ブッククラブニュース
平成27年9月号新聞一部閲覧 追加分

いちご新聞8月号より

 《いちごの王さまのメッセージ (c)sanrio》  人と人はいかなることがあっても、仲良く助けあっていくことが大切です。
 王さまは今、いちご新聞8月号のメッセージを書いています。王さまにとって、8月は一年の中で、最も想い入れの深い月です。今から70年前の1945年、王さまがまだ大学1年生の時のことでした。
 8月6日、広島に原子爆弾が投下され、その3日後の8月9日、今度は九州の長崎にも原子爆弾が落とされ、信じられないほど、大勢の死者が出たのです。都市が破壊され、日本は戦争を続けることの恐ろしさを知りました。そして6日後の8月15日、4年間も続いた第二次世界大戦は終戦を迎えることになりました。
 戦争は多くの人の命を失い、多くの人が傷つき、その傷跡は何年、何十年、何百年経っても消えることはありません。大学一年生だった王さまは、この戦争で同級生を数人失いました。
 この経験から、心に深く刻み込まれたのは「争いからは何も生まれない。国と国、民族と民族、人と人はいかなることがあってもお互いに争うことなく、仲良く助け合って行くことが本当に大切なことだ」ということです。

スモールギフト・ビッグスマイル

 王さまはこのことをたくさんの人に伝えたくて、今から55年前の8月10日にこのサンリオを設立しました。親子、兄弟姉妹、お友だち同士から始まって、世界のすべての国の人たちが、みんな仲良く助け合うにはどうしたらいいか、戦争や争うことはやめなければならないが、それにはどうしたらよいのだろう?と考え続けた結果、一番大切なのはお互いのコミュニケーションで、そのきっかけになるような小さな贈り物、高価ではなく、ちょっとした可愛らしいものを贈り合うことが良いのではないかと『スモールギフト・ビッグスマイル』を合言葉にしたこの会社を作ったのです。あれから55年が経ちました。果たして世界は平和に、人々は助け合って幸せになっているでしょうか?
 いちごメイトのみなさん、この8月は恐ろしい原子爆弾が日本に落とされ、第二次世界大戦が終結した悲しい想い出の月なのです。争うことの無意味さと戦争の残酷さを忘れないで、仲良く助け合って生きることの大切さを訴え続けることを止めてはいけないと思います。 
 戦後70年、戦争を経験した人がだんだん少なくなっていますが、みなさんには8月の終戦のことを忘れないでほしいと思って、このメッセージを書きました。
 みなさん一人一人が周りの人と仲良く、困っている人には助け合いの手を差し伸べて平和で幸せな世界を築くための努力をしてくれることを、王さまは心から願っています。

