ブッククラブニュース
平成25年2月号(発達年齢ブッククラブ)

福は内!鬼は外!

 いやはや今年の冬も甲府は寒くて参ってましたが、胃腸をやられる風邪、RSウイルス、ノロウイルスなど昔はあまり聞かなかった病が出ています。などと、言っていたら私もやられて嘔吐、下痢・・・最後は意識がなくなるほどの状態になりました。これは次女の家族から、妻、私と伝染してきたものですので、状態の予測はできていました。予測はできたけれど、いざとなるとやはり大変なものです。
 このように外から降りかかってくるものは、たとえ予測できても、実際に影響を受けるとなかなか対応できないことが多いです。鬼が入ってくることが予測できても、いざ入ると弱い人間は何もできません。イワシの頭にヒイラギを刺して、「鬼は外!」と叫ぶしかないのでしょうね。
 これまでも、世の中で流行るものの影響について、たとえばケータイとかネットとかサブカルチャーなどでやがて起こるモラル崩壊を予測したりしましたが、影響を受ければほとんど身を守る対策もなく、なしくずしにやられるのがふつうです。
 以前、ある老女が「最近の若い人は話をしている最中にケータイが鳴るといきなりその場でしゃべりだす。」と憤慨していましたが、数年後にはその老女が私の前で同じことをやっていました。便利さはモラルを変えます。まあ、どんな状況にも対応していくという女性的な能力と考えればいいのかもしれません。

ショールーミング

 先日、同業の書店をやっている人が「もう日本人は節度もなくなったよ!」と「ショールーミング」について話しながら嘆いていました。ケータイすら持たない私は全く知らないことだったのですが、これは、小売店をショールームのように利用することです。店では商品を見るだけで、実際の購入は自宅のPCやスマホなどからショッピングサイトにアクセスして行うもの。これだけではあまり問題がないように思いますが、「やりかたが露骨になってきている」とのことです。
 Amazonがインターネットで本を売り始めたころから、店頭の立ち読みで確かめ、注文は家に帰ってAmazonにする、という人がいました。でも、そのころは、「何となくお店に悪いな」という気持ちもあったようです。それでも買うのは、安さが魅力だったからでしょう。ところが今は、この「クリック買い」を本屋の中でスマホを使ってできるのです。Amazonのアプリ「プライスチェック」の機能。スマホにダウンロードして使うそうです。その店に気に入った製品があれば、バーコードを写真に撮るだけですぐにAmazonのサイトへ飛び、その商品のページが表示される。たいてい、Amazonの方が安いので、その場ですぐにクリックして買うというわけです。
 この手のアプリを出しているのは、Amazonだけではなく、他にもたくさんあるそうです。小売店側から見れば実に迷惑で失礼な話ですよね。選りすぐりの品揃えが自慢の専門店があっても、試着したり店員に尋ねたりした挙げ句、スマホを出してシャッターを押してクリック。そのまま何も買わずに帰ってしまう、ということもあたりまえになっているのかもしれません。

ゆめやではルーミングはない?!

 ゆめやには、こういう情報だけを得るためにやってくるお客様はほとんどおりません。それでも最近はホームページを見て入ってくる客もいますから、そういう対応は心がけています。しかし、ウインドショッピングの客は、会話をしませんから問題はないのです。それでも入ってくると、彼らは置いてあるチラシなどを手にして持っていくだけだからすぐわかります。レジの前に置いてある夢新聞やニュースを持っていく人もいます。これだって、会費を払っている会員の方にだけ配るもので決してフリーペーパーではないのですが、彼らは置いてあるものはみな無料と思っています。まあ、そこには重要な情報は書いてないので、心の中では「はい、どうぞ!」なのですが・・・・・。個人的には、そんなモラルのない人もいることがわかるだけでもおもしろく思っています。私は一番重要な情報は、ちゃんとお金を支払ってくれる得意客にしか流しませんからだいじょうぶですが・・・・。

