ブッククラブニュース
平成28年6月号新聞一部閲覧 追加分

たかが絵本、されど絵本
(2)1歳児の読み聞かせ

 1歳児といっても1歳1ケ月と1歳11ケ月ではとんでもなく違います。育てたことのある人は、赤ちゃんが急速に幼児になるのを目の当たりにしてわかっていますが、第一子だと世話に追われて時間が過ぎていくので、この変化に気が付かないことも多いです。ただ、この成長変化は見ているとおどろきの連続です。人類が直立歩行して言語を獲得するまでの期間を、たった一年間で成し遂げてしまうのです。こりゃあ、ものすごいことです。言葉だけではない、ほとんどの生活行動をマスターしていきます。この一年間の子どもの脳の発達を解析したら、えーっ!と思うようになるでしょうね。
 そこで、大きな疑問が出ます。いろいろな育児の参考書や雑誌のおすすめ絵本コーナー、ネットの幼児絵本のお勧め販売などを見ていると1歳児に与える本が山ほど並びますが、それを選ぶ親の側にはどれもこれも1歳対象の本しか見えません。1歳1ケ月と1歳11ケ月の違いはなく、同じ本が勧められています。どれを選んで与えたらいいのか・・・? これは問題です。

無表情な顔から感情が出て来る

 0歳児というのは、顔の表情もさほど豊かではありません。笑ったり泣いたりすることで親の目を引きつけるようにしますが、様々なものに関心を示して表情を変え始めるのは多くは1歳からです。直立歩行の時期も本を与える目安ですが、物をつかんだり、つまんだりすることも同時に始まります。さらに新聞広告や写真を見て、指さしを始める時期でもあります。個人差もありますが、早くても生後10ケ月。遅ければ1歳半くらいですが、ブッククラブの配本は、10ケ月から始まりますので、指さしもふくめて、その変化を親がいろいろみることができるでしょう。まあ、配本順に読んであげてください。月齢に対応した本がプログラムには個人別にそれなりの配本が組まれています。大きな個人差は考慮できませんが、標準的な発達に応じて順番に組まれているので、自然にお子さんの楽しめるような対応ができているはずです。最初は性差がない組み方ですが、後半、2歳近くなると性差を考慮した配本も入ります。

親も家庭も変わってきているが

 最近はスマホで絵本、タブレットで絵本という親も出てきたようですが、知らない声優が語り、子どもにこびた絵や色でひきつけようとするコンテンツの絵本を最初から与えたらどうなるんでしょうね。まあ、そういう親はそういう親で、私は教育者でも福祉家でもないので「どうぞご勝手に!」となります。このような影響は、長い時間を経た後に出てくるもので、子どもが無邪気にタブレットを見ているのは見た目にはかわいらしいものですが、その影響は早くて思春期以降、遅ければ大人になってから出てきます。ほんとうはね、もう出ているのですが、じつは因果関係がわかりません。まあ、よい影響は出ないということだけは言っておきたいと思います。
 親としては「そういうものに幼児のうちから慣れておかないと成長してから電子機器についていかれない」と思う人もいるのでしょう。でもね。そんな心配は必要ないのです。そんなことは慣れていなくても使えるようになるし(だいたい親がそうでしょ。小さいときにタブレットがありましたか?、パソコンがありましたか?)どうにでもなるんです。それより、もっと重要なものを、この時期に身に着けないと・・・・。時期に合ったものを与えるのは絵本ばかりではありません。