例えば3歳児の読み聞かせは・・・

 3歳までの読み聞かせが何に有効か?というと「人格のおおもとになる脳(大脳旧皮質)の成長に良いからだ」と言われている。旧皮質は三歳までに完成してしまうので、3歳までに安定した生活状態があるかどうかで、その後の個性や行動パターンが決まるわけである。育児放棄された子は、多く思春期から影響が出てくるらしい。
 「愛されているという感覚」「自分は周囲の誰かとつながっているという感覚」が人格の基礎にないと成長の過程や成人してからも問題行動が出ると言われている。近年、世間を騒がす事件のうしろには「乳幼児期の育児」が関係しているのではないかと思うものが多いが、長時間労働で忙しかった親に育てられた子、小さいうちから外部に保育を委ねられた子、さらに極端にいえば育児放棄を受けた子……「乳幼児時代の結果が、起きる事件の本質と深く結びついている」と思うのは私だけだろうか。小さいうちは、子どもは何をしても可愛く見えるが、問題はその先だ。13歳殺人の犯人も幼いころは、きっと可愛かったはずである。いやいや、3歳、4歳などの子どもはどのような子でもみんなかわいい。
 親から子への読み聞かせは、この旧皮質の成長に必要なさまざまな要素を持っている。どのような読み方をするにしろ、「自分のために読んでくれている」という感覚が子どもに伝わらなかったら意味がない。親との暖かい皮膚感、親を独占している満足感、おだやかな状態……このような面からの読み聞かせは、内容の効果とはちがう人格をつくるうえで、かなり効果的なものである。
 こうした時期を経て、外部に適応し始める3歳の段階で与える本は、やはり「自分と社会をつなぐ物語」。「相手とのバランス感覚や自分は周囲とどういう関係にあるのか、を知る物語絵本」を主に与えたいところである。
 例えば「よるくま」の働く親への感覚、「ガンピーさんのふなあそび」のような本は社会性を芽生えさせるにはうってつけの作品だろう。「いいこってどんなこ?」のようにあるがままの自分を受け入れてくれる母親の話。子どもというより親に読ませたい絵本でもある。いずれにしても空想力、連想力を全開させるパワーのある絵本をブッククラブ配本では並べている。その順番構成は、3歳児という急速に世の中を認識していく力の開花に合わせて配本を組んである。それも個別に・・・男の子と女の子、兄弟の有無なども考慮しながら・・・・どうかその配本を順番に楽しんでください。いずれ、その成果は見えてきます。十年後に・・・ね。

焦ると見えなくなるもの

 「これが良い!」と思い込むと・・・・なんでもそうなのだが、人間というものは「これが良い!」と思い込むと、それが絶対になって物事に一長一短があることがわからなくなる。その代表が新興宗教で、勧誘されると「これが最高! これが絶対!」となってしまう。「他はみんなダメで、これだけが最高!」というふうになる。まあ、そういう狂信者をつくることが教団の仕事で、絶対自分は救われるという発想がなければ信者が集まらない。しかし、その宗教を開いた人・・・つまりお釈迦さまとか、イエスさま、マホメットさまは、「自分の考えが絶対!」などとは「絶対」言っていないのもまた事実である。
 勧誘というものは、たいていは受ける人が何かで焦っているとき、弱気になっているとき、何がなんだかわからなくなっているときに迫ってくる。だからその人の頭の良し悪しなど関係ない。人間が空中に浮くことなどあるわけないのに、理工学系の大学を出た偏差値の高い人間が、それを信じ込んでしまうのも「思い込み」のなせる「技」である。教育関係でもこれで引っかかることが多いから要注意である。

おけいこ事や学校の選択でも・・・

 最近は公立小・中学校の地盤沈下があるので、親もおけいこ事やお勉強の塾、さらに学校選択に必死になる。山梨は私立小学校・中学校は少ないので選択肢もあまりないが、大都市ではたくさんあるので、親は情報の掻き集めに忙しい。そして、忙しくさまざまな説明会に行く。当然、説明会は口の達者な相手を丸め込みたい人間がするから、嘘八百とはいわないが、きれいな部分だけを話し、引き入れようとする。これは、どの商業主義も同じで、負の側面などには触れたら宣伝効果はなくなる。そういう説明を受けると、親はたいていは、自分の考え、好みにあったものに賛同し、そこで「思い込み」が始まることが多い。「この塾はすばらしい!」「この学校はすばらしい!」・・・当然だけれど、説明会で悪いことを言うわけはないのだから、焦っていたり、何か子どもや周囲の環境に問題があったりすると「思い込み」は、どんどん始まる。私もそういう経験がいくつかある。相手がそういうつもりで説明しているわけではないのに、自分に都合の良い解釈をしてしまうのだ。ふつうの感覚なら「思い込まない」のに、焦ったり弱気になったりしていると見えなくなってしまうのだ。例えば「規律正しく授業を行っています。」と言われると、その規律正しさがどういうものか考えもせずに「そうだ、そういうのが理想的な学校だ!」と思い込む。

