ブッククラブニュース
平成25年8月号(発達年齢ブッククラブ)

残暑お見舞い申し上げます

 七月から甲府の気温が最高レベルで報道されるので、遠方のお客様から「大変ですね」というお便りがたくさん来ます。ありがとうございます。たった一行の文でも気遣っていただける、その気持ちがうれしいです。
 たしかに、とても集中して仕事ができない暑さ。熱帯夜の寝苦しさ。甲府の夏は昔から暑いので、慣れてはいるのですが、そして、室内温度を下げる知恵を絞ってはいますが、やはり暑い。昔はこれほどではなかったのに・・・なぜなのだろうと思いながらも真夜中に仕事をしたり、悪戦苦闘です。v  八月十日は何と40度を越え!・・・外気温は50度に近く、40.7度の高知とタイ記録になりました。そして、翌十一日は、単独首位の最高気温。左、写真をご覧ください。すぐにまた高知・四万十にトップの座を奪われましたが、高知は41度を記録して、史上最高気温とのこと。異常気象ですね。人間がおかしくなると自然までおかしくなります。逆か?!
 最悪のことでも人間と言うのはおかしなもので、一番になりたがります。「オオッ!多治見にも熊谷にも勝ったぞ!」なんて思います。高知・四万十? 「まさか芝生のない路上で百葉箱の中にもセンサーを入れないで記録を出しているんじゃないだろうな」なんてひがんだりします。大人の世界は嫌ですね。
 夏は、子どものころのように、ひたすら虫を追いかけたり、水遊びをしたりして暮らしたいと思っていますが、他の季節と同じく仕事に追われている私としては、この高温にはトホホです。この時期、このニュースを書く気力も高温に奪われます。手紙やイラストを書いていて、汗がポタリと紙の上に落ちると・・・さすがにカッとなります。

ゆめや恒例「車の屋根の目玉焼き」

 で、「ヤケのヤンパチ、日焼けのナスビ」というわけで、最高気温記念の日は、駐車場の車の屋根に卵を落とし、目玉焼きをつくる遊び。二時間はかかりますが、ま、大人の遊びの完成です。上手にできました! なんてったって全国最高気温の午後です。発表された気温は40.7度ですが、外気温は50度を越えています。駐車場の車は熱いトタン屋根で猫も歩けません。そこに卵を落とします。コツはバターや油を敷かないこと。車の屋根はカーブしているので、卵が流れてしまうのです。でも、そうそうフライパンのようにはできませんよ。集中力と忍耐力が必要です。この日、炎天下で出来上がった目玉焼きを来店した数人の子どもたちが見て、ゆがんだ卵焼きを不思議そうに見つめていたり、自分で作ってみると言いだしたり、にぎやかなものでした。

お稽古とお勉強はすぐれた人を生み出す?

 さて、ゆめやは夏休みに入るとお子さん連れのお客様が多くなります。子どもも忙しい時代になり、ふつうの日は、お稽古事、塾などで時間が削られるので年齢が小さいころのように親と来店できない子も多くなっています。
 5月号「夢新聞」で嘉門達夫の歌「47都道府県の唄」を紹介しましたが、そこで彼は「♪・・・山梨の子どもは日本で一番習い事をする・・・」と歌います。「♪・・・山口県は、日本で一番仕送りをする」だそうです。勉学するために都会に出す・・・そうすると立身出世する人がたくさん出る。山口県出身の総理大臣は、初代伊藤博文から始まって、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、生まれで言えば菅直人も長州人、安倍晋三も当然岸信介系であるから長州人・・・やはり仕送りをしないと立派な人は出ないかな? でも、明治以来の日本は戦争、戦争、経済競争で、落ち着いた国にはなっていませんよね。長州出身の首相の影響なんでしょうか。
 山梨県なんかすごいですよ。首相など石橋湛山一人しか出ていません。しかもですよ。在任二か月で病気になり、首相の座をすぐに降りています。後は誰がいるかな。有名人いるかなぁ、サッカーの中田英寿、歌手の森進一・・・かれらはゆめやの近くの北新小学校に入学していますね。やはり近くの甲府工業高校からは田原俊彦、作家では、林真理子・・? まあ、あまり目立った活躍者はいません。
 それにしても少子化ですね。学校にも街中にもなかなか子どもが遊んでいる声は聞こえません。
 実際、甲府でも日中、どこにも子どもの姿は見えず、声も聞こえません。私は単純に高齢化社会になっているからだと思っていましたが、そうでもないのかもしれませんね。では、それだけ習い事をしてお勉強をして、あれもやりこれもやりすれば、そりゃあ、すぐれた人がどんどん出てくるかもしれません。いずれ山梨も秋田に迫る偏差値大国になるかもしれません。
 つまり、山口県を見習え!というわけですが、そうはいっても出てくる人の質が大切なわけで、いくら成績が良くて政府のトップになっても周りを不幸にするような人間では困りますからね。そこはそれ、心の教育も大切です。
 心が環境で育つものであれば、山梨は風光明媚です。富士山も自然遺産ではなくて文化遺産になりました。環境に育まれれば、こりゃあ山梨の子どもの心は「野心」など持たずに、世のため人のためで動くことでしょう。

