ブッククラブニュース
平成26年11月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせと子どもの環境
3歳の本

 3歳になると多くの子どもが周囲と会話を自由に交わすことができるようになります。口頭で表現する言葉が飛躍的に増える時期だからですが、これも1〜2歳代に耳から入った言葉が驚くほど溜まっていて、適切に場に応じて使えるようになるからです。よく注意していると、このことは絵本の中の言葉をひじょうに上手に、その場その場に応じて使っていることからわかります。この意味でも1〜2歳の読み聞かせは重要だということです。
 親と子が安定した時間を共有できれば、表現する言葉だけではなく理解している言葉もその背後でどんどん増えます。だから、3歳代ではかなりストーリー性の高い絵本を十分楽しめるようになるわけです。
 もし、「早くしなさい!」「これをしなさい!」「これはこうするのよ!」などという命令文(メッセージ言語)だけで育ったらどうでしょう。当然、そういう言葉しか覚えず、周囲に対して「あれをしろ!」「これをしろ!」という言葉しか頭に残らないということになります。幼児期には無駄に見える言葉でもたくさん入っているほうがいいのです。もちろん、これは読み聞かせだけではありません。日常生活でも親や周囲がいかにやわらかく、時には強く言葉を使っていくかで、子どもの頭の中には言葉の使い方まで入っていくのだと思います。

3歳という時期の絵本は

 すぐれた内容のものが充実していて豊富なので、段階を追ってうまく適合させながら与えていってほしいです。ブッククラブ配本では、季節に対応したもの、性差を考慮したものを別個に与えるように考慮しています。自己認識も強くなるので、社会性を育てるようなものも加え入れます。
 3歳代の絵本は、読み聞かせ技術は特別にはなく、お話の展開に沿ってふつうに読んでやればいいと思います。もう、声色を変えたり、演出をしたり、パフォーマンスを加える必要はまったくないと言っていいでしょう。
 読み聞かせおばさんたちが間違っているのは、「子どもがいずれ読書すること」を想定していないことです。「ただ読み聞かせればいい。そのうち本を読むだろう」くらいにしか考えていません。自分が読み聞かせをしているときに光り輝けばいいのですから、大げさなパフォーマンス、声色、演技・・・なんでもありです。読書のために読み聞かせがあることもよくわかっていません。だから過激な演出で子どもを引きつけようとするのです。私が考える読み聞かせは、「読み聞かせは読書への第一歩にすぎない」ということです。子どもはやがて字を知り、本を読んでいきますが、そのときに派手な内容を好み声を上げて読むわけではありません。淡々と文を読むのが読書ですから、子どもの集中力がついた3歳ごろからは、ふつうに文を読めばいいと思います。それがやがて読書力につながります。

配本の選書では、

 まず3歳になったことを喜ぶ本として「ちびごりらのちびちび」から出発することが多いです。自分を、あるいは自分の成長を周囲が見守っていることがわかる本です。。また2歳の繰り返しものから一歩進んだ「ねずみくんのチョッキ」、「3びきのくま」などが前半の初期には最適だと思うので配分しています。
 男の子には「しょうぼうじどうしゃじぷた」、女の子には「ママあててみて」などをいれて性差のある楽しみも感じてもらっています。季節ものでは「14ひき」シリーズや「ぐりとぐら」のシリーズから季節に合わせたものを選んで、お子さんに合わせて配本を組んでいます。季節対応は、ご心配なく。
 3歳半ばに近くなったら、ちょっとむずかしいかもしれませんが「なにをたべてきたの」「ガンピーさんのふなあそび」などバランス感覚を教える本なども入れます。3歳代の名作・推奨本はひじょうにたくさんありますが、だからといって次から次へと大量に与えることは避けたいものです。子どもの頭の中では絵本のフラッシュカード状態が起き、右から左の通過にすぎなくなり、内容を味わうことができなくなってしまうからです。まだまだ同じ本を毎日何度も読む・・・・これが、この時期の読み聞かせの基本です。

