ブッククラブニュース
平成28年6月号(発達年齢ブッククラブ)

目をくらまされているかも?

 偏差値の高い方々が、まあまあたくさんの欲をかいて、マスコミから攻撃を受けています。お金の問題から不倫とか失言とか・・・レベルの低さが目立ちます。ただ、こういうレベルの低さに目が奪われていると、選挙の争点が経済とか生活とか税になり、相手の狙いの「改憲」がどんどん隠されていきます。そうなると、多くの人は、「憲法なんてむずかしいものはよくわからん!」となってしまうので、そこが向こうのツケ目でもあります。選挙に勝てば改憲にまっしぐらで、いまでさえやりたい放題が、さらに「何でもあり」になることでしょう。憲法学者のほとんどが反対、作家のほとんど、児童文学者のほとんどが反対です。「ぐりとぐら」の中川李枝子さんから99%の絵本作家が反対。でも、一般人は「憲法?」・・・よくわからないのも現実です。いま、テレビの世界を見ていても、かなり人々が何も考えない方向に行っているのが見えます。これは危ない! そこで、いろいろ読んでいたら、映画化・テレビドラマ化もされた有名な少年文学「バッテリー」の作者、あさのあつこさんがこんな文を書いていました。「罪と罰」という題名で・・・・わかりやすかったです。

「罪と罰」 あさのあつこ

 憲法の問題を語るのは、ひどく難しいようでもあり、とてもカンタンなようでもあり、よくわかりません。
 私に来たアンケートの「日本国憲法のどこを守りたいか」という質問でも、「日本国憲法」のほとんどを知らないので、答えようがないのです。
 だけど、わたしは「日本国憲法」が好きです。それは、第九条の戦争の放棄、戦力・交戦権の否認にしても、十一条の基本的人権にしても、二十五条の「国が生存権を保証する義務を負う」ことにしても、「ワっ、憲法ってわたしたちの味方じゃん!」って気がするのです。
 つまり、国民が国家に何を負うかではなく、国家が国民に対して「どのような義務を有するか」をハッキリ示している・・・「そこが、いいなあ!」と思います。
 わたしは国家を信用してません。国家というものほど、ウサンくさいものはないと思っています。同様に組織とか民族とかも基本的に信じていません。どれも、得体の知れない闇を根本に抱えているからです。
 国家(組織、民族)の論理がはびこるとき、個はいつも蔑(ないがし)ろにされ、萎縮していきます。私たちの国を今、闊歩しているのは「国家のため(国に命をささげられる)の国民を」という国家側のりくつです。個人がジタバタ動き、おそるおそる物申すと「自己責任」だの「能力格差はあたりまえ」だのと、ぼんやり聞いてしまえは正論ぽいものだけれど、実はひどくイビつな人間尊重などカケラもない威勢のいいだけの言葉です。
 憲法はそういう、粗野で卑俗な人々から個である私たちを守ろうとしてくれている。そんな気がしてなりません。
 だけど、年齢が70歳になる憲法は、満身創痍(まんしんそうい=きずだらけ)です。あっちこっち傷付けられて、ヘトヘトになっています。1999年の改正住民基本台帳法、国旗・国歌法に始まり(もっと前から始まっていたのかもしれませんが・・・)、教育基本法の改正まで、憲法は国家側からさまざまに攻撃され、切り付けられ、殴られ、蹴られ、ボコボコにされてきました。
 理不尽な暴力はまだ続いています。国家にとって上述の憲法の条項が、それほど目ざわりなんですね。
 万が一、憲法がイジメ殺されたら、「やめろよ、やめろよ」と叫びながらも、ただ騒ぎを見ていただけの私たちは、殺した国家側と同等の罪を背負うことになりますよね。そのとき、どんな罰がわれわれに下されるのでしょう。(月刊・「日本児童文学」より・ニュース6月号一部閲覧)

