版洪水のこの時代、子どもに正常な読書を可能にする職人が登場しなくてはならないと思うのである。

子育ての最初

 ヒトは誕生段階で生命活動維持を司る脳幹が完成している。多くの哺乳類は(卵生哺乳類を除く)誕生時に生命活動維持の脳幹が形成されていて、生命は自発的に守られるようになっている。ヒトも生物だから生命維持のための脳幹は同じに備わっている。
 しかし、高等哺乳類では脳の辺縁系といわれる本能や感情を司る大脳旧皮質の発達が誕生時には未発達で、その形成は早くても2歳、遅い子でも2歳半ぐらいまでということが大脳生理学的には一致した見解である。
 この時期は成長後に「自信」「自己肯定感」「自己愛」など個人の人格の基本的な部分を形成する基礎になるわけであるから、生命維持と同じように精神的な意味の自己の維持に重要な時期といえるだろう。このため親が、頻繁に見つめたり、話し掛けたり、接触したりすることが育児上欠かせない作業となる。
 同時に認識力の発達は急速で、表象の特定化、分別、変化認識など、およそ外界を把握する基礎は2歳までに形作られてしまう。
 以上のことを考慮して、発達に対応させた選書が求められるわけである。大脳新皮質は誕生時から、ひじょうにゆるやかに発達し、およそ20〜24歳ごろまでに形成される。このため早期の知的学習は新皮質の発達にそぐわないものがあるばかりか、「可能性の枯渇」を早めてしまう危険性がある。この部分の発達は20年間以上を要するわけだから、その速度に応じた対応が求められることになる。当然、選書(この場合は一人で読む書籍)もそれにふさわしい選書が重要であるというわけだ。

生後十ヶ月から読み聞かせは可能

 これは、発達進度が激しい一歳代で選書を対応させていくむずかしさがあるが、ブッククラブ選書では月齢で、また、四半期で一歳代の選書対応をしている。おおまかに言うと次のような対応である。生後十ヶ月がスタートライン。
 1歳児の急速な認識力の発達に応じた変化に対応する選書
 ● 1歳直前 実物に近い絵柄 1ページ(あるいは見開きデ一つの絵柄)【触覚認識の残っている子もいる(1歳前半まで続く子も)ので、ページをぺらぺらめくったり、噛んだり、破ったりすることがある。破ったばあいは、その場でNOの意思表示をして、わからないばあいは手くらい叩く必要もある。理由説明しても理解しないので、区別することを教える。認識絵本はネコとイヌ、スイカとモモの区別を教えることから始まるわけだから、紙と本の区別がつかないことはまずい。またグルントが無地、見開きで一種類のものからが原則。注意力が散漫なので、場に集中させる試みが必要。次に地平線があり、背景と対象物の遠近感があるもの。2ページにわたる連続動作になるものへと進む。読み方は、ふつうの話し言葉で、ゆるやかであたたかみのある読み聞かせ方。静かに聞ける状況を設定することが必要】
 ● 第一四半期生活動作・事物関連・リズム・メロデ関連【慣れてくると、本を持ち出してきて読み聞かせを要求してくるようになる。これに対しては「後で…」ではなく、きちんと対応する。読み聞かせ方法としてはアドリブやパフォーマンスを加えてもかまわない。ものによっては声色を使う必要もある。基本は、「次のページに続く」という意識的な割り振り。この時期の本は、ある場面が強調されるものが多いので、そこで強調を加えることも必要。】
 第二四半期 線刻の輪郭画【一冊全体が「初め」〜「終わり」まで一貫しているものがほとんどになる。初めがあり終わるという流れを難度か読み聞かせるうちに教える。もちろん第一四半期と同じような読み聞かせ方を継続する。すじの流れを楽しめるようになるためには、最低でも同じ本を30〜40回読む(その本の読み聞かせが終了するまで)。】
 ● 第三四半期 感覚絵本・生活関連【感覚的な絵本(あまりスジがない?)ものが加わるが、場面場面を楽しめるような試みを加えることが重要。とくに繰り返しものについては同じ調子で流し読みにならないように注意。音感を伴う言葉については、それなりのおもしろさを強調するために強弱、緩急の読み方も付け加える。】
 ● 第四四半期 つながりのある展開 探し物・初期の物語らしき展開【ここでは、考える対象が加わるので、間が重要になる。読み流すだけでなく、読みを止めて考える時間を加えるのがポイント。一部にごく初期のストーリーのある本が加わるが、それについてもまだ会話語が主体なので、アドリブも加えていいし、過度でないある程度のパフォーマンスも必要。もちろん、登場する動物などの区別のために声色を変える作業もまだ継続してよい。】
 ・・・こう区切ったものが月齢で組み合わせてあるので、配本を追っていけば問題なく、この時期からステップアップしていく。

