ブッククラブニュース
平成27年10月号新聞一部閲覧 追加分

発達対応絵本とは ③-2 3歳児の絵本

 3歳になると多くの子どもが周りの人々と自由に会話を交わすことができるようになります。親子や家族だった人間関係が、それより広がったものになっていきます。これと同時に表現する言葉が飛躍的に増えます。言語には表現言語(しゃべって伝えようとする言葉)と理解言語(話すことはできないけれど、聞いてわかっている言葉)があり、3歳児では表現言語がおよそ1000~1200語、理解言語は2500~3500語と言われています。これだけあれば日常会話は大人並みとなります。
 もっとも、これは0~2歳の時期に親と子が安定した時間を共有してきたという環境があり、言葉かけが豊富で、多様な人と交流があるという条件も必要ですが・・・。表現する言葉だけではなく理解している言葉もその背後で増えてきますから、3歳代ではかなりストーリー性の高い絵本を十分楽しめるようになるわけです。配本でも急に物語の絵本になって、おどろくお母さんがいますが、きちんと1歳のころから初めがあって終わりまでスジでつながる絵本を読み聞かせで何度も聴いているのですから物語絵本など、どんどん入っていけます。しかも、この時期の絵本はすぐれた内容のものが充実していて豊富なので、段階を追ってうまく適合させれば、かなり展開の激しい、オチのある話でも聞くことはできるのです。注意すべきことは、なるべく絵本の内容と現実の世界が結びつくように、いろいろな体験をさせることが大事です。季節に対応したものや自己認識も強くなるので性差を考慮したものを与えれば、さらに楽しむ力はパワーアップします。

読み聞かせはできるかぎりふつうに・・・

 ここでも、読み聞かせ方法は特別にはなく、展開に沿ってふつうに読んでやればいいのです。1歳や2歳のときのように声色を変えたり、演出したり、パフォーマンスを加える必要はまったくありません。いずれ自分で字を読み、文章を理解するのが「読書」で、その第一歩なのですから、ふつうに文を読めばいいのです。聞いた言葉から想像ができなかったり、理解できなかったら意味がありません。淡々と読むくらいでもいいのです。
 選書では、ほとんど字がないような本・例えば2歳代の繰り返しものから一歩進んだ「ねずみくんのチョッキ」や「なにをたべてきたの?」、「ドアがあいて」などが入りますが、これも2歳代のものよりは内容が高度です。
 男の子には「しょうぼうじどうしゃじぷた」や「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」、女の子には「ママあててみて」や「ちいさいわたし」などが楽しめる一冊です。
 季節ものでは、「14ひき」シリーズや「ぐりとぐら」のシリーズから季節に合わせたものを選書してあるので、配本順に読み聞かせていただけば、問題なくいくと思います。理解力の段階に応じたもので楽しめるようにしているつもりです。

大量に与えるのはやめましょう!

 3歳の中半になったら、ブッククラブ配本では、季節に合わせ、また発達に合わせてかなり楽しいストーリのものや民話などもそろえてあります。
 「ももたろう」や「やまこえのこえかわこえて」なども楽しい本です。3歳代の名作・推奨本はひじょうにたくさんありますが、だからといって次から次へと大量に与えることは避けたいものです。図書館から十数冊借りてきて一週間で読み聞かせて返すなどということはくれぐれもやめてください。
 子どもの頭の中では右から左の通過状態にすぎなくなり、内容を味わうことができなくなってしまうからです。言葉のシャワーなど読み聞かせには無用です。月に2~3冊程度を毎日何度も読む。それが頭の中にも心の中にも溜まっていくのです。これが、この時期の読み聞かせのコツでしょうね。
 量で勝負するというのは豊かさの世代、受験世代の悪い癖です。試験が終わったらみんな忘れてしまった・・・大学を出たらみんな忘れてしまった・・・という経験はありませんか。ここでも量より質なのです。楽しく物語を読めば、読書力の骨格はできあがっていきます。(ニュース10月号一部閲覧)

最初の質問・・・お話し会の終わりに

 9月30日に半年間やってきた「おはなし会」が終わった。肩に力を込めて全力投球という感じでやって来たが、力み過ぎの暴投も多かったようで、聞く側にキャッチされたボールは投げた球数の半分に満たないかもしれない。これは、ひとえに私が話すのが下手で、おもしろおかしくしゃべれない能力の無さだが、聞きに来た方には申し訳ないのでレジュメを前もって作って渡しておいた。これもまた中身は常識破りのことばかりで、ご理解いただけないものも多かったが、少なくとも危機感や子どもの未来については気持ちが伝わったのではないか!と思っている。
 最初から「われわれ大人の常識をつくっている教科書の問題」や「近代史をきちんとやらないのはなぜか」などから始まったから、どれもこれも聞いている方々から「教わってないよ!」という声が聞こえるような話である。さらに「現代起こっている事件や社会現象の原因」に飛び、それがなぜ起こったかまでさかのぼった。これでは内容が真っ直ぐ飛んでもストライクにはならず、カーブし過ぎのワイルド・ピッチでは打ち返せないだろう。
 で、投げているほうもヤキモキして最後の結論に、わかりやすく「最初の質問」というものを持ってきた。

「最初の質問」とは・・・

 「最初の質問」とは、ブッククラブの6年生なら知っているだろう。絵本である。「小学校の最後の学年で絵本が配本!?」と思われる人もいるだろうが、この絵本は幼児の絵本ではない。内容が深い詩の絵本だ。詩人で、今年の5月にお亡くなりになった長田弘さんの本である。昨年から配本に入れた。私は1971年に長田さんが出した随筆「ねこに未来はない」という本を読んで、そこから愛読者になったのだが、これは最晩年の著作となった。ここで、彼は子どもに対しての質問を続けた詩を書いている。
 「今日、あなたは空を見上げましたか。」
 「あなたにとっていい一日とはどんな一日ですか。」
 「『ありがとう』という言葉を今日あなたは口にしましたか。」
 「樹木を友人だと考えたことがありますか。」
 「何歳の時の自分が好きですか。」
 「問いと答えと、いまあなたにとって必要なのはどっちですか。」
 「これだけはしないと心に決めていることはありますか。」
 「いちばん、したいことは何ですか。」
 ・・・えんえんと質問が続く。この詩は漫画やすぐに答えが出るもので育ってきた子どもや大人には耐えられない詩である。答えはかんたんに出せないものが多いし、答えられないものも多い。

