ブッククラブニュース
平成28年7月号新聞一部閲覧 追加分

たかが絵本、されど絵本
(3) 2歳前半の読み聞かせ

 2歳になると、言葉をあまり発しない子でも、もう生活上で使う言葉はほとんど頭の中に入っています。1歳の後半から、この状態は急速に進んでいくのですが、あまり言葉が出てこない子も多いのです。とにかく、ものすごい速さで覚えていきます。
 ブッククラブの配本は、2歳半までに選書も大脳旧皮質の発達に必要なものを成長に沿って入れていきます。この流れは配本を生後十ヶ月のものから見ていただければわかると思います。とにかく1歳後半から3歳前半までは言葉の獲得速度と量がハンパではない時期です。それが、TPOに合わせてちゃんと理解しているのですからすごいものです。この時期には何度も何度も同じ本を読んであげてください。それが結果的に生活上の言葉の豊富さとお子さんの心の安定をつくりあげるのですから・・・。

成長後の安定をつくる時期

 この時期の心の安定がないとやがて読み聞かせからも離れますし、とうてい読書まで行くことはないです。忙しい時代で、毎日の読み聞かせは大変かもしれません。しかし、ここが「たかが絵本、されど絵本」なのです。読み聞かせは子どもに気持ちの安定を与える時間です。だから、子どもは、この時間が好きなんですね。
 さらに読み聞かせ以上に必要なことは、子どもが「快い」と感じる環境を整えることです。静かな環境、一日のうちに目まぐるしく次から次へと変化しない環境、子どもにとってはよく見知った特定の保護者がいる環境・・・こういうものが「安心」をつくり、そこから出る快い感覚は脳幹へ伝わって旧皮質の安定した成長を促すといわれています。絵本の読み聞かせなどは、この安定をつくる二次的な方法で、もし、こういう安定的な環境が生活の中にあれば絵本の読み聞かせなど不要だと言っても過言ではありません。この情緒をつかさどる脳の部分が正常に育てば、大人になって異常行動をしたり、精神崩壊を起こしたり、オタクになったり、カルトにはまったりしないとも言われています。重要な時期なんですね。ここが・・・。
 私が、この時期の子どもに読み聞かせが大切だと思っている理由は、現代の子育てであまりにも子どもの置かれる環境が激変しているのです。この影響は、もう社会的な事件や風潮にも出てきていますよ。

心のオアシス・読み聞かせ

 0歳児あるいは1歳児が一日のうちにかなりの時間、車であちこちに移動したり、一時預かりの形で見知らぬ大人の世話を受けたり、家にいてもTVやDVDがつけっぱなし・・・などの状態が日常化してしまうところで大脳旧皮質の発達に影響を及ぼす可能性が出てきます。それならば、確実に見知った保護者が安心感を与えてくれる「読み聞かせ」という時間は短時間でもとても重要になってきます。さらに発達に適合した絵本なら子どもの「快さ」は倍増することでしょう。いわば「読み聞かせ」は現代のゴチャゴチャとしたあわただしい環境の中のせめてものオアシスなわけです。
 また、ときおり、この時期に子どもの発達に合わない本を与える親を見かけます。子どもはいくら良い本でも、合っていなければ右から左に聞き飛ばし、楽しむことは薄れます。親が読んでくれる快感だけの時間にしてしまってはもったいないですよね。

やはり発達に合ったものでないと

 このため配本は標準的な発達に沿って組んでいきます。さらに、いつも述べていることですが、幼児(とくに四歳以下)にとって借りてきて読み聞かせた本はほとんど頭に残らないのです。3歳以下なら本を返してしまえば内容も頭から消えてしまいます。数多く借りれば借りるほど消えます。4歳児でも「ああ、それ知っている!」「ああ、これも知っている!」というだけで内容を味わうことなどできないのが一般的です。
 大人ならいざしらず(いや大人でもそうですが)、本を借りてきて一度読んだら返す。実利的なことならともかく、ほとんど一度で完璧に内容を理解することはできません。何度も読むことで、段階的に理解できていくものです。20年後に読んで、「なんだ!これはそういうことだったのか!」ということはよくあります。やはり、手元に置いておかねば無意味。まして、幼児の本を借りてきて読み聞かせるなど文字通り「お話になりません」。
 こういうと、本屋が売りたいので言っているという人もいます。よく考えてください。いくら売りたくても普通一般の子育てしている親は買いになど来ません。都会の児童書専門店ならともかく、こんな田舎の店に子どものために本を買いにくる親などいないのです。でも、そうでないお客様に支えられて36年間やってきました。だから「売りたいから言っている」のではないですよ。きちんとものを考えている親は、借りて読み聞かせるなどというセコいことを考えずに、ちゃんと買うのです。これは、これは、子どもの成長をちゃんと考えればあたりまえのことなのです。(つづく) (増ページ6月号一部閲覧)

想像力をつけるために

 さて、みなさんのお子さんの夏休みはいつからでしょうか。今年はどこに行きますか。テーマパークもいいけれど、すべてセッティングされたものより日ごろ見られない「真の闇」とか「星が多い空」とか「海に沈む夕日」とか・・・心の奥に残るような体験もしたいものです。  夏休みは、そういうユニークな体験ができる特別な季節でもあります。
 山や海・・・自然界へ出かけるときには読書など、どうでもいいわけで、やはり、目と耳と肌で自然は楽しみたいものです。
 こういう自然体験がないと本の中の情景を想像することもできません。書を止めて山や海に出かけましょう。じつは、子どものころの体験記憶と読書するときの想像力はひじょうに関係があるのです。絵の補助がない物語、・・・つまり児童文学や小説は文章ばかりです。ここから何を読み取るか、当然、想像力が必要となります。アニメや漫画ばかりで育つと絵がありますから、それで想像力は限定されて、大きくなりません。文章から想像するためには、どうしても幼少期から、さまざまな光景・風景を見ておく必要があります。

夕日から

 我が家の海水浴は日本海が多かったのですが、海岸で見た夕日は信じられないほど美しく心に残りました。子どもたちの記憶ではどう焼き付いたのか・・・これも古事記の「国譲り」の場面などを読むと、夕日が目の前に浮かび上がります。
 小学生のときに林間学校で郊外の山の中の小学校に泊まりました。この時の夜の暗さ、明かりがまったくなく、鼻をつままれてもわからない闇がありました。これはいまだに記