親の声に快さを感じる子ども

 最初は「読み聞かせる」のではなく、絵を見て話しかけるので十分なのです。図書館から本をたくさん借りてきてフラッシュカード状態で読んでいる親がいます。「たくさん読み聞かせれば言葉を早く覚える」という何かの教育メソッドに影響された幻想ですが、この時期はまったく意味がありません。子どもにとって目の前から本がなくなれば、中身も本もまったく頭の中で所有できないからです。
 読み聞かせても読み聞かせてもただ通り過ぎていくだけのものになります。何かを「覚えさせる」という意識を親が持つのはやめましょうね。そんなことをしなくても子どもは、語り掛けるだけでどんどん必要な言葉は覚えていきます。
 話しかけるとき、いろいろな感覚的な言葉、「おいしいね。パクリ!」とか「お星さまキラキラ」という擬態語を混ぜると子どもは大きく反応します。1歳の絵本の読み聞かせは楽しい感覚が一番、ごっこ遊びも含めて、やってみましょう。1歳代の本は、きちんと読まなくても大丈夫です。アドリブも、そのときの発想もみんな言葉にしてOKです。なぜなら、1歳の子どもは本の内容に関心が向くのではなく、読んでくれる人、親の声が(とくに母親の声)快いのです。だから、本を引っ張り出してきます。この好みを応用して、発達に沿って本を与えていけば、なず読み聞かせが好きになり、次に本の内容に関心が出て、驚くほどの速度でたとえば、「もこもこもこ」を読んだら、親がシーツをかぶって、もこもこもこ。そうするとすぐ子どもも真似ます。こぐまちゃん、イタイイタイ・・・痛かったね・・・。と、足や手をなでてあげる・・・すべて真似から始まりますから。

学校図書館をどう利用するか
(2)低学年の本がその後を決める?

 小学校1〜2年の読書は、ひじょうに大変だ。読書と言ってもまだ文字がおぼつかない子がいるし、漢字も混じってくるから、言葉そのもの、つまり語彙が少ないとどうしても簡単な本に走ってしまう。多くは家庭で絵本の読み聞かせなどされていない子どもだから平気でマンガ、アニメである。
 学校図書館にジブリ・アニメや粗悪なレベルの漫画が置いてあること自体が問題だが、この時期は読み聞かせから一人読みへの重要なステップであり、一人読みへの準備ができないと中・高学年の読書がおぼつかなくなる。その意味では、いちばん重要な時期だといえる。
 ところが、学校図書館にもよるが、赤ちゃん絵本まで置いてあるところがある。ほんとうに「選書」をしているのかどうかすら危ぶまれるが、あなたのお子さんの学校はどうなのしょう。
 低学年の子どもはまじめだから、そこにある環境は疑いもなく受け入れる。周囲で流行っているものも受け入れる。だからこそ、子どもの周辺をきちんと整備しておかないと本に対する感覚だけでなく、その他のものの受け入れ感覚も歪んでしまう。だから、環境を悪くしておいて自由に選べ、自由に読め!では、水は低きに流れるというものだ。

粗悪な本も置いてあるから

 すべての学校図書館がそうということではなく、司書の先生の質や考え方、価値観にもよるが、どうも粗悪なものが、けっこう学校図書館には大量に置かれていて、子どもたちの借り出しには粗悪が幅をきかせて、常にブームになるのが、こういう分野である。読みやすい、見やすいというのがこういう本の特徴である。だから、「字を読む」ことが優先課題の学校では低レベルの本でも置くということだろう。この辺のことを司書の先生に聞くと、「いろいろな家庭の子がいて、しかたがない」ということを言われる。読めない子に、あるいは読まない子に、それなりのグレードの本を薦めるのはひじょうにむずかしいわけだ。だからレベルが下がる。
 ブッククラブのお子さんに対しては毎年、うまく切りぬけるテクニックを書くのだが、なかには一人読み読書への移行がスムーズに行かないケースも出てきて相談も多くなる。相談くらいならいつでもOKだが、3・4年生で、しっかりした本が読めなくなって、けっきょく読書放棄になる例もあり、「せっかく長年読み聞かせをしてきて、ここまで来たのに残念だなあ!」と思うことも多い。
 1年生の一学期の配本を見てもらえればわかるが、6才のときの配本にくらべて内容的にもかんたん、文も短くなったことに気がつくと思う。この理由は、なるべく自分で読んでもらいたいからだ。しかし、内容が高度で深いものを字を覚えたからといって1年生に「さあ、読め!」ではひどい。だから、私は一年生の本はまだまだ読み聞かせで大丈夫だといつも親たちには言っている。
 多くは、すぐに読めるものではない。初めの何回かは読み聞かせだろう。何回か読み聞かせれば、幼児とちがって、この年齢は内容がすぐに頭に入る。そうしたら、自分で読むことが、なんとかできるはずだ。なかには字を読むことが苦痛な子もいるかもしれない。まして、文が長くなると大変である。そういう場合は・・・・次のことを試みてみよう。