言葉をないがしろにする社会

 この最後には「時代は言葉をないがしろにしている・・・あなたは言葉を信じますか。」とある。
ここには、ひとつだけ作者の意見がある。いろいろ考えて、じつは「おはなし会」で話してきたことは、この最後の言葉に尽きると思った。それを私はくどくどと説明して、さまざまな例を挙げ、聞いている人は訳が分からなくなり、最後の結論も難解になったので、けっきょく、この本を朗読してもらって終わった。だから、ある意味、この言葉だけ聴いて考えればいいのかもしれない。
 「教科書の問題」も「近代史の問題」も「サブカルチャーが引き起こす異常な犯罪や事故」もすべて「時代は言葉をないがしろにしている」に尽きるからだ。
 言葉は行為を伴わなければ言葉とはいえなくなる。約束して、それを破ったら言葉はないがしろにされている。やると言ってやらなかったり、しないと言ってやったりしたら、言葉をないがしろにすることになる。言って失敗したら責任を取るのが言葉を大切にすることだが、責任を回避する人が多い。
 わけのわからない逃げ口上を言い、想定外だと逃げ、形だけ頭を下げておわびを言っても、それが言葉だけなら「言葉はないがしろにされている。」
 こういう大人ばかり見ていたら、子どもは大人をどう思うだろう。それが生き残る方法だと学んでしまうかもしれない。長田さんの「あなたは言葉を信じますか。」という最後の質問は子どもに向けられている。言葉が重みを失えば、平気で嘘をつき、騙し、シラを切り、「言った覚えがない」とまで逃げることだろう。
 しかし、やはり、大人は子どもに言葉をないがしろにしない方法を教えなければならないと思う。言ったことはする。やってはいけないことはいけない・・・・卑怯な言い逃れをしてはいけない、と。
 今月から「おはなし会」は、言葉を実行している方々との対論になる。みなさん、時代の最前線で言葉を使って真実を語ってくれている人だ。どういうお話が聴けるかわからないが、少なくとも国会で空疎な言葉を吐いている人々とは違う真摯(しんし)な生き方をしている方々である。心して、最初から最後まで質問を投げかけてみようと思う。(新聞10月号一部閲覧)

意見には個人差があります。⑤期待をせずに・・・

 子どもを取り巻く状況の変化はこの十年くらいでも大きなものがある。週五日制にしても、生活科や性教育を教えることにしても、原因を取り去らないで「とりあえず対症療法でやっておく」という感じだから、内容がどんどんいい加減になる。
 世界の時短の流れに合わせようとする五日制、家庭が忙しくなって教えることができないので学校が生活関連のことも教える、またSNSやメディアなどで情報が氾濫するので性モラルの低下や行動などの措置としての性教育……。「とりあえず対策を講じよう」という感じが強い。
 『百年の計』である教育が、場当たり的なものになってきているのは不安である。それだけ社会が複雑化し、スピードアップされているのはわかるが、ここまで混乱して来ると行き着くところまでいかないと誰もが分からないのかもしれない。先生の負担もどんどん大きくなることだろう。
 世の中の大きな変化に個人的に逆らうことはむずかしい。しかし、黙っていれば子どもは、忙しさの渦の中に巻き込まれてしまう。もちろん、多くの親は生活をするだけで手いっぱいで何も考えてはいないだろうが、あせりを感じている親も中にはいるのではないかと思う。
 私も自分の子どもが生まれたときにどうしようかと考えた。立って歩き始めるころまでには子育ての方針も決めなくてはならないだろうと思った。そして、ほんとうに立って歩いている子どもを見たとき、『これだな!』と思ったことがあった。

直立歩行

 子どもは一歳前後で立って歩く。それまでは、ハイハイだ。つまり、生後一年で直立原人になるのである。そういえば、胎内にいる十か月の間に子どもは単細胞生物から多細胞生物に……エラのある魚類からだんだん高等な動物に……いわゆる進化を繰り返すのである。誕生時もまだ人間ではない。哺乳類にすぎないし、四つ足歩行する時期だってかなり長い。
 世界や物事が分かってくる時期もある。なめたり、しゃべったりする認識から、目による高度な判断まで、生まれて一年くらいで行えるようになる。問題はここなのだ。直立歩行できる人間にまで達するのが生後一年。それ以降は人類の歴史なら文化獲得の時代である。考え方や行動のパターンの獲得の仕方によっては、それぞれの性格や行動は変わってしまう。
 子どもを育てようとするとき、何か良いものを獲得させる必要性はあるのではないか。スポーツ的なことばかりに力を入れるとどうなるか、記憶練習ばかりさせるとどうなるか・・・世界の歴史でも長期的に残る文明は、すべて高等な宗教や思想、現実に対応する高度な技術を持っていることが知られている、バランスがよくないと生き残れない。文化の発展段階に応じて無理のない『速度』で自己表現をしてきたものが残っている。
 もし、子どもをそういう形でバランスよく育てたいのなら、やはり子どもの発達段階に応じて、それなりの速度で、その段階なりの対応をしていく必要があるのではないか。それも、良いと思われるものを選んで・・・。
 『赤ちゃんでも人格を尊重して自由に育てる』などという考え方もあるが、相手はまだ哺乳類か原人なのだ。世界がどういうものなのか教える役目は、やはり親にある。過去の例をたくさん見て、良いものを選ぶ。自分も含めて、世界の過去を見ないと同じ過ちを何度でも繰り返してしまう。
今の偏差値教育のような無目的な教育では何も育たないし、異常の方が起こりやすいだろう。実際、昔よりはるかに難しいテストをクリアした者が、自分の頭で考えることもロクにできないことを見ればわかることだ。それだけならいいが、妄想や異常行動までつながるのは怖い。どこかで原因を断たなければダメなのである。
 私は子どもたちが歩き始めたころに良いと思われる本を読み聞かせ、本を読ませようとした。子どもは、ふつうに物事を体験しただけで、大した人間にはならなかったが親の私もそうだからそれでいいわけだ。親としては、子どもを夢や期待をもって天才や英雄育てなど目指さず、悪いことをしないふつうの人間にすればいいのではないだろうか。まして、塾や学校に頼って偏差値だけを高めるというのは手抜きの子育て観だと思うのだが、どうだろう。(ニュース十月号増ページ)一部閲覧。)

