ブッククラブニュース
平成25年12月号(発達年齢ブッククラブ)

店先の話で

 瞬く間に一年が経ち、もうクリスマスです。BC会員のみなさまの今年は良い一年だったでしょうか。私は、あまり良い年ではありませんでした。やはり、ミハエルエンデが描く「モモ」の世界を実感したような年で、嫌なこともけっこう見聞きしました。  来年こそは良い年にしたいと思っていますが、一個人の意志で明るい話題ばかり作っていくこともできませんから、良い政治、不安のない環境になることを祈るよりありません。そんなことを思いながら窓の外を吹く木枯らしを見て店番をしていると・・・・  長く福祉関係の仕事をしてきた幼なじみの女性が来て、「あなたはいいわよね。ここに来るお客さんは、みんな子どものことを考えていて、それなりの良い家庭を作っていて、『問題』のない幸せな人たちで、そういう人たちばかりを相手にしてるのだもの・・・。」と言いました。彼女の扱うケースは、それこそ悲惨な境遇の子どもたちや母親で、長くやってきても気が滅入ることも多いらしいのです。  「こんなに豊かで便利な世の中になったというのに、子どもの生活が守られないというのは何だか社会が全然進歩していないよねぇ。」と私。 「政府も競争だとか成長だとか、お金のことばっかりで、一部の人は儲かっていいのだろうけれど・・・なんだか世の中に人情とか思いやりがなくなって人の気持ちは冷たくなってきているような気がするわよね。」と彼女。 『幸せな人たちだけを相手にしている』私には皮肉に聞こえる彼女の言葉だが、たしかに「この国はおかしくなった。それもこの数年で急に・・・!」と思う。格差は、たしかに実感ですが、以前のようにそのことに思いを強める人たちが少なくなったようにも思います。景気さえよければ危ない法律が通ろうと通るまいと関係ない状態にもなってしまったのですから、自分たちの生存権より「お金」「便利」なのかもしれません。こういうことを考えると、私はいつも・・・・

マッチ売りの少女を読んだころのこと

 ・・・を思いだします。 「マッチ売りの少女」少年時代に読んだアンデルセン童話集のなかでいちばん印象的な作品で、「マッチ売りの少女はなぜ死んだのか?」という疑問はいつまでも心の片隅に残っています。  戦後の物資のないころに少年時代を送った私には、あの少女が裸足(はだし)で立っていた足の冷たさや胃袋の空っぽさが痛いほどわかります。当時、私の育った町には、シャンデリアの輝く食卓で七面鳥を食べている家庭などはありませんでしたが、それでも戦後成金の家では、ケーキを切っていました(バターケーキでしたが・・・)。それを横目で見ながらクリスマスがお金持ちのお祭りと思っていた私には、現代のクリスマスがほんとうの意味で実感できないのです。なんだか、あのきらびやかさが嘘臭さを感じさせるからです。 娘たちが小さいころクリスマスの食卓を囲んでいると、ふと窓の外が気になったも、そこに貧しい少女か少年が立って覗き込んでいるような気持ちがしたからかもしれません。  飽食の時代に育って、クリスマスの食卓は豪華なものと疑わない私たちの子どもに、いくら『マッチ売りの少女』を読み聞かしても、さらには子どもたちが自分で読んでも、きっと、その印象や衝撃は薄いものにちがいありません。この意味では、絵本や童話の効力は知れたものです。

同情できない人たち

 貧しい時代の方が思いやる心が育ち、豊かな時代では逆に心が冷たくなるというのも悲しいパラドクッスですが、これが人間というものだとしたら、人間などすぐに見かけにダマくらかされて生きる動物としかいいようがありませんね。  アンデルセンが、マッチ売りの少女が死なせたのは、死なせることによって読者の感動を高め、豊かさにしか目が行かない人間の心から『同情』という気持ちを引き出そうとする意図があるのでしょうが、日本の現代では、それさえ引き出せないやるせなさがあります。  たとえば、家庭の破綻があり、同情に値する子どもがいたとします。ところがその子が高級なブランド服を着て、高価なマウンテン・バイクに乗り、コンビニでスナックを買っていたら、とても同情する気にはならないのです。「不幸が続いてかわいそうだな」と思える家庭があったとしても、同情する側よりいい生活をしていたら、同情は薄らいでいくでしょう。これも豊かな時代の悲劇です。  たしかに、人間には「同情したい」という気持ちがあります。これは、自分より低い者がいることで安心する「他人の不幸は蜜の味」と裏腹なのですが、まあ世の中のバランスを保つうえでは、けっこう役に立つ気持ちであることはまちがいないのです。しかし、それさえ、この時代では希薄になっているように思います。

