ブッククラブニュース
平成26年11月号(発達年齢ブッククラブ)

自分の子ども時代が反映する

 この年齢になると時々、自分が親父と同じことをしているということに気が付く。おそらく、若いころでも自分の子どもに親父と同じような遊び、躾をしていたのだろう。遊び方、話し方、叱り方・・・思い起こしてみると親父に似ていたような感じがする。これは幼いころや若いころの体験が、その後の人格や行動にかなりの影響を及ぼしていて、結果的に同じことを繰り返させていると思われる。
 私の親父は、私と遊ぶときに川で釣りをしたり、自転車でかなり長い距離を走ったりするのが常だったが、たいてい私を連れて行動していた。当然、私も釣りをしたり、親父の自転車に二人乗りしたりしていたものだ。もちろん室内で遊んでくれるときはカルタとか将棋とか(記憶はないが積木とか)だったが、成長してからはかなり物作りを教えてくれたことは鮮明な記憶で残っている。木を削って物を作るとか、正月飾りを作るとか・・・家庭内の行事で使うものが多かったが、道具の使い方は親父からほとんど教わった。
 自分の子どもができて、遊びで接してみるとじつに同じようなことをしていた自分に気が付く。体験が繰り返されているわけだ。
 と、するならTVゲームで育った親は、子どもとTVゲームで遊ぶのが「子どもの相手をすることだ」と思っているはずである。体験がそれしかないからだ。つまり、これも「幼いころに体験したことを繰り返す」という「好例」なのだろう。最悪なのは、虐待経験のある親が子どもを虐待してしまう例である。自分がされたことをまた子どもにする。・・・これは良かれ悪しかれ、自然に行われるものである。自分の子どもに読み聞かせをする習慣も先天的な力ではなく、幼いころに刷り込まれたものなのかもしれない。
 刷り込み=「インプリンティング」は、コンラッド・ローレンツが鳥のヒナで明らかにしたが、「先天性+後からの体験」と思われることも多い。動物では先天的な力が大きいが、人間の子どもはそこまで力を発揮できない。大事に育てられることを無意識に感じながら、時間をかけて保護者を親だと思っていく動物だ。これは、おそらく鳥や獣のように生まれてすぐに自力で生きる能力がないからだろう。あるいは、親に捨てられても誰か育ててくれる人を親として認識するために、最初から特定の保護者を「親」と思わない体質が組み込まれていると思われる。育ててくれる人が「親」なのである。人間は高等哺乳類で、じっくりと時間をかけて物事がわかっていく保育期間が長い動物の一種だからだ。

前置きは長いよ

 さて、前置きがまた長くなった。でもまあ、どうせ、ゆめやのHPなどいつもダラダラ長いから、ここまで読む人も少ないだろう。皆無かもね。ならばどんどん長く書いてやろうと思う。読まれないために長く書くということもある。これだけ個人発信のSNSが普及すれば、まともに読む人などまずいないだろう。飛ばし読み、流し読み、斜め読み、結論読み・・・そうはさせないぞ。結論など最後に書くものか! どだい人生にもこの世界にも正解など無い。核心部分なども最初から書く気はない。核心を最初から書くのは「文を書く常道」に違反ではないか。短く終わる気は初めからない。
 ブログならまだしもツイッターやLINEのようにオール短文では理屈が伝わらない。「いいね!」では何がどういいかがわからないではないか。それが横行している時代だが、雰囲気でわかったような気になるのはひじょうに危ない話だ。
 「積極的平和主義で行こう!」・・・「いいね!」では困る。積極的平和主義が気に食わない国をみんなで攻撃することかどうかきちんと説明してもらわねばわからない。「増税分は福祉に回す」・・・「いいね」では困る。その男、福祉などよりは軍事が好きなのだ。単純に「いいね」を言って、ヤンキーを盛り上げていると、いずれ大変なことになるよ。
 さて、前置きはこのくらい。本題は「親の読み聞かせの能力」だった。前置きを長く書いていたら今月の主題を忘れるところだった。