なぜ本を読まねばならないか
第三回・日新館教育と明治維新

 一回目のお話し会では、日本人の多くは教科書で常識をつくり、別の視点からの思考をしないので、目標は答えを覚えることだけで、論理的に考えたり、本質的なことを考えたりすることができない状態にあることを指摘しました。第二回目では、それがサブカルチャーという形で社会的な結果として現れ、非論理的でわけのわからない犯罪、事件、政治現象が起こる状態となってしまったことを述べました。
 戦前に比べて現在は教育の水準はひじょうに上がったと言われていますが、逆に、戦後70年の間でかなり思考力が落ちたとも言われています。この150年間でもかなり思考力(自分で考える力)が落ちているという分析もあります。現代では、大学卒の数はハンパではないのですが、じつは一つの言葉の具体的な意味もよく理解できていない大人が多いことは社会的な事実となっています。けっしてIT化の影響ばかりではないです。
 昭和三十年代は大学生が短大を合わせて全国で20万人。現在は大学生が50万人、短大・高専を入れれば百万人を越えています。小さい時から勉強をし、どれが正解かわからないようなむずかしい入試を突破して大学に入っていき、出ていきますが、ある言葉を理解して、それについて考えたり、論議したりすることはひじょうに苦手なようです。
 実際、最近・・・若者や大学生と話が通じない現象も起こっています。若者が社会的な問題や人間関係の問題について「話題にしない」という不思議な現象も起きているのですが、これも教育のありかた、家庭構造のあり方に起因していると思われます。
 なぜなのでしょうか。言葉の意味をよく勉強して来なかったからか・・・いや言葉など大学までにすべて学習できるほど少ないものではないから、おそらく言葉そのものの意味を考えることをしないで来たのだろうと思います。考える訓練や習慣というプロセスが幼児のうちから家庭で組まれていなかったり、学校ではもちろん与えられた課題だけを要領よくこなすことが訓練されてきた結果かもしれません。学歴主義の悪影響とでも言うのでしょうか。

答えをたくさん覚えた人間が偉い?

 考えないで答えだけを覚えるシステムが造られ、テスト勉強だけで言葉を感覚的に知っているにすぎないので、深く考えることに苦痛を感じて「話題になるのを避ける」のかもしれません。つまり、きちんとした本を読んでいないから自分の考えを話せないということでもあります。長い本が読めなければ、考えもつくれないから、結果的には「考えなし」の短文ブログやツイッターが流行っていくこととなります。これまたサブカルチャー的な社会では当たり前のことかもしれません。あなたも深く考えずにメールを打っていませんか。思い付きで言葉を発し、感覚で読む・・・・これが結果として起こってしまったのは明治以来の教育の結果です。もちろん、国民がこうなることは為政者にとっては都合のよいことです。なぜなら、難しい言葉を使ってごまかしても国民はわからないので言いなりにすることができます。
 学校教育のテスト勉強では、言葉も曖昧にしかとらえられなくなります。例えば、日本語には漢語熟語があり、漢字から意味が分かるのですが、理解は「なんとなく」であり、具体的に説明しろ!と言われてもわからないことが多いのです。学校教育は量的に言葉を覚えさせるだけで、深い意味まで教えませんから、言葉は詰め込まれるだけで、考える力はかえって失われていきます。
 例えば「日本国憲法」です。ひじょうに単純な熟語の合成ですが、これまた具体的に説明するのはむずかしいのです。大学生でなくても「説明しろ!」と言われたらなかなかできるものではありません。第一、中身を読んでいないからわからないのです。つまり、長い熟語は、感覚的に分かったような感じがするのですが、じつはわかっているようで何もわからないのです。「原子力発電」などは、長い間、その内容が平和利用という嘘で隠蔽されてきていたので、なんとなく・・・しか、わかりません。大学を出ているのに具体的な意味内容がわからない・・・これはいったいどうしてなのでしょうか。

非営利=無利益!?

 あるときNPO法人を立ち上げたことがあります。このときに雇用や人材の養成について理事たちに話をすると、行政退職者の理事たちは全員「NPO法人が利益を出したらまずいでしょ。」と言ってきました。NPO法人とは「特定非営利活動法人」と訳されています。この熟語は9文字熟語ですが、この意味はピータードラッカーの「非営利組織の経営」という本を読まないとつかめないのです。それなのに、このお役所退職者たちは全員大学を出ているにも関わらず、本を読まずに字面から解釈します。「非営利」・・・つまり「利益を出してはいけない」と思い込んだわけです。
 どこの世界に利益を出さずに持続できる法人があるでしょう。
 いや!ありますね。お役所は利益を出さなくて持続しています。税金が投入されるからです。
 そうなるとNPOはどうするか、稼がなくてお金を持つには助成金や何かの基金の出資を得なければなりません。しかし、助成金や出資金は収支を0にしないとダメなのです。利益がでたら次の助成はないというわけです。
 「非営利組織の経営」には、社会問題の解決を目的として利益を出して、その利益を雇用や人材育成などに使い、仕事を社会貢献に向けていくことが本筋・・・とあります。つまり利益は社会還元するのです。内部留保や投資ではなく社会に還元していくのが仕事であるということです。しかもドラッカー先生は、このNPO法人の最初は「日本の奈良時代の寺院に淵源がある。農民が持ってくる社会問題を僧侶が解決して、その対価として農産物などをもらう。日本がNPOの発祥の地だ」というようなことを書いているのです。当然、理事たちは本を読まずに字面解釈ですから、「利益を出してはいけない組織」としかわかりません。で、思い込んだらそれが理解ですから、稼ぐなどもってのほか、社会貢献、社会貢献となります。運営費用はどうするのか。当然、助成金頼みで、人件費など払う気はなく、みんなボランティアをせよということになります。でもねえ。タダ働きはブラック企業になりかねません。労働には対価があるのですが、税金で食べているとそういう意味合いは無視する体質となります。で非営利=無利益!となります。本を読まないと底の浅い言葉の理解となります。

教育が言葉の意味を分からなくする

 「集団的自衛権」・・・これだって、わざと中身をぼかした言葉です。政治や行政では、わざと中身がわからないように難解な熟語や外来語を使うことは以前から知られてきたことですが、基本的な質問をするとバカじゃないかと思われるので、多くの人は質問をしないで、わかったフリをします。「みんなで集まって自衛する」悪いことではないですよね。
 とくに行政用語ではこういう意味不明のものが多いのです。PCというからパソコンかと思うと「バブリックコメント」だったり、CPというから何かと思うと「コンプライアンス」だったりする。意味を尋ねると「そんなことも知らないの?」と思われるので多くの人は聞き返しません。バブリックコメントと言われても何だかちっともわかりません。わからなくしているのかもしれず、ここが学校側、行政側の手でもあります。「英語もわからんやつは教養なしの馬鹿者、そういう連中は言うことを聞け」と。
 「集団自衛権というのは、侵略をみんなで防ごう、守ろう、ということかな」と思っていると中身はアメリカの戦争に日本が参戦できることだったりする。もし、そんなことが閣議決定だけで出来るなら、独裁政治と同じで「日本国憲法」など何の意味もなくなるのですが、多くの国民はどちらでもいいのです。なぜなら、意味が分からないのですから。

