ブッククラブニュース
平成27年10月号(発達年齢ブッククラブ)

時代とリンクする作品

 大月市立図書館長でもある絵本作家の仁科幸子さんと美術の話をしておりました。私が「郡山美術館でやっているサントリー美術館所蔵品展を見に行く」というと、「それならもうちょっと足を延ばして裏磐梯にある諸橋近代美術館でダリを見ることをおすすめします」と言われました。私はシュールリアリズム作品はひじょうに好きで、ルネ・マグリットはとくに好きだったのですが、ダリは写真カタログでしか見たことがありません。実物に勝るものはないので「では、足を延ばしますか!」ということで洛中洛外図、南蛮屏風などを郡山で観たあと、諸橋美術館に行きました。
 ダリはひじょうにおもしろい芸術家ですが、単に哲学的な抽象を描き出すのではなく、現実の社会について深く考えながら作品を生み出していることが分かりました。染色体が発見されると染色体について絵を描く、原爆実験が行われるとその衝撃を絵にする・・・まさに時代とリンクして作品を生み出しているのです。こういうことは、絵本の世界でもよく見受けられます。社会の問題、あるいは時代の問題を作品として描くもの、よく食べ物ばかりを主題にして子どもの好みを誘う人気作品もありますが、時代を見据えた深いテーマを包含した作品も多いのです。環境問題や戦争の問題、原子力の問題や都市化の問題・・・をモチーフにするもの・・・絵本で人気の高いものは食べ物をモチーフにして子どもの関心を釣るというのも多いですが、何となく底の浅さも感じます。時代の問題にリンクする作品というのもまたどこかで心を揺さぶられるものがあります。
 諸橋近代美術館を見ることができたのは仁科幸子さんの助言のお陰で、この言葉がなかったら生涯、見に行かなかった可能性も大きいのでとてもありがたいことでした。ちなみに諸橋近代美術館は建物がいいし、ロケーションもすごくいいところにあります。磐梯山の稜線が庭から一望できますし、なによりその庭がすてきです。ダリの彫刻もあり、当然絵画もあり・・・車でないと行かれませんがお薦めのスポットです。

ブックトーク「ちいさいおうち」

 さて、前置きが長くなりましたが、ブックトーク二回目の席題はヴァージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」でした。これを歴史の著作をしている作家の方、幼稚園長の先生、絵本屋の私が「ああでもない」「こうでもない」とそれぞれの角度から考えたものを言い合うのですから、聞いている方々は自分の考えに似た意見に賛同したり、自分の考えと違う意見はおもしろくなく思ったり・・・コメンテーターと聴取者の意見交換もかなりありますし、聴衆のかなりの方々が長文の感想を書いて提出しますから、百家争鳴、百家争乱、じつにいろいろな意見が見えて面白く感じまました。
 その中にこんなアンケート回答がありました。
 「物語のお話だけでなく、原発や安保の話まで飛んで、アッ!大変なことになってしまった!!と思ったのですが、子どもとの“つながり”のお話でホッとしました。(40歳代・母)」・・・
 「ちいさいおうち」は言うまでもなく周囲が都市化していく中で、困り、悩み、圧倒されて沈黙するストーリーです。当然、テーマは都市化、都会化の問題で、けっきょく現代では原発や安保、治安や環境問題にまで広がります。私は都会化の波の中では、そういう問題だけでなく自殺やヒキコモリなどの問題も大きなウエイトを占めていると思って、かなり複雑な話をしました。それだけ、この「ちいさいおうち」のインパクトは幅広いものがあるのです。バートンが出した答えは、ちいさいおうちが元のような田園に引っ越しホッとする、いわばハッピーエンドですが、一方の「都市」は歴然と存在し、私たちを利便性と人工的な快適さ、物の豊かさで引きつけています。しかし、その背後には、老齢化の問題や少子化、さらに環境問題、精神の問題、原発事故や戦争までつながる巨大な怖い闇があるわけです。
 この回答を寄せたお母さんは、文を読む限り、怖いものを見たくないし、怖いことは考えたくない・・・大きな問題には向き合わず、「小さな安心だけで支えられたい」というのが本音だと思われます。平均的な日本人中年女性の考え方といえば言えますが、こういう意識が世間の物事を解決できない後ろ向きの思想だと感じるのは私だけでしょうか。「大きな社会問題は自分たちとは関係ない。」・・・もっと言えば、「そんなことを考えるのは怖い!」さらに本音を言えば「自分には何もわからない!」となります。