意見には個人差があります
④孟母三遷 現在に続く激変

 25年前の年末に店舗を現在地である郊外に移した。それまでは、甲府市中心街の商業地。わたしの生まれ育ったところでもあり、営業を十年あまり続けてきた場所でもあった。心情的には移転などしたくなかったし、古い家ながら娘たちも気に入っていたところだった。
 しかし、時はバブル絶頂。いかにせん周辺環境の悪化が著しかった。土地の有効利用という名のもとにテナントビルが林立し、深夜飲食店ばかりが増えた。昔からの横のつながりはなくなり、公然と迷惑をかける人が目立つようになった。バブルとともにこのような状態になった所は、大都市・地方都市すべてをひっくるめると枚挙のいとまがないだろう。
 こうした状態から生活を守るために、さまざまな努力はしたつもりである。しかし、近隣の多くは迷惑を感じながらも貸店舗などで利益も得ている人々で、住民運動など展開するべくもなく、当然のことながら、行政はこれを発展と思っているから何を言っても何もしてくれない、けっきょく住み心地は悪くなるばかり。戦うのも疲れてきた。とにかく、壁ひとつ向こうの隣の家が深夜飲食店になるのである。一階は入れ代わり立ち代わりの飲み客、二階は毎晩の宴会騒ぎでは静かに睡眠を取ることもできないのである。これは逃げざるを得ない。

逃げては見たが

 これらのすべては、大人たちが利益優先で突き進んできた結果にほかならないのだが、欲のために自分の生活も壊れているのが見えないのである。と、まあ……客観的には言えるものの、そういう波の真ん中にいると大きな心で受け止めているわけにはいかない。まして、私も人間の出来は良いほうではないから、キリスト教信者のように『彼らは、自分のしていることがわかっていないのです』などと神に祈る気持ちはない。『真夜中まで騒いで人の迷惑は考えないのか!』とカッカとしていた。そして、ひたすら彼らの及ぼす迷惑と戦い、自分や家族はそうはならないようにと思い、これ以上我慢できない時点となって静かな住宅地に移転を決意した。それは、周囲どころか迷惑をふりまく人間一人を変える力ひとつ自分にはないことを思い知らされた結果でもあった。完全な負けである。
 しかしながら、大人が作り出したこういう状態が、子どもたちに及ぼす影響は、はかりしれないものがあることも見ることができた。日中からゲームセンター入り浸る子、夜遅くまで塾から塾へはしごをする・・・・現在ではなく25年前のことである。かれらは、繁華街で欲望だけをあおる商業主我の真っ只中を動き回り、バカ騒ぎをする大人たちを見ていた。果たして彼らは、大人たちを反面教師として現代社会に抵抗して、社会を変えてきただろうか。

その結果は完全に出ているが

 三十年経って結果は出た。残念ながら当時の子どもたちが、いま大人になって世の中の流れに反発する動きはない。それどころか人とのつながりを持たずに自分を閉ざす生活をしている人間になって行き、寝屋川の13歳殺人事件に代表されるような状態が加害者にも被害者にも起こっている。ちょうど彼らの親はバブル期に子どもだったわけで、希薄な親子関係や形だけの家庭も多くなっているわけである。その中で、あのときの子どもたちは問題意識すら持たずに大人になって消費だけしか頭にない。子育てが深夜徘徊する結果付きの哀しさである。そりゃあそうだろう、学校の先生から自治体の役人までこぞって毎晩のように飲めや歌えやの大騒ぎだったのである。その子どもたちが反抗して建設的な大人になるわけがない。
 子どもへの悪影響がいっぱいの社会になるのはいやなことだが、これも大人たちのバブル的な欲を満たすことだけを目標にしてきた『行き着く先』なのだろう。便利さと引き替えにしては人間性の大きな損失だが、じつは損失であるということさえ考えられないほど人間の壊れが起こっているような気がする。
 写真は以前ゆめやが、この通りの先にあった甲府の中心街「かすがもーる」だ。あの賑やかだった町はいまや完全なシャッター街である。昼間の人通りはほとんどなく、夜になると危険な感じすらしてくる。これまで無数に歴史の教訓があるにもかかわらず、なんとわれわれはバカな繰り返しが好きな動物なのだろうか。「ざまあみろ」とは言えないが、享楽的に町を作って、一時の利益のために未来を台無しにしてしまった結果である。何だか子育ても同じで、やたら金をかけて教育しても「ひきこもり」になれば、それは人間の「シャッター街」である。