ホッ、ホッ、ホタル来い

 この時期になると、近くの川でホタルが舞う。以前はたくさん飛んでいたが、最近は川の周辺に家がたくさん建ったので、だんだん飛ぶ数は減ってしまった。私は、夜、散歩をするので、この川を渡って隣町まで行くことがあるが、川に架かった小さな橋から下を見ると、文字通り蛍光色の小さな点滅が見える。月のない曇った夜、雨が降りそうな晩は、けっこうたくさんのホタルが飛んでいる。もちろん、散歩が夜11時過ぎのこともあるので、あたりはもう真っ暗だ。真の闇と言っていいくらいのところさえある。
 そんな暗闇でホタルを見ていると、子どものころ、「♪・・・ホ、ホ、ホタル来い・・・あっちの水は苦いぞ・・・こっちの水は甘いぞ・・・」と歌いながら補虫網でホタルを追いかけていた少年時代がハッキリとよみがえってくる。おそらく、小学低学年か中学年だったと思うが、そのころはもう、「水に甘いも苦いもない」し、「いくら呼んでもホタルがこっちに飛んでくることはない」とわかっていたはずだ。それでも、幼い時に覚えた歌は、ついつい口に出る。
 考えてみれば、自分の子どもを連れてホタルを見に行く年齢になったときも、この歌を歌っていた。ところが、その子どももまたその子どもたちに歌ってやっている。
 「ああ、歌や知識、生活行動は無意識のうちに伝わっていくんだなぁ!」といまさらながら思った。しかし、もちろん、伝えればの話で、断絶させたら、そこで途切れることは当然のことである。

調べてみると・・・

 で、大人になって、この歌の意味はどんなところにあるのだろうと調べたが、あまりはっきりしたことはわからなかった。しかし、調べるというのは余計なことも学べるところがある。歌がどういう意味を持っているかはわからなかったが、西日本のホタルと東日本のホタルでは点滅の回数が違うということがわかった。
 東日本は4秒に一回、西日本は2秒に一回。西日本のホタルはせっかちな光り方をするらしい。しかも、この点滅回数は糸魚川−静岡線を境にはっきりと回数分かれが起きているという。では、私の見ていたホタルは4秒に一回なのか・・・、ここが私のバカなところで、見に行って時間を計ってみた。すると、たしかに3〜4秒に1回だ。2秒で点滅のホタルはいない。さらに調べると、糸魚川−静岡線付近のホタルは「東日本と西日本の境だから3秒の点滅」とあった。これはスゴイ話だ。びっくりぽんである。まったく自然の世界はものすごい。どこかで遺伝子がずっと伝わってきているのだろう。
 こんなに人間が東西で交流して環境を変えても、4秒に一回、3秒に一回、2秒に一回の習性を伝えているのである。

 人間なんか、すぐに「所変われば品変わる」などと言って、本来のものをすぐ忘れて便利な方に行ったり、楽な方に行ったり、甘い水に弱かったり・・・まるで、本来の人間性など忘れたかのように流行るものについていく。「柔軟性がある」と言えばいえるけれど、「節操がない」といえば言える。おかげで、次の世代である子ども、さらにその次の世代である孫に伝わっていくものが少なくなっていくような気がする。
 これも、ホタルのように、自分の秒数で回数を守らないで、むやみに急いで1秒に一回、0.5秒に一回の点滅になら、これはただただ忙しいだけである。人生などあっと言う間に終わってしまうだろう。4秒に一回のゲンジボタルでさえ寿命は、せいぜい1〜2週間と短い。なんだかんだと理屈をつけて親子の接触を短くせず、もっと何かを伝えないと・・・なんとなくだけれど、大変なことになるのではないかと思ってしまった。ホタルは2週間の命でもきちんと次の代に伝えることをする。80年の寿命を持っても、何も伝えなければ、その80年は0に等しいかもしれない。
目先の欲目。新しい自動車がほしい。家が欲しい。おいしいものが食べたい・・・・だけで、アクセクアクセク働いて、赤ん坊の時代から預けっぱなし。すべて子育ては外部任せでは、どんな子どもができるか、あるいは、あなたの老後・・・すべてが孤独になっていくかもしれませんよ。せめて子どもが巣立っていくまでの18年間・・・濃密な接触をしたいものですね。(新聞6月号一部閲覧)



(2016年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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