子どもは遊ぶもの

 子どもたちは、すぐに店にある遊び道具を見つけて遊び始めます。何か置いておくと、それをさまざまな遊び方で遊んでくれますからうれしいです。ゆめやには単純な木や紙のおもちゃしかないのですが、自分なりの遊び方で遊ぶのは見ていて楽しいものがあります。だから、こちらも趣向をこらして手品や不思議な遊びを見せてあげます。すると意外にも多くの子が楽しそうに遊ぶのです。こんな電子玩具の時代なのに。子どもは何でも遊び道具にしてしまう天才ですね。日焼けした笑顔で好奇心まんまん。
 やはり遊びからすべてを学ぶことが一番なのですが、それをいろいろなものが邪魔します。夏くらい、思い切って、たとえ大人がくだらないものと感じても何でも挑戦させてみましょう。

ゆめやが読み解く昔話
(5)飛び出した五つのエンドウ豆

 ひとつのサヤエンドウの中に五つのエンドウ豆が入っていた。サヤから出ないうちは、エンドウ豆はみんな緑色だったので、世界中は緑色だと思っていた。彼らはやがて熟して黄色くなり、エンドウ豆たちは、だれが一番遠くまで行くかを話しあった。ところが、人間の手によってサヤごともぎ取られ、子どもの手のひらに転がり出た。一つ目のエンドウ豆は子どもの豆鉄砲の弾にされ、どこかに飛んでいってしまった。二つ目も同じ。三つ目も四つ目も豆鉄砲で打ち出されてどこかに消えた。あんなにお互いに遠くに飛んで立派になることを夢見ていたのに・・・・そして、最後の豆も打ち出されて屋根裏部屋の窓の下に・・・。ただ、そこには風に吹かれた土がたまっていて、豆はその上に落ちる。
 屋根裏部屋には母親と重い病気の娘が住んでいた。ある日、娘が窓を見ると、土の上に落ちたエンドウ豆が葉を出しているのが見えた。母親は娘の寝台をエンドウ豆の苗がよく見える窓際に移してあげる。エンドウ豆はどんどん成長してゆき、それを眺めて暮らす娘も元気を取り戻していく。そしてついに、エンドウ豆は花を咲かせる。

 アンデルセンには珍しい最後が明るい話である。もっとも「みにくいアヒルの子」にしても「絵のない絵本」にしても、よく読めば明るい展開になるとは思う。「赤い靴」や「人魚姫」は、いかにもアンデルセンらしい暗い結末だが、これは話の展開から見て同じような原話がいくつかあったのだろう。原話を下敷きにしたのだから、それなりの明るい結末というわけだ。
 さて、五つの豆・・・もちろん卒業式の同窓生でも兄弟姉妹でも何でもいい。とにかく世間に出ていく五人の比喩である。みんな世間を知らない青い(緑)の魂だが、運命と言うのはじつに皮肉で、そうそうたやすく夢を叶えさせてはくれない。偶然は、じつにたやすく人を思わぬ方向に向かわせてしまうからだ。4つの豆も同じで、まったく不本意なことだったのだろう。最後の一つだって、運よく窓下の土に落ちて目を出すが、これでは思うような成長はムリである。豊かに実を付けて、人生をまっとうする豆の生き方はムリである。しかし、生きていれば、誰かのためになっていることもある。存在していることが希望になるということ。親にとって子は、存在しているだけで希望。どこに飛んで行こうが、生きていれば、それだけで何かの役に立つということである。なるべく人の役に立つ命になりたいものである。
 そうそう、この原話・・・聖書にある「一粒の麦、もし死なずば」が元になっているのかもしれない。
【教訓】しっかり生きれば、それだけで誰かの役に立っていることもある