低学年を切りぬけるテクニック

 初め何回か読みきかせた後、逆に子どもが親に読み聞かせるということを試みる。
 うまく読めたら、ほめてあげよう。うまく読めなかったら練習させてみよう。アナウンスの練習のようなものである。疑似マイクを置いて「さあ、あなたはアナウンサー。読んでみて!」となると面白さも増す。
 弟妹がいるばあいは、弟妹に読み聞かせる練習もさせてみよう。子どもが自分で読める本は、この時期の配本(二学期からは長くなる、2年生も同じ)ではなく、もっと前のものであることを親は知らねばならない。ブッククラブの配本は、4〜6歳ものは高度なのだ。だいたいにおいて、教科書を見よ! 1年生の教科書に『おおきなかぶ』が載っているが、ブッククラブでは2歳のときの配本だ。『スイミー』や『かさじぞう』などが載っているのは低学年。ブッククラブでは3〜4歳である。『てぶくろをかいに』や『ふたりは』シリーズ(がまくんとかえるくん)などは中学年である。もちろん、読み聞かせだから幼児でも対応できるが、幼児に自分で読めと言ったら無理というものだ。
 しかし、一般水準は小学校低・中学年なのである。だから‥‥自分で読む本の多くは5才あたりに配本された本でいい。これで一人読みを練習させよう。
 さらに、テクニックのひとつとして「暗誦」がある。最近の国語授業では失われてしまったテクニックだが、暗誦や素読の効果は大いにある。好きな本のあるページのある部分を限定して暗誦させる。親も一緒だとなおいい。暗誦した後、本を見ながらもう一度読んでみるのである。これでうまく読めないはずがない。(つづく)

むかしばなし裁判
(2)ももたろう

 「ももたろう」は日本の昔話、知らない人はいないはずで、あらすじは省略しようと思いましたところ、先日、保育関係者と話をしていたら、「最近の若い保育士さんたちは昔話をほとんど知らない」ということでした。「まさか!」りかついだ金太郎状態になりました。そこで、とりあえず、あらすじを。
 ◆あらすじ◆
 昔話の多くは、「むかし、むかし」「あるところで」と始まります。時間と場所を細かく言うと、子どもには逆にわからなくなりますので、このような表現が使われます。「1173年」「京都の鞍馬山で」と言われても子どもは何が何だかわかりません。でも「むかし、むかし」といえば、「ああ、ずっとまえのことだな」と思いますし、「あるところで」といえば、自分が知っている里山や海辺、田畑の様子を思い浮かべます。だから、桃太郎も誰もがわかるように「むかし、むかし、あるところに」から始まります。

 そして、この「ももたろう」のお話の最初は、おじいさんが山に柴刈りに行く。おじいさんは父親を比喩したものです。「父の恩は山よりも高い」・・・だから山に柴刈りに。つぎに、おばあさんは川に洗濯ですが、これも母親を比喩したもの・・・「母の恩は海よりも深い」ので水に関係した川になります。流れてくる桃は当然、女性のおなかを表したものでしょう。そこから桃太郎が生まれます。おばあさんから生まれるのではなく、桃から生まれるところがミソです。つまり拾われた子でも生まれた子でも子どもというものは育てるもの・・・これが言いたいのでしょうね。自分が生んだ子でも殺す時代ですから、この桃から生まれる喩えは重要のような気がします。
 そして、ジジババ(父母)からご飯を食べさせてもらって桃太郎は成長していきます。成長すると、ジジは「名前を書いた旗(誇り)」と「刀(力)」を与え、ババは「キビダンゴ」を与えます。キビダンゴなどというものは貧しい食べ物です。そんな貧しい食べ物でもお供に行くから欲しいとサル、キジ、イヌが言います。おかしな話ですが、サルは知恵、キジは勇気、イヌは誠実さの代表ですから、知恵や勇気や誠実さは「貧しくないと身につかないぞ」という教えです。そして、桃太郎は鬼ヶ島に行き、鬼を征伐して、故郷に錦を飾り、ジジババに恩返しをする、めでたしめでたしということになります。
 長いあらすじですみませんでしたが、「これじゃ美談で、立派な話。どこがいけないの? 裁判なんて不必要。」と思われることでしょう。そこで裁判。 

