ブッククラブニュース
平成26年9月号(発達年齢ブッククラブ)

「おはなし」は情報ではないよ!

 私は店先では、子どもたち(ときには親たち)を相手に「不思議なことを見せるおじさん」で通っています。トランプで魔法(?)を使ったり、超能力(?)で物を動かしたり、大人がダマせなければ子どもはダマせないと思っているので、かなり真剣にやって見せます。子どもは不思議なものが大好きです。ときには、「お話してぇ!」という子どもには、とてもコワイ(そうでもないかな)お話とかクダラナイお話をいくつもします。子どもの多くはオチやしめくくりがよくわからない話ですが、喜んで聞く子も多いし、横で聞いている大人にはけっこうウケます。
 もっともかんたんなお話は「亀の呪い」というもの・・・「カメはノロい!」で終わりです。長い話はいっぱいあります。およそ十五分くらい話す「嵐の幽霊船」、その気ですべてを語れば一時間くらい語れる「青い血」・・・まあ、こういう話はすべて息抜きです。楽しければいいわけで、怖さがあってもなくてもハラハラどきどきがあってもなくても話し手と聞き手が一体になれるものです。妙に教訓めいたお話よりは聴いていてバカバカしいほうがいいものが多いです。

人は話をする動物、話を聞く動物

 もちろん、そんなエンターテイメントばかりではなく、会員の方々と真剣に世の中の話をしたり、子どもの周辺環境について話すことも多いです。これは「話」ではなく「情報交換」でしょう。
 例えば「お宅のある地域の中学は荒れている!」とか「昨日の殺人事件は理解しがたいものだ」とか「最近、テレビがほんとうのことを伝えなくなった」とか・・・・。これは現実の情報を交換して危険から身を守る話でもあります。
 こういう中で、私が感じることは、当たり前すぎる意見ですが「人というものは話を聞く動物、する動物」だということです。これは、おそらく大昔から遺伝子に刷り込まれてきた性質でしょう。「あの林に行くとブドウがたくさん実をつけているよ」とか「今日は岸辺に小魚が寄り集まっているぞ」とか「さっきイノシシを見かけた」とか・・・つまり、生活するのに必要な情報が流され、これを聞きのがすと生きていくことができなかったのが人間という動物。だから、他の動物にない「聞く能力」がついたと思われます。

ウソを言う人もいるから

 しかし、当然のことですが、昔からウソを言ったり、ゴマかしたりする人もいます。自分だけが獲物を得ようとして、まったく反対方向に獲物がいるように伝えたり、見てもいないものを見たといったり、数や量のゴマカシをしたり、事実をゆがめて話したり・・・その意味では平気でウソもつける動物でもあります。群れのトップが、他の強い群れの言いなりになり、自分の群れを危険に追いやることだってあります。何が大切で何が大切でないかという情報の判断ができないと逆に生きて行かれなくなります。目先のものに追われるのも人間ですけれどね。
「ただちに健康に害があることはない」と言われても、即死はしないけれどいつかは死に至るものが放出されているのかもしれません。疑問や不安が出てきます。
 でも、そんな生活情報ばかりでは人間は心が消耗してしまいます。
 そこで「大昔」が「昔」くらいになって来ると、「聞く力」を利用して、情報ではない「お話」を語る人が現われ、現実生活でササクレだった心をしずめる役目を果たすようになりました。「昔」が「小昔」くらいになると、その語りやお話を本としてまとめる時代になり、人はそれを読んで心の安定を作り始めたわけです。

聞くことは心の安定につながる

 「聞く力」が心の安定につながるということは、読み聞かせをしてきた親ならわかります。読んでやったあと幸せそうに眠る子どもを見ていますからね。
 ・・・そして、どうして同じ本を何回も「読んで! 読んで!」と持ってくるのか? これは聞いて想像する楽しさが日常の緊張から心を修復して、安定させるからでしょうね。
 ところがテレビの発達以来、人間から「聞く力が失われ始めている」と言われています。情報が多すぎて何がなんだかわからないので、「なるべく聞かないようにして、自分を守る」ことをし始めたのかもしれません。
 家庭内で話がなくなり、語る人もいなくなり、読み聞かせもしないので、どんどん聞く力が落ちていく・・・。子どもが聞くのは「早くしなさい!」「あれをしなさい!」「こうしなさい!」というメッセージ言語ばかり。聞くと言うことは、想像力を使いますから、聞かないということは想像力も落ちているということです。想像力で真実を見つけることは大切ですが、想像力がないとかんたんにダマされたり、相手のウソが見抜けなかったり、大変です。聞く力は「おはなし」からつけていきましょう。(ニュース九月号一部閲覧)

こぴっとしない国

 ぼーっと流されていく日常を送っているとわからないが、よく見て考えていると、この国は、ここ数年でひじょうにおかしくなったと思う。もっとも、おかしくなっているのはこの数年ではなく、かなり前からだろうが、急に「異常が目立ってきた」というべきだろうか。少なくともこの二、三年で、よくわからないこと、どうみてもおかしなこと、理解しがたいことが起こっている。と、言っても「これがおかしい」「あれがおかしい」といちいち言えるものではなく、あらゆることが[何でもあり]になって,矛盾しようが、みっともなかろうが、酷かろうが、品がなかろうが・・・とにかく、上から下まで節操がない、倫理感がない、責任を取らない,平気で嘘をいう・・・という状態になった。子どものために良いとか悪いとかなどは、まったく論議されていない。こぴっと議論しろよ!と思う。
 最初に言っておくが、「子どものために悪い」ものは、じつは「大人にも悪い」のだ。酒、タバコ、バクチ、麻薬・・・その他言葉では言えないものも含めて「子どもには悪いが、大人には良い」というものはない。ところが、これが境目がなくなりつつある。さらには、「大人にさえ良いかどうかわからないもの」が子どもにどんどん入り込んでくるという状態になっている。大人はこぴっと考えろよ!と思う。

科学技術がおかしい!

