ブッククラブニュース
平成26年6月号(発達年齢ブッククラブ)

白銀も黄金も・・・

 「個性的な子育て」とか「独自の育児」と言われても、ほとんどの人は周囲を見て「なるべく同じように育てるのが安心、安全」と考える。また、テレビの報道や有名な(偉そうな)人の言葉などの影響も受ける。社会的動物だからしかたがないが、「周りばかり気にする子育てをでは、筋が通った人間を育てられない」という見方もある。周りを気にするということは、「和」の重視でイジメも生みやすい。競争の鬱憤をイジメで晴らす子どもはつくりたくないが、現実には周りばかり気にして、自分の考えを持てない大人や子どもも多いのではないだろうか。
 世の中に影響されるといえば、今は「市場原理主義(自由競争で経済生活が向上するという考え方)」で動く時代だ。しかし、市場原理は、ひたすら「儲ける」ことばかりが目的である。口を開けば「ビジネスチャンス」だことの「モチベーション」だことの、いかに他を出し抜いて儲けるかという言葉が年中飛び交う。こういう環境にいると人は経済だけでなく他の分野でも市場原理主義に影響されていく。そして、「儲ける」ことだけがすべてとなる。
 大阪が全国学力テストで下位の自治体になったとき、知事だった橋下徹が言った。「二年連続でこのザマは何だ!最悪じゃないか。民間なら減給はあたりまえだ!!」 
 つまり、この人は教育が企業活動と同じと思っているらしい。統一テストでは文科大臣が「長期的な教育投資を考えていくうえで、テストのデータは必要だ!」と言っているから教育も市場原理の影響は大きく受けているわけだ。親の中でも「お稽古事や塾は先行投資だ!」と平然と言う人もいる。まあ、考えてみれば、その親が育ってきた時代の「偏差値」という言葉も教育用語になる前は統計学で使う経済用語だったから、教育が経済の影響を受けた初めが偏差値だったと思われる。

遊ばない子どもは?

 しかし、子育てや子どもの教育が、ひたすら経済効率で進められたらどうなるのだろう。「儲けられる人間」を目指すのだから、これは忙しいことになる。休まず勉強、遊ぶのは非効率。「ゆとり」などとんでもない。とにかく「詰め込む」・・・学力向上!学歴向上! 教室は電子黒板やタブレットで、どんどん効率化していく。字を書く、計算の工夫をすることさえ非効率になるかもしれない。親と子が接触する時間が失われ、子どもは子どもで電子の世界に逃げる。やがて、ゾっとするような大人が出て来る可能性もあるけれど、もう出てるかな?!
 この背景にも当然、市場原理が働いている。パソコンはもう家庭に行きわたってしまったから、うなぎのぼりの需要は見込めない。そこでPCメーカーは、学校に導入すれば売れると考えた。代金は税金からだ。あの手この手・・・効果的なプログラムを組んで、効果が高まるアプリを開発して・・・で、売り込む。これは教育の機械やプログラムへの委託である。
 子育てがどんどん外部委託になっていったら、親子や家庭はどうなるのだろう。儲けるためならしかたがないか。知事や大臣が子育てや教育を経済学で見れば、「何でも金銭で換算」となるはずで、子どもを人としては見なくなる。これに影響されれば親たちは必死で「先行投資」を始める。そして、お金を稼ぐために時間を消耗して、やがて子どもと接する暇もなくなる。

貧窮問答歌

 1300年も昔・・・「しろがねもくがねもたまも なにせむに まされる宝 子にしかめやも」と歌った人がいた。「白銀や黄金や珠玉などたいしたことはない、子どもはそれに勝る宝なのだ」という意味だ。「貧窮問答歌」のなかにある歌である。
 やはり、ある程度、貧しくないと、人間は子どもを宝として見なくなるのかもしれない。
 山上憶良が、この歌を歌った時代には、一般庶民は貧しかったことだろう。それに引き換え、現代は豊かさが満ち溢れている。食事など家庭でつくらなくても三食食べられる。労働力不足で、うまいこと言って白銀や黄金を鼻先にチラつかせて、母親を女性労働力に駆り立てる政治がまかり通っている。当然、末端では親殺し、子殺しが起こる。子どもは宝ではなくなったのだからしかたがない。子育ての時間を削ってまで働く・・・そんなに白銀や黄金が大切なのだろうか。人間が効率で動くロボットと同じものなら人を人として見ない政治家は喜ぶかもしれないが、私たちも子どもも赤い血の通った人間である。過労死や戦死をするために生まれてきたわけではない。

