ブッククラブニュース
平成24年9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせの日々

B二歳までの成長は急速

 前号で述べたように、多くの子どもは生後十か月で絵本に関心を示し始めます。もちろん、個人差もあって、生後九か月で絵柄に見入る子もいれば,一歳半になっても本がペラペラめくるものでしかない子もいます。でも読み聞かせさえすれば、多くが生後十か月、一部の関心が低い子でも一歳前半には絵本の読み聞かせが可能になります。
 「いいえ、もっと早く読み聞かせができています!」という方もいるかもしれませんが、おとなしいタイプの子がお母さんの声に快さを感じているだけで、平面にプリントされた絵柄を見て、その内容の言葉を認識するのは生後九か月以前ではほとんど不可能です。十か月以前は、本を与えても口に持っていくか、手で破るか・・・ヨダレでベタベタにするか・・・ですからね。
 でも、十か月で絵本に見入ることができる! これは、新聞の広告のチラシやアルバムの写真を指で叩いて、声を上げることでわかります。これが絵本の与え時。読み聞かせの日々の始まりです。

最初の絵本は認識絵本

 誕生からまだ一年も経っていないのに、これだけの発達、これだけの成長・・・すごいものだと思います。もっとも、ここから二歳までの発達はさらに急速ですよ。話していることがわかるうえに、自分でも話し始めるのですから!
 さて、最初の絵本・・・これはブッククラブ配本では動物や植物など自然界の認識絵本から入っていきます。なるべく写実的な細密画がふさわしいです。抽象化された絵柄、キャラクター的な図柄の絵本も出ていますが多くの赤ちゃんは動物に関心を示すので、配本では一番最初に動物が描かれた絵本を入れています。もちろん、ほとんど字もなく、文はありません。「どうやって読めばいいのですか?」という、いかにもマニュアル世代の質問も聞こえますが、子どもを膝に乗せて、絵本を広げて黙っているお母さんもいないと思います。ふつうに話せばいいのです。「ほーら、猫のお母さんが子どもの猫を見ているよ。」とか、「キリンさんは首が長いよねぇ。」という感じです。子どもの耳はきちんと聞けています。赤ちゃん言葉を多用する方もいますが、いつまでも赤ちゃん言葉では困りますので、どこかで(2歳になれば)普通の言葉になります。それなら最初から普通の言葉を使っても赤ちゃんの耳は正確に言葉を受け入れていくはずです。

本を破いたら叱りましょう

 とは言え、急に絵本の読み聞かせをスンナリ受け入れ、話を聞くようになるわけでもありません。そういう子もいますが、まだ触覚で認識する習慣が残っている子もいます。
 広げた絵本のページをジャアジャアビリビリ破いてしまう子もいます。
 こういうとき、やはり叱らねばなりません。してはならないことをしたときに、「まだ赤ちゃんだから」と甘くするのは考え物です。その場で手をピシリと叩いて泣き止んだら、ページの修復(セロテープで貼るなど)をするところを見せなくてはならないと思います。まだ快・不快で物事を判別する時期・・・不快なことは次にはしなくなります。いつまでもするのは、こういう叱りがないからで、子どもにとっても親にとっても不都合なことです。手をピシャリ程度でトラウマになったり、虐待だと見られたりすることなどありません。
 イヌなのかネコなのかを絵本で知ろうとしているわけですから、本なのかクシャクシャにしていい紙なのかの区別がつかないようなら絵本の中身もわからないということです。「決して叱らないで育てる」という方針の方もいるかもしれませんが、私の見ているところでは、いつまでも訳のわからないことをする子が多いですよ。

発達がすざまじい

 一歳から二歳までの成長はものすごいものがあり、認識力は二次関数(a>0)並みのカーブで発達していきます。配本では、四半期に分けて組み立てていますが、ほんとうはもっと細かく精密にするべきだと思います。
 一歳にはもう絵画的な図柄がわかるようになり、一歳前半では輪郭画の図柄もわかります。一歳半になればデフォルメされたものも判別できますし、感覚的な絵本もじゅうぶん楽しめるようになります。もちろん、挨拶動作や表情を描いたもの、歌の絵本や色の絵本も楽しめます。
 この時期はとにかく読み聞かせを楽しくやってください。どう読み聞かせてもいいです。頭に置くことは、初めがあって、途中の展開があって、そして終わる・・・ということです。「始まり、始まり!」・・・楽しく読んで、「おしまい、おしまい!」当たり前のことのように思えますが、じつはこれがとても論理的で数学的なことなのです。
 どこからでも適当に始まって、途中で終わってしまうというようなことがあったら、これは読み聞かせの根本から外れます。急速な発達がじゅうぶんにこれらのもとを受け入れます。とにかく、楽しく。絵本タイムの定着まで楽しくやってみてください。子どもは楽しいことが好き。あたりまえのことですが、この段階で数や文字などの約束事を覚えるのは子どもには苦痛です。(ニュース九月号追加分一部閲覧)

読み聞かせ・Why&Because

C1歳代の本は大人にはよくわからない!