 スマホの遠隔操作で3D化する絵本、その絵本が自動ナレーションで語る、そんなものが乳児向けに開発されている。こんなものに小さいうちから慣れていったとき、どうなるか。小学生ですらスマホを使いこなせれば、かんたんに闇サイト、アダルトサイト、課金ゲームサイトに入り込める。こういう問題の対策をこぴっとしろよ、と思う。
 もはや科学技術は完全に間違った道に踏み込み始めたように見える。そして、その進歩は対策が追い付かないほど早く一般に浸透してきているのである。対策を立てる前に影響を受けた事件が起こり、依存者が激増する。先日、八ヶ岳のふもとの喫茶店に入りお茶を飲んでいてフト隣の席を見ると、恋人らしき二人が何もしゃべらずスマホを操っている。私には、この様子は異常である。彼らにとってスマホが語る情報のほうが恋人より大切なのだろうか。それとも、そういうつきあい方が現代的なのかもしれないが、スマホ内部の恋愛情報を現実化しているつもりなら、それは大きな間違いである。
 いま、科学の分野で行われているのは、技術で「仮想を現実に近づけること」だ。ないものをあるように見せる、現実を忘れさせて幻想を現実と思い込ませる技術の進歩である。つまり人間をごまかすための技術である。それでもダメだとなれば、嘘の入った扇動や宣伝でいかにも優れたものだと思い込ませる方法も使う。マスコミを使って何度も何度も同じことを言い、いかにも多くの人が評価しているように思いこませる宣伝技術。「ナチスが使った手口」だが、科学もそういううさんくさいことをやり始めた。大衆がバカであることがわかった指導者が大衆心理学を駆使して、自分たちに都合の良い方向に科学技術を使い始めたともいえる。
 さらに、この科学の後ろにあるのは「儲かれば何でもする」という「市場原理」だ。ここまで大量に商品情報が出てくると一般大衆は何が何だかわからなくなるから、消費者の選択基準は、「みんな買っている」「売上NO!」などという文句につられて、害になるものをどんどん買い込んでしまって、やがて、その弊害に苦しむことになるのである。

グッズの拡販

 例えば、「アナと雪の女王」・・・これも宣伝効果が映画そのものを追い越して扇動状態をつくっている。かわいくもないおかしな表情の主人公がありきたりの波乱を越えてハッピーエンドに向かう底の浅い話・・・それがグッズを売りたい、DVDを売りたいという戦略の中で一般大衆に向けてあることないこと内容の美化を始めている。子どもの中に入り込むこういうコンテンツほど滅多やたらに心を壊していくものはないが、その規制も何もないのである。
 小学生の女の子が雪の女王のティアラを頭に付けたがる幼稚さまで計算して、商品戦略は扇動を始めている。昔はどの分野でもみんな「歯止め」があった。消費者側にも自制があった。そんなバカなものは買わない、見ない・・・という・・・・。ところが現在はすべてを野放しにしておいて、何か起きたら自己責任という時代である。自己責任もいいが、あまりにも何でもありで迫ってくる市場原理の力は抑えられないものなのだろうか。どこもかしこも、規制緩和されて、こぴっとしなくなっている。この結果、あきらかに世の中の悪は増大している。
 悪に引っかかるほうが悪いのかもしれないが、儲けるためなら何でもする悪を規制しない社会というのも問題ではないだろうか。自由、規制緩和という言葉でゴマカシても、世の中はどんどん悪くなるだろう。それもほとんど仮想のような現実の中で・・・・。

生きるということ

 いま大人も子どももしなければならないことは、現実の中で生きるということを知って実際に行っていくことだと思う。そうしないと時間の流れに押しつぶされたり、忙しさの中で生きている実感を失ったり、無意識に行動したりすることになる。
 市場原理に騙されないためには、自然をしっかり見て、人間社会もしっかり見て、喜怒哀楽をはっきりと表現して、隠れている現実を想像力で描き出すことが必要である。
 そうすれば、美しいものも醜いものも区別がつくようになる。
 谷川俊太郎の有名な詩に「生きる」というのがある。小6の教科書にも出ていたから親たちも知っているだろう。
 少し長いが、全文挙げよう。こういう詩だ。思いだしただろうか。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ

(c)谷川俊太郎 ジュニアポエム双書14「地球へのピクニック」より 銀の鈴社
・・・・・というフレーズが続く。これからの日本は「エッ!」という時代に入っていくが、われわれは、いま「隠された悪を注意深く拒むこと」ができているだろうか。「美しいものに出会う」ことができるだろうか。そして、喫茶店でスマホを操っていた恋人たちが、この詩を読んで何を思うことだろうか。(新聞九月号一部閲覧)



(2014年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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