手をつなげば温かさが伝わるが・・・

 私たちコメンテーターが出した「怖い話」から彼女をホッとさせたエピソードとは「子どもと手をつないだときに安心がお互いの心に伝わっていく、そういう育ちをした子は大人になっても大丈夫」というコメントからのものでした。たしかにそういうことも現代を生きるうえで大切なことです。「パパ、パパ」と追う子を見捨てて餓死させる親もいる時代ですから、子どもとの絆は必要以上に重要になっています。
 しかし、都市化という問題は、そういう小手先の対応では乗り切れないものもはらんでいます。命の危険さえある、あるいは心の危険さえある状態に知らず知らずのうちに置かれてしまうのが都市化、都会化です。私は個人的には、こういう時代に女性が底の浅い感覚で子育てしていたら危険から子どもを守ることさえできないとさえ思っています。やはり怖いものでもしっかり見て、考えなければいけないのです。「周りに合わせることが生きる方法だ」という考えはやめて、他人がどう言おうと、「おかしいものはおかしい」「ダメなことはダメ」と言える、血の通った感覚や勇気を持ってほしいのです。そうしないと守るべきものも守れなくなります。
 絵本の「ちいさいおうち」が、もともと建っていたような田園に引っ越していくので、みなさん安心するのですが、これは絵本の結末で、現実はなかなかそうはいかないのです。

利便性・見かけの豊かさ=都市

 都市の魅力は大きい。都会化が持っている便利さや快適さを捨てることができるか。あなたはコンビニがなくて生きて行かれるでしょうか。暑い夏、寒い冬にエアコンがなくても大丈夫でしょうか。スマホやケータイがなくても生活できるでしょうか。そして、核家族の自由の先には何が待っているか考えたことは? 便利さ・気楽さの裏には暗い闇がありますが、それを乗り越えて「~らしく」生きる・・・そんなことが幸福感に満ちた状態でできるでしょうか。じつは、その完全な答えはないのです。都市では体も心も時間の急速な流れの中で押し流されて行きます。
 くだんのお母さんは、そういうことまでは考えず、何事もなく生活したいと思う方だったと思います。それはそれでいいのですが、やはりこれからは降りかかってくる都会化の闇の部分もしらないで済むと言うわけにはいきません。やはり考えるべきだと思います。
 しかし、それは人間に魔力を持った存在として映り、多くの人が利便性や物の豊富さに魅了されて何も考えずにひたすら生きていきます。もうすこし、ゆったりとした生活もある、星空を見上げ、山々を見つめる生活もある・・・それは一つの答えにすぎませんが、そのほうが一回しかない人生でいいのかもしれない・・・でも都会の魅力も捨てがたい・・・そういうことが答えとしていくつかあるが「私は田園生活がよい!」としたのが・・・バートンが「ちいさいおうち」で主張したいことだったのではないかと思います。つまり、原発や争いや無責任に満ちているということを知らないで都市生活ををするのは知性の崩壊につながる可能性もあるからです。(ニュース10月号一部閲覧)

