ブッククラブニュース
平成28年2月号新聞一部閲覧 追加分

学研プラス「遊びと環境」3月号

 学研プラス発行(2月4日発売)の「あそびと環境0・1・2歳」の巻頭5ページぶちぬきで、ゆめやの選書が載っています。保育者用の本なので園で取っているところがあるかも。園に聞いてみて、もしあったら開いてみてください。
 「1年分、前倒ししているのじゃないの?」という声が聞こえてきそうですが、子ども園では、0歳、1歳、2歳で区分しているので1歳の本が0歳対応になっっています。もちろんブッククラブの配本は、そんな前倒しの英才教育ではなく、ちゃんと月齢に合わせていますよ。やはり古典的定番は外しませんが、けっこう新刊も組み入れています。毎年、選書改定はしてますからね。かつて名作だった絵本も時が経てば古びるものも出てきます。人が作り出したもので永遠にすばらしいものはありません。
 しかし、逆に粗雑なもの、劣悪なものも多いわけで、やはりそこは選書をしないと、より優れたものを子どもに与えていくことができません。
 で、ブッククラブ配本では月齢刻みで発達に応じた本を標準的に選んでいますが、一般的な選書紹介は当然、数が限られます。今回は、おさなご保育園理事長で佛教大学や兵庫大学で保育を教えている徳永満里先生が丁寧な解説をつけてくださいましたが、私としてはおおまかな年齢別の選書にしてみました。

御承知のように

 ブッククラブの選書は、一冊の本の分析で良い悪いを判定するものではありません。なんといっても、日々変化して成長していく子どもに与えるものですから、まずはその発達に対応したものでないと意味がないのです。男の子と女の子でも違いますが、1歳児に良いと言っても1歳1ケ月の子に適切なのか1歳11ケ月の子に適切なのかはわからないあいまいさがあります。タイムリーに与えて子どもの中に染み込んでいく本が一番良いものということです。
 ときおり思うことですが、権威のある子ども本関係の団体の選書はおどろくほど古典的な名作(?)が多いものがあります。それも1960年代の、現代の子どもには不向きなようなものが平気で「子どもにあたえるべき名作」として並べられています。あまり、対応年齢は考慮されていないようですが、バートンの「ちいさいおうち」がいくら名作でも1歳、2歳の子には無理でしょう。一番売れているという「いないいないばあ」(童心社)も、個人的には古びてきているなと思うものです。大方の選書が定番ということには、どういう理由があるのか研究したことがないのですが、最近作はほとんど選書されないところがあります。これでは時代の変化についていかれないと思うのですが、それでも平然と相も変わらない定番が選書されます。
 まあ、子どもは何でも反応するかもしれませんが、できればタイムリーに楽しめるものがいいですね。(増ページ・一部閲覧 PR)

発達対応絵本とは
4下の子への対応

 3歳くらいで下の子が生まれることが多い。いや、もう少し前かな。我が家などは1歳4ケ月のときに下の子が生まれた。多くは、2歳あるいは3歳で下の子が生まれるケースになると思うが、下に乳児がいると慌ただしくなって読み聞かせは大変になる。
 さらに大変なのは、下の子が1歳を過ぎたころからである。こちらにも読み聞かせをしなくてはならない。読み聞かせるほうは一人。聞く方は二人、三人・・・同じ本を読み聞かせるわけにもいかないから、年齢、月齢相応の本を選んでも、どうしても下の子は上の子の本を聞きたがる。共働きの家庭などは、読み聞かせの時間のやりくりが、これまたむずかしくなる。で、「ええい面倒だ!」で、寝るときに読む時間をまとめる家庭が多くなるが、これはしかたないことだろう。しかし、それでも、悩みが生じることもある。「上の子に読んでいるときに下の子が邪魔をする」とか「下の子が月齢相応の本ではなく、上の子の本を持ってくる」などさまざまなことが悩みの種になるわけだ。