学校は戦争の実態は教えない

 若者は、さらに他人事として考えているようですが、さて戦争になれば戦いは自衛隊員だけではなく、自分たちも行かねばならないことを「意味」として知っておく必要がありますし、思考力を働かせれば「戦争とはゲームやスポーツとちがって、腕が千切れたり、足が吹き飛んだり、命がなくなったりする」意味があるいうことを知るべきなのです。ところが学校教育ではそういうことは教えません。反戦文学と言われている教科書が採用しているものを見ますと「ひとつの花」にしても「かあさんの木」にしても美しい場面だけで、具体的な悲惨な状態の表現はありません。戦争はゲームではないのでリセットもできませんが、そういう若者の想像力も追い付かないようにしているのが現代の教育なのです。さてさて、これは教育だけが悪いのでしょうか。
 小学校では読書推進運動とかなんとか「本を読め!本を読め!」と言いますが、中学・高校になるとその雰囲気がまったくなくなり「本なんか読まずに勉強しろ!」「勉強しろ!」となります。小学校では識字率を上げるため、中学、高校では余計な本を読んで真実を知るより、なんとか受験と部活で頭が働かないようにする機能が教育の中で働くのかもしれません。
 いや、これは、ひょっとすると国民を欺く、騙す、真実を隠すという体質が、社会の構造の中で、あるいは学校教育の中で、ある昔の一時期から始まったのではないかと思われるのです。それが上述の漢語熟語や英語略語を暗記をすれば社会の上層部に進めるという教育のあり方に現れているのかもしれません。さて、そのある昔の一時期とはいつか。

さかのぼって考えると

 これについていろいろ調べましたが、やはりおよそ150年前に行きつきました。教育が大きく変わったのは、ご承知の通り、明治からです。基本的に明治の教育主義は、福沢諭吉の功利主義で始まりました。学校教育のコンセプトは「立身出世主義」です。勉強して、上の学校に進み、学歴をよくすれば「末は博士か大臣か」という思想です。見かけでは身分制度がなくなったので、誰でも勉強さえすれば上に行かれるというのが受けました。これが現在まで脈々と続いています。
 例えば、地方の農民の間でも子どもに高等教育を受けさせて、国家公務員にする。だめなら地方公務員、さらに軍人・警察官、消防官などにする、それでもだめなら郵便局員、農協職員にするのが子育ての成功だという風潮がしだいに広がりましたが、これは福沢の立身出世主義の影響を受けた典型的な動きです。山梨県でも、この影響はかなり早くから農民の間にひろがっていて、いまでも農家では子どもを公務員にすることが「評価される子育て」となっています。

功利主義と立身出世

 明治10年から20年は近代化(文明開化)が急速に進んだという歴史の常識がありますが、この辺から教育の根本が変わり、個人の栄達が目的となったわけです。他を押しのけても出世する・・・この基本的思想は「追いつけ、追い越せ」で、日本の国家のあり方まで影響を及ぼしていきました。それまで世の中の主流の価値観であった「人間として間違った行いをしない、情や義理を重んじる、行ったことに対する責任を取る」などの儒学による基本思想でしたが、消されました。この無責任は、明治以来現在まで脈々と続き、人々はどのようなことをしても責任を取らずに逃れようとする風潮が生まれいました。儒学では考えられないものですが、大祓の祝詞にあるように、すべての罪は流せば消えてしまうという神道の影響が出たのかもしれません。
 ただ、250年以上、朱子学を基にした社会構成が続き、人々の気持ちの中にも儒学的な基本思想が倫理としても定着していました。明治維新で急になくなったわけではありません。じつは、この社会規範や倫理観は昭和三十年くらいまで残っていたのです。例えば一般では子どもにたいしても公式には尊重する気風が残っていました。NHK朝のドラマ「花子とアン」で花子がラジオでアナウンスをする場面は有名ですが、ここでも「お小さい方々」という言葉が使われています。まだ、この時期までは江戸時代的の教育を受けた親に育てられた人が多かったのです。高度成長とともに多様な価値観(合理性や利益追求、個人主義、豊かさの生み出した基準などで)が生まれ、その倫理観も失われました。それは、福沢諭吉の功利主義がおよそ百年で社会に根付き、競争社会を作り始めたからでしょう。いまでは「他人の上にいくこと」が当たり前の子育ての目的です。

わかっていた賢い人々

 それに、すでに気が付いていた明治人も多くいました。漱石はその文明論集の中で蒸気機関車のイメージから直観的に明治の近代化に疑問を呈しています。これは異常だと彼は考えたようですが、当然、世の中は受け入れるわけもなく、近代化、近代化で進んでいきます。
 また芥川龍之介は「或る阿呆の一生」で本屋の二階から本を買い求める役人や書生がじつは何も考えずに立身出世のためにだけ本を読んでいる、買っている状況を描き、龍之介本人が絶望的になっている感覚をうまく表現しています。
 中江兆民などは、国家構造の問題にまで触れる明治維新への疑問を投げかけています。「三酔人経綸問答」などは皮肉にあふれた作品ですが、明治時代の非文化的なゆがみを現実的な視点からよく描いたものだと言えます。
 一方では異常な近代化がすすめられたわけですが、他方ではすぐれた人々もいました。多くは江戸時代に生まれた人で、比較的自由な物の考え方ができ、西洋にかぶれるような体質ではなかった人々です。

維新の立役者は英雄?偉人?

 明治政府の教科書による江戸幕府の否定と明治維新の美化はかなり徹底したものとなっています。現代まで「明治維新は近代化の出発点」という評価が一般的で、活躍した人物はみな偉人、英雄ということになっていますが、それは教科書をはじめとして様々な方法で、明治政府が塗り固めたものが多いのです。倒した幕府側は悪く言わねばならないので、悪い評価にしますが、維新の立役者は持ち上げる、評価も高くすることに徹しました。
 例えば、吉田松陰ですが、これは維新の思想的背景をつくったと言われていますが、学者なのにじつは著作が1冊もありません。もし革命的な思想を持ち、時代にいらだっていたら、その思いを論理的に著述すると思うのですが、自論展開の著作が見当たらないのです。その代わり手紙は山ほど書いています。これは坂本龍馬も同じですが、これでは、「争乱扇動(争いを煽る)主義者」と言われてもしかたがない面があります。坂本龍馬は、維新の英雄でも何でもなく、薩摩・長州を戦わせて儲ける、両者が手をつなげば幕府と戦わせて儲けるという手法を取った「武器商人」であったという事実も容易に見てとることができます。

