ブッククラブニュース
平成25年7月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせでお困りのケース
参考意見B1歳後半

 一才半になると、ほとんどの子どもは絵本への関心が高まってきます。ここでの問題は親。とかく偏差値世代の親は、「これだけわかっているのだからもっとわかるのではないか」と思い、対象年齢が高いものを読み聞かせたり、次々に本を与えたりします。理解度が見えると焦る親がいるのです。
 こういう傾向の顕著な親は、まだ本もわからないうちに(生後半年くらいで)読み聞かせをしたりして、どういうわけか子どもの理解度を他の子と比べたがり、何かに妙に焦っています。早教育を煽る本もたくさん出ていて、「生後三か月でも物語を聞ける!」などという一種の扇動のことをやっているものもあります。
 子どもの発達は個人差もありますか、それぞれの時期にそれなりのことをしなけれはならないわけ生後6ケ月なら読み聞かせよりは、いろいろなものに触らせたり、なめさせたりして、皮膚感覚で認識することをさせたほうがいいのです。1歳過ぎても子どもにとっては、本は大人が知っているように使うものではありません。まだまだ物。とにかく以前も話しましたが、ソニーの井深さんが早期教育を提唱して、結果、うまくいかなったことを反省しています。あたりまえですよ。するべきときにしないで、しないでいいときにしたのでは、大人でも身に付きません。それを遊ぶべき時に学習では頭に入るわけはなく、覚えたように見えるのはオウム返しや繰り返しです。

読み聞かせが楽しいということを知る

 ですから、ちょっとくらい分かってきたからといって、つまらない焦りから高度な本を与えたり、読み聞かせたりするのはやめましょう。子どもながらにも負担を感じるでしょうし、負担を感じない子は与えられる本を回転寿司状態で次々に受け流して、そういうもんだと思ってしまうでしょう。絵本はフラッシュカードではありません。
 この時期には、ブッククラブでは「もこもこもこ」や「もけらもけら」のような感覚的な絵本が入ります。認識絵本もワイルドスミスの動物絵本のような絵画的ものが可能になってきます。ですから、この時期は、言葉の教えこみより、いかに絵本か楽しいものであるか、あるいはお母さんのひざにだっこして、お母さんの声を聞きながら、息づかいまで感じ取れる幸福感を親子で共有する段階です。同じ本でも何度も何度も読んであげましよう。

1歳後半は重要な時期

 配本は、まだ少ない量ですからお子さんか持ってくる本は、繰り返し読んであけてください。新しく配本された本は第一印象で「好き、嫌い」の判別をするかもしれませんが、何度か読めばたいていの本は好きになります。「忙しいから後でね。」は禁句。一才代の子には時間感覚はありませんから、持ってきたとき、こちらから読ませようとするときが読み聞かせどきです。ここで絵本が好きになるかならないかで、以後の読み聞かせへの気持ちがかなり決まってくるように思います。二歳になれば外遊びか活発になって、寝る時間の読み聞かせになってきますから、一歳代の読み聞かせは、その後の絵本読み聞かせの基礎をつくるものだと思います。とにかく、親子が一冊の本を前にして楽しい時間が過ごせるということ・・・・これがすべての決め手です。
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七夕の願い

 梅雨が明けてすぐに高温の日々がやってきた甲府です。半月ばかり前から七夕の笹の枝に吊るす短冊を来店した子どもに書いてもらっています。まだ字の書けない子はお母さんが書きます。そして、どんどん吊るしていくのですが、ほんとうにいろいろな「願い」があるのがわかります。なかには「手術がうまくいきますように」なんてのもあります。聞けば赤ちゃんの心臓の手術・・・これは何が何でもうまくいってもらいたいです。
「赤ちゃんが元気に生まれますように」もあります。今年は、にぎやかな夏になるのでしょうね。
 「○○(お父さんの勤務地)に行かれますように」・・・パパは単身赴任なんですね。切実な願いですが、夏休みになればきっと会えるでしょう。もうちょっとです。
 それにしても暑い夏になりそうですが、笹の葉サラサラで一夜明けて、甲府は38.2度、夏が始まってすぐなのに全国最高気温を記録するのも凄いところです。でも、この気温の上昇のように、みんなの願いが天に届いたのではないかと思います。もちろん、ゆめやも短冊に一枚・・・何を書いたのかはヒ・ミ・ツ。ま、すぐにはかないそうもない願いですが、「早くかなうといいなぁ」と思っています。