たかが絵本の読み聞かせ

 読み聞かせは、かんたんなようでむずかしい。多くの大人は、たかが絵本の読み聞かせ、かんたんではないか。と思っている。もちろん、赤ちゃん絵本などは文も短いし、ページ数も少ない。子どもに読んでやるのは雑作もないことだが、じつは「読み聞かせ続けることが、なかなかむずかしい」のである。幼児期に体験がなかった人は一度や二度の読み聞かせができても、毎日毎日続けることができないことが多いと言われている。これも体験がないことは繰り返せないことにつながるだろう。
 幼いころに読み聞かせを受けた子が親になって自分の子に読み聞かせるのはあたりまえのことになるが、読み聞かせ体験のない人は親になって「読み聞かせが大切だ」と頭の中でわかっていても、なかなか実行できないものだ。
 さらに小さいころの読み聞かせ体験のない親は、絵本を買うことが無駄な出費のような気がして買ってまで読んでやろうとは思わない。「同じ本が図書館にいくらでもあるのだから借りてきて、借りるなら十冊でも十五冊でも借りてたくさんよんでやったほうがいい」などと浅はかにも思うことだろう。ところが、どっこい、子どもというのはおもしろい存在で、目の前にないものは「無い」のである。それは絵本のお話でもそうで、図書館に本を返したら内容のお話も頭の中にもう存在しないのである。子どもを大人と同じように考えて、これだけ読んだから覚えているだろうと思うのは「浅はか」ということである。しかし、わかっていない親は平気で図書館から浴びせかけるように本を借りて読むこともある。

好ましくない「好例」

 さて、ブッククラブの配本を申し込まれて、私が一番困るのは「祖母が孫に絵本を与えたい」ケースである。このケースが昔に比べて増えた。老人が年金太りで、孫にはどんどん金をかける時代だ。他のブッククラブでは、これ幸いと祖父母に向けて「お孫さんに絵本を贈りましょう!」などという企画さえ打ち出しているところがある。
 もちろん孫の母親が「祖母の娘」なら問題はない。なぜなら、祖母は娘に読み聞かせをしてきたのだから、母親となった娘は読み聞かせをするのがあたりまえの子育てとなる。自分が受けてきたことは自分の子どもにも行う・・・前述のインプリンティングである。
 問題は、母親が「嫁」の場合だ。読み聞かせを受けてこなかったり、アニメや漫画で育った「嫁」は、読み聞かせの絵本に違和感が出て気が乗らない。薦めて来るのが「姑」だと「『からすのぱんやさん』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』なんかより『しまじろう』や『ジブリ』のほうがおもしろいのに・・・」と抵抗したりする。これこそ読み聞かせ体験がない典型的な例だ。姑が「孫かわいさ」に絵本を与えても、読み聞かせの当事者である母親が読み聞かせができなければ「好ましくない好例」が繰り返されることになる。
 もちろん、中には体験がなくても読み聞かせを続けられる人もいるだろうが、やはりその数は少ない。幼児期の体験は意識下に入っていて、けっきょく大人になったときに繰り返されるからだろう。
 読み聞かせも読書も時間が必要な作業である。先行き無理だとわかるケースについては、私はおばあちゃん(祖母・義母)にはっきりと言う。「けっきょく、読み聞かせは親の問題で、いやいやながらやったものはけっきょく長続きはしませんので」と。

Practice what you preach!

 とはいえ、私も妻も幼いころ絵本の読み聞かせなどしてもらったことはなかった。だいたい絵本など買ってもらえない時代だった。私たちの幼児期は戦後の貧しい時代だった。美智子皇后は、疎開先に御父上が本を買って持ってきてくれたエピソードを述べているが、戦争が終わってからの出版状況は絵本どころではなかった。一般の家庭では。まずほとんど買ってもらえなかった。絵本が子どもの手に渡り始めるのは1960年代で、それ以前の幼少期であれば絵本は、まず、どの家庭にはなかったのである。それでも買ってもらえる家庭は少なく、一坪文庫などの文庫活動が活発になった。しかし、それさえなかなかまともな絵本にはありつけなかった。それは文庫をやるおばさんが、自分の息子や娘のために買った絵本や本が文庫所蔵の本だったので、ばかに年齢の高いグレードの本や低すぎる内容のものが多く、自分に合ったものを探すのは至難のことだったのである。だから、私たちの世代は幼児期にほとんど絵本には触れていない。
 しかし、思い出してみると、頻繁に祖母から昔話を語ってもらったし、父からは震災とか戦争の話を何度もしてもらった。つまり、耳は常に「読み聞かせ(語り聞かせ)を受けた状態」だったのである。さらにラジオが全盛だった。子ども番組もあったし、落語がラジオから流れてきていた。今の子どものようにゲームや漫画などの娯楽はなかったが、耳は立っていたからラジオでわかるものはみんな聴いていた。
 だから、私たち夫婦が子どもたちに毎晩、読み聞かせを続けることができたのは、子育てという重要なことをするには手近なことから始めてみよう(隗より始めよ!Practice what you preach!)という気持ちからだった。それが絵本だったし、頭の中に残っている過去の出来事の語りだった。