2歳児の想像力と物語把握

 2歳代は想像力が増し、それとともに物語を追う力が大きく芽生える時期である。また1〜2歳には、自分が愛されているという自覚から生まれる自己肯定感や家族などの集団の中にいるというアイディンティティーが育つ時期なので、落ち着いた雰囲気や環境の中で読み聞かせをしていきたいものである。ここでの精神性の形成がうまくいくかいかないかは、思春期、あるいは大人になってから影響が大きく出るものなので、親と子が安定した時間を長く持つことが大切なのだ。
 ところが、いま、「0歳児から保育は園が受け持つから、働け!」という風潮が出始めている。下層階級ではかなり前からだが、これによる家庭崩壊、虐待、DVなどは幅広く引き続き起きていて、中産階級へも波及し始めている。国は労働力が不足しているので、「子どもは預かるから働け!・・・」で、うまくジェンダーフリーを使って男女共同参画を合言葉にしているが、これは動物の基本行動「親が子を育てる」とは真逆のやりかたである。十年くらい前から始まったと考えると、あと十五年から二十年で、おそらく社会問題になるような成人が増えるのではないか。治安や労働構造も大きく変わるが、この結果については誰も責任を取らず、個別に親が取ることになるだろう。いやいや、その親もじつは高度成長の鍵っ子世代の延長だから、子の犯した事柄について責任は取らないかもしれない。要するに悪い社会になるということである。
 まあ、そんなことは、それなりのことをやっている家族、階級のことだ。われわれは自分の子をまともな人間に育てるためにがんばっていけばいいのである。

2歳児の特徴と選書の例

 2歳後半になると色彩への関心と想像力の拡大が始まり、クレヨンを持たせると「描く」ことも始まる。このきっかけとして「ごちゃまぜカメレオン」(ほるぷ出版)や「ぼくのくれよん」などは選びたい一冊である。
 また、想像力が高まるため、2歳児は見えないものが見えるという特異な力を持つ年齢だ。暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のだが、2歳児は「物が見えてしまうから怖い」のである。これを生かしてモノトーンの絵本を与えると大人が当たり前に見るものを別の見方をする。この特徴をとらえた「もりのなか」(福音館書店)などは想像力を発揮させるのに適切な本だと言える。
 さらに、落ち着いた感覚で親と子の関係・周囲との関係などに目が行くようにするには「ちいさなヒッポ」(偕成社)、「もりのなか」(福音館書店)などは2歳後半でタイムリーな本である。
 また、この時期には性差がはっきりしてくるので、それを考慮した選書もしなくてはならない。ここで挙げたのは「しゅっぱつしんこう」「おでかけのまえに」(いずれも福音館書店)だが、生活の中での親子・周囲を感じさせることのできる本である。また就寝儀式(おやすみなさいの本)でも「ぼくのせかいをひとまわり(男子)」「おやすみなさいおつきさま(女子)」(いずれも評論社)のように性差を考慮したすぐれた本もあるので与えてみたい一冊だ。
 とにかく、2歳後半は3歳代の本格的物語絵本へ入る前の重要な時期である。ここでの選書は先行きの絵本の選択や読書への重要な基礎になるので、選書・読み聞かせ方法などには注意したいところである。

3歳は絵本が佳境に入る

 3歳になると多くの子どもが周囲と自由に会話を交わすことができるようになる。表現する言葉が飛躍的に増える時期だからだ。1・2歳の時期に親と子が安定した時間を共有してきた環境があれば、表現する言葉だけではなく理解している言葉もその背後で増えている。だから、3歳代ではかなりストーリー性の高い絵本を十分楽しめるようになるわけである。
 しかも、この時期の絵本はすぐれた内容のものが充実していて豊富なので、段階を追ってうまく適合させばがら与えていってほしい。注意すべきことは季節に対応したもの、自己認識も強くなるので性差を考慮したものを別個に与えることである。