私の絵本棚

 大人は加古さんの絵柄を見て、物語を読んで、古めかしい感じを受けるかもしれないが、子どもにとっては古くもなんともない新しい絵柄であり、物語である。「てんぐのやつでのはっぱ」なんて難しい言葉もあるが、子どもには、そういうものがスンナリと頭に入るのである。いずれ、何かの物語を読んで天狗の八つ手の葉っぱが「葉団扇」と言って超能力を持つこともわかるだろう。なにはともあれ、おはなしがおもしろいのだから、上のような理屈を考えないで子どもには楽しく読み聞かせてほしいと思う。
 九月号の月刊MOEに加古里子さんの「からすのぱんやさん」を書いたが、それは一般論。個人として我が家の読み聞かせを考えて見ると、上位に入るのは、やはり加古さんの作品が多い。なぜウチの子どもたちが、少し古びた感じがある加古さんの絵が好きなのか、あるいは子どもにはまったくわからない「丹下左膳」とか「座頭市」などと言う言葉が出てくるものが好きなのか、親の私にもよくわからない。でも、なんとなく魅力を感じたらしい。これは現在のブッククラブ会員の子どもたちの反応も同じである。どういうわけか好きな子が多い。
 我が家の子どももいつか大人になったが、ある夏、東京から帰省した長女が、私に真っ黒なTシャツをおみやげに買ってきた。何とそれが「だるまちゃん」のTシャツだった。
 私は、ご承知のようにかたくなな人間でTシャツは下着だと思っているから、絶対にTシャツだけで人に会わないし、外出もしない。たとえ気温40度オーバーの甲府でもTシャツで出歩くことはない。つまり、夜、家の中で着るだけのものだったが、「だるまちゃんとてんぐちゃん」が白い線で描かれたTシャツはうれしかった。もう何年も着てしまって左の写真のように洗いざらしで生地が白っぽくなっているが、どうせ外出では着ないので、いまだに夏物の引き出しに入っている。

だるまちゃんとてんぐちゃん

 加古さんの特徴は、「いろんなものが次々に出てくる」点にあるような気がする。例えば「だるまちゃんとてんぐちゃん」では、まず、てんぐちゃんの持っているウチワをだるまちゃんがほしがるのだが、扇子も含めてそれこそたくさんのウチワが描かれる。さすがに松島みどり法務大臣が選挙区で配ったウチワはないが、浮世絵柄、家紋柄、羽ウチワ、火起こしウチワなどが1ページに満載。次にだるまちゃんは帽子をほしがるのだが、ここでもまた山ほどさまざまなボウシが出てくる。その次は履物で、ここでも2ページにわたって、さまざまな履物が並ぶ。その後で、トンボが止まる花が出て来るが、これもまたさまざまな花が描かれる。
 この展開を見ていると「からすのぱんやさん」で多くの子どもが魅了されるたくさんのパンの絵の描かれたページと同じ状態が「だるまちゃん」シリーズにもあるわけで、この「同じものだが多様なもの」が子どもの関心を引きつけるような気がするのは私だけだろうか。そして、話は荒唐無稽なおもしろいオチに向かって話が進んでいくのだが、子どもはお餅で長い鼻を作っても不思議には思わないだろうし、スズメやトンボがそこに止まっても奇妙でもなんでもないだろう。
 あるひとつのものではなく、「同じものでも多様なものがあること」を加古さんは表現したいのだと思った。科学でも歴史学でも、同じものばかりになったときにその生物や国や社会は滅ぶと言う考え方がある。ひとつだけ強いものが支配しても滅び、いろいろなものを認めない環境も壊れる。多様性があって変化に富んでいて、様々なものが共存できることで、「継続」や「持続」が成り立つとも言われている。加古さんの本を読んで、子どもは大人よりそういうことがわかっているのではないだろうか、と思ったりする。
 大人は加古さんの絵柄を見て、物語を読んで、古めかしい感じを受けるかもしれないが、子どもにとっては古くもなんともない新しい絵柄であり、物語である。「てんぐのやつでのはっぱ」なんて難しい言葉もあるが、子どもには、そういうものがスンナリと頭に入るのである。いずれ、何かの物語を読んで天狗の八つ手の葉っぱが「葉団扇」と言って超能力を持つこともわかるだろう。なにはともあれ、おはなしがおもしろいのだから、上のような理屈を考えないで子どもには楽しく読み聞かせてほしいと思う。

しかたがねぇ!また書くか・・・
(6) さあ、もう対策はないよ!