成せばなる成さねばならぬ何事も・・

 やってできないことはない。こういう刷り込みは、いずれ子どもにもつながって行く。たしかに、自分が生きてきて生活を繰り返してきたものを変えるのはむずかしいが、ダラダラとジリ貧になっていく子育ての悪循環を改革するのは「意志」でもある。昔、左の写真にある米沢藩の上杉鷹山は、困窮する藩財政を健全化するために改革を断行した。なかなか大変な改革である。藩主・家臣らが耐乏生活をして考えを切り替えて行かなければならないからである。しかし、やらなければサイクルが崩れる。そこで彼は「為せば成る、為さねばならぬ何事も・・・」という有名なフレーズを述べて断行に踏み切った。いま、若い親たちはすでにものがあるので、やったところで「成せばなる、成さねばならぬ何事も・・・」ていどである。豊かなので、多くの物は成っている、それを覆して生活を変えるのは行動である。「為すこと」だ。為せば成るのである。読み聞かせ・・・たとえ幼児期に体験の無かった人も自分の子どもにやってみようではないか。その成果は必ず出る。(ニュース11月号一部閲覧)

猿の生活 ヒトの生活

 ゆめやは、もう、おじいさん、おばあさんになっていますが、それでも子どものころがありました。私たちが子どものころには、とても世の中が不思議に見えたものです。今でも、いろいろなものが不思議に見えた記憶が残っています。夜は暗くてとても外を歩くことはできませんでしたから、暗闇は何かが出てきそうな不思議に満ちていました。
 家の中でもどこかに何か得体の知れないものがいるような気がしていました。子どものころには、いろいろなものが見えるものです。いまでも現実の体験なのか夢の中のことか判別できない記憶も残っています。
 例えば河童を見たことがあります。近くのお寺の池なのですが、それこそ何匹も、しかも河童たちはひじょうに小さいのです。掌に乗るくらいで、みんな茶色でした。もちろん夢で見たことが鮮明な記憶として残って、いかにも現実で見たように再度記憶しているのでしょうが、見たものは見たものとなります。それから、何度も同じ夢を見ることがありました。決まって山道に土台になる木を突き出してその上に建っているいる小屋なのです。当然、小屋の下は崖なのですが、後年、信州の白馬に行ったときに同じような道に、そのような小屋があったので驚きました。・・・・このように子どもの脳と言うのは、見えないものを見ています。おそらく聞こえない音や声も聞こえ、すべてが不思議に感じているのでしょう。

大家族経験

 それから、おじいちゃん、おばあちゃんが一緒に生活しているのですから、家族が言っていることがむずかしてよくわかりません。これも不思議なことでした。嫁姑(祖母と母)の言い争いとか、おじいちゃんの小言やしつけについての話とか、子どもながらに聞いていると、あるいは見ていると、家庭内でいろいろな事件や言葉のやりとりがあって、なぜ、そういう話がされているのかも不思議でした。そして、その事件ややりとりについて、子どもながらに心を痛めたり、解決方法はないかと思ったり、親から言われたことをどう実行するかを真剣に考えたものです。
 現代の核家族の家庭では、うっとうしいことや価値観の違いがない父母と子どもで生活していますから、当たり障りのない言葉ばかりで、傷つけ合うようなこともなく、子どもも自分の世界に楽しく浸っていられるかのように思われがちです。しかも、なるべく子どもには楽しい雰囲気だけを与えて、嫌なこと、つらいことをさせないようにしています。しかし、それが子どもの成長にとって幸福かどうかは考えものです。