できれば、別々の読み聞かせが良いが・・・

 で、そういう悩みの相談を受けると対策としていつも同じことを答える。毎年一度は、このことは書いている。しかし以前と違い家庭のしくみも生活スケジュールも大きく変化しているわけで、けっきょくは、それぞれの家庭に合った方法を編み出すよりないと思う。
1 下の子は寝るときに限定しないで、時間があったら読んであげる。
2 上の子の本を下の子が手に取れるところに置かず、下の子用の箱にでも入れて、なるべく月齢対応の本を読むようにする。
3 上の子と下の子は、できればの話だが、父親、母親で分担して読んでも いいと思う。今日は上の子がお父さん、明日は上の子がお母さんと交互に読むのもいいかもしれない。
4 時間差で読むのもいい。上の子が園に行っているときに下の子、下の子が眠っているときに上の子・・・
 それから、配本した本には配本された年月日を書かずに、月齢、年齢を記入するのも下の子に読み聞かせるときの参考になる。もちろん、配本表がお手元にあれば、それに沿って与えてもらいたい。季節が違ったり、生まれ月によっては配本グレードの高低も出て来るので、そこは支障がありそうならご相談ください。
 兄弟姉妹の読み聞かせは忙しい時間の中で大変でしょうが、その楽しさを知る、知らないでは親も子どもも大きく違ってくるもの。子どもとの接点のひとつとして楽しんでもらいたいと思う。
 この忙しい時代に、一人の子でも読み聞かせが大変だと思うが、二人、三人となればもっと大変だろう。しかし、それを楽しいことに代えないと、苦痛だけが増してくる。読み聞かせなど、すぐに効果が出るものではないが、やはり、寝る前のひとときが大忙しでは子どもへの悪影響も出て来る。たしかに働くお母さんはなんとか早く寝かしつけて・・・・と思うだろうが、ここはひとつ、ゆっくりと読み聞かせを楽しみたいところだ。本は親と子をつなぐ糸のようなものである。切れたら、大変。
 朝8時過ぎに保育園につれていって、お迎えは夜7時・・・これではご飯を食べさせてお風呂に入れたらもう寝る時間である。こんな一億総活躍の犠牲に子どもをするのはかわいそうというものだ。ま、いずれ、その結果は出ますがね。もう出ているか!

「本とともに過ごしてきて」 横浜市 野田由起枝さん

 私がゆめやさんを訪ねたのは12年前のことになります。それからは、ほとんどが電話でのやり取りでしたが、息子の気質や元気ぶりを聞いていただきながら、時には子育て相談までしたころのことをとても懐かしく思い出します。
 続けてきた読み聞かせも、小学校に入り自分で読むようになってから、息子自身がいろいろな誘惑にかられ、本を開くことが減り、配本をストップしようか…と悩んだ時期もありました。でも、しばらくすると、また自分で開くようになったので、彼の中でどのような変化があったのかわかりません。ゆめやさんから届く配本を手にして、習いごとや遊びの隙間時間に少しずつ読んでいく楽しみを感じているように見えました。
 子どもの成長は、いつどんなふうに変化していくのか、本当にわからないものだと感じています。正直なところ、息子は、"本が大好きで…"という子どもではないのですが、先日配本された本を見て、「これは南極探検の本だよね。船の名前を知ってるよ。」と話すのです。「よくわかったね、いつ知ったの?」と思わず聞いてしまったのですが、息子はもうすぐ中学生。成長を思えばそんなに驚くことでもない話なのかな…と思いつつも、昔のやんちゃ息子を思い起こします。環境が少しずつ時間をかけて、彼の成長を導いてくれていたように思っています。
 「他に読みたい本があるかもしれないけど、毎月一冊、渡す本を読んでごらん。」と続けた配本ですが、この繰り返しで過ごしてきた時間は、現在では、かけがえのない小さな積み重ねとなって、息子の成長を支えてきてくれたと感じております。このような体験ときっかけをいただいたゆめやさんに感謝の気持ちでいっぱいです。我が家はまだまだ長女がお世話になりますので、これからもよろしくお願いいたします。(ニュース 寄稿 一部閲覧)