孟母三遷 私は二遷

 そろそろ大人が、生活思想を変えねば、子どもが怖い環境にのみ込まれてしまうのは目に見えている。孟母三遷…環境の悪影響を避けた孟子の母の智恵である。孟子の思想は、孟母の環境選択に負うところが大きかったわけだ。なるべく良い環境でゆったりと育てる。私の家族は、あのとき中心街から山の中の現在地に脱出し、生活の安穏だけは得られた。左の写真は私が子ども時代に育った同じ中心街である。時代が時代とはいえ、豊かではなかったが人々がつながっていた。町の通りには活気があった。飲み屋や深夜飲食店はなく、人々は寄るには静かに寝て、サラリーマンや役人は数が少なく、自営業者が町の活気を作っていた。
 便利で満たされた生活ではなく、みなが節約をして、車を持っている家庭もほとんどなかった。しかし、あるときから誰もが欲を掻き始めた結果、一時のバブルが起きて、便利さと豊かさが失われていく。
 さて、ゆめやの逃亡は1991年・・・我が家は山のふもとに逃げて、子どもたちはバス通学から徒歩に変わり、坂道を上り下りしていた。夜は家の中から出ることもなかった。時代に逆行だったが、時代に流されて「あちら側の人間」にならなかっただけでも大きな成果ではなかったかと思う。
 しかし、いまは、どこまで逃げても、学校の管理や消費生活が追ってくる。消費欲を煽って女性に過度な長時間労働を強いるのは女性の尊重につながるのだろうか。子どもの正常な成長を考えているのだろうか。生活を忙しくしてお金がなければ何もできない世の中で、お金がなくなったらどうするのだろう。異常な流れの中で、子どもにも大人にもたくさんの誘惑が迫っている。世の中が『子どもたちの人間性を破壊しようとする傾向』にある中で、これらの影響を断ち切り、地面に足のついた価値観と生活を実行しない限り、子どもたちがまともな大人になるとは思えない。大人が何の責任も果たさずに逃げ、平気で嘘を並べて、言い逃れるのを子どもたちはしっかりと見ている。同じことをきっとしていくだろう。その中で、どのくらいの子どもたちが正気でいられるか。
 『すべてが狂乱の中でどうしたらまともになれるか、どうしたら正気が保てるか・・・いまが正念場だなぁ』と、私は夜になって窓の外の遠い甲府市街の灯を見ながらつくづく思うのである。(新聞九月号一部閲覧)