裁判

 原告は鬼たちです。被告は、当然、桃太郎。鬼たちは「自分たちは何もしていないのに、いきなり島に上陸してきた桃太郎が暴れまわり、仲間の鬼たちを殺し、われわれが集めた財宝を勝手に持って行った」という訴えを起こしたわけです。
 しかし、桃太郎や被告人弁護団は「先に、鬼たちがわれわれに乱暴なことを行い、村人が蓄えたものを持ち帰ったので、取り返しただけだ(講談社の『桃太郎』)」と反論しました。また「財宝などいらない。さらっていった姫を返せ!と言って連れ戻してきた(福音館書店の『ももたろう』)」とも言い、反論はつじつまがあわないことも。
 検事側は、「低賃金で部下を使い、知恵・勇気・誠実まで要求するのは『活躍』の名を借りたブラック労働の強制である。何もしていない鬼たちを自分の被害妄想から仮想の敵にして、仲間を集めて武力を行使するのは集団的自衛権を認めていない憲法にも触れる。」と主張しました。
 弁護団は「鬼というものは昔から悪者と決まっているので征伐を強行しても問題ない。坂田の金時(金太郎)が鬼を退治した事件の砂川大江山判決があるではないか。」と判例まで持ち出しました。
 鬼たちは「個人的な名誉や恩返しのために殺されたのではたまらない」と口々に主張します。口頭弁論は、お互いに言い分を言い合ってなかなか終わりません。そこで判決となりました。

判決

 「主文 桃太郎はこの件において無罪とする。判決理由は、育ててもらった恩を返すために親に何かしらの利益をもたらそうとするのは人間として道理にかなった行為である。また、鬼たちが乱暴狼藉を働いているのは昔からの事実であって、これを退治して財宝を村に持ってくるのは老齢化した地方経済を活性化させ、創生にもつながる。鬼退治は集団的自衛権行使とは言えない。」・・・これを聞いた鬼たちは「不当判決!」「行政寄りの偏向判決だ!」と叫んでいましたが・・・上告は棄却されました。

5/29 講演会 大月市立図書館で
「小川未明とその周辺について」

 今回の講演会は日本児童文芸家協会の関係のもので、主講演は協会の作家・山本省三先生が、本の作り方について、また発想の転換など作り手側の興味深いお話をされました。ふだん、私たちが知らない創作の技術の裏側ですから、とてもおもしろいものでした。
 そのあと第二部のような形で上の題で私が話させていただきました。
 はじめはちょっとむずかしい話をしました。1953年に古田足日さんや鳥越信さんが、「それ以前の児童文学は小川未明の作品にみられるような伝統の縛りから抜けられないで、暗く、ハッピーエンドでないものだ。新しい子どものための文学を!」と少年文学宣言を出して、浜田広介、小川未明の作品を否定したことがありました。
 その後は、翻訳文学からもいろいろな作家が出て、楽しいもの、ハッピーエンドものがたくさん出てきました。古田さんをはじめ、神沢利子さんや松谷みよ子さん、そして「ぐりとぐら」の中川さん・・・とにかく多様な子ども向け作品が山ほど出て現在に至っています。