 90%以上・平均3時間・・・高校生の90%以上がスマホを持ち、使用時間は平均3時間という調査が出た。写真は米沢発各駅停車の米坂線車両内の高校生だが、みごとに全員がスマホを操っている。これで平均3時間!! スマホを見ている時間が、じつに一日のうち八分の一ということになる。寝ている時間を差し引けば、起きている時間の四分の一がスマホをいじっている時間ということになる。平均ですら「依存」なのだから、当然4時間、5時間以上の者もいるはずで、勉強ができないどころの話ではなく、これはもう「中毒」である。ところが、この「依存」「中毒」を誰もいろいろ言う人がいない。そりゃそうだ、スマホの売り上げは経済指標でもあり、アプリの売り上げとともに物品販売業者がバカバカしくなるほどの利益を上げているからだ。
 さらに、そのスマホ利用者の「各種メディアのプライベートでの一日の視聴・閲覧平均的時間」を調べたところ、15〜19歳の若者の“パソコンでのネット利用時間”は88.2分だという。2013年9月の調査では143.9分。比較すると、約三分の二以下に減少している。スマホはPCと同じ機能を持っているから、片手で操れるスマホのほうが使い勝手がいいに決まっている。若者がそうなるのは自然の成り行きである。まあ、スマホに凝って、依存・中毒になって時間を浪費するだけならいい。どうなろうと個人責任だ。問題は、それが事件、事故につながっていくことである。最近の事件を見ていると、なんとなく精神病のにおいがするというのは言い過ぎだろうか。
 あるいは倒錯とか理不尽がまかり通るとでも言った方がいいだろうか。男子と女子が制服を交換して一日を過ごす実験。男子側、あるいは女子側から不満は起こらないのだろうか。私ならスカートをはくなどまっぴらゴメンである。また、女子大を受験して受理されないからと提訴する男性・・・こういう社会現象を見ていると依存や中毒で頭がおかしくなっているとしか「個人的には」思えない。でもまあ、このくらいなら命にまで影響はないからガマンできるが・・・。

危険性が高まる

 「歩きスマホ」などは命の危険性さえ出てくる。先日、コンビニの駐車場で車をバックさせて出ようとした私の妻が、脇から「歩きスマホ」で出てきた若者に接触した。妻の車のスピードは時速4kmにもならなかったが、その若者は転倒もしないのに自分の腕で胸を打ち、肋骨骨折。幸い、コンビニの駐車場だから一部始終を監視カメラが見ていた。警察も同情してくれて、「当たり屋ではないか」とまで考えてくれたが、骨折は骨折。当然、向こうは交通弱者で、けっきょく人身事故である。妻は免停になった。「歩きスマホ」の方は何の罪にもならなかった。
 私は東京などで駅のホームにいるときや交差点で信号待ちをするときには絶対一番前に並ばない。後ろから「歩きスマホ」に押されたら大変だからである。つまり、このように通信機器が手軽になればなるほど、人に注意力がなくなり、戸外では危険になるのである。いまだにケータイで話しながら運転している車をよく見かける。山梨では「自転車スマホ」の高校生などを頻繁に目にする。対策が取れないほど普及し、まるで、どこかで対策が取れないようにする力が働いているかのようだ。事故が起これば個人責任ということになる。