 W・・・なぜ、2歳で書き言葉の絵本に入るのか?
 B・・・なぜなら、ふつう2歳前半で、文章語(書き言葉)の本を聞くことができる力が出て来るからです。

 ブッククラブの配本を親から見ると、1歳代の絵本は、ちょっと納得がいかないようなものが多いと思います。「こぐまちゃんいたいいたい」・・・わかるけれど単純すぎるなぁ! 「もこもこもこ」・・・何じゃ、これは!? 「ごろごろにゃーん」・・・意味わからん! と、お思いのことでしょう。しかし、意外に子どもはじゅうぶん楽しめています。
 1歳過ぎから、「文字」の絵本、「数」の絵本を与える親もいるご時世ですから、そういう親でも、そういう親ででなくても、ゆめやの1歳児の本は「???」ですよね。いろいろ大人の世界の決まりごとを教えたい気持ちはわかりますが、1歳ではハッキリいって無理です。ところが、子どもの成長はほんとうに早いもので2歳の声を聞くと、単純なストーリー、しかも書き言葉の本を聞けるようになるのです。

話し言葉から書き言葉へ

 書き言葉とは「〜しました。」「〜です。」という文章で、地の文があるものです。話し言葉とちがって緊張感も論理性もまったく違うのです。話し言葉は、ダラダラと続けられるものです。五分前に言ったことまったく違うこと、または矛盾することを言っても顔の表情や話し方の柔らかさがあれば、流れていくものです。明石家さんまの話や北野タケシの話などよく聞いていると数分で矛盾したことを平気で言っていますが、話術やパフォーマンスで違和感なくその場が流れます。これがメディアに乗る人の会話術の極意かもしれません。
 ところが書き言葉は違います。数ページ前で書いてあったことと数ページ後で書いてあることが違ったら誰もが、「これはおかしい!」ということでしょう・そういう論理性を持つのが書き言葉なのです。
 一歳代の絵本はすべて話し言葉です。お母さんが話す例を出してみましょう。多くの方に配本している代表的なものを例にとるとこうです。
 左の「ちいさなたまねぎさん」は話し言葉ばかりで書かれた本です。しかし、「おおきなかぶ」は完全に書き言葉・・・文章語なのです。チョット見にはわかりませんので、文の短い「おおきなかぶ」のほうが先に与える本だと思ってしまうかもしれません。でも順から言えば、「ちいさなたまねぎさん」。これは話し言葉onlyの絵本なのです。
 でも、じょじょに「おおきなかぶ」のような書き言葉の絵本が入ってきます。「〜しました。」「〜です。」という文はスジがしっかりしているのですが、2歳でじゅうぶん聞くことができるお話なのです。
 ですから2歳は話し言葉と書き言葉の本がオーバーラップする時期・・・やがて3歳では本格的な書き言葉の絵本のオンパレードになります。ブッククラブ配本では、それが自然に移行できるようになっています。
 周辺のおともだちは、キャラクター絵本や図鑑、戦隊ものなどの話し言葉の世界に浸っています。これに漬かったらまず書き言葉の本へ入っていくことはむりでしょうね。