遊郭で毎晩豪遊できる金

 これは良く知られた話ですが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」などでは出てきません。英雄史観で小説が書かれているからです。しかし、実際は幕府と薩長が緊張してくると武器納入が利益を産むことになり「武器商人」が絡んでくる。龍馬は彼らと手を組んで暗躍しました。中国から銀を奪う代わりにアヘンを売ったことでイギリスと中国はアヘン戦争になりましたが、その戦争で武器を取り扱って儲けたのは香港にあった英国商社ジャーデイン・マンセン商会でした。この会社が支店長として日本に送り込んだのがグラバー邸で有名な長崎のグラバーです。
 1865年に米国の南北戦争が予定より1年早く4年で終わったため、アメリカ政府が5年分発注した武器が1年分不良在庫として残っていたのです。旧式なミニエー銃でしたが、日本では新式の銃です。グラバーは、日本でグラバー商会をつくり、薩摩と長州に南北戦争で売れ残った武器を買わせて儲けるために、その交渉役にしたのが坂本龍馬でした。龍馬が薩長連合に腐心した本当の理由は幕府との争乱を起こすことで金儲けをするためだったということです。
 実際に龍馬はグラバーを通じて膨大な利益を得ています。弟子の中江兆民によれば、かなり龍馬の事実が見えてきます。当時日本一の遊郭「丸山」で豪遊し果ては病気にもなったという話です。海援隊を引き連れて毎晩豪遊・・・その金はどこから出たのでしょう。だから、司馬遼太郎が描く維新の英雄・龍馬というよりは、日本人が大量に死ぬことになる内戦にこの国を導いた張本人だったということでしょう。「海援隊規約」にはこう書かれています。「目的は運輸、射利、開拓、投機及び藩の支援」。「儲ける」という利益優先の表現はなくギリギリ、それらしきことが書かれていますが、当時は、日本の商業もまだ儒教道徳で商売を行っていたわけですから「利益追求」とはハッキリ言いにくい時代だったことはまちがいありません。

江戸時代を悪く描けば・・・

 江戸時代に対する我々のイメージは、「身分制度があるために自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟(あわ)や稗(ひえ)を食べていた」というものでしょう。
 しかし、これは明治政府が教科書や本、芝居や劇を通して「悪いイメージ」を植えこんだものにすぎません。それは、ずうと現在まで続いています。それをひっくり返す単純な一例をお話ししますが、そのほかにも、例えば米国の日本領事だったタウンゼント・ハリスが書いた「日本滞在記」では、江戸の子育ての様子が書かれています。なんとも穏やかな日常でゆったりしたほほえましい風景が描かれ、ハリス自身が、このような穏やかな国を列強の中に引きずり込んでいいものかどうかという感想まであります。ハリスは、この滞在記を読むとじつに細かく日本を見て、分析している人で、スパイをすれば一流のスパイになれると思いますが、江戸の町の様子、江戸城の状態などがこと細かに綴られています。ですから庶民を観察して、その様子から実態を見ることはできていたと思われます。江戸時代は平和だったのです。

イザベラ・バードの眼

 また明治初年に英国の女性旅行家が一人で東北地方を旅した記録があり「日本奥地紀行」という本を出していますが、女性一人で旅をしても何も危険がないどころか、おどろくほど貧困で不衛生でありながらも、田畑はきれいに耕し、人々がみなやさしく純朴なことを絶賛しています。彼女は東京(江戸)を出発して日光へ向い、会津西街道を通って会津若松から西に向かいます。津川から新潟・・・この辺は戊辰戦争の直後の激戦地跡です。そこが貧しくも礼節を保っていたという事実が次々と描かれます。
 新潟からは山形の置賜を通って北上、秋田の久保田、青森、函館から平取を回って,海路で横浜に戻ります。Itoという案内人がついていますが、明治初期というのに彼はすぐれた英語の通訳でした。後日、そのItoが伊藤鶴吉であることが判明しますが、外国人女性が一人で歩いても彼女を不安がらせず、丁重にもてなしていたということはおどろくべきことです。
 江戸時代が、前述のように「自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟や稗を食べていた」ような圧政の下にあったら、そんな政府が260年も続くわけがありません。東北の田舎など飢饉や失政ですぐに反乱が起きていたでしょう。貧しくなったのは明治になってからです。世界史的にも江戸時代は長期に平和を保った「ローマの平和=Pax Romana」と同じく「Pax Tokugawa」と呼ばれているのです。
 では、なぜ江戸時代の百姓は飲まず食わずではなかったか・・・その答えを出してみましょう。文政期の日本のコメの取れ高はだいたい三千五百万石、人口も三千五百万人くらいでした。つまり一人当たり一石のコメが食べられるのです。ところが明治政府の教科書では全部年貢に取られたということになっています。一石は1000合ですから、365日で割ればだいたい一日3合は食べられます。でもみんな幕府に取られた。ならば、人口の5%しかいない幕府の武士たちは一年間でものすごい量のコメを食べなければなりません。残りを酒にしたらとんでもない酔っ払い天国です。外国に売る?それは鎖国ですからできません。つまり、米商人に売っていくらかの利ザヤを取り、百姓は兼業で藩内の産業(漆器つくりからワラジ編みまで)を支えて藩も豊かにして自分たちも利益を得る。それで米を買っていたわけです。飲まず食わずの農民がいる国が260年も続くわけがありません。明治時代の方が子どもを売らねばならないほど農民は貧しかったのです。

日新館教育は

 さて、日新館教育に代表される江戸時代の藩校教育は、儒学を基にしたもので、後日言われるほど身分制に基づいたものではなく、人の道(儒学ですからあたりまえですが)を極めること、実践をすることの基礎として教育がなされました。それもかなり学問程度の高い教育が行われていました。これは江戸幕府の多くの藩で実践された教育で、その教育の目的は「人としてどうあるべきか」、「どのように行動するか」、「責任はどう取るか」などが具体的な例で掲げられ、根本には儒学(朱子学)があって教育が展開されました。水戸の弘道館教育なども、その代表的な例です。
 ところが福沢諭吉の考えを根本においた明治政府の教育の目標はひたすら立身出世のためでした。かなり強引な形で利己的な栄達主義を社会の中、教育の中に浸透させました。こういう中で、儒教的な倫理観はどんどん否定されて行きます。やがて、この功利主義教育は、帝国大学を頂点とした教育ピラミッドを造り、それが現在まで続くことになります。
 つまり近代現代の教育は、その目指すところが人の道ではなく、立身出世が目的と言うことでしょう。ここでは責任を誰もが取ったり、言葉と行動が合わなくても問題がないことが分かります。この結果、競争主義は高まり、やがては国家間で競争する道へ踏み出していきます。