「なぜ本を読まねばならないか」第二回
遅すぎる発言

 今年(2015年春)の大学の入学式で、東大と信州大学の学長が「スマホに頼らず、本を読もう」と呼びかけた。学者の意見としたら遅すぎる呼びかけだろう。学者ならもっと早くから弊害に気付き、たとえ受け入れられなくとも自分の意見として主張する義務と能力が要求される。事故が起きてから「原発やめますか?それとも日本人やめますか?」というのは学者としては想像力がなさすぎることとなります。
 SNSが便利な側面と人間を壊す側面を持っていることは、あらゆる物にその両面性があるのと同じで、多くは悪い側面のほうが露出してくるのがふつうだということは学者なら知っていなければならないことでしょう。
 いまやスマホは小学生高学年まで使用しており、平均の使用時間は2時間半・・・当然、いじりっぱなしの依存も数多いことでしょう。学長が、これを言っても学生がスマホをやめて本を読むとは思えない。もし学者たちが言うなら、これは政府や儲けている通信機器企業に向かって言うべきではないかと思われます。
 しかし、彼らは東大・信州大という国立大学の先生・・・言えるわけがありません。学校現場にタブレットを持ち込む、スマホを普及させる・・・国民などどうなろうとかまわないという「物を売りたい一心」の政府です。過剰に生産される半導体をいかに売るか・・・そういう企業の思惑で物事は進められるわけで、その結果より利益優先です。そこまで踏み込んで学者は言えません。まして国立大学の学者が・・・・。
 私は、原発事故関係、あるいは原子炉関係の議論が行われるときに、そのコメンテーターの肩書に注目するようになりました。「国立大学教授」とあると眉に唾をつけて聞くようにしています。福島事故の際の東大の原子炉工学教授の意見など一般人以下のものでしたからね。

特徴は頭が幼稚なる

 スマホは、現在の段階ではサブカルチャーの集大成です。  サブカルチャーについては、その歴史、実態を後述しますが、まずその影響について述べておきたいと思います。  サブカルチャーは「頭を大人にしない」という特徴があります。ふつうなら、30歳になればそれなりの現実に当たると、それを処理をしていく頭ができるのがふつうですが、サブカルチャーに影響されると「ひじょうに幼稚なことしか考えられない、言えない」という現象が起こってくるのです。人間関係においても生活においても子どものような対応しかできなくなることが多く、大人として扱っても扱い切れないところがでてくるものです。
 これが極端になると、自分の世界以外のものを拒否し始める。と言っても、その自分の世界についての確固たる意見があるわけではない。これは最近の代表的な事件で、他にも毎日のように交際相手の子どもを虐待死させる、ストーカーで殺すなどの事件が起きていることからわかるでしょう。相変わらず子殺し、親殺しは減らないし、轢き逃げ、暴行死、いじめ自殺なども続く・・・これは頭が大人になっていないことから発生する事件です。
 データ4(DT-4 PDF参照 ここをクリックは、私が二十数年前からまとめ始めた事件の表ですが、じつはこれも「代表的な事件」でまとめないときりがなくなってしまった。もちろん、すぐ忘れられるような事件ではなく、極端化して起きた事件なのですが、メディアは事件そのものを伝えるだけで、犯人像などほとんど知らせない。小さいころ何をしていたか、どのような本を読んでいたか、どんなゲームをし、どのようなビデオを見ていたか・・・・どういう交友関係だったか・・・このプロファイリングをすれば、これらの事件の犯人のほとんどが幼少期からサブカルチャーの影響をかなり受けて成人していったことがわかるはずなのですが、それをしない。ゲームが売れなくなる、通信機器が売れなくなる、アニメが文化として輸出できない・・・等々。儲け仕事に対する配慮なのか、長いものには巻かれる・・・なのか。とにかく儲けるためには何でもやり、売れなくなるようなことはしないというのが行政・企業のスタンスです。