読み聞かせのゆくえ (3)

 八月四日、文科省が「中高生のネット依存者が推計52万人」と発表していた。この数字、正確とは言えない。
 中学生357万+高校生365万=722万だから、これではネット依存はわずか7.2%である。
 広島の16歳殺人で、いま話題の「LINE」などは、80%の中学生・高校生が使っていると見られるので、中高校生の半分は年がら年中スマホをいじっているわけで、これも依存と考えれば、300万人くらいがネット依存になっていると思っていいだろう。大人のネットゲーム依存やFacebookや SNS、ソーシャルゲーム、ネットショッピングなどを入れれば1000万人近くがネットのヘビーユーザーであることが類推できる。
 この弊害は山ほどあり(ストレス、精神障害、生活破壊・・・など挙げたらキリがない)、文科省の警告は聞く必要があるのだが、学校を始めとして、ネットを無批判に「使え、使え!」と言ってきたのも文科省である。ITの世界はなんでもありの世界だから、いいものもあれば悪いものもある。当然、悪いものの魅力にハマってしまう人も出て来る。
 ブッククラブでは、開始時に御案内にもこのニュースでも必要に応じて、こうしたサブカルチャーを主とするネット関係へののめり込みが成長過程でゆがみをつくり、頭を大人にしないことを指摘してきた。子どもは必ず、中学生になり、高校生になる。それは「読み聞かせのゆくえ」でもある。
 やがて自分の子がネット依存者となり部屋から出てこなくなる、対人関係がうまく行かない・・・などの状態になることは想像したくはない。だが、読み聞かせをして、ある程度の読書をしても、ネット依存にハマってしまう子がいることだけは言っておこう。防げないくらいのサブカルチャーの大津波だが、家庭のあり方、親の接し方で、この「読み聞かせのゆくえ」は大きく違ってくることは事実だ。
 依存とは「ない」と生きられないことを意味する。親は、そういうものがなくても生きられることを教え、子どもが52万人(300万人)の仲間に入らないよう成育環境に注意していなくてはならない。(八月号ニュース一部閲覧)

いやはやほんとうに暑い甲府でした

 県外の会員が、振替用紙の通信欄に毎日、山梨の暑さを気遣う言葉を書いてきてくれます。梅雨明けで、いきなり39度越え。「今年は熊谷にも多治見にも勝ったぞ!」という感じです。でも、みなさんが驚いたり心配したりするほどのことではありません。甲府は以前も40度を越えて40.2度を経験していますから39度くらい何でもありません。問題は40度越え! でも、とうとう八月十日の午後二時半40.7度を記録。この日の空は写真のように雲がたくさんありましたが、戸外には出られない熱気が満ちていました。水分は全部蒸発して、湿度は20%・・・カラカラでした。ふつう湿度が低ければ暑さは感じないものですが、40.7度はものすごい暑さでした。高知の四万十も同じ温度でしたし、翌日は41度を記録していますが、ここのアメダスのセンサーは芝生の上になくフェアな記録とは言えませんので、甲府が一番。・・・こんな不快なことで一番になるのは嫌なものですが、なんで人間は一番になると威張りたくなるのでしょうね。日本一、世界一・・・宇宙一・・・バカな話です。「日本の経済を世界一に!」になんていう指導者もいますが、そういう人は子ども時代の成績も世界一だったのでしょうね。そうでなければ夢想を語っているようなものです。
 さて、他県では豪雨が起きていますが、甲府はほとんど降りません。山口、島根・・・時間100ミリ・・・異常気象ですね。でも山梨はカラカラ。どうか、雨男、雨女を自負されている方は山梨をご来訪ください。この調子では41度越えもありえます。なんとか雨乞いを企画せねば・・・・。