SNSは人間関係を希薄にする

 「Line」や「facebook」などで友達ができると言っている人がいるが、私は人間が電波でつながるのは「つながっている」という錯覚があるだけで、人間関係など成立するとは思っていない。逆にそういうSNSで、特定の個人を囲い込み、イジメたり、噂をしたりする暗い側面のほうが表に出てきて人間関係は希薄になっていく傾向にあるのではないかと思う。学校で、あるいは家に帰ってもスマホやケータイを操り、友人とメールする子どもたち。しかし、メールの文面の裏もあれば、悪意に満ちた囲い込みも起こるわけで、相手が信じられなくなることも激増し、自分自身もその波に飲み込まれて悪意を持ったり、逆に落ち込んだりすることも生じてくるだろう。会話も交わさずにメールで交わす友人や恋人の間の関係がまともなものにならないのは当然だが、これもまた対策がない。個人責任である。

ネット依存 350万人

 本来は、生の声、生の文章を交えて育っていく人間関係で、いま逆に五感が、どんどん失われていくのは、ある種のシンドローム(症候群)であり、病気だと思う。
 中高校生50万人以上、大人で300万人以上がネット依存で、オンラインゲームへのめり込みが一番多いと言う。ネット依存専門外来を設置した病院さえ出きたらしい。元を絶たずに出た「患者」をなんとかしようというのは本末転倒だが、一日中LINEをやっている中学生、オンラインゲームを合間にしていないといられない高校生などがいて、もちろん大人の中にも同じような症状の人がいるから、治療のプログラムを組み立てなければならないらしい。アルコールや薬物と同じ依存だから、禁断症状が出れば何をしでかすかわからないし、まず生活が成り立たないことだろう。治ってもまた元に戻ることがある。学校がSNS対策もなく導入しているから、その影響はますます広がることだろう。さて、どうするか、子どもや親が依存者になったら個々の家庭の責任になるのだろうか。

ニュージーランドの会員のお便り

 ニュージーランドの小学校は、タブレットを使って授業しているところが少なくありません。テカポの小学校でさえも(田舎の全校生徒30人も満たない所です)使っています。
 友達の子どもが通っている小学校では、小学生が変なサイトを見ている所を先生に見つかって、反省文を書かされたと聞きました。その子の親は、学校にインターネットの接続の規制を学校でして欲しいと言っていたのに、学校側は高校生も使うからそれは出来ないと言われていた時だったらしいです(小、中、高と学校が同じ所です)。学校側から規制云々は言って来なかったみたいで、なんとも残念な話です。(増ページ一部閲覧)

経済優先・マスメディアの弊害
(1)考えることを考える

 高名な俳人の本を読んでいたら「・・・忙しいときに俳句ができないというのは言い訳で、忙しいときにこそ良い句ができる・・・」というようなことが書いてあった。ほんとうにそうだろうか?私たち凡人は、忙しければ、深く考えることもなく、ただ追われるばかりである。実際、その俳人は山深いところに住んでいて、世間から距離を置いている。おそらくケータイもパソコンも使わない悠々自適の生活をしているはずなので、われわれとは忙しさの質がちがうのだろう。一日は24時間 一年は365・2422日。しかし、こう効率優先、経済性ばかりで世の中が動いてくると、早くすること、速くやることだけが生活のすべてになってしまう。当然、そこでは深く考えない。考えが生まれないということは思いが深くならないということでもある。人に対しても思いが生まれない。
 子どもに「早くしなさい!」と言うことで、親も自分を早くするように生活すれば焦りが出て、生活も空回りしはじめるころう。「あれもしなくては・・・!」「これもしなくては・・・!」・・・「あれも見なくては、これも見なくては・・!」となったら一日は24時間。一生が何時間かは知らないが、いくら時間があってもすべてを行なうことはできない。また、なかには何もしない無駄な時間も生きていくうえでは必要でもある。あまりにも「あれもこれも」では考える余裕もなくなり、自分が何をしているのかもわからないうちにやがて年を取って死んでしまうのではないだろうか。