生命と性的な問題が突出する

 報道の一部からでも類推はできますが、あまりにも数が多く全体像をつかみにくい問題があります。熊本の女子高生殺人はネットの出会い系サイト、今市市小1猥褻殺人はPCから幼女の写真が出ていますから、あきらかに裏のアダルトサイトと関係があります。猫の首にICチップを付けた大嘘つきのパソコン遠隔操作犯人は、類推する必要もないくらいの顔を見るだけでわかるパソコン・オタクです。AKB握手会の犯人は、どう見てもアイドルオタクが精神を病んで自暴自棄になったとしか思えません。三重の中3女子強姦殺人もアダルト関連のサブカルチャーの影響を大きく受けた少年の犯行でしょう。三鷹女高生刺殺事件は、殺人の前にリベンジポルノをネット上に流し、殺人後はツイッターをしているのですからサブカルチャーの影響がないわけがありません。川崎の中一殺人は、サブカルチャーで育った犯行グループがLINEで幼稚なイジメを始めた結果の悲劇だと言えます。
 このように犯罪の世界でもサブカルチャーが猛威を振るっていますが、事件は影響を受けた人たちの氷山の一角にすぎず、アニメやアイドルオタク、ゲーム依存症の主婦、出会い系を使う普通の中・高校生などが山ほどいます。ある意味、加害者・被害者の予備軍ともいえるでしょう。これは極端化すれば事件になりますが、しない場合は家庭内の軋轢や友人間の反目やイジメという小さな物事で終始します。これらの幼稚な精神が犯す事件は、見かけでは親子ゲンカ、イジメ、子殺し、親殺しなどですが、その背後がサブカルチャー原因であることがよく見えず、サブカルチャーがどのくらい世の中を悪くしているかを多くの人がわかっていないのです。

予測するということ

 前回の概要で記した「西洋の没落」という本の1ページです。これは、オスヴァルト・シュペングラーというドイツの高校教師が世界史全部を分析して、現在の状態がどういうものであるかを示した本です。ここには、次のような表記があります。
 およそ今から百年前の1918年の出版です。そこでのの2000年~2100年の予測
 世界都市な文明の出現。魂の形成力の消滅。生命自体が疑問となる。非宗教的な、また非形而上学的な世界都市の実用的な傾向。唯物的世界観。すなわち科学、功利性、幸福の崇拝の支配。
 内的形式なき現存。慣習、奢侈、スポーツ、神経刺激としての世界都市芸術。
 象徴的な内容もなく、急速に変化する流行(復活、勝手気ままな発明や声明、剽竊)。
 「近代芸術」。芸術「問題」世界都市意識を形成し、これを刺激しようとする試み。音楽、建築、絵画の単なる工芸への変化。
 今や本質的に大都市的な特性を具えた民族体は解体して無形成の大衆となる。世界都市と田舎。
 第四階級(大衆)無機的、世界主義。貨幣の支配(民主主義の支配)。経済力は政治的形式及び権利に滲透する。

 これを私が読んだのは今から50年前のことで、当然、この意味がほとんどわかりませんでした。ところが30年くらい前からだんだん意味がわかるようになってきました。これを現代的に読み直せばつぎのようになります。
 高層ビルが林立するグローバル化した都市が出てくる。 人間の心が反映されるようなドラマ、演劇、小説の消滅  医学の発展によりさまざまな治療法や防疫法が開発され、生命や死そのものが人間の意識から遠のき始め、生きる意味、生命そのものなどが疑問になる 都会的な生活で負荷がかからない利便性に頼る傾向。 物が絶対視される価値観の横行。化学がすべてを解決すると思う考え、生き方、生活の仕方で合理的な考えが増えてきて得になることばかりを考える傾向。楽しければいいというテーマパーク的、バーチャルな安楽を求める考え方が多くなる。
 中身のないものが増える(フィギア、実効性のない宣伝、理念だけの政治的発言) 前例やマニュアルだけに頼る傾向、身分不相応な金の使い方、豊かさの誇示、スポーツの繁栄、ポップアートやロックミュージックなどの神経を刺激する芸術の横行、
 ファッションやライフスタイルなどの流行が短期間で急速に変化する。 かつて流行ったものがまたブレークする。発明品の多くが意味のない開発で行われる 剽窃=コピペの横行(オリジナルをどんどんコピーする傾向、ネットによる加速) 何事にも無関心になる都会人の気持ちを刺激しようとする芸術らしきものが増える 音楽は感情を揺らすものではなく単純に流れているにすぎない音、個性のない建築物の増加。芸術性のない絵画。
 日本人とか日本のためとかいう意識の消えた何も考えない、感じない人間の集合体にすぎない社会。都会と地方の極端なへだたり。グローバリズム〈世界主義〉 貨幣の支配(金があらゆる価値に優先する) 政治理念で行われる政治ではなく、経済が政治のやり方の前面に出る。