思いが減っていく時代

 最近、周囲で起きる「死」が昔ほどインパクトが強くないことにお気づきですか?  昔は、もっと死者に対して長い間深く考えたものです。最近は、「ああ、死んだか。お香典はいくらにしようか。」で終わります。かなり、つき合いが深かった人でも、何日も考えたり、思ったりすることがなく、すぐに忘れてしまいます。「他人の死」を深く悼まないことで、ストレスを減らそうというわけです、                               マッチ売りの少女の死も一時の同情だけで、周囲の人からすぐに忘れられました。この話は、アンデルセンが母親をモデルにして作った半分実話の物語ですが、少女の死によって少女の「死の意味」を深く考えさせようという作家の思惑はあるようです。「主人公の死」を通して「真実」を考えさせる・・・本を読むことにはそういう部分を読み取るがあると思うのですが、こういう時代では、長く読み継がれない悲劇もあります。なんてったってアニメになってしまったら真実を考えることなんかできるわけもないですからね。だいたいにおいてアニメ自体(ここのアニメ画のように)現実味がまったくないわけですから、物語が心の中に入ってくるわけもないのです。「死」を真剣に捉(とら)えない社会は不幸です。「死」を真剣に捉えないことは「生」も真剣に考えないというわけで、人に「孤独」しかもたらさないでしょう。

都市化が心の劣化を加速する

 TVのワイドショーなどはその最たるものです。あらゆる悲劇的事件がベルトコンベアに乗って次から次へです。なんとか深く知ろうと新聞を読むと「三鷹の女子高生刺殺事件」も「船橋の22歳母親刺殺事件」も豊かさとサブカルチャーで狂った頭が引き起こした自業自得の事件としか思えません。同情も起きません。 まったく現代人は何を考えて生きているのでしょうね。かんたんに子どもを産み、いい加減に育て、その間に悪の連鎖がどんどん生まれ、 目の前で知り合いのおじさんに母親が殺されるのを見る三歳、フェイスブックで人間関係をつくる高校生、殺した後でツイッター報告をするサブカル人間。先進国共通の「心の劣化」ですね。見た目にはきらびやかな街並みですが、心が消える都市化のせいでしょうか。  マッチ売りの少女が死んでから150年。デンマークは酪農王国から豊かで高度な消費社会や福祉社会を築きあげましたが、その陰で性的退廃・社会的疎外・幼児虐待・若者の孤独などモラルの低下から来る事件が蔓延しています。日本もまったく同じになりました。先述の福祉関係の女性が言った言葉が妙に耳に残っています。 「こんな、たった80万人しかいない山梨県でネグレクトの家庭、虐待がウナギのぼりで増えているのだから都会はもっと進行が早いのでしょうね。」・・・・

昔あったことを忘れなければ

 日本も戦後、デンマークと同じような経緯をたどり、豊かな社会になりましたが、同じような事件が多発するようになりました。デンマーク人が「マッチ売りの少女」を忘れてしまったように日本人は「火垂るの墓」の節子を忘れてしまったようです。高度成長期に鍵っ子ができ、その鍵っ子がネグレクトや虐待を行う悪循環・・・豊かにはなったけれど、心は貧しくなったということでしょうか。 戦後六十年ちょっと・・・豊かさの中で「心」が消えていきます。デジタルの中でアナログが消えていきます。お金のために「思い」が消えていきます。 昔あった悲惨なことが繰り返されます。だから忘れないように気を張っていないと、欲に駆られた人々によって昔と同じことが引き起こされることでしょう。  よく見ているとメディアも強引なことをする政治に何も言えず、学校もまた唯々諾々と戦前に戻るかのように文科省の言いなりになっているように思えます。