どこまでも話し言葉では

 物語絵本のほとんどは書き言葉です。話し言葉の本を早く終えたいのは、書き言葉に慣れてもらいたいからです。マンガやキャラ本などの多くは、すべて話し言葉。緊張感もなく、論理性もなく、ダラダラと流れていくのが話し言葉ですが、こういうものに慣れてしまうと「本とはそういうものだ」という感じになってしまいます。これでは大人になってもキチンとした書き言葉の文章を読みこなすことができなくなります。一人読みに入るときにも拒否反応も出ることでしょう。
 マンガの吹き出しにある会話語に慣れてしまうと、長い文で書かれた論理性には拒否反応が起こるのがふつうです。マンガを読む楽さに比べて、ひじょうに苦労して読まなければならなくなり、その結果、想像力も出てこないので、読書する力はなくなっていくのです。読める子どもには何ともないことなのですけれどもね。彼らは文章から想像する力を持っているからです。
 ですから、書き言葉の本に慣れることは大切です。ブッククラブでは、配本を追っていけば、何の問題もなく書き言葉の絵本に移っていくことができます。でもアニメDVDやキャラクター本などすべて話し言葉で進むものに慣れてしまった子にとっては、書き言葉の物語絵本は抵抗が出て来るでしょう。ブッククラブ配本では、その心配はまずないということです。スムースに移行できます。とはいえ、書き言葉の絵本に急に変わるわけではありませんが、書き言葉の本の読み聞かせは、あまりパフォーマンスを加えずに淡々と読むことを心がけてください。本は、いずれ自分の目で読むことになるわけですから、強烈な身振り手振り、声色などで演出する必要はないのです。わかりましたか? 妙な強い演出で自分を露出させている読み聞かせおばさんたち! あなたの読み聞かせを、いま、子どもたちは聞くかもしれませんが、近い将来、その子たちは一人読みで本を読んでいかなければならないのです。本の活字は、あなたがたのように身振り手振り、声色で内容を訴えてきてはくれないのですよ。より高度な本を読むためには活字から想像できる力を子どもたちにつけることを考えなくてはならないのです。(ニュース九月号追加分一部閲覧)

できれば・・・避けたいサブカル環境

Cただちに精神に影響は出ないが・・・

 忙しく移り過ぎる時代なので、ある一時期から変な事件が起き始めたことを、ひょっとすると多くの人は忘れているかもしれません。1990年代あたりからですが、記憶に新しい事件を思い起こしても、原因・動機などがつじつまが合わないものがあることには気がついていると思います。かんたんにいえば「精神病的」な事件です。
 昔で言えば、池田小事件、宮崎勤事件、新潟の少女九年間監禁事件、酒鬼薔薇事件、光市母子殺人事件・・・最近で言えば、秋葉原連続殺傷事件ですが、それらがどんな事件か忘れてしまっていても、今月起きたものなら記憶にはあるでしょう。広島や名古屋で起きた少女監禁事件・・・とにかく原因も動機もよくわからないものです。
 「人間がどのくらい壊れやすいか試してみたかった」「自殺できないので人を殺して死刑になりたかった」・・・こういう理屈は常識から考えれば???です。
 ニンテンドーのファミリーコンピューターが出現したのは1980年ですが、そのおよそ20年後から、この異常な事件が頻発し始めました。もちろんサブカルは1980年ごろに始まったわけではありません。1960年ごろにはマンガを主体に始まっていますから、60〜70歳代でも影響は出ているのです。直接的には50歳ごろから顕著に始まるのですが、若い若いと思っていますが、池田小殺傷事件の宅間は生きていれば今年50歳、宮崎勤も50歳、新潟監禁の佐藤宣行も50歳。中二の少年だった酒鬼薔薇聖斗は30歳になろうとしていますし、先日死刑判決の出た秋葉原連続殺傷の加藤容疑者も30歳です。サブカルの影響は広範囲な世代にわたっています。

犯人たちの成長プロセスの分析を

 こういう事件が起きると衝撃的な内容だけに目が行って、その後の裁判でも犯人の幼少期からの成育環境が分析されません。でも、よく見ていくと池田小事件(アダルトビデオ)、宮崎勤事件(ホラービデオ)、新潟の少女九年間監禁事件(アイドルオタク)、酒鬼薔薇事件(ゲーム)、光市母子殺人事件(マンガ・ゲーム)、秋葉原連続殺傷事件(ゲーム・ケータイ)と、(  )内のものに起因すると思われる影がチラついています。直接、因果関係を証明できないので、裁判などでは表に出ませんが、個人的には原因は、このようなサブカルチャーだと思っています。もう少し、犯人の成長過程の分析が必要だと思いますが、サブカルの影響には個人差があり、まったく影響されない人、オタク程度でとどまる人、犯罪まで行ってしまう人、・・・結果はおそらく多様なのです。
 子どもが遊ぶようなものなら大人の目から見てもかわいいものなので、だだちに精神に影響が出るものでもないのです。ただ、人によっては、成長して思春期あたりから影響がでることはあるのです。
 どのようにサブカルが浸透していくかを表した表(この表はホームページでは割愛します。印刷したゆめやの新聞紙面には掲載されています)が下のものです。