意見には個人差があります。
7世代間での違い

 前回、「ある年代を境にして親が大きく変質している」と言ったら、「ほんとうにそうだ!」といくつもの実例を挙げて語ってくれたお母さん方が何人かいた。ところが、おもしろいのは、そのお母さん方は同じ世代ではなく20歳代から50歳代まで幅が広かった。だから、エピソードの取り上げ方も違うし、「変質」の見方も意見も微妙に・・・いやいや、かなり違っていた。
 50歳代のお母さんは、「まだ赤ん坊の子どもを預けてまで働いて何をしたいというのでしょうね。」と言う。20歳代のママは「親と子だけの世界にべったりといると親も子どもも人間が閉じて行ってしまいそう。」30歳代の母親は、「ママ友が子どもを介しての付き合いになるので、深みがなくてものたりない。これでいいのかといつも思っている。」という子どものことから、家庭生活にまで例が及ぶ。でも、絵本を与えて育てる親は、そうそう誤った道へは行かないので安心だ。

Bestはない、せめてBetter、だめならGood

 「仕事がすべての夫なので、家の中のこと、子どものことは全部私がやらざるを得なかった」(50歳代)、「夫には仕事や趣味など自分の世界があるが、私は子育てとパートだけなので、なんとなく家庭の一体感がない。共稼ぎでそれぞれが財布を持っているからだと思うが、もう少し子どもの世話もしてもらいたい。」(40歳代)、「夫婦といっても友達のような関係なので、それぞれがしたいことができればいいのではないかと思う」(30歳代)「子どもの世話はできるかぎりするけれど、何といっても働いているのだから園や祖父母にゆだねてしまうことも多い。」(20歳代)・・・という具合に考え方もやり方もかなり違うようだ。もちろん、世代の違いではなく、40歳代の母親で20歳代の母親の考えに近い人もいれば、その逆の例もある。

生き方を選んだら責任を持つ

 ただ、全体を見ていくと、家庭のあり方や子育ての方法に満足はしていないが、それぞれが自分なりの家庭や家族のあり方を選んでいる。
 昔は、家族のあり方も働き方もみんなに共通したきまりのようなものがあって、そこから外れるやり方は蔑視されたり、変わり者と見られていた。でも、いまはすべて自分の意志で、「やり方」を決められる世の中になった。中には、そりゃあ、もう、ものすごいWorstな(事件報道にあるような)家庭だってある。その意味では選択は自由になった(?)。問題は、自由に選択したのにまだ不満が出るということ、妙なあきらめもあるということ・・・本来、自由は自己責任をともなうが、どうも、そのへんは、みんなあいまいで、なんとかしようという気持ちもなく、また日常の忙しさに流されて、よく自分の家庭を見ない親も多い。道をどう選んでも不満や悩みはつきまとうのだから、世の中の風潮に押し流されないようにしないといけないが、むずかしい。まあ、「この道」を選んだ親が責任をもつよりない。子どもには責任はないのだから。(ニュース2月号一部閲覧)

おはなし会7回目対論「自分の頭で考える」 

 写真はアラブの大富豪でもISの黒幕でもありません。今回のおはなし会対論の相手旅する写真家「向井俊雄さん」です。この恰好で来てくれました。すでにピースボートで世界を2周し、そのほかの旅行で世界80数ケ国を巡っている人です。「家はベースキャンプにすぎない!」と豪語しているのですが、家事全般すべてやる繊細な生活技術を持った方で、さまざまな面で教えられることが多いです。
 私が向井さんと出会ったのはちょうど十年前のことでした。そのとき向井さんはまだ現役の企業経営者で、山梨のある会社を再建するために京都の本社から派遣された方でした。専務取締役でありながら代表取締役でもある立場で社長職をやっている最中でした。
 そのとき私はNPO法人を起ち上げる仕事を始めていたにもかかわらず、NPOそのものが実はよくわかりませんでした。経営方針がわからないまま、定款設定や登記など具体的な作業に入ろうとしていたのですが、その経営理念について向井さんが理事たちに講義してくれるということで、拝聴することになりました。しかし、そのまえに「向井さんが貸してくれた本なので事前に読んでおいてくれ。」とP・ドラッカーの『非営利組織の経営』という本を設立者の方が渡してくれました。

非営利=非利益?