一緒に暮らせる時間

 親にとっては一度の人生で偶然に巡り合った子どもである。子どもにとっても、それは同じことだ。考えて見よう。子どもなど18年もすれば、親元を離れていく。一日の3分の1は睡眠だ。さらに3分の1は園や学校に行っている時間である。つまり18年のうち約10年以上は親は子に意識的に接することができない。残り3分の1を大切にしてもたった6年間である。短すぎるが、忙しさにかまけて、子どもは宝ではなくなっていく。
 これでは貧しい時代の方が、子どもと暮らせる時間が多かったのではないか。大切な宝にしなくてはならない。(6月号ニュース本文の一部閲覧)

なんとなくしかわからぬ意味

 戦前に比べて現在は教育の水準はひじょうに上がったらしい。大学生の数がハンパではない。昭和三十年代は大学生が短大を合わせて全国で20万人。現在は大学生が50万人、短大・高専を入れれば百万人を越える。小さい時から勉強をし、どれが正解かわからないようなむずかしい入試を突破して大学に入っていく。
 しかし、最近・・・どうも大学生と話が通じない。若者が社会的な問題や人間関係の問題について「話題にしない」という不思議な現象も起きているのだ。なぜなのだろうか。言葉の意味をよく勉強して来なかったからか・・・いや言葉など大学までにすべて学習できるほど少ないものではないから、おそらく言葉そのものの意味を考えることをしないで来たのだろう。言葉を感覚的に知っているにすぎないから、「話題になるのを避ける」のかもしれない。つまり、きちんとした本を読んでいないから自分の考えを話せないのである。長い本が読めなければ、考えもつくれないから、結果的には「考えなし」の短文ブログやツイッターが流行る。思い付きで言葉を発し、感覚で読む。
 このため言葉も曖昧にしかとらえられなくなる。例えば、日本語には漢語熟語があり、漢字から意味が分かるが、じつは「なんとなく」であり、具体的に説明しろ!と言われてもわからないことが多い。学校教育は量的に覚えさせるだけで、深い意味まで教えないから、言葉は詰め込まれるだけで、考える力はかえって失われている。

漢字で分かった感じになる

 四文字熟語は、けっこうむずかしい。馬耳東風、優柔不断、竜頭蛇尾、唯々諾々・・・なんとなくわかるが、いまの若者は使うこともなければ聞くことも読むこともないので、感覚的に、あるいは曖昧にしかわからないことだろう。これが五文字の熟語になると、逆によく目にするからわかりそうだが・・・なかなかそうはいかない。「八宝菜定食」・・・入っている食材を答えられる人は、まずいない。八種類入っているわけではないからだ。「魏志倭人伝」……聞いたことはあるが、わずか二千字の内容で、ほんとうの名は「三国志魏書東夷伝倭人条」、多くの人は読んだこともないだろう。
 「TPP協定」……英語の略語でさえわからないのにそれと日本語が合わされば何が何だか内容がわからなくなる。きわめつけは「日本国憲法」だ。ひじょうに単純な熟語の合成だが、これまた具体的に説明するのはむずかしい。大学生でなくても「説明しろ!」と言われたらなかなかできない。第一、中身を読んでいないからわからないのだ。つまり、長い熟語は、感覚的に分かったような感じがあるが、じつはわかっているようで何もわからないのである。「原子力発電」などは、長い間、その内容が隠蔽されてきていたので、多くはなんとなく・・・しかわからなかった。事故で蓋を開けたら説明・宣伝は大ウソだったというわけである。