世界遺産

 富士山が世界文化遺産に認定されました。喜ばしいことですが、我が家の窓を開ければ毎日見える山なので、ゆめやとしては感動はあまりありません。でも美しい山なので世界に知ってもらいたいとは思います。
 富士山は山ですから、ふつうは自然遺産に指定されるべきだと思うのですが、なぜ認定されなかったかというと、環境で問題があったのです。けっこうなゴミ捨て場として富士山の麓が利用されていました。樹海の中でも道から少し行くと家電の廃棄物や家具なんかが捨ててある場所もあります。また北側には米軍の演習場があって、山中湖あたりに行って風景を見ているとドーン、ドーンと雷のような音が聞こえます。大砲を撃っているのです。これでは自然遺産にするのはむずかしいですね。
 で、昔から富士山を信仰した人たちが生み出した富士講という文化を中心にして富士山を「信仰の山」として文化遺産にしたわけです。「昔から」と言いましたが、日本の一番古い歴史書「日本書紀」、それからあの有名な「古事記」にもどういうわけか富士山が出てきません。「そのころはなかった」とは思えませんが、裾野を通って行ったヤマトタケルの目にも富士山は映らなかったようです。 もっとも、富士山はちゃんとあったけれど、ヤマトタケルが通ったときに誰かが他に動かしていたことも考えられます。左の写真は私が店の近くで今年の冬に撮ったものですが、誰かがクレーンを使って富士山を吊り上げて、どこかに持っていこうとしていました。

暑さに負けないで

 さて、冗談はともかく、今年の夏は暑そうです。甲府は梅雨が明けたとたんに38度越え、お隣の甲州市ではなんと39度越え・・・当然全国最高気温を連日記録しています。長く暑い夏、熱中症や水の事故には気を付けてくださいね。でも、森や川、山や海・・・夏でなくては体験できないところもたくさんありますから、楽しんできてください。
 キャンプもいいですよね。海水浴も楽しい。この時期は読書なんか忘れてもいいですよ。もちろん、好きな本を旅行先に持って行って読むのもまた新鮮な感じがあるかもしれません。おもしろい夏を過ごしてください。そして、九月には日焼けした元気な顔を見せてください。(新聞増ページ一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話 D桃太郎

 日本昔話ではもっとも有名な物語。流れてきた桃から生まれた桃太郎が成人して鬼が島に鬼の征伐に行き、鬼を退治して凱旋するというもの。原話もあるが、かなり内容が変化して、宝物を取っても来ない桃太郎、お姫さまを連れて帰ってくる桃太郎などいろいろある。ブッククラブでは赤羽末吉の絵を重視して福音館の「ももたろう」を入れているが、これは宝物はいらないと言って、お姫さまを連れてくる桃太郎だ。再話内容はいまいち評価できない。原作に近いのは講談社の桃太郎だが、これは内容が幼児にはむずかしすぎるので、しかたなく赤羽版を採用している。
 
「桃太郎」は、ひじょうに儒教の影響が強い話だ。つまり、昔の日本での「男の子の理想的な育て方、男の子の生き方」を語るものである。
 当然、すべて比喩の形を取って話は進行していく。流れてくる桃は女性の体そのものだし、おじいさん、おばあさんは父母そのもの。おじいさんは山に芝刈りに行っているが、これも父の恩は山よりも高いことを表わし、おばあさんが川で洗濯しているのも母の恩は海よりも深いことを表わす。生まれた子は一杯食べれば一杯だけ成長する。これも親の子育ての成果だ。そして成人したら家を出て、現実の荒波と戦わなくてはならない。引き籠ってなどいられない。
 男の子が世の中に出ていくときに父は世の中と戦える能力(刀)と物事に屈しない誇り(日本一の桃太郎と書いた旗)を与え、母はキビダンゴという粗末な食物をもたせる。人間が生きていくうえで必要な誠実さ(犬)、勇気(キジ)、智恵(サル)は、豊かな生活では身につかないからである。
 当然、鬼が島は現実社会である。その現実社会と戦って勝てば、報酬(宝)を得ることができる、また名を挙げることもできる。立身出世したら、故郷に錦を飾る(成功したらきれいな着物を着て故郷に戻り、父母に恩を返す)・・・これが近代までの日本の男の子の育て方だった。いまだにそういう意識で子育てしている人もいる。
 現在では「立身出世」とか「故郷に錦を飾る」という教えは時代錯誤である。しかし、豊かなのに子どもに物を食べさせないで虐待する親、子どものしつけを外任せにする親を見ていると、「社会に出て戦えるように育てているのだろうか?」と疑問が出る。その意味では、昔話「桃太郎」のジジ、ババは真っ当な子育てをしていると言える。親が@子に食べさせ、A考え方を教え、B誇りを持たせるのはいつの時代でも子育ての基本だからだ。そうすれば、子どもは悪戦苦闘しながらも誠実さや勇気や智恵を学んでいくものである。それはどう生きるかの人格の基本にもなる。
 しかし、子どもを大切にしすぎる親、すべて子どもの言いなりになっている親も多くなった。悪いことをしても叱れない親さえいる。さらに、子どもの先回りばかりをして、何の体験もさせないで体だけ大人にしてしまう子育て。そういう親が子どもに「自分の名にかけて恥ずかしくないことをしろ!」と言えるかどうか。ま、それもこれも大変な「錦」になって親の身に戻ってくることだが・・・・気を付けてくださいね。とくに一人っ子の男の子を育てている方は!