若者の特徴

 例えば、いま、そういう家庭で育ってきた若者を見ていると、あるいは今の世の中の風潮をみていると、「相手を傷つけないように細心の注意を払っている」ように見えます。大学生などは、まるで思春期の子どものようで、アニメやゲームやコスプレやトレンドの趣味などで仲間を作るのはいいのですが、お互いホメ合うことばかりで、じつにウサンクサイ言葉のやりとりで終始しています。批評も批判もないため、人間関係や物事をよくしようという工夫は生まれません。まさにTwitterでいう「いいね」感覚の深みのない賞賛のやりとりです。あとは、2チャンネルなどのコメントに見られるような陰湿なつぶやき。それを取り巻く今年のハロウイン渋谷に見られるような何も考えないイケイケのヤンキー性。そのくせ、自分たちの未来を「明るい」とはほとんどの若者が考えていないのです。
 それはそうです。いつの時代でも子どもは大人がつくった社会に生きていて、子どもは大人をけっこうしっかり見ていますから、大人がどうしようもないことをやっていれば失望感が大きくなるわけです。さらには、大人と同じようなことをするわけで、いまの若者たちの親世代である50代くらい人々はバブルのときに同じようなバカげた騒ぎをしていたのですから、似て来るのは当然です。しかし、現代の若者たちは意外に弱い側面を持っています。なにしろ、家庭内で傷つかずに育ち、ナイーヴで繊細になって、さらに学校では批判とか善悪判断をほとんどしない仲間関係で育つと、打たれ弱い体質になってしまうだけです。学校に逆らったり、先生に逆らったら内申点が落ちるという環境で育てば、しかたないことでしょうが・・・・。
 さらに昔の子どもと違い、すぐに結果を出さなければならない効率主義教育に追われていますから、大学生になっても、なかなか自分の頭で考えられないし、判断もできません。当然、責任感も出ないし、逆に周囲に配慮を求めるような人間ができあがることが多いのです。配慮を求めるといえば聞こえがいいですが、要は自分からは何もせずに何かしてくれるのを待つということです。
 で、頭はサブカルチャーにやられていますから、恥ずかしいことでも狂ったようなことでも何でもできます。バブル世代の子どもたちということなのでしょうが、小さいころに人間関係の複雑さや人間の多様性、世代間の軋轢などを経験していませんから、そういうことを考える能力が欠如している者が多いのです。好きなことばかりやり、言われるがままにお稽古事をさせられ、ゲームやSNSで育つと「人間」などどうでもよくなるのかもしれません。

動物の子育て

 「動物の親は子どもをどう育てるか」(どうぶつ社・増井光子著)という本を読むと、サルの社会では、親の役割は子ザルに「試練を与えること」で、いろいろなことを「我慢させること」が主になっています。これは、私たちの世代では実際に体験したことです。不便さや物のなさを経験させられることで、知恵や工夫が出てきたような気がしています。ひょっとすると「生きる勇気」や「自己表現力」「自分で何かする能力」も試練や我慢の結果出てきたのかもしれません。この役割を現代の親は子どもに対して果たしていないような気がします。
 その結果、就職できないとそのままひきこもり、自ら仕事を生みだそうとはしません。考える力というより生きる力が希薄になっているというわけです。
 我々の世代では、少し大きくなると、いろいろなこと(学校が教えないこと)をおじいちゃんやおばあちゃんが教えてくれました。それは、ほとんど「生き方」についてです。今考えると教科書の内容は忘れてしまいましたが、祖父母が話してくれたさまざまな人間関係の話やどうすれば人に信頼されるかなどの話の内容はよく覚えています。
 アフリカのケニアだったかタンザニアだったか「老人が一人亡くなると図書館が一つなくなったようなものだ」という言い回しがあるそうです。それだけ一人の人の生きた歴史は知識の宝庫なのでしょう。しかし、祖父母から話を聞くことが日本ではかなり失われました。その結果、いま、世の中では、かなり悲惨な事件が起こっています。
 さて、サルの生活が正しいか、サルより進化したヒトの生活が正しいか、そりゃあ、進化したのですからヒトの生活が正しいのでしょうけれどね。世の中を見ていると進化なのか退化なのかよくわからくなることがあります。(新聞11月号一部閲覧)



(2014年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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