ものすごい環境負荷

 さてさて、ショールーミングですが、こういうものが横行すれば地方の商業が沈滞するどころか、都会の店もデパートもやられていきます。便利さや情報化がモラルハザードを引き起こして、やがては地方経済ばかりでなく都会経済の崩壊までいく、これは自明の理ですね。「消費者にとってお得」という感覚が命取りになっていくわけで、これは外部から大きな業者が入ってきて、それまでの健全さを壊していく・・・いわば強い者が一人勝ちの世界です。それが人を壊す、社会を壊す。Amazonは、いまクロネコと郵便局が配送を受け持っていまが、このドライバーたちが嘆きます。価格は叩いてくる、量が多いから日曜出勤も増えてきて忙しいだけとなるのです。さらには、運送の燃料など環境負荷も大きくします。まだ業者はいいです。
 消費者である客たちは、この急速なショッピングの進歩や変化にルールやモラルが追いつかないのです。立ち食い、歩き食いなどを日常化させる外食産業、会話せずに物が買えるコンビニ・・・人間を壊すものが外から入ってきてゲーム感覚やネット感覚で人間が使い始めていることに、どのくらいの人が危機感を持っているでしょう。ゆめやに来るお客様は誰もが、必ず会話をします。この当たり前のことができない人が増えているのです。儲けが優先・・・でもその儲けは外国にどんどん吸い取られていくのではないでしょうか。それに伴って、モラルもルールもなく広がる消費。
 ショールーミングの客もそうでしょうが、ウインドショッピングの客も入ってきて「こんにちは」も「見せてください。」も言いません。でもね。そういうことが、やがてその人の「孤独」につながるのです。
 私たちにとって、この市場原理主義は一人勝ちだけを目指す冷血な「鬼」でしかありません。これは、家の中に入ってきて、すべてをひっかき回し、もともとあった「福」を追い出していくようなものです。「便利なことは良いことだ!」「手軽なことは良いことだ!」・・・そうこうするうちに人間関係も崩壊。この行きつく先は、相互扶助も相手への思いやりもない「争奪戦」です。最後は戦争かな? 何とか「鬼は外! 福は内!」を言わないと・・・モラルも何もなくなりますが・・・目先の欲に目がくらんだ日本人・・・まあ、行きつくところまでいくでしょうね。(2月号ニュース一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話 (1)鳥獣戦争

 今年は、昔話について、ちょっとゆめや流で読み解くシリーズを設けました。すぐれた物語・昔話は時代を越えて理解できる普遍的なテーマを持っています。有名な物語、昔話はスジだけなら誰でも知っている話ですが、それをどう読むかは個人のレベルによります。話そのものだけを知るのではなく現代にどのくらいつながるか、下手な現代の創作物語より、昔のもののほうがはるかにすばらしいものがあります。今回は、「卑怯なコウモリ」で知られる「鳥獣戦争」を取り上げてみましょう。

 昔、鳥と獣が争っていたころの話。戦況を見ていたコウモリは、鳥が勝ちそうになると鳥たちの前に姿を現し、「私はあなたがたの仲間です。ほら翼もあるし、空も飛べます。」と言う。獣が有利になると、「私は獣です。毛皮と牙があるネズミの仲間ですから・・・」と言う。ところが、その後、鳥と獣は争いをやめて和解してしまった。幾度も寝返りを打ったコウモリはどちらの種族からも嫌われ、やがて仲間はずれに・・・。
 鳥が飛ぶ昼の大空は飛べないから夕方だけの飛行になり、夜は獣がいる森を動くことができず、けっきょく暗い洞窟の中へ身をひそめるようになった、というイソップの有名な寓話。