英雄史観による歴史の捏造

 帝国大学は官僚を生み出し、陸軍・海軍大学は参謀本部、大本営といった覇権主義を取る力につながっていきます。またもや司馬遼太郎は陸海軍の創設に係わった秋山好古兄弟を独特の英雄史観で「坂の上の雲」として描いていますが、この動きがやがて太平洋戦争につながっていったことは書かれていません。
 またその背後にあった長州政権は天皇制を変改して二重構造の国をつくり歴史の修正をおどろくべき形(教科書やメディア=劇、芝居など)でやっています。それは人の道から外れたことをやっても成功すればよい、上に立てればよい、日本一、世界一というわけのわからないものを目指す出世主義が教育のなかにあったからです。これは、いま病のように、あるいは常識のように親たちの意識のなかにあります。子どもを教育して人より上にする・・・みなさんも意識しているでしょう。
 藩校教育については、いろいろありますが、日新館教育では250年も前から少年たちが事の是非について議論をする民主的なシステムが組まれていました。結論が出なかったり、誤った決定になると年長者や有識者に相談を持ち掛けるという技術まで訓練されていたのです。藩を守り、人を守り、そのために勉強する、行為を正すという基本が幼児期から行われて、16歳以上になると大人扱いされたのです。これによって60歳以上の老人は大切にされ、女子は守られ、子どもも一定以上の役目は実行する必要がなく、遊びながらの教育がなされていたのです。それが明治政府の教育ではなくなり、一方的に上からの国家主義的な教育となりました。薩長の風土や長州の国学が大きく影響を与えたのは明らかです。これが、国家の方針を隠蔽したり、事実を教えなかったり(足尾鉱毒事件など)などの現象を生み出します。
 考えても見てください。明治時代は殖産興業、富国強兵で忙しくなったわりには貧富の差が拡大しているのです。貧しい人間は食べられる軍隊に入らねばならず、わずか45年の間に2度の対外戦争が引き起こされて十万人が戦死したのです。

藩校教育は具体的には、どういう教育だったのか

 現代行われている些末な教育論は後回しにして、家庭教育の多くの部分はよくも悪くも親の都合で行われていることが多かったと思います。「そんなことをしたらみっともない」「お行儀をよくしなさい」「相手の話しには耳を傾けるものです。」「人が話をしているのに無視して飛び跳ねているのは恥ずかしいことです。」これらの基本はみな、江戸時代の朱子学的な倫理観でつくられたもので、家庭教育の細部まで影響したものでした。詳細はすべて書けませんが、それは関連の本を読んでもらうことにして、ひじょうに明快な結論になっている十訓と童子訓についてだけ述べます。
掟(幼児・少年)
一、 年長者の言うことに背いてはいけない
一、 年長者にはお辞儀をしなければならない
一、 嘘を言ってはならない
一、 卑怯なふるまいをしてはならない
一、 弱い者をいじめてはいけない
一、 戸外で物を食べてはいけない
一、 戸外で婦人と言葉を交わしてはいけない
ならぬことはならぬものです
 これが、まず幼少の子どもたちの間で学ばれ、なぜそうなのかを実際にあったエピソード集 実在の人物が行った例を学びながら、なぜ、そういうことをすると人間関係や社会関係に支障が起きて来るのかを考える訓練がなされます。
 ご承知かと思いますが、会津藩の初代当主である保科正之の考え方を藩の教育理念の基礎として五代藩主・松平容頌が日新館教育として集大成したものですが、同レベル、同様の教育システムは主だった幕府の藩では行われていました。
 で、まず幼少の部ですが・・・・
 「お話」を聞かせて「ならぬことはならぬものです」と結んだ後に、反省会へと移るのです。
 「什の掟」に背いた子がいなかったかどうか、子どもたちを束ねる少年が問いただします。「何か言うことはありませんか」。
 小さな子には、恐ろしい場だったでしょう。「審問」が始まると破ったものを部屋の中央に座らせ、違反の有無を取り調べました。
 「審問」の結果、違反した事実があれば、年長者たちとペナルティを話し合い、違反した子に相応の「制裁」を加えることになります。「制裁」には、以下のものがありました。「無念(むねん)」(頭を下げて詫びる)「竹篦(しっぺい)」(罰の軽重で打たれる場所も回数もちがう)「派切り(はぎり)」(かなり重い罰で、仲間外れになるので親か兄が謝ることになる)というものでした。そして、「童子訓」という実際に存在した歴史的な例を引いて解説していき、かなり論理的なものとなっています。この社会性養成の教育は、実例を念頭に「してはいけないこと」「しなければいけないこと」を幼少期から教えるもので、そういう人の道を達成するために四書五経から天文学・数学に至る学習がなされていたのです。
 漢学の素養がなければ四書五経は読めませんから、唱えることから始めて素読、講読と言葉の理解は現代の学生など及びもつかないレベルに達していたと言います。しかも、それは倫理観や行動論理つきでです。学問は「人の道」を達成するためのひとつの手段でした。他には武道を通じて、修養を通じて・・・さまざまな方法が試されました。
 しかし、それを壊すできごとが起こったのです。戊辰戦争です。これについては詳述できませんが、かんたんにいえば「義」を死守してでも戦う側と「不義」であろうと勝てばよい側との戦いでした。
 官軍(薩長ほか他藩連合)は錦の御旗を立てて、逆らうものは朝敵としましたが、不思議なことに会津藩は松平容保公自身が「朝廷のためによく尽くしてくれた」と書かれた孝明天皇から親書もらっていたのです。私は2014年秋に会津鶴ヶ城で行われた「禁門の変」展で、その直筆親書を見て、「なぜ容保公は、これを幕府軍側に提示して汚名をそそぎ、許しを請わなかったのだろう」と思いました。しかし、2015年に再び会津若松の図書館に籠って「会津戊辰戦争史」を調べるうちに、そういうことをするのは卑怯であるという考えを持ったと思われる記録があり、1決戦に出たと考えるようになりました。
 結果、倫理感もなければ責任も取らない無軌道な勢いが勝利をおさめたのが戊辰戦争でしたが、それで明治維新となりました。つまり薩長の勝ちなのですが、やがて薩摩は倒されて長州が主力の政府となっていきます。