 そこで講義の前にP・ドラッカーを読んだのですが、ひじょうに画期的なもので、従来企業の基本的な方針ではなく、社会還元が目的、社会問題を解決する作業、得た利益は雇用などでより良い労働環境を作ることなどが書かれていたのです。しかも、最近こそNPOは騒がれているが、じつは「この原型は古代の日本にあった」と述べられていたのです。それは「寺」で、「寺の僧侶たちが農民や漁民などが抱える問題を知恵と力を使って解決していく姿があった。それが最初のNPOだ。」ということです。そして問題解決した際には、農民たちからなにがしか食物などをもらうというものでした。労働は奉仕の精神もあるが、対価として報酬もあるわけです。それがなければ雇用が継続的に生まれません。
 で・・・、向井さんが、このやり方について講義をしてくださいました。
 ところが、その後問題が起こりました。多くの理事が「NPOは、参加する人のボランティアでやっていく」というのです。本の内容とはずいぶん方針が違うわけです。「NPOは訳せば、特定非営利活動法人だから非営利ということで利益を上げてはいけないのだ。」というのです。
 これは単純な字面解釈で本当の意味がわからなくなってしまいます。すべてのことが、字面で理解されていくというすごい話で、これこそ本などまったく読む必要がないこととなります。字面で解釈されると、解釈した人の狭い料簡や少ない体験だけで物事が進められていき、すべてが本質を見ずに上っ面で行われることになります。やっておけばよい、やった、やったでおしまいです。仕事の内容、本質など関係なく、とにかくやった!でいいわけです。みかけがよければそれでよい。形がととのっていればそれでよい。
 これが政治的言語になるとさらに利用されやすくなります。第一回のおはなし会で述べたように「集団的自衛権はみんなで集まって攻撃を防ぐ」という意味だけの理解になってしまいます。

ぶらさがり症候群

 私が、ドラッカーの考えをNPO法人でうまく実現できなかったといきさつを話すと、向井さんは、なんと何もアドバイスや意見をくれずにニヤニヤしているだけでした。そして、それから頻繁にメールをくれるようになり、「山梨はブドウやモモなどが有名だが、人間もまったく同じで、ぶらさがっている人が多い。いわば、『ぶらさがり症候群』ですね。」というのです。
 山梨の会社、工場の再建の際でも、およそ自分の頭で考えず、自分の意見は言わず、みんなといっしょ、あるいは、だれかにぶらさがって行動するというのはよく見られたようです。しかし、私も山梨県人ですので、私自身も「ぶらさがり」と思われるのが嫌で、よく抗弁しましたが、どうもこれは山梨県人だけでないと思うようになりました。「日本人全体が『和』を重んじる人種で、これは聖徳太子が十七条憲法でも最初から『和をもって貴しとなす』と言っているくらいで、自分の発想より集団との和が重要だと思っているのではないか。」ということです。
 しかし、そういう症候群があると、けっきょくどっちつかずになり、改革や改善はむずかしくなるそうです。なにしろ、自分がなく、こっちの旗色が良くなるとこっちにつき、あっちの旗色が良くなるとあっちにつく・・・そういう変わり身は上手になりますが、当然、意見や考え方、行動の責任はまったく取られないことになります。
 これは、「本を読まないからだ!」と向井さんは言います。向井さんの読書量は私たちが冊数で数えるのに対して重さKg単位で計算するとのことです。とにかく2500年前の哲学者が書いた本でも現代の経済学者でもザックリ読みこなし、言わんとすることを頭に入れ、それを実行に移すというわけです。しかし、実行するには、狭い経験主義だけで生きている集団、あるいはボスとも戦わなければならない、と言われました。

権威のある人が問題

  自治会などという小規模な組織でもとかくそこにボスがいて、それがわけのわからない「見識」を振り回すと、みんな「おかしいな?」と思いながらも賛同してしまうという例が出てきます。
 向井さんの住む地域でもそういう例がありました。近所の高校の校長(元)が、「ここに住んだらみな諏訪神社の氏子だから・・・」と平然と言い放ったそうです。向井さんは「それはおかしい。あなたは憲法の信教の自由のところを読んだのですか?」と言ったのですが、多くの人が怪訝な顔つきをしていたということです。
 意見を言うと「あの人は変わっている」の一言で片づけられてしまうのが日本社会で、その側で力を持てば「ぶらさがり症候群」の人など操るのは簡単になってきます。多くの人は自分の頭で考えずに、より声の大きい人についていくからです。
 とくに、この「和」という独特の考え方は日本中のいたるところで発揮され、他と異なった意見は排除されていきます。これでは憲法をいくら読んで考えても、読まない「権威ある人々」が勝手なことを言って物事を進めても文句が言えない社会であるともいえます。余談ですが、その和を掲げた聖徳太子は敬虔な仏教信者のはずでした。ところが十七条憲法では「和」が筆頭にくる・・・なんでそれがおかしいかというと「和」は仏教の中にはない概念で、儒教にある概念なんですね。