   【教訓】世間で生きていくためには、それなりの子育てが必要だ

読み聞かせのゆくえ (2)

 私が絵本専門店を始めたのは、1980年のことである。べつに絵本や子どもの本が好きだから始めたというわけではない。今でもそうだが、どちらかというと大人の本のほうが好きだ。絵本や子どもの本は「なるほど」と思うものがあっても、なんとなく大人としては物足りない。
 では、なぜ絵本専門店などを始めたかというと、「世の中の悪化」を強く感じたていたし、80年代に入って急速に子どもの危うさを感じたからである。1980年‥・TVゲームが出現した。最初は一画面での操作・ピンポンとかバレーボールのようなものだったが、すぐにステージ・クリア型、RPGになり、あとの変遷はご承知のとおり。 80年代の子どもの遊びは、TVゲームが主力になった。それに関連した事件も増加してきた。
 そこで、「絵本で子育てしたい方々のために、サブカルチャーの歯止めとなれば・・・」と抵抗を試みたのが、このブッククラブである。世紀が変わるころまでは、読書に関心のあるお母さん方、社会の傾向に疑問を持つ方などが参加してくれて、現在のようなブッククラブを形成することができた。これは私にとって思いがけない成果だった。とにかく、ブッククラブに参加してくる方々でおかしな人がほとんどいないのである。周囲では「異常」が増えているにもかかわらず、だ。これは今でもそう感じている。子どもに読み聞かせという手間暇かかることをしてやる親、本を与える親に変な人がいないのはあたりまえのことなのだろうが・・・。
 しかし、ここ数年、時代の悪化の影響が親や子どもまで出てきたことを感じないわけにはいかない。考えれば、80年に生まれた子どもが親になっていておかしくない時間の経過だ。その子どももまたさらに世の中の影響を受ける。絵本の読み聞かせをしていれば、「キレない」くらいの効果はあるだろう。問題は絵本を読んで、そのあとどのような本を読書し、どのような考えを身につけていくかである。
 同時に、成長のそれぞれの時期に出会うサブカルチャーに潰けたら、「キレない」保証もできない。要は「高度な思考ができるまで持っていけるか」だが‥・読み聞かせのゆくえは家庭環境(あるいは親の価値観)が握っているといえる。良い本が読めるように、楽しい読み聞かせをまずやっていくよりないと思う。(ニュース7月号本文一部閲覧)

ウチドク? ウチドクとはなにか?

 最近、学校図書館の司書の方と話していると「ウチドク」という言葉を聞きます。この間まで子どもが通学して授業が始まる前に本を読む「アサドク」というのがあったけれど、十分間で何が読める! 「朝読じゃなくて浅読だろう!」なんていわれていた。「何?ウチドクって?」と聞いても「家庭での読書推進」としかわからない。具体的にはどういうことなのか・・・そこで、知り合いの司書の先生に詳細を聞いてみた。
 まず、「家読(うちどく)」とは「家庭読書」の略語で、「家族ふれあい読書」のこと。「朝読」(朝の読書の略)の家庭版として考えられたもの。家族で本を読んでコミュ二ケーションし、「家族の絆づくり」することが目的。
 その背景には、電子メディアの弊害をはじめとした今の時代を象徴するサブカルチャー問題があるということ。親が子を子が親を殺すという昔の世の中では考えられない家族の問題が起きているので、「家読(うちどく)」は崩れてきた家族のあり方を支えていく一手段らしい。  「家読(うちどく)」のやり方は、家族で本を読んで内容を話し合うのだが、これといった決まりはないようだ。「同じ時間、同じ空間を家族で共有し、読んだ本について話せば、楽しい時間ができるはずだからやれ!」というものだということらしい。そのうち、やり方まで指示が出るかもしれないが・・・。
 しかし、これがほんとうに家庭内で行われたとすると、その様子を想像するだけで笑いがこみあげてくる。
 「ねえ、○子。ゴンがこんなに一生懸命いろいろやっても鉄砲で撃たれてしまうって怖いよね。」「人生、何が起きるかわからないということだよね。お兄ちゃんはどう思った?」「悪いことをやったんだからしかたないんじゃない!」「かわいそうと思わないの?」「べつに・・・」こういうやり取りが家庭内で行われているのを気持ち悪く感じるのは私だけなのだろうか。幼児のころならともかく、小学校も上の学年になって本の内容を親と子が真剣に議論する姿は、なんとなく気持ちの悪いものがある。テレビならわかる。親子で見ていて、「これってウソ臭いよね。ぜったいシナリオができてるよ。」「新島八重は写真を見ると、この女優とは似ても似つかないね。」となる。