サンタクロースはまだ来ない

 人々に良い心を配って行くサンタクロースは、日本にはまだ来ないようです。来るのは一儲けばかりたくらむIT企業の誘いや詐欺まがいの商法ばかり・・・これではサンタではなく、サタンですよね。 子殺し・虐待・親殺し、そんな社会的混乱が極まったときに、戦前と同じような法律ができ、戦前と同じような教育が始まり、子どもたちや私たちを追い立てていくサタンがやってきたのかもしれません。そうならないように子どもの心の健康(大人も)には気をつけねばと強く思います。想像力がバーチャルな方ではなく自然なものに向かえば、きっと充実感や幸福感が得られます。 子どもには良い物語を聞かせましょう。頭をバカにしないためにも・・・良い物語は必要です。質の高い物語は子どもの心の質を高めます。良い物語には、この世の中の悪を見抜くための力や騙されないで生きる力が描かれています。テレビのバラエティ番組やアニメばかり見ている頭には、この能力を身に着けることはできないでしょう。 世の中は確実に大変動していくでしょうが、まともな環境で、良質な物語を読んで育てば身の回りの危険を早めに知り、悲劇的な状態になる前に逃げられます。 来年も放射能は消えないでしょうが・・・子どもの未来が明るくなるように努力したいと思っています。では、何はともあれ、メリークリスマス・・・良いお年をお迎えください。今年も一年ありがとうございました。(ニュース12月号一部閲覧)

サンタクロースからの手紙

 この三十年、毎年、だいたい二人か三人だけれどもブッククラブの会員の子にサンタクロースからの手紙が届く。いや、正確にいえば、「届いていた」だ。もちろん、この手紙は英語ではないので、意味が読み取れた親御さんは少ないだろう。「いったい何の手紙なのだろう?」と不審に思って破り捨てた人もあるかもしれない。 でも、これは、ゆめやが「専属のサンタクロース」に頼んで送ってもらったものだ。 もらえなかった人は「ウチの子にも欲しかったなぁ・・・」と羨(うらや)んではいけない。この手紙は、その年、悲しい目に遭った子だけに送ってもらったものだからである。  小さなブッククラブだから、お客さんとのコミュニケーションはけっこう取れる。多くは絵本のこと、遊びのこと、世の中のことが話題になり、お便りが来たり、返したり・・・そういう中に、たまには胸がつぶれるような悲しい知らせも来る。重い病気、イジメの被害、さらには肉親(親や兄弟姉妹)の死など・・・が知らされてくるので、元気付けにもならないが、そっと子どもたちに「サンタクロースの手紙」を送るようにしていた。だから数は少ない。 幸い、ブッククラブ会員の子どもや親御さん本人が悲惨な事件や事故に巻き込まれた話はないが、2011年のサンタクロースの手紙の数は例外だった。あの年は、津波や原発事故もあったから、この年の手紙は十通以上にのぼった。

しかし、残念なことに・・・

 手紙を頼んでいた「サンタクロース」は、私の長く付き合っていた友人で、時間にすれば四十七年間の交友だった。遠い北の国に四十年も住んでいて、何年かに一度会うのだけれど、メールは、ほぼ毎日するし、電話でも話す。彼は昔から私の仕事を側面的に応援してくれているかけがえのない友人の一人である。 ところが、彼は今年の二月四日に急死してしまった。その前々日に、一時間も電話で話し、「あんまり寒いからヒートテックのズボン下を送ってくれ」という話をしたので、この「さむがりやのサンタ」に、そのモモヒキを送ったばかりだった。ところが、その日、何と領事館から私に直接電話が入り、「亡くなった」ということだった。彼には身寄りがなかったので、旅券の緊急連絡先が私のところになっていたかららしい。 そして、温かい下着と日本食品が入った荷物は三か月以上も経って、私のところに戻ってきた。彼は温かい下着を着ることもできずに旅立ってしまったのである。ほんとうに残念である。 そういうことで、今年は手紙を書いてくれるサンタクロースはいなくなってしまったので、ブッククラブ会員には、もう「サンタクロースからの手紙」は来ないことになった。 ブッククラブ33年の間に、この北の国の切手が貼られ、Sankt Nikorausの署名がある手紙をもらった子どもは百人にも満たないが、その子たちに代わって彼には感謝の意を表したいと思う。そして冥福を祈ろうと思う。