戊辰戦争が象徴するもの

 明治政府は、江戸幕府を倒したわけですから、自分たちの悪さや幕府の良さを全部隠す必要性がありました。戊辰戦争は、その良い例です。今日の「お話し会」では、いくつかそのひどいエピソードをお話ししますが(とても文章で描くことができないほどひどいことが行われたのです)、戊辰戦争は教科書では鳥羽伏見の戦いと函館五稜郭の戦いくらいしか述べられていません。中には北越戦争、会津戦争に触れてあるものもありますが、詳しくはなく、奥羽越列藩同盟(白石同盟)などにはほとんど触れていません。
 この中でも会津戦争はひどいものでした。ある意味、現代に続く明治政府の国民を無視した政治手法と国民をなんとか守ろうとした手法の幕府の最後の戦いで、国学をもとにした天皇制神格化によって国家運営を行おうとする新勢力と人倫を基本の既成勢力の戦いだったのです。
 国学を据えて天皇制神格化によって国家運営に持って行ったのは長州ですが、薩摩は戦争でもっと野蛮な出方をしました。薩摩は藩校をつくるのが遅れ、教育が藩民に浸透しなかったので荒々しい気質が突出していたのです。これは長州も土佐も同じで身分制が下士たちの不満をつくっていました。この不満が戦争で残酷な仕業を生み出したわけです。いかに人の道を説く教育が必要かがこれでわかります。
 会津戦争で人道にも劣ることをやったのは各藩連合の中でも薩長軍がほとんどですが、とくに薩摩はひどいことをやりました。これについてもお話で述べますが、薩摩軍は会津の嬢子軍という女性部隊と交戦した折に、殺しただけではなく女性の胸や陰部を抉り取り、見せびらかしたりして会津兵の怒りを買っていたのです。また戦争終結後も官軍は会津兵の死体の片づけを許さず、弔うことも禁じる布令を出していました。このため何か月も会津兵の屍体が道端や野原に打ち捨てられていたということです。

天皇の神格化

 明治政府の教科書は、当然、富国強兵、殖産興業、脱亜入欧を基本にして近代化をしたわけですが、まともな人間をつくるという側面は国家からの押し付け道徳・・・言うことを聞く国民をつくることに絞られています。そのために天皇の神格化がすすめられました。これは現代までずっと続いていることです。
 江戸時代までは、天皇は公家の最高位ていどの認識しかなかったので、庶民は天皇が神であるとは思ってもいませんでした。儒学は自由に論議をする体質があり、林羅山などは神武天皇が中国の王族(夏侯少康)の末裔であるという説さえ出していました。
 明治初年、外国で高度な知識を学んだ人々が神武天皇や天皇制にはほとんど関心を持ってはいなかったのですが、政府の政策でじょじょに天皇制崇拝に入って行ったことは歴史が示すとおりです。
 このことは、明治三年に福井藩の招きで日本へ来て自然科学の教授をしたグリフィスという人が、明治九年に書いた「皇国(ミカドの帝国)」で、この急激な天皇神格化をはっきり述べています。
 「日本人は皇紀二千五百年について語るが、それは朝鮮人が四千年の歴史について語るのと同様にバカげており、根拠がない。日本の歴史の年代は1872年(明治4年)に、お上がつくりだしたものであり、それを受け入れるくらいなら雷神やシンデレラ姫が活躍した時代を決めることだってじゅうぶんできる。万世一系などというものも、このとき構成され、命令によって定められたのである。」さらに「これ以後、教育があると自称する日本人でさえも平気で皇紀二千五百年の歴史について語り、『役所の息がかかるほどに真実の気は失せていく』ということわざに彩どりを添えている」・・・と。

なぜ神にすると都合がいいか

 実際、尋常小学校の教科書に出た画家・川崎千虎筆の「神武天皇像」は、まったく明治天皇です。顔が明治天皇の顔なのです。このようにじょじょに神格化がすすめられ、この神格化が太平洋戦争までつづいていきます。またぞろ平成でもそのような動きが出てきましたが・・・・。
 つまり、明治維新のあらゆることが長州政権でなされましたが、最初の大きな歴史修正は「天皇の神格化」だったわけです。これによって、力の二重構造が生まれます。何かあっても責任は取らない。命令した人は神ですから、命令を受けた人は責任を取らなくてよい。当然、神は責任を取りません。このことについては後で話しますが、天皇=現人神という強圧的な大衆洗脳が進められたといっても過言ではないでしょう。
 戊辰戦争で最後まで抵抗した会津藩は、その後、長州政権によって、かなりひどい仕打ちをされます。大河ドラマ「八重の桜」では、青森の斗南に移され、バラバラにされるところまでですが、その後、反乱を防ぐために福島県に強圧的な知事(三島通庸)を置き、会津や中通りでの自由民権運動を弾圧します。その後は一貫して戊辰戦争敗戦国・福島として国の政策の日陰の部分を受け持つ役割を果たさざるをえなくなります。

エネルギー政策

 国策として磐城の炭田をエネルギー政策の一環に据えたのは伊藤博文が総理大臣のときでした。これが日清・日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と軍事的なエネルギー源の一翼を担っていきます。
 石炭が不合理なエネルギー源となり石油に転換されたのは岸信介が総理大臣のときで、このときも手厚い政策はなく、民間の努力で常磐ハワイアンセンターとして生き残るよりありませんでした。福島原発一号機が建設されたのは、その弟・佐藤栄作が総理大臣のときです。きたないものは皆、押し付けられたような気がしますが、ここには共通性はないのでしょうか。ありますよね。これらの総理大臣はみな山口県出身です。
 日新館教育の結果なら、炭鉱の処理や危ないエネルギー源の設置では、誰かが責任をとるべき問題ですが、長州政権では何事も責任をとらないという仕組みが進められたわけです。戊辰戦争は、とくに会津戦争は、この意味でもひじょうに象徴的な戦争結果だったと思います。日本一、世界一を目指す長州政権は、その後、さらなる進み方をして、日本史上最悪の戦争結果を産みだしました。しかし、その結果をも「終戦」という自然に終わったかのような言葉でごまかし、軍部は何の責任もとらず、敗戦後もそのしくみは、ほとんど構造が変わらずに現代まで来ています。開戦・終戦の詔を出した昭和天皇は退位もしませんでした。その間に民間合わせて300万人が戦火で命を落としたのですが、いったい責任は誰が取ったのでしょう。
 ここには、ひじょうにうまいカラクリがあります。それは古代の天皇家と藤原氏の関係を真似た天皇制の復活でした。それが「王政復古」という形で復元されたのです。

責任回避体制

 天皇の神格化は明治四年から始められ、だいたい明治二十年ごろまでに定着します。まず廃仏毀釈で寺院を押しのけて神社が崇敬されるように仕組みました。当然、神道や国学の影響です。その意味では吉田松陰の思想の影響は大きかったかもしれません。
 王政復古で、政府の組織は変りましたが、何と平安時代のように「太政官」「右大臣」「左大臣」「参議」などが天皇の下にいて、その下に外務省や陸軍省などの省庁があるのです。
 ここで重要なのは、神格化された天皇が政権に命を下す形を取られます。当然、政策は政権が立案したものが行われますが、形は天皇の命です。こうなるとおもしろいことに政権が失政をしても責任は取らなくていいのです。武士の社会では責任者が切腹しますが、このシステムでは命を下したのが天皇ですから、臣下である政権は責任を取りません。では天皇が責任を取るかと言うと、なにせ「神」ですから神が責任を取ることはありません。古今東西、神が責任を取った歴史はありません。
 これが現代でも同じ形で進行しています。大臣が不祥事を起こすと総理大臣は任命責任を追及されます。ところがですね。これらの大臣を認可するのは天皇なのです。天皇が総理大臣を任命します。この総理大臣が不祥事をしでかしても天皇は任命責任を追及されることはないのです。「神」や「象徴」が下の者の責任を取ることは、古今東西、歴史にありませんのでね。まったくうまいシステムを考え出したものです。
 そして、これがうまく利用されました。戦前はもとより、戦後もです・・・・天皇が任命した政権が失政をしても天皇は責任を取らない。当然、政権も責任を取らない。この影響は、現在、一般の企業社会でも広がっています。謝るだけで責任を取らない。