集めたものを鑑賞できない時代

 例えばテレビの録画機能は昔にくらべて飛躍的によくなったらしいが、そんなにたくさん録画して観る余裕はあるのだろうか。また膨大な数のDVDに録画して集めておいて、あるいは音楽CDを集めておいて観たり、聞いたりする余裕があるなら、ものすごい優雅な生活をしているとしか思えない。我が家には録画装置はなく、ケータイもスマホも持たない生活をしているが、以前に比べればかなり忙しい日常になっている。みなさんの家ではどうだろうか。何かに追われて生活しているような感じはないだろうか。つまり、あまりにもたくさん録画記録や写真などがあるということは、一度しかみないということである。一度しか見ないならリアルタイムで見て、録画したり写真など撮らなければいいわけだ。何度も見たいものなら録画、写真は必要だが、それは限度のある数になるだろう。ところが、壁面の棚全部がDVDやCDなどが置いてある部屋などを見ると、この人はいつこれだけのものを再び見るのだろうと思ってしまう。
 それは、内臓録画機能のあるテレビでも同じで、ハードディスクの進歩で録画容量は飛躍的に増えているが、さて、それを再生する暇があるかどうかということだ。さらには、その内容が質の低いドラマや映画、音楽やアニメだったら最悪である。

神経を刺激するだけの漫画、映画、ドラマ

 昔の映画やドラマを思い起こすと、ゆっくりとした流れの中で観客や視聴者に 「ものを考えさせること」をしていたような気がする。その結果、映画やドラマのテーマを深く考え、それによって思いも深めていたのではないだろうか。つまり考える結果を産んでいたような気がするのである。
 それがいつしか、映画やドラマは映像と音響の刺激だけで観客を圧倒しようとする「刺激」に変わってしまった。ある時期からのアメリカの映画は、これでもか!これでもか!と刺激で攻めてきた。こんなものを小さい時から見ていたらどんどん鈍感になってしまうのではないだろうか。アメリカの子どもは成人するまでにテレビや映画など殺人シーンを5000回見ると言うが、日本の子どもだって同じくらい見るだろう。ゲームまで加えれば5000回どころではないかもしれない。
 現代の子どもは、映像や音楽は神経を刺激するものだという感覚しかもっていない。「これでもか!これでもか!」という大音響、非倫理的な言葉、嘘くさいCG…この中で育っていくと、自ら深く考え、思いを強め、何事かに向う気持は薄らいでいくのではないだろうか。  すべてが与えられるだけの「受動態の世界」では、「自分の考え」はなくなっていく。当然、自分から想像力を発揮して読まねばならない本などはウザイだけのものとなる。考えることが苦痛になるからだ。
 考えるためには物理的な「時間」と精神的な「余裕」が必要だが、現代の子どもにとっては、この両方がない。与えられたものに反射だけして、どんどん流されるだけである。スポーツから始まり、英語、書道、そろばん、芸能的なお稽古事・・・ひとつくらいならともかく、五つも六つもやって、一週間途切れなくスケジュールがつまり、さらに塾の学習では大人でも疲れる毎日となる。考える暇もなく、短い合間の息抜きが漫画を読んだり、LINEをしたり・・・心の余裕も生まれないのは、こりゃあもうしかたがない。

どうしたら考えられるのだろうか。

 新しいものばかりに目が行き、使いこなせないうちにまた新しいもの…次から次への消費と詰め込み…そのとき使えば後はすぐ忘れること…をくり返していると「考える意味」さえ考えることはなくなるだろう。
 考えない国民は国の行方をも考えることはない。選挙は考えた結果が出るが、それさえ考えた結果になっていない。この国民が考えない状態になっていることをきちんとわかっていて意図的に横暴な政策を進めたり、どうせ国民は考えないのだから、ごり押しで大義のないことをやってもかまわないという勢力も台頭してきている。きちんと選挙で見定めたいものだが、だんだん考えない人が多くなっているので選挙そのものが無意味になりつつある。国民が考えないように仕組んできた連中がほくそえまないようにしたいものだが、「十年前よりはるかに日本人は考えなくなった」と感じるのは私の考えすぎだろうか。(ニュース・新聞増ページ・一部閲覧)



(2014年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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