意味をぼかす教育

 「集団自衛権」・・・これだって、わざと中身をぼかした言葉である。政治や行政では、わざと中身がわからないように難解な熟語や外来語を使う。PCというからパソコンかと思いと「バブリックコメント」だったり、CPというから何かと思うと「コンプライアンス」だったりする。意味を尋ねると「そんなことも知らないの?」と思われるので多くの人は聞き返せない。
 ここがアブないところで、「集団自衛権というのは、侵略をみんなで防ごう、守ろう、ということかな」と思っていると中身はアメリカの戦争に日本が参戦できることだったりする。もし、そんなことが閣議決定だけで出来るなら、独裁政治と同じで「日本国憲法」など何の意味もなくなる。しかし、じつは論理的に考えさせない、あるいは意味をうまくぼかすことを長年、学校教育はやってきたのだ。知られては困ることがあるばあいは、こういう方法を取る。つまり、意味に肉薄するような議論や教育は避けるわけだ。「初めから答えはある」から、議論や研究はおざなりでいいというわけだ。教育を受けたエリートたちは、なんとなくわかった知識をたくさん身に着けた人たちで、当然、頭の中は答えだらけである。ところが、この人たちに根本的な疑問、自然な質問をしてみると答えられないことが多い。そして、はぐらかして、強引に「そんな質問をするのは、おまえがバカだからなのだ。」という姿勢で迫ってくる。

1対1対応の答え

 なぜ、こうした言葉が「なんとなくしか」分からないようになっているのだろうか。例えば、学校教育では、よく文学作品と書いた作家を覚える授業がある。「杜子春」=芥川龍之介、「老人と海」=アーネスト・ヘミングウェイと言った具合に・・・しかし、覚える側としては「杜子春がどういうものか」「『老人と海』がどんな内容か」はわからない。ほんとうなら、作家の名前を覚える前に作品を読むべきだと思うのだが、実際には学校教育ではそんなことはしないし、できない。
 もう一度振り返って考えてみよう。幼児の時に、小学校の時にあれほど読み聞かせを! 本を読もう!と音頭を取っていた行政や学校が中学になると掌を返したように勉強しろ!となってくるのはなぜか・・・それは多感な思春期の時代に、すぐれた本を読まれて「真実」が見えてきて、政治家や行政や学校がやっていることは嘘臭く見え、欺瞞じゃないかと思われることを怖れているのではないか。教科書を意味不明の単語で飾り、素朴な疑問を内申書、偏差値競争で抑え込み、真実を見せない。そこまで勘ぐるのはマズイことだろうか。では、なぜ、中学、高校できちんとした読書活動をしないのだろう。東京大学などきちんと本など読まなくても入れるという人がいる。クイズのような試験突破テクニックさえあれば入れる。思考力など邪魔で、暗記力でじゅうぶんというわけだ。
 こんな1対1対応を早期教育から教えるとなれば、そして学校で量の優劣を図るなら、たくさん覚えた方が勝ちである。(ー1)×(ー1)=+1、なぜプラスになるか質問などしないで覚える! 「漢倭奴国王印」・・・日本に文字がないと言われている時代に、文書に署名して捺印するものがなぜ贈られてくるのか? そんなことは聞かないほうがいい。覚えよ! 水のみ百姓ばかりでみんなお米を年貢に取られて食うや食わずのはずの江戸時代がなんで270年間も続いたのか・・・そんな疑問より、はいはい「1868年=明治維新」を覚えよう、というわけだ。
 そして、教科書や社会用語、現代用語は長い熟語と化していく。曖昧にぼかして真実を悟られないように。
 「積極的平和主義(さあ七文字熟語となれば曖昧もいいところとなるぞ)」・・・・ホラホラ、「平和を積極的に推進するんだぞ。言葉からそんなこともわからないのか!」。「特定秘密保持法(おお、これも七文字熟語だ。)」国が危うくなるものは秘密にして他国が干渉できないようにする・・・当たり前のことだよね。・・・・こうしてボカされ、誤魔化されて、真実が見えなくなる。これはテスト問題ではない。若者は、他人事として考えているようだが、さて戦争になれば戦いは自衛隊員だけではなく、自分たちも行かねばならないことを「意味」として知っておく必要があるよ。「第三次世界大戦」おお、これも七文字熟語だ!」とはゲームやスポーツとちがって、腕が千切れたり、足が吹き飛んだり、命がなくなったりする意味があるいうことを知るべきだと思う。(6月号新聞一部閲覧)



(2014年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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