悲しいことを減らしたい

 人は、生きていく間に嫌なこと、悲しいこと、耐えられないようなことを経験する。見た目には幸せそうでも見かけだけということも多い。家庭内の大変な問題を抱えている家もけっこうあり、いろいろ苦労が絶えないのがふつうのところだろう。 なるべく、そういうことがない人生にしたいが、思っただけでは、なかなか避けられるものではない。やはり、生きていくうえで支えになる存在が必要なのだと思う。支えになるのは親であり子であり、身近な人たちであり、思いをかけてくれる存在であり、いろいろだが、現代では利己主義や物神崇拝(お金や物をありがたがる風潮)が、人が生きていく支えをどんどんなくしていっているのも現実である。 大きくなるまで、絵本の一冊すら、親から読み聞かせてもらわなかった子どもだっている。支えがないまま育ってしまったら人間は悲しいことになるだろう。最近、起きている悲惨な事件は、幼児期から心の支えがなくて育ってしまった男や女が引き起こしているものと言っても過言ではない。 大切さを教えられなかった人間は、物だけではなく心も命も平気で壊すことができるというわけだ。子どものいない人間は暴走するかもしれないし、親のいない子どもは世の中とうまくやっていくことがむずかしい。支えがないというのは歯止めがないということにもつながっていく。これは一軒の家でも一つの国でも同じことだ。自国の利益ばかり追い求めている国が他の国の支えになるわけもなく、得するほうにばかり流れることになるだろう。そうなれば平気で戦争でも何でもやる。

この国は危ない方に向かっている

 私は、衝撃的な事件を起こした加害者の幼年時代を知りたいと思っている。どんな家庭で育ったのか、どんなものを与えられて育ったのか、どんな遊びをしていたのか、どんな本を読んでいたのか・・・・。 もちろん、これは事件の加害者ばかりではない。一国の総理大臣から学校の先生まで、どんな本を読み、どんな遊びをして、少年時代はどのような環境で育ったのかを知りたい。 昔に比べて教育は徹底的に行われているようだが、その効果は出ているのか、いないのか。高度な教育を受けているはずなのに、なぜ、自分の意見も持てなかったり、先のことなどどうでもよいような強引なことができるのか・・・そうこうしている間に、多くの人が反対していた秘密保持法もあっという間に可決され、テレビも新聞もほとんど何も言わない。この国は、危ない方向に向かっているというのになす術がないということは、国民がバカだからだろうか。

きちんとした本を読まないから・・・

 見た目には派手な世の中で、電気など使い放題。消費などし放題。「原子力発電をベース・エネルギーに位置付ける」などということまで発表された。マスコミも何も言わない。 おそらく報道関係の人たちはきちんと本を読んでいる読書エリートのはずなのだが・・・・意見が見えない。 あれだけ、いや、これだけまだ問題が残っているのに・・・喉元過ぎれば暑さを忘れる・・・ほんとうに、この国はこの一年で危ない方向に舵を切ってしまったようだ。 よく図書関係の人が「活字離れ」ということを言って、読書を進める運動をしているが、その人たちが言うように、この首相を選んだ老人たちはそんなに本を読んでいたのだろうか。もし、昔、人がきちんと本を読んでいたのなら、長いものに巻かれて戦争や生活危機に陥ることもなかったと思う。私としては「活字離れはもともとあった」のだと言いたい。スマホの画面も活字、芸能雑誌もスポーツ新聞も活字というなら話は別だが・・・。

悲しいことを減らさないと・・・

 私は、きちんとした本が読めれば、人生に起こる危険を察知する能力が付くと思っている。きちんとした本には、危険そのものも書かれているし、避ける方法も書かれている。それを読めば、自分の頭で考えることができる。子どもにはそういう力をつけてもらいたいと思う。 ゆめやのメッセージを届けるサンタクロースはいなくなってしまったが、このサンタクロースは私が送る日本の新刊文庫本以外に、その国の言葉で書かれた膨大な本を読んで、いつも日本のことを心配していた。彼がゆめやを助けてくれていたお礼に私は彼の思いを伝えていこうと思っている。もうサンタクロースから手紙は来ないので、くれぐれも皆さんは危険を避けてほしいです。(新聞12月号一部閲覧)



(2013年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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