現実は・・・

 こんなことで「崩れてきた家族のあり方」が修復され、「子どもを電子メディアの弊害やサブカルチャーの悪影響から守れる」と、学校は、本当に思っているのだろうか。いや、学校というよりは文科省だろうが、お役人の考えることはこのていどだ。実行役の学校の方が大変。
 しかし、現実は、こうではない。子どもが帰宅しても家には誰もいない。しかたがないから留守家庭学級で時間をつぶし、お稽古ごとの時間、塾の時間は目白押し、それが終わって帰宅しても、まだお父さんはお仕事から戻らない・・・食事は一人でして・・・そういうのが一般的な家庭なのではないだろうか。だって、政府は一方では働け、働け!と煽っていながら、その弊害が出ると、こんなバカバカしいことを考え出して手を打ったつもりになっているのである。年がら年中モグラタタキをしているようなものだ。

十年前の朝読と同じ理由

 朝読だって、じつは子どもの落ち着きがなくなり学級崩壊が起こり始めた1990年代に始まり、90年代後半の奇怪な少年事件の連続の中で定着したが、学級崩壊は当時以上に一般化していて、ふつうになっているから「崩壊」とみなされない現状もある。朝読は、小学校も中学校もじつはまともな本を読む生徒の数は少なく、多くはマンガから始まり、どちらかといえば電子メディアの弊害やサブカルチャーの悪影響を受けたキワモノ本を読む子の方が多いのである。家で読めば「家毒」になるような本だ。
 文科省は「電子メディアの弊害をはじめとした今の時代を象徴する問題」と言うが、電子メディアを推し進めてきたのは政府の方であって、いまだに何一つ規制されない。一般家庭は、「周りがそうだからしかたない」と言って子どもにスマホを持たせ、PCゲームをさせる。スマホは小学生でもアダルトサイトにアクセスできるし、PCゲームでお金を取られることもまたありうる。いま子どもたちの間で「LINE」が問題になりつつあるが、すべてのアプリには暗部があり、大人も子どももハマっていくものはハマっていく。要は、家庭が防御するしかない。「防御できない」と言う親もいるが、それならしかたがない。家族のあり方が電子メディアやサブカルチャーで崩れてきたなら「ウチドク」の時間をつくって家庭内で修復するよりないだろう。

読書は個人的な体験である

 私は、家庭内・家族間の対話や会話を否定する者ではないし、したほうがいいと思っている。家族が対話できなくなっている時代だからこそ対話は必要だと思っている。しかし、それはふつうの日常生活的な会話であり、自分たちが抱える問題について「ああでもない。こうでもない。」と話しあうのがいいということ。それを一冊の本を間にして親と子が、または兄弟同士が内容を話し合うのは「あまり気持ちの良いものではない」と思うのだが、どうだろう。
 読書というのは、あくまで個人的な体験である。一人で読むものであり、その意味では家独。1冊の本を読んで意見を言いたかったら読書会にでも参加すればいいわけだ。
  何かの話題で、「いま、なかなか人の死に立ち会えないよな。」「たとえば『夏の庭・フレンズ』のようにじゃ困るしね。」というふうに出て来るならまだしも、とても本の内容について親が子が話し合うなどできるものじゃないと思う。子どもの方だって嫌だろう。子どもが幼い時のことを考えてみよう。「次にカブを引っ張るのは誰だったけ? わかる? 言ってみて。」「最後にグリトグラがつくったものは、なーんだ。」・・・こんな誘導尋問で、理解度を確かめられたら子どもは本が嫌いになってしまうことだろう。
 すぐに、家読のやり方がマニュアル化されて出て来る。何も知らぬ家庭はそんなものかと思う。読書は個人的な体験。家読のやり方まで指導されてはたまらない。余計なお世話より、もう少し家庭に介入することをやめていくことを進めてほしいものだと思う。(新聞九月号解説一部閲覧)

HAHATAME配本を取っている方に

 母のための配本は、開始が不定期のため、最初の開始、あるいは次の期間の開始のときにHAHATAMEの冊子を配れないことがあります。完全管理していませんので、人によっては、ご迷惑をおかけしているかもしれません。
 配本を受け取っている期間は、こちらで機械を確認すればすぐわかりますので、もし冊子が届いていない方は、ご連絡ください。だいたい半期で2冊くらい配布しています。
 最新刊はHAHATAMEFです。
 連絡は、お便り、FAX、メール(HAHATAME会員はメールが使えます)でお願いします。



(2013年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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