おそらくイジメ事件の根底にも

 イジメ事件が広がってきていますが、もともと社会構造としてあったイジメの構造に、ゲーム感覚で追い詰めていくものは加わっています。何かあっても「リセット」できる感覚、ネットのプロフを使ってイジめる方法など、あきらかにサブカル環境は子どもへの影響を強めています。
 考えても見てください。中学生でも持ち始めたスマホはアダルトサイトにも出会い系サイトにもつながるのです。画像も動画もなんでもござれ。表現は野放しですから、こういうものにアクセスしたら実際に行わないまでも影響されないわけがないでしょう。社会で起こる事件を見ていると、その背景にネット社会の悪影響が見てとれるのは私だけではないでしょう。

寛容すぎる大人たち

 多くの大人は、上の表に挙げた発達段階別に影響が出るサブカルチャーについて、「子どもがいじる電子玩具やマンガに目クジラを立てすぎる! 子どもがそれらで遊び楽しんでいるのはカワイイものではないか!」という感覚でいると思います。それどころか、すでに自分自身が生まれたときから上の表のプロセスで成長してきて親になってしまった人たちも多いのです。こういう親は自分の子どもにサブカルを与えても平気でしょう。否定すれば、自分自身の否定になりかねないからです。この結果、サブカルチャーに飲み込まれて子どもが壊れることなど考えもしません。このような[寛容の連鎖]は次々に異常な事件を生んでいきます。できれば、・・・子どもたちに与えたくはないのです。中には影響を大きく受ける子はいるわけですから。
 人間は習性に弱い動物ですから、慣れ親しんだものを簡単に捨てることができません。そのうえ、日本社会は「人と同じものをやっていない、持っていない」ということで仲間に入れない意識があります。つまり、みんなが「いじめられたら大変だ!」という怖れも出てくるでしょう。これが、また影響を大きくしていきます。これはイジメの社会的構造ですが、こういうイジメの構造も子どものサブカル環境が広がる原因にもなっています。けっきょくは大人の問題なのですが・・・・。(新聞九月号増ページ一部閲覧)

学校図書館について

C子どもに本を読んでもらいたいのなら・・・

 さて、学校図書館だけでなく、公共図書館の子ども室など子どもの本関係、および関係者を含めて、そのすべては「子どもに本を読んでもらいたい」という気持ちを持っているはずだ。おそらく、これは子どもの本に関係する人の99%が持っている気持ちだろう。では、残り1%はそうではないのか・・・ということになるが、見かけでは読書推進をしながら、真の意味では読書をしてもらいたくない人は存在している。それが「1%」という表現になるが、じつはもっと多くいるのかもかも・・・。まあ、それは後で述べることとして、この99%という「読書をさせたい」大人たちが、子どもたちの成育過程で読書を阻むものがあることをに言及せず、まして批判もしないことに、とても不思議なものを感じるのは私ばかりだろうか。
 「読みましょう! 良い本を読みましょう。」と言いながら、その本を読むためのガイドラインも持たず、ガイドラインに沿ったこともせず、ひたすら読み聞かせ信仰の中にいる・・・それは認めるとしても、子どもたちが本が読めない、読まないという現象があるかぎり、その現象を引き起こす原因はあるはずで、それは子どもの成育環境を見ていればおのずからどういうものが読書力を奪っているかがわかるのだ。ところが、それについて何も言わず、当然、否定もしない。これは不思議なことだ。

読書を阻むもの

 みなさんも知っての通り、子どもはなかなか読書に向かわない。中には、いきなり小学校中学年あたりから読み始める子もいるが、それはまったく稀なことで、多くはじょじょに読み始めて、内容の濃い高度な本に向かうのがふつうだ。実際はなかなかそうはうまくいかないことが多いのだが・・・・その原因は何か。つまり、山ほど読書へ向かう道を遮るものがあるのである。いつも言っていることだが、赤ちゃんのときのテレビから始まり、幼児期のキャラ本、アニメ絵本、長じてはゲーム、サブカル本、芸能情報、お稽古事・・・枚挙のいとまがないほど、子どもの成長の途中で読書の敵が現れる。
 ふつう、各家庭では、これを避けたり、適度に付き合ったりしながらようやく読書に向くわけだが、こういう時代だから子どもを本から遠ざけるものは無数に存在するのである。再び強く言おう。読書の敵が確実に存在するのに、「子どもに本を読んでもらいたい」と思っているはずの大人の中に、この害について言及したり、「やめた方がいい」と言う人に出会ったことがないのだ。もちろん、その話を始めると「そうですね。」とか「ほんとうに困ったことで・・・」とは言うのだが、公の場では触れない人がほとんどである。読み聞かせ関係者、図書館関係者、学校関係者など、子どもに読書を奨める人たちの口から「読書の敵への批判」の話が出ないのだ。