まだまだ一般常識は

 「そうは言っても太平洋戦争の終結は天皇陛下のご聖断によるもので、あれ以上死者が増えるのを終戦の詔で天皇が止めた」という一般常識がまかり通っています。はたしてそうでしょうか。太平洋戦争は、明治政府の方針だった「富国強兵」、「脱亜入欧」、「殖産興業」の結果なのです。それが、だんだん負け戦さになっていっても、中止の聖断は出ませんでした。1945年2月、近衛文麿は「戦争終結」を天皇に上奏しますが、昭和天皇は「再度、成果が上がったら・・・」と言って拒否しました。天皇が戦争終結に傾くのは5月のドイツの全面降伏、沖縄戦の悲惨な状態を知ったときからです。それでも上層部はソビエト連邦を仲介役にして天皇制の護持を画策したのです。6月8日に内大臣・木戸幸一が「時局収集対策試案」で「このままでは国体の維持ができない」と報告したように「国民のためを思い、天皇が戦争をやめさせた」とすることで天皇制の存続を図ろうとしたのです。そして、戦後も天皇の全国行幸などで、「あのひどい戦争を終らせた方」というイメージがつくられていきます。これでは戦争を起こした責任は誰にあるのかがどんどん不明確になります。少なくとも開戦の詔から終戦の詔までの間に300万人の日本人が死に、何百万ものアジア人が死んだのにもかかわらずです。どんなことをしても誰も責任を取らないということは大変な問題です。
 武士の社会では、失敗は責任問題で解決しますから切腹もありえます。主君の失敗(敗戦)を忠義のために家老が取って切腹した例は枚挙のいとまがありません。戊辰戦争でも家老が自刃したため次席家老の萱野長修が容保を助けるために切腹したことは有名です。

謝って済めば・・・

 戦後、さまざまな事件が起こりましたが、じつは企業犯罪も責任がうやむやになることが多く、記者会見か何かで頭を下げれば罪が問われなくなることも多くなってきました。敗戦を終戦と言って「自然に戦いが終わったように感じさせる」言語操作は、放射能の移動を「除染」と言って、いかにも取り除いてなくなったように思わせる造語、粉飾決算を「不適切会計」という語で犯罪と見ない言い換えなどが氾濫しているのが現在です。
 かつて企業は倒産すると下請けなどの被害者に謝り、その補償を長期間しました。いまや会社更生法で、社長は自己資産を別に隠し、倒産してもノウノウと暮らしていることが多いです。福島原発の事故を起こした東電の会長、社長は高額な退職金をもらって退き、責任は取りません。国策である電力事業は政府の政策でもあり、政権の失敗では責任は誰も取らないようになっているのです。これも長州政権が産みだしたものすごいカラクリといえるでしょう。
 さて、戊辰戦争のときに戻りますが、薩長の横暴は会津にとどまらず、明治十一年に大日本帝国に組み込まれた(これも教科書ではほとんど触れませんが)琉球王国も悲惨な支配を受け続けます。戦前も沖縄は悲惨でしたが、戦後はもっとひどいものとなりました。昭和天皇はGHQに「永久的に沖縄の支配権を認める」旨の約束をします。当然、この責任は誰も取らず、現在に至っています。長州政権が握り続けた教育権で、このような歴史の真実は歪められ、意図的に修正されてきたのです。
 教育は単純に子育ての方法の良しあしのように言われますが、やはり国家の洗脳、真実を隠すということが背景にあれば、教師も同じような頭になり、やがては「いつか来た道」を子どもに強いることになります。子どもを育てるということは、おかしな価値観で洗脳されず、子ども自身が真っ当な大人になっていくようにする仕組みをつくるべきだと思います。私たちは、自分の子どもを真っ当に育てたいと思いますが、果たしてまた長州政権が国の仕組みを変えようとするときに真っ当さが維持できるのでしょうか。本はなるべく読まないで学校の言う通りの勉強をして、損になるので責任は取らず、ならぬことも押し通し、卑怯でも勝てばそれでよく、平気で嘘を言う人間にしたほうがいいのでしょうか。それが教育の目的になる・・・・これを人間に当てはめれば、「兵隊」が一番適切です。何も考えずに上の命令に従い、個人の失敗は上層部がうやむやにし、作戦であれば善悪は関係なく押し通し汚い方法でも相手を倒せればそれでよく、あった事件もないと言い張り、とにかくどんなことをしてでも勝てばよい・・・これが軍であり兵隊です。

山口県というと目立たぬ県だが・・・

 これはまったくジョークですが、嘉門達夫というシンガーが「47都道府県の歌」で山口県を歌ったところがあります。
 「♪・・・山口県は都会に出た子に日本で一番仕送りをする」のだというのです。つまり、立身出世が県民性になっているともいえます。県外に出して成功させる・・・日本一、世界一を目指させる・・・・なるほど「♪・・・山梨の子どもは日本で一番、習い事をする」らしいのですが、山口ではそんな生やさしいものではなく、故郷に錦を飾るために県外に押し出す教育がなされているようです。
 そのためには何をしてもいいのか・・・勝てば官軍なのか・・・総理大臣が山ほど出ている山口県はあぜ道もアスファルト舗装されています。歴史を修正してでも栄光をつかみたい長州政権・・・明治産業遺産のためのロビー活動にいくらお金を使ったのでしょうか。朝鮮から徴用で強制労働まであった事実を捻じ曲げ、認定させる。これは完全に歴史修正主義です。長州政権の政治は基本的には勝てば何でも良いわけで、言葉などないがしろにして、事実も踏まえないで過去を変えることにも平気です。こういう考えが現代社会の事件や事故を生み出すもとになっているとも知らずに、現代の日本国民はいわきの炭田閉鎖を見て、福島第一原発の事故処理を見ています。・・・すべて、その発端は戊辰戦争なのですが・・・・。まだまだ、立身出世、富国強兵、殖産興業の価値観は生きています。(おはなし会 講座記録 一部閲覧)



(2015年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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