真夏の夜の読書・・・戦争についての本

 私は寝床で本を読む習慣があるので、涼しい夜は読書が進みます。日中のひどい暑さに比べて、甲府は夜が涼しいおかげで、けっこうな内容の本が何冊も読めました。何の本を読んだか・・・それはほとんど戦争に関しての本でした。八月は終戦記念日もあり、とかく「戦争」の話題が多いですからね。いやいや、選挙以来、なんとなく危ない臭いもしてきていますから、少しは知識を仕入れておかないと・・・ということで読み始めました。TVCMに堂々と自衛隊員募集、が出てきます。メディアも批判力をなくしてしまったのでしょうね。さらには武器や原発を売ろうという動き、右傾化の現象はかなり見えてきています。こういう流れは、子どもたちの未来を台無しにしてしまう可能性があるのですが、私の考え過ぎでしょうか。とかく子どもにかかわる仕事をしていると、どうしても未来を心配してしまうことになります。
 私も若いころ、かなり無鉄砲なことをしました。食べ過ぎ、飲み過ぎ、徹夜・・・これは独身だからできたわけで、結婚して子どもができたらそうはいきません。子どもをまともに成長させるためには、危険なことは避けなければならないからです。子どもがいなかったら、平気で荒っぽいことをして、あとは野となれ山となれと、イキがっていたかもしれません。強引なことをやっても、また同じ明日がやってくると思って。
 しかし、子どもができるとそうはいきません。どうしても未来を安定させなければならなくなるからです。子どものいない人は、それなりに人生を楽しめるかも知れませんが、子どもがいれば子どものためにがんばることになります。

同じ明日がやってこないことも

 われわれの多くは、物事の変化にはかなり無関心で、「同じ明日」がやってくると思っています。ところが変化というのは思ったより早くやってくるものです。このことは、過去を描いた本を読むと手に取るようにわかります。いや、例を挙げるだけでわかりますよ。
 例えば、1941年の八月に日本人の99%は、「4年後に日本人の300万人が死に、国が戦争に敗ける」ことは考えもしませんでした。大河ドラマ「八重の桜」では会津戦争の場面が終わりましたが、1864年の八月、松平容保が京都守護職のとき、日本人の99%は4年後に江戸時代が終わって明治の世の中になっていることなど考えもしませんでした。でも、変化というのは早く、戦争は大きな力でこの変化をつくります。
 私は、戦争を知らない世代ですので、戦争については知っておかないと・・・というわけで、「ニュルンベルク裁判」「クラウゼヴィッツの暗号文」「戦体」などのむずかしい本から、絵本「せかいでいちばんつよい国」「せんそう」「ガラスのうさぎ」などを暑さシノギ?に読みました。本は過去のことを書いていますが、想像力さえ持って読めば未来を指し示してくれるものでもあります。

喉元過ぎれば暑さを忘れる日本人

 これらを読むと、日本人は体験を反復して考える人種ではないことを実感します。台風一過、どんなに大変なことでも過ぎてしまえば忘れて反省もしない。そしてまた同じことを繰り返す民族のようです。もう津波も原発も忘れている感じがありますものね。見方によっては「前向き」ですが、「懲りない」とも言えます。ひょっとすると、人為的なことも全部、自然現象のようにとらえて終わるのを待つ、ただ耐える・・・だけなのかもしれません。
 例えば8月15日は「終戦記念日」ですが、「終戦記念日」とはよく言ったもので、なんだか自然に戦争が終わったような感じを受ける言葉です・・・。「誰が始めて、誰が終わらしたのか、責任はどうなったのか」は問題にされず、何となく台風が荒れ狂って去って行ったような感じです。これをちゃんと言うなら「敗戦記念日」なのでしょうが・・・・そうすると負けた責任は誰が取る、誰にある・・・ということなので、うまくごまかす言葉が「終戦」なのでしょう。
 八月といえば、終戦記念日ばかりでなく、防災訓練やお盆など・・・いろいろあります。いずれも人の生命に関連した行事が多いのですが、戦争を体験した国なのに「たくさんの人が死なないようにするにはどうしたらいいのか?」という考えをする人は少ないようです。
 今月、来日したオリバー・ストーン監督が「アメリカでも戦争を望んだものはいるし、原爆を落としたものもいる。しかし、誰も責任を取らない」「必要性がなかったのに原爆を使った」と当時の米国を批判する講演を広島でしていましたが、彼はアメリカでも数少ない「過去を考えることができる人」の一人でしょう。それにしてもソ連に日本を占領させないために原爆を落したというのは、まったくヒドい話です。

正義の戦い?