無頓着な親と子が多いので

 ふつう一般の親と子は、じつは何が良くて何が悪いかなどはまったく考えていない。テレビで流れれば「それは良いもの」、周辺で流行れば「それが良いもの」程度にしか感じていない。
 しかし、じつは、それを無制限に受け入れていくと大変な結果になることもあるのだが、一般的に多くの親はあまり真剣には考えていないのだ。「子どもが喜べばそれでいい」と思っている。そこに悪いものがはびこる下地ができる。だからこそ、読書を奨めたい大人が、「そういうものはやめたほうがいい!」とハッキリ言わないと、彼ら親たち、子どもたちは「こういうものを読んでも大丈夫なのだ!」と思ってしまうのである。
 いま訳の分からない事件や悲惨な事件が起こっている。しかし、それを起こした犯人の子ども時代(あるいは現在も)に何が入り込んでいたかを分析することはほとんどされない(今月号増ページでも触れていますがね)。
 友人をイジメ殺した子どもたちは小学生時代に何で遊んでいたのか、何を見ていたのか、何をしていたのか・・・少女を監禁した青年たちは、幼少期から青年期までに何を見て、何を読んで、どういう遊びをしていたのか。おそらく、犯人の親たちは事件が起こっても、自分が与えてきたものが原因だったとは考えられないだろう。みんな世の中一般誰もが見ていた、やっていたものを与えていたのだから、それらが原因とは決して考えない。親どころではない。裁判官も弁護士も、担任だった先生も原因追究などしはしない。
 しかし、こういう無頓着な子育てが山ほどあるのだから、最低限でも「キャラ本、アニメ絵本、HOW TO本、サブカル本は本の形はしていても本ではないよ!」「精神に影響も出るものはやめようね。」くらいは言っておく必要があるのである。
 だから前回述べたように、学校図書館が芸能本を入れたり、サブカル(以前挙げた犯罪を煽るような)本を置いたりすることは、司書自体が親以上に「無頓着」すぎるのである。ここでも、ふつう一般の親は、「学校図書館にある蔵書なら悪いものではない!」と思い込んでしまう。これでは、まったく学校図書館の選書機能など無いに等しいとしか言えなくなる。

残り「1%」の問題

 真の意味で「読書をしてもらいたくない」と思っている大人がいることは事実である。すぐれた書物は人間の精神というか人格に大きな影響を与えることがある。大人の作った世の中がウソっぱちであることを見抜く力を本が持っているとしたら、嘘っぱち社会を作った方の大人は、子どもたちに優れた本を読んでもらいたくはないだろう。真実を知られることは自分たちが危険になるからだ。とくに思春期の子どもは鋭敏だから、嘘っぱちを行っている大人にとって、自分たちに都合の悪い内容が書かれた本を子どもたちが読んだら困るのである。
 その証拠を挙げてみよう。
 これだけ小学校で熱心に読書推進運動をして、もの凄い貸し出し競争を行っているのに中学に入ると手のひらを返したように読書はどうでもよくなる。代わって「部活」と「学習(受験)」がメインとなる。中学生は、この二つで完全に時間を拘束され、読書どころではない。親も良い高校に入れないと困るので「本など読まなくていいから勉強をしなさい」となる。
 私は、「これって、何となく『1%』の時間泥棒たちの術中にはまっているのではないかな」と思うのだ。彼らにとって「子どもたちが自分たちに逆らわないことが(教育として)理想の人間像。「逆らうと内申書が悪くなるよ」「良い学校に入らないと立身出世ができないよ」「成績が悪いと幸福になれないよ」という「1%」の人々がいるのではないかと思う。この考え方の下で、意図的に優れた本は隠され、子どもたちは部活や受験勉強の息抜きとして「しようもない本」ばかりを読むようになる。(新聞九月号増ページ一部閲覧)



(2012年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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