サブカルチャーの台頭

 われわれがこういう現在に生きていることが、百年前に予測されていたわけです。つまり、これを見ていくとメインカルチャーで生きていた時代から、サブカルチャーで生きている時代に変りつつあるわけで、人間がしだいに壊れ始めるということです。これを現象として予測したのが百年前の歴史哲学者シュペングラーでした。
 現実に起こっていることを見ればわかりますよね。東京に代表される世界都市。無責任な政治や企業、臓器移植や無意味な長寿、すべての生活が利便性だけになっていく傾向。物を消費するだけの市場、科学の進歩だけを崇敬する人々。これまでの慣習だけで生きていて、その意味はどんどん空虚化する都市生活です。スポーツの隆盛。東京オリンピックのエンブレム盗用問題に代表されるようなコピペ・・・・
 こういう世界でわれわれは親になり、子育てをしていくわけですが、当然、サブカルチャーの影響を受けます。避けるわけにはいきません。ただ巻き込まれないようにしないと、家族の崩壊やヒキコモリなどから始まる一連の社会現象の中にハマって行ってしまう可能性があるのです。ですから、私は1980年から、ずっとサブカルチャーの危険性を述べてきました。しかし、スマホがもはや若者の手から離せないように、サブカルチャーを現代の子どもは体験しないわけにはいかないのです。
 おもしろいことに、これだけ影響の大きいものに対して学校も読書を薦めている大人たちも何も批判の言葉を発しません。学校教育にも危機ですし、読書の敵でもあるものに大人が何も言わないのです。それは、ニンテンドーやSONYを批判することになり、言いにくいのです。さらにはネットで儲けている人々を批判することにもなり、あらゆることがなかなか批判しづらくなっている事実があります。わかりますね。貨幣の支配なのです。人間にとって良いことより、儲かる方がいいという流れに学校も大人も逆らえなくなっていると言うわけです。

いま、いる位置を知る

 ある状態の中にいると、人間というものはその状態が異常でも異常と思わなくなる性質を持っています。戦闘地域では人が銃弾で倒れるのは日常的なことで、「ひどい!」「残酷だ!」とは誰も思いません。これはサブカルチャーの中にいても同じで「それがサブカルチャーではなくふつうの生活なのだ」と思えてしまうわけです。
 冷静な目で見てみましょう。ゆるキャラ相手に大の大人が喜んでいる。かと思うと、とうてい論理的とは思えないことをエリート的地位にある人間がバカな発言として発している。テーマも何も読み取れないのに「宮崎アニメは良い映画だ」と喧伝する。けっこうの年配の母親がディズニーランドのパスポートを買って頻繁に出かける。中年の男が初音ミクの音楽を集め、フィギアを飾る・・・こういう事例を挙げていくとキリがないのですが、とにかく「頭が大人になっていない」「人間が壊れている」現象が異常をさらに異常にしているというわけです。
 このコレクター的な兆候や低レベルの楽しみを求めるのは病気としての「サブカル症候群」にかかったとしか言いようがありません。いずれ、それは依存にまでなっていきます。例えば、現在、日本ではギャンブル依存症が500万人超だと言われています。大麻・覚せい剤・MDMA合成麻薬の依存症は100万人・・・ネット依存は、およそ1200万人いると言われ、情報収集が多いが、この中にコンテンツ利用が含まれている。コンテンツは多様だが、この中にはアダルトコンテンツやホラーコンテンツなどキワモノも含まれるので要注意というわけです。
 こういう現象が大人に起きているわけですから当然子どもにもさらに進化したサブカルチャーが入り込んでいるわけで、これを誰も異常とは思っていません。いまや0歳児、1、2歳児をあやす道具としてスマホが使われ、そのアプリさえ多様にあるのです。少年たちが使うLINEやソシャアルゲームも同じです。
 しかし、事件を起こす犯人の精神性の背後には、サブカルチャーをサブカルチャーと感じていない一般の人々がいるわけで、そこからも、さまざまな加害、被害が生まれて来ます。このような風潮は、じつはDT-1の表に書いたように1960年ごろから始まっていて、日本ではサブカルの歴史は長く、根深いものもあるのです。この歴史がサブカルチャー的な社会を日本の内部につくってきたわけで、「頭を成長させない」「依存やコレクター的行為に走る」「現実を直視しない」などの傾向は、このサブカルチャーの進化に沿って起きてきていると考えて間違いないでしょう。