「鞍替え」という生き方

 なんだかこういうことが、最近ありましたよね。選挙で自分の所属する政党が負けそうになると、勝てそうな政党に鞍替えするというものです。ゆめやの選挙区にも、その典型のような人がいまして、とにかく旗色が悪くなると選挙に勝ちそうな政党にスーッと移る人なのです。四回も所属を変えていますから情勢を読む力は見事なくらいあります。まさに鳥獣戦争のコウモリ。笑ってしまったのは、その人の選挙ポスターです。民主党から維新の会に鞍替えしたのですが、何と民主党の広報掲示板に「維新の会」のポスターとして貼られていました。この掲示板を塀にかけているお宅は民主党支持なのか維新の会指示なのか・・・それとも候補者本人の指示なのか。もちろん、本人に言わせれば「選挙に負けたら、自分の政策を生かすことができなくなる」ということなのでしょうが、何となく薄汚い生き方だと感じるのは私ばかりではないでしょう。
 こういう人は皆さんの身近にもいるかもしれません。PTAとかご近所のつきあいとか会社関係とか、発言力の大きな人にくっついて、その人が他の人に負けそうになると、すぐに寝返る。そういうのは、小学校のころからいました。自分の考えなどないので、強そうな側につく・・・これは子どもでも大人でもいます。生き抜くためのひとつの方法でしょう。
 ただ、初めのうちはいいけれど、何度も裏切ると「あいつは、そういう奴だから」という目で見られるようになります。
【教訓】何度も裏切る者は、やがて誰からも信用されなくなる

イソップの話は・・・

 ただ、これはイソップ童話です。イソップはもともと奴隷で、巧妙な話を作ってご主人様に取り入り、奴隷の身分から解放された人です。だから、どの話のテーマもなんとなく上におもねる内容が多いという気がします。イソップ自身の生き方がコウモリだったのかもしれません。力の強い者におもねって生きるとというのは一つの生き方です。「寄らば大樹の陰」という言葉もあります。周囲とのバランスではなく、自分の頭で生き方を考えて、自分の立場を固め、揺るがないで生きる・・・これが「信頼」を生みますが、どうも日本では多数の強い側につく人が多いようです。と、いうことは「変わり身」が上手なら生き残れる社会なのでしょうね。強い方につくのは生きぬく方法かもしれませんが、果たして信用はされるのか。生き続けることはできるのか。
 「信用」とは辞書によれば「確かなものと信じて受け入れること」ですが、その人の思考、言葉、行動が確かなものと認められなければ人は信用しないでしょう。むずかしいことですが、親子関係、夫婦関係から友人、組織の関係まで・・・なるべくコロコロ考えを変えずに、言ったことはできるだけ守って生きたいものです。

本の壁 4・7・11

 年度末になり、学校生活も何かと忙しくなっているのではないでしょうか。インフルエンザも流行しています。とにかく忙しい時代です。時間に追いまくられている状態の子どもたちも多いでしょう。いまや大人だけではなく子どもまで余裕がない時代になってしまいました。
 ブッククラブ内部でも以前に比べて読書挫折が多くなっています。それはそうですよね。時間がない。塾、お稽古事、スポーツ。息抜きに読書は重たすぎる。さらに、これだけ子どもの気を引くものが溢れていたら読書などバカバカしくて・・・となります。読む子は逆にとんでもなく読むのですが、読めなくなる子との二極分化が進んでいるように思います。もちろん、ブッククラブで配本している本のレベルでの読書挫折です。ゾロリなどの軽い本は読めてあたりまえですが・・・まったく、いろいろな意味でむずかしい時代となりました。
 以前から、子どもが育っていくとき、子どもの前に本の壁が現れまました。4・7・11という本の壁。つまり4歳、7歳、11歳で本離れの壁が立ちふさがるのです。まともな本から離れたり、拒否反応が出る時期です。