 夏の夜に読んだ本には、こんな本がありました。低学年男子に配本もしているもので、名は「せかいでいちばんつよい国」(デビッド・マッキー作・光村教育図書)です。そのなかにこんなくだりがあります。
 むかし、大きな国が ありました。
 大きな国の人びとは、「自分たちの暮らしほど すてきなものはない」と、固く信じていました。
 この国の兵隊は、たいへん強くて、大砲も持っています。そこで大きな国の大統領は、いろんな国へ戦争をしにいきました。
 「世界中の 人びとを幸せにするためだ。われわれが世界中を征服すれば、みんながわれわれと同じように暮らせるのだからな」
 なんだかどこかの国のようですね。自分だけが正しいと思ったら、相手のことなどどうでもよくなります。人間と同じで国も強いばかりではダメだということが、この本の最後を読むとわかります。でも、こんな国が日本のリーダーの後ろ盾になっていると思うと(「戦後史の正体」孫崎亨・創元社)、日本は、また戦前と同じ道をたどりそうです。

戦争を起こすには・・・

 「ニュルンベルグ軍事裁判」(J・E・バーシコ著 原書房)では、「ドイツは、なぜ戦争を始めたのか」との検察側の質問に対して、ヒトラーの片腕だったゲーリング元帥がこう答えています。
 「国民は戦争を欲してはいない。しかし、戦争など起こすことはかんたんなのだ。『この国は今、あの国から攻められそうだ』と国防意識を煽り、反対する平和主義者には、『おまえたちの考えは国益を損なう』と恫喝(どうかつ)すればいい。これを繰り返せば、国はかんたんに戦争に向かう」
 こう言い切ったあとにゲーリングは、「これはドイツだけの話ではありませんよ。すべての国が同じように戦争をしています」と述べています。極東軍事裁判では日本の戦犯の人たちは、こんなことさえ言いませんでしたが、ゲーリングに言われて見れば、当然のことで、人は脅しに弱い。
 近代の戦争のほとんどは、侵略ではなく自衛から始まっています。つまり過剰防衛です。「先制攻撃をしなければ自分たちがやられる」という意識が戦争を起こし、戦争を継続する力なりました。「危機を煽り」「恫喝する」ためには、宣伝力が必要となります。つまりメディアがこの役目を果たします。言い換えれば、新聞やラジオ、テレビなどのマスメディアが危機を煽り、知性を囲い込んでいきます。だから、メディアが発達した二十世紀は戦争の世紀ともなったわけです。
 メディアが戦争を起こすことについてはドイツの哲学者マックス・ピカートが「沈黙の世界」でこう言っています。「数分でまったく別のものに変るラジオ番組、次の記事とは何の脈絡もなく構成される新聞・・・これがドイツ国民の思考力を失わせていき、扇動やデマにかんたんに乗るようになった」・・・たしかにメディアの本質とはそういうものかもしれません。いま、日本では、NHKさえ「おバカ番組」を流し、トップニュースがAKB48だったり、サッカーや野球のことだったり、肝心なことを伝えなくなっています。原発関連のニュースなどほとんど流しません。いつか来た道へ進む・・・?

アニメや漫画ばかり読んでいると・・・

 先日、麻生太郎副総理が憲法改正をめぐり、このゲーリングの述べたナチス政権を引き合いに出して、「ある日気づいたら、ワイマール憲法が、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と語って問題になりました。漫画ばかり読んでいると常識を失って、こういう発言が平気になるようです。
 しかし、実際には着々と戦争ができるように物事は進んでいます。メディアがほんとうのことは報道していないのは、おわかりでしょう。多くの人は、二年も前から原発の汚染水が海に流れていることや海や魚の放射能測定が行われていないことを知っています。でも、メディアは報道しない。自分たちで調べようともしません。すべては記者会見記事の垂れ流しです。子どもたちが成長する時代は大変なことになるかもしれません。メディアは発表されたことしか報道しないので、ゲーリングが言った通りになってしまうのでしょう。批判力を持たない国民は、バカな指導者のいいなりになることも多いのです。
 私が暑い夏の夜に汗を拭き拭き読んだ「戦争」の本は、こういったあまりよくない予測を引き起こしてくれました。真夏の夜の夢で終わればいいと思っていますが、悪夢ではなく良い夢を見るために、秋風が立ったら「風立ちぬ」でも読み返そうかな、と思っています。「読み返す」ですよ。「観に行く」のではなく! (新聞八月号一部閲覧)



(2013年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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