 でも、そこでちょっと考えてみよう、ということです。そんなにそれ以前の話はダメなものだったのか。例を挙げると、芥川の「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」、新美南吉の「ごんぎつね」「おじいさんのランプ」、浜田広介の「ないたあかおに」小川未明の「野ばら」「赤い蝋燭と人魚」・・・これらは就学児のブッククラブ選書にみんな入っています。
 そして、少年文学宣言以後の作品は、子どもを楽しくさせることばかりねらってきたので、だんだん、子どもにこびた作品が多くなってしまっているのではないか、と言ったわけです。「しろくまちゃんのほっとけーき」や「ぐりとぐら」は幼児向けだから「食い物で釣る」のはいいですが、この手法を小学生や中学生に使えば、TVのバラエティ番組が食べ物とお笑い、スキャンダルなどで視聴率かせぎをする発想と同じになります。底の浅い子どもの関心だけを引こうとするものが爆発的に多くなってきているのは、ご存知だと思います。逆に龍之介、南吉、広介、未明の作品は、ひじょうに深い。

 読んでそのときにはわからなくても後で効いてきます。もし、都知事だった舛添さんが「杜子春」を読んでいたら、あんなことには・・・。もし安倍さんやオバマさんが「野ばら」を読んでいたら少しは戦争のことを・・・。凶悪事件の犯人が「蜘蛛の糸」を読んでいたら・・・。金儲けだけを考えて不幸になった人が「赤い蝋燭と人魚」を読んでいたら・・・と思うわけです。楽しいこともハッピーエンドもいいけれど、それは幼児の時まで。だんだん成長したら、深い物語を読まないと・・・不幸な人生を送る可能性も高くなってしまうと思う・・・と、結論を述べました。
 その後の質疑応答では、反論も2,3出ましたが・・・(笑)。

おはなし会9回目 対論「戦争のできる国」
平和ミュージアム館長・春日正伸 山梨大学名誉教授

 山梨平和ミュージアムの創設にかかわり、館長をつとめていらしゃいますので、この回は戦争についてお話をお聞きしました。まず最初に講座の来場者の方々全員に、私が「戦争(太平洋戦争)でイメージすることは何か?」と質問をしました。次々と「原爆投下」「空襲」「食糧不足」などと答えが出てきましたが、これはみんな「被害」で、多くの方が戦争を被害の立場でしか見ていないことがわかりました。二人だけ南京虐殺など加害を挙げましたが・・・
 (以下、対論の要約です。)
 春日先生の山梨平和ミュージアムは、甲府空襲、甲府49連隊(山梨大学の位置にあった)など太平洋戦争に関わる資料を収集・保存・展示して、戦争の事実と実相を次世代に伝えていくことを目的に創設されていますが、先生はまず、中国の撫順(ぶじゅん・炭鉱で有名な町)で、日本軍によって住民が何千人も殺された話から始めました。聞いているわれわれは全く知らない知識です。実際にその町を訪問した映像も流してくれましたが、こんなことがアジアのいたるところで起きていたわけです。
 小さな町・甲府の空襲でさえ、千人以上の死者、それ以上の傷者を出していますが、この悲惨な状況を後世に伝えるためにも先生はさまざまな活動をされています。しかし、同じことを日本も中国の各都市で行っており、戦争参加国は規模の大きい爆撃や戦闘をしています。ドイツはゲルニカ(スペイン)を徹底的に空爆、米英軍はドイツ・ドレスデンの町がなくなるほどの爆撃をしました。こうした戦争や人間性の崩壊をもたらす惨劇は、どう記憶しておけばいいのか、戦争は防げるのか、次世代を戦争に駆り出さないために我々の世代は何をしたらいいのか・・・死の商人である武器の売買が戦争に結びつく・・・その背景には何があるのか・・・・経団連が武器輸出をして儲けようとハッキリ言う時代になっています。こういうことを止めないと、われわれの子どもたちがまた悲惨な目に合うのですが、戦争体験のない世代の政治家や企業家は目先の利益のためにまた同じことを繰り返そうとしています。
 昨年は、国民が「あれよ、あれよ」いう間に安保関連法案が通過してしまい、裏では着々と事を起こす準備も進んでいます。「戦争ができる国」・・・これはみなさんも深く考えねばならない重要なテーマかと思います。真実を知らないと歴史を捻じ曲げる人々によって、またいつかと同じ状態になりかねません。こういうことを春日先生は熱く語ってくださいました。戦争する、しない・・・ほんとうは、国民である私たちの問題でもあるということも・・・。
(増ページ6月号一部閲覧)



(2016年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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