読み聞かせは、ふつうに・・・

 読み聞かせは、ふつうに読んでやればいい。もう、声色を変えたり、演出したり、パフォーマンスを加える必要はまったくない。「読書」への第一歩なのだから、ふつうに文を読めばいいのである。
 選書では、まず3歳になったことを喜ぶ本として「ちびごりらのちびちび」(ほるぷ出版)を挙げている。周囲が見守っていることが子どもに再認識される適切な本である。また2歳の繰り返しものから一歩進んだ「ねずみくんのチョッキ」(ポプラ社)、「なにをたべてきたの?」(佼成出版)、「3びきのくま」(偕成社)などが前半の初期には最適だ。こういうものが個人別に組み合わされているから、順を追って配本を呼んでいけば、それなりの対応が可能になる。
 三歳になれば性差も大きく生じる。男の子には「しょうぼうじどうしゃじぷた」(福音館書店)、女の子には「ママあててみて」(偕成社)などは楽しめる一冊である。季節ものでは「14ひき」(童心社)や「ぐりとぐら」のシリーズ((福音館書店)から季節に合わせたものを選ぶことをお奨めする。半ばに近くなったら「もぐらバス」などもおもしろい本だ。「やまこえのこえかわこえて」なども楽しい本である。
 3歳代の名作・推奨本はひじょうにたくさんあるが、だからといって次から次へと大量に与えることは避けたい。子どもの頭の中で右から左の通過状態にすぎなくなり、内容を味わうことができなくなってしまうからだ。月に2〜3冊程度を毎日何度も読む。これが、この時期の読み聞かせの基本である。3歳からは物語絵本なのだ。

読み聞かせが何に有効か?

 読み聞かせは「人格のおおもとになる脳(大脳旧皮質)の成長に良いからだ」と言われている。旧皮質は三歳で完成してしまうので、ここまでに安定した状態があるかどうかで、その後の個性や行動パターンが決まるわけである。
 「愛されているという感覚」「自分は周囲の誰かとつながっているという感覚」が人格の形成の基礎にないと成長の過程、あるいは成人してからも問題行動が出る。近年、世間を騒がす事件の根元には「乳幼児期の育児」が関係しているのではないかと思うものが多いが、高度成長で忙しかった親に育てられた子、外部に委ねられた子、家庭で虐待を受けた子……それぞれの時代の乳幼児保育の結果が起きる事件の本質と深く結びついていると思うのは私だけだろうか。
 親から子への読み聞かせは、この旧皮質の成長に必要なさまざまな要素を持っている。どのような読み方をするにしろ、「自分のために読んでくれている」という感覚はあるだろう。抱っこによる
 暖かい皮膚感覚、親を独占できる満足感、おだやかな状態……このような点から読み聞かせは、人格の基礎になるような部分の成長に大いに効果的なものであると考えられる。
 こうした時期を経て、外部に適応し始める3歳の段階で与える本は、やはり「自分と社会をつなぐ物語」。相手とのバランス感覚や自分は周囲とどういう関係にあるのか、を知る物語絵本を主に与えたいところである。
 例えば「ガンピーさんのふなあそび」(ほるぷ出版)、ガンピーさんの操る舟にいろいろな動物が乗り込んできて、ハラハラドキドキ。やさしいガンピーさんがうまく受け入れてくれて、舟遊びがうまくいくというお話である。なかなか楽しいストーリーだが社会性を芽生えさせるにはうってつけの作品だろう。「おばけのバーバパパ」(偕成社)も同じように、だれもが世の中の何かの役に立つことを奇想天外なスジ運びで描いている。古典的名作の「ぶたぶたくんのおかいもの」(福音館書店)も友だち、周囲の大人との関係をうまく描いた傑作である。「いいこってどんなこ?」(冨山房)は、逆にあるがままの自分を受け入れてくれる母親の話。子どもというより親に読まさえたい絵本でもある。前回述べたように3歳代の絵本の傑作は充実しているが、「まあちゃんのながいかみ」(福音館書店)を女の子用に挙げておこう。空想力、連想力を全開させるパワーのある絵本である。(次回に続く・過去の新聞・ニュース掲載分・一挙一部閲覧)



(2011年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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