4の壁

 4歳の原因は、自動車や電車の図鑑などを大量に与えられて関心が偏ったり、戦隊ものやアニメに狂ったりで本(読み聞かせ)から離れます。ブックククラブでは1歳からの読み聞かせの効果もあって、ここで挫折してしまう子は一握りですが、それでも年に数人います。とにかく車の本でないと興味を示さない、戦隊ものにドップリ、電車の形式なら何でも知っているが、他の物語には一切見向きもしない。女の子でもプリキュアやジブリアニメ、ディズニーにハマりきっている4歳児がいます。こういう子がふつうの絵本の読み聞かせに対応できず、離れます。しかし、考えてみればブッククラブで1歳から読み聞かせをしてきたはずなのに、そうなってしまうのはなぜなんでしょう。ひとつ考えられるのは、親自身がそういうもので育ってきているためにあまり問題意識を持たずに与えてしまうこと、もうひとつ考えられるのは、乳幼児保育で保育園育ちの子が周囲の粗悪な生活環境で育った子に同調していくことです。これは、ブッククラブ内部では少数派ですが、一般社会では多数派です。

7の壁

 7歳の壁は強力です。何と言っても読み聞かせから一人読みへ移行をしなければならない時期のうえ、学校ではゲームの情報やサブカルの情報が子どもたちの話題のトップになります。当然、影響されて本から離れていく子は多いのです。中学年が一番の山場なのでしょうね。ここではゲーム関連情報が子どもたちの情報交換の中で最も上位に来ますから、のめり込む子どもが増えてきます。女子でさえ芸能情報やアニメ関連情報がやはり情報交換の最上位に来ます。おどろいたことがあります。学校の先生がAKB48のファンで、その話を授業中にする・・・子どもの気を引き付けたいのはわかりますが、芸能がモラル破壊の一端を担っている部分があることをその教師は知らないのかもしれません。いずれにしろ、この壁は乗り越えるのが大変です。ブッククラブ内部でも30%近くが3年生くらいで脱落します。一か月一冊の本も読めなくなるわけです。と、まあ、私は驚きますが、じつは大人の社会でも大人の本をまとも一か月一冊読む人はすくないわけで、それを考えると、「読まない予備軍」を形成していく当然の結果なのかもしれません。

11歳の壁

 ・・・これはもう学習や習い事、スポーツ練習などが壁を作っていきます。ただ、ブッククラブでは、ここまで来ると読む習慣ができているので、わずかな時間を見つけては読書する子も多くなるので本離れは少ないのですが・・・問題は、ここから中学、高校です。あれほど「読書推進」を叫んでいた小学校と違って、中学高校はあまり読書に力を入れないのです。このため読書をする子は少なくなっていきます。

効果的な対策は・・・

 中学年の読書状態について配本を読みこなせなくなっている状況について、あるいは月一冊の配本ですら手をつけられないまま過ぎているばあい、原因について何か思い当たることはないでしょうか。当然、家庭や個人によって違いますが・・・ちょっとお子さんの状態を観察してみてください。
 1. 配本内容がむずかしいと感じている様子がある
 2. 漫画など軽読書にしか関心が向かない
 3. 電子ゲームへの関心が強くなり本へ行かない
 4. ケータイ、パソコンなどへの依存傾向がある
 5. おしゃれ、ファッションなどに強い関心がある
 6. スポーツ、外遊びなどで疲れが出てしまう
 7. 塾、学校の課題、お稽古事などが多い・・・
 原因別の対策について・・・(1)(2)については、配本グレードの変更や物語の分野の変更で対処できます。これについては個別に御相談ください。状況を詳しく教えていただければ、適合グレードのものに変更します。
 ただ(3)以降の原因は環境の問題であるため、なかなか効果的な対策がありません。これまでのケースでも、ほとんどのばあい、読書から離れる傾向となります。あまり本から離れるばあいは、配本の打ち切りを視野に入れてお考えください。無理やり「配本を読みなさい!」という圧力は、将来どこかでまた読書に復帰するときに障害になります。無理に強いると義務的に読む感覚になり、本が楽しいものでなくなってしまいます。過去の絵本の読み聞かせや自分で本を読んだ記憶は目に見えないところで大きな成果をかもし出しています。現状ではそれが見て取れないことが多いのですが・・・・・大きな力になっているはずです。ただ本は楽しくなくては本ではありません。
 いろいろな思いがあるでしょうが、環境の改善を先決にして、本はまたいつか読めればいいとお考えになったほうがいい方もいるはずです。無理強いするのは私どもも不本位ですので、お考えください。