社会を支える偏差値教育

 このある種の「権威」を作っているのが、学歴社会で、それを支える基準が偏差値です。向井さんは、この「答えが必ず一つしかない資格社会は、自由な思考や行動ができないで枯渇する」と言います。ですから、なるべく就職を目前にした大学生に「同じ失敗を二度としないようして、多くの経験(失敗)をすること」「失敗から逃げず、失敗を自分の頭に入れること」「様々なことに興味を持つこと」「本を片っ端から読んでみることで自分の考えが生まれる」「自分が社長だったらどうするのかを考えること」「自分の頭で考える習慣をつけることが大切」「少しずつ努力した人が勝つ」「我慢とロジカル、自分のスキルの向上が必要」「仕事は誰かに与えられるものではなく、自分で作り出すもの」などという講義をしていました。多くが偏差値を高めるために汲々として、与えられた仕事しかしない現代社会で「自分のしたいこと」を「自分の頭で考える」というものです。
 実際、ゆめやが近くの大学の就職部の教授に頼まれて、学生の就職面接を向井さんがやっている会社に頼んだことがあります。就職先がなくて弱っていた学生なのですが、決められた時間に会社訪問をしませんでした。慌てた私は教授に連絡しましたが、その学生と連絡がつきません。ようやく数日後に会って訊くと「いっしょに行く友人が探せなかった」ということでした。自分の就職ができるかできないかの瀬戸際に、友達と一緒に面接、あるいはついていってもらいたいのかもしれませんが、このような勇気のなさ、やる気のなさは何でしょう。私も恥ずかしくなって、就職部の教授に向井さんに謝りにいくようにつたえたくらいです。
 こんな若者ばかりではないでしょうが、これでは企業の活力も何もなくなります。そのうちマニュアルでしか物事ができないのではなく、マニュアルですらできなくなる可能性があります。

組織は、できたときから腐り始める

 自分の頭で考えられない人間が増えて、マニュアルや慣例で物事を行い始めると、何か起きても誰も責任を取らなくなります。トップが責任を取らなければ下が取るわけはないので、ますます組織は歪み、経営の分析もなくなり、言い逃れやごまかしが進んでいきます。これは東電原発事故や東芝粉飾決算の例を見ればわかることです。小さい規模のものでは山ほどあるでしょう。この原因は、どこにあるか。例えば先の大戦の責任をトップが何一つ取らなかったために、その後の戦後の社会に大きな禍根を残すことになったのではないかいうことです。敗戦処理は大きな失敗の一つだったと向井俊雄さんは言います。
 自分が言い出したこと、自分でおしまいにしたことで起きたことの責任を取らないというのはものすごいことです。明治維新以前なら切腹もの、あるいは打ち首獄門ものが平気で大手を振って歩いていく・・・日本社会の上部にはこういう無責任な人が多いのです。
 まして、偏差値で一つの答えしか出せない人間が組織や社会の上層部に行くと下の者はたまりません。天皇など任命権があるにもかかわらず、任命した者の失敗については何も責任を取らない飾り物では、困ったことになります。
 まわりも「上がそうなら下も・・・」とばかり、机の前で頭を下げて終わり。謝ってすむなら警察はいらないということもあります。 現代社会は、市場原理で欲が拡大していますが、人間は必ず死ぬので、どこまで欲を拡大するのか、アベノミクス(原発再稼働、国債乱発、経済成長論)がどのくらい日本をダメにするか・・・日本国内での社会変化、および地殻変動などの問題、それに対してどう向き合うか、自分の頭で考えられる子どもを期待したいところです。
 まずは、本をたくさん読んで多様な考え方を知る・・・そこから自分の頭で独自の生き方をする・・・たった一回の人生ですので、周りに左右されて日本社会がつくりだした異常な「和」だけでいきることはしないほうがいいように思います。そこにはイジメや陰湿な差別があるばかりです。(新聞2月号 一部閲覧)



(2016年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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