近い将来の破綻

 「アニメは日本の誇れる文化だ」「これのどこがいけないのだ!」という声も聞こえてきますが、1960年前後から始まっている現象で、そこでは極端化すると過酷な事件に結びつく現象が起こってしまいます。表で対照させたサブカル犯罪に必ずリンクしていますのでよく見てください。気持ちが悪いほどリンクしているのです。しかも、この表は進化状態のもので1990年代から現在までの全盛期は、さらに異常なものが出現してきているのです。
 子どもへの影響は加速しています。学校は何も抑制をしない。逆に使うように指示したりしています。これは通信会社の巨大利益、サブカル関係製造業の利益に国が配慮して国益だけを優先して、国民益を考えないからです。
 この位置に、いまわれわれがいることをよく知っておくことです。みなさんやみなさんのお子さんはのめり込むことはないでしょうが、周囲には山のようにそういう人々がいます。影響を受けることも当然あるでしょう。この社会の状況は、あるひとつの「結果」でもあります。もし、原因が取り除けていたら、こんな結果は出なかったでしょうが、前回述べたように、明治維新が現在のこういう社会につながる醜悪な状態を生み出す大きな力となっていました。国民の側も、何も考えることなく、学校や行政の言うなりになている哀しい現実があります。誰も流れを止める声を挙げません。これは原発やリニア新幹線など暴走ともいえる危険性をはらむ問題まで大きく関わっている国民的性質でもあります。
 こういう常態になってしまった原因や経緯については第三回で述べますが、誰もが物事の責任を取らない状態、頭が幼稚で判断力が衰えている状態が、やがてさまざまな事件や事故を生み出します。しかも、コンピュータ管理の世界はブラックボックスのうえ、管理を間違ったりミスったりすると重大な事件、事故になりますし、人間の心の闇は大きくなっていますから、社会憎悪から悪辣な犯罪を犯す人も多く出てきます。
 こんな時代をつくってしまった国なのですから「やり直し」はむずかしいですが、我々の精神を壊してしまうものから子どもやわれわれ自身を遠ざけておくくらいはできるかもしれません。

ローマ帝国の衰退は・・・

 巨大な帝国をつくったローマ帝国の歴史を書いた本があります。エドワードギボンの「ローマ帝国衰亡史」というものですが、この帝国崩壊は、ライフスタイルがみな同じになり、生活が便利になり、何もしないでも食べていくことが可能になったからだとあります。人々は刺激的な演出ばかり求めて、闘技場に行き、剣闘士がライオンや相手の剣闘士と殺し合うのを楽しみました。
 一度あったことは二度あるわけです。家庭で起きないように、周囲に流されて騙されないように・・・親としては深く考える必要があります。そのためには、多方面の本を読まねばなりません。スマホやPCの中にその答えはありません。
 いまの日本のサブカルチャーはひじょうに危険な状態にさしかかっています。家族や家庭やコミュニティーを崩壊させる力を持っているからです。しかし、これは結果です。最初はどこから始まったのか?それは次回です。それを根底から変えれば、日本は生き残ることができると思いますが、バカな政治家がいる限りその打開はできないでしょう。



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