読書で想像力をつけ、未来の危険を察知

 とにかく不安を煽る事件が続発で、この国の為政者は何を考えているのだろうと思いますが、国が国民の安全や保証を最優先にした歴史はいまだかつてないことなので、逆に国民がそれに考えなくてはならない時になっているのかも知れません。
 このところ、見ていると親の子殺しや子の親殺しが目立ちます。反感を社会に向けないで親や子などの肉親に向けていくというはどういうことなのでしょうか。思春期の若者ならともかく、五十歳の子が七十歳の親を・・・衝撃です。でも、ほんとうに「衝撃」があるのかどうかというと「?」です。なぜかというと、この十数年あまりにも多くの事件が起き、人の気持は鈍感になってしまっています。「またか」、「かわいそうに…」くらいで、多くの人が新聞紙上の出来事、テレビ・ニュース内のドラマとしか取らなかったのではないでしょうか。つまり、他人事です。もっとも事件を引き起こす人もろくにまともな本を読んではいない感情だけで動く人ばかりなので、自分の未来も見えない想像力の欠如もありますが・・・・・。

忘れることで保つ怖さ

 先月あった外国で働く日本人の悲惨な事件はもう忘れられています。去年の事件など記憶の中にもない状態です。これは、あまりにも多い情報をいちいち取りあげて考えたり、思いをかけたりしていたら精神病になりかねないので、「忘れる」ことで実感を持たないように防御本能が働いているのかも知れません。
 でも、殺された人は目立たない敷地の土の中や寒い風の吹く暗い山林に確実に存在しているのです。当然、事件や事故で肉親を失った親たちの説明しがたい気持も存在しつづけます。理不尽と不条理がどんどん増えていきます。新聞はセンセーショナルな見出しと数十行の事実で次の交通事故の記事に移り、テレビもまた数分の報道でバブル再燃の番組やバカタレのバラエティに移っていきます。次から次へと……。だから考える暇がない・・・。本を読む暇もない。
 そこには、殺された親や子どもを失った親たちへの「思い」がない。テレビを観ている人たちには子どもを殺された親の気持に自分の気持を置き換えることもない。もっとも、こういう人々は、ろくにまともな本を読んではいない感情だけで動く人ばかりなので、世の中の未来も見えない想像力の欠如がありますが・・・・・。国策とはいえ、一儲けで危険なところへ行けば、当然、危険は覚悟のはずですが・・・・どうも、そうではないらしい。