ヒンギ

 言葉の響きが良いらしく、「凛ちゃん」という名の子をよく見かける。ブッククラブの中でも何人かいる。「凛とした・・」と使うとキリッとすがすがしい印象が出る漢字で、意味もまたいい「感じ」である。偏の「冫(にすい)」を取っても稟は「りん」と読むので、苗字と画数が合わない人には、こちらの「稟」を使っても音感は同じである。
 しかし、大漢和辞典を引くと意味がかなり違う。「稟」は「天命を受けて生まれる」という、これまた良い感じの漢字である。でも、凛ほどは見慣れない、かなり珍しい字でもある。ふだん、文章の中ではまず見かけない。
 「稟」でできる熟語を見ると「稟議」なんていう言葉が出てくる。ところが、熟語になると読みがリンではなく「ヒン」になり、稟議は「ヒンギ」と読むらしい。これをちゃんと読める人は、おそらく百人に一人もいないだろう。
 では「稟議」の意味はどういうものかというと、「会議を開いても意見を交わさず、案を関係者だけに回して承認を得ること」だ。かんたんに言えば「他人の意見に耳を貸さないで自分たちの仲間だけで決めてしまう」ことである。なるほど、これでは「リンギ」という読みはふさわしくない。キリッとすがすがしい印象などないから、議論が貧しい「ヒンギ」が適切な読みになる・・・日本語は深いですね。
 さて、強引な形で戦争法案は通ってしまい、通れば数日も経たないうちに「憲法改正」とか「大学で軍事研究」という話が出てくる。通すために嘘をつきっぱなしついて、通れば、どんどんやりたいことをする。これに若者が少し気がついて反対したけれど、時、すでに遅し。「選挙に行こう!」と騒ぎ始めたが、お尻に火がついてから消しに回っている若者たちという感じである。

準備は整っていた

 だけどね。この話は急に起きたものではない。15年も前のことだが、ガイドライン三法というのが小渕恵三内閣の時に成立した。このときに国旗・国歌法、通信傍受法など重要な法律がどんどん通った。夢新聞では囲み記事で「この法律の成立を絶対忘れないように」と書いてある。そのころ若者は何も言わなかった。
 そこまでさかのぼらなくてもいい。二年前に自民党が選挙で大勝したときに特定秘密保護法が成立した。ここで反対しなくてはいけないのに、何と集団的自衛権の行使容認の閣議決定がされたあとの選挙で、また自民党が勝った。原因は、若者が選挙に行かなかったからだ。「選挙に行っても行かなくても大きく変わらない」と高をくくっていたのである。
 ブッククラブでは小学5年で「子どもにつたえる日本国憲法」を配本しているが、親のみなさんは憲法第12条を知っているだろうか。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」とある。投票率が50%程度の国民が「不断の努力」をしているとは思えない。人口の3割くらいの老人が決めた政権を若者が「投票しないこと」で後押しをしたというわけである。これでは戦争法案でも何でも通ってしまう。
 一個人の思いが「閣議決定」のような密室的なものでどんどん決まって行ったら、民主主義も議会制も不要である。
 「稟議」がまかり通れば、これはもう独裁である。

子どもの未来が危ない

 ブッククラブの会員が「ゆめやは何で子どもの本屋なのに新聞やニュースで政治のことを頻繁に書くのだ!」と思うくらいに、この二年間書いて来た。安倍政権は子どもの未来を危うくする戦後もっとも危ない政権だからである。
 戦争が好きというより軍事的なものが好き、対米従属でありながら、妙に国粋主義・・・こういう一個人の思いのようなもので国の形が変わるというのはすごい話だが、国民の民度に合った政治しか行われないのは世の中の常である。自分は絶対に戦争に行かない人間が国民を戦争に引きずり込んでいくというのも世の常だ。ナポレオンや幕府の将軍は自ら戦線に行ったが、近代のお偉いさんは決して戦場には行かない。戦場に行くのは若者たちである。金持ちが戦争をたくらみ、貧乏人が戦争で死ぬ・・・という話もある。これで子どもたちの未来も決まっていく。
 自衛隊員約25万人・・・北朝鮮軍190万人・・・人民解放軍250万人・・・・戦争をすれば人員は確実に減る・・・その次は・・・。と、いうより、どう逆立ちしても戦争に勝てるとは思えない。ならば相手と仲良くするよりないのである。何もアメリカに義理立てして死者を出すことはない。しかし、勝ち馬に乗りたい政治家たちは国民を売るかもしれない人について行って一儲けをたくらんでいる。
 そして、これからも、法案通過で味をしめた政権が「稟議」を続けることだろう。止められるのは、次の選挙ただひとつ。選挙に行かなければ、この国はまちがいなく戦争に参加する。(10月号新聞一部閲覧)



(2015年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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