「夜と霧」状態

 そうして過ごしているうちに、「自分の子には絶対にこういう事件は起こらないだろう」という確信のようなものまで生まれてきます。昔、強制収容所では周囲の多くの死に「思いをかけない」ことで「自分だけは助かる」という安心妄想が持つ人が多くいたということですが、このフランクルの衝撃的な本「夜と霧」の心理構造はまさに現代社会によく似ているのではないでしょうか。つまり意識的には日本社会がアウシュビッツと同質になっているのかもしれないのです。
 考えてもみましょう。原発事故で故郷を追われた人は何万人もいて、それは国策が犯したことであり、企業が犯したミスでもあります。お金を生み出すものを守ろうとする国と電力会社。虚偽の公表をしながらごまかしていくのですが、これは欲がなせる業なのです。それなのに、追われた人からも見守る人からも怒りも批判も何も出てこないのです。自分たちは「安全な中にいる」・・・「被害にあった人は運が悪いのだ」という気運になって、安全幻想を高める・・・凄い国です。これでは、笹子トンネルで天井版が崩落して人が死んでも、死んだ人は運が悪く、高速道路会社の責任は追及されません。
 これは自由と豊かさが生んだ悲劇でしょう。どこにも抑制がない。でたらめな育ち方をした人間が平気で自分の欲を拡大する世の中です。抑制が外された時代にはこういう悲惨な事件が起きることは昔からありました。
 マックスピカートというドイツの哲学者が「沈黙の世界」という本の中で、ナチスが台頭して悲惨なことになった背景には、国民が新聞(無関連な記事が紙面に踊る)しか読まず、ラジオ(わずかな時間で無関連な番組が流される)しか聞かず、思考力を失っていったからだ、と言っています。日本の意識状況は、きわめてよく似ています。
新聞はインターネットに変り、ラジオはテレビに変りまししたが、無関連なものの垂れ流しは極まっています。もっとも、新聞を読み、ラジオを聞く人も、またネットをして、テレビを見ている人も、ろくにまともな本を読んではいない感情だけで動く人ばかりなので、社会の未来も見えない想像力の欠如がありますが・・・・・。

ソドムとゴモラ

 三千年以上前、豊かさを得た人が同じような世の中をつくってデタラメを始め、神がモーゼに十戒を与えた話は有名です。「休みの日には休む。父母は敬う。殺人はいけない。姦淫もいけない。盗みもいけない。偽証もいけない。他人の家をむさぼってはいけない。他人の妻や家畜や奴隷など隣人のすべてのものをむさぼってはいけない。……」…これが十戒ですが、なんとまぁ、今の世の中に当てはまることか。こんなに休日に働く時代はかつてあまりなかったし、父母を敬うどころか打ち捨てる子さえ出てきています。姦淫なんてあたりまえ。盗みなど少年から老人までやっています。政界・財界・一般企業まで偽りの連続。
 あとの維持など考えずにつくられるインフラ。振り込め詐欺など隣人をむさぼる日本人は山のように増えています。もう少し、想像力を高めないと・・・危うい方向に・・・・行きかねない。
 これへの対策などあるでしょうか。ケータイ持たせようが、GPSをつけようが、心がゆがんでいたら対策もケアも無意味なのです。人に対して思いがいかなくなった時代。子どもの心をTVゲームやインターネットで劣化させてしまった家庭の悲劇が、この「人の気持に思いをかけない」世の中をつくってしまったわけです。
 どこかの首相は「額に汗して勤勉に働き、家族を愛し、自分の暮らす地域や故郷を良くしたいと思い、日本の未来を信じたいと願っている人々、そしてすべての国民の期待に応える政治を行ってまいります。」と演説しましたが、それと戦争ができたり、バブルで一儲けするのは矛盾しないのでしょうか。それとも、この演説は強欲の論理をひた隠すためなのでしょうか。
 十戒を無視した人々に神は怒り、滅ぼしたという「ソドムとゴモラ」という都市の話も聖書に載ってます。本に書いてないことはないのです。それを読んで想像すれば見えて来るものもある。人間という動物は神の怒りに触れないと懲りないものかもしれませんが、大津波や原発事故などが起きても懲りない「欲の深い」人間もたくさんいます。もっとも、演説する人も、津波被害にあった人も原発被害で逃げている人も、全部が全部と言うわけではありませんが、ろくにまともな本を読んではいない欲得だけで動く人ばかりなので、世の中の行く先も見えない想像力の欠如があります。
 もう少し、より多くの人に思いをかける…自分の子だけではなく他人の子にも…子を亡くした親にも、さびしい老人にも…そして、悪さをする人間とは断固戦う強い心が要求されている時代だと思われます。そのためにも、時間に追いかけられないゆっくりとした生活を取り戻す必要があるのではないでしょうか。欲をかくから時間に追われます。お金がたくさんあっても幸福ではない家が山ほど出ています。(2月号新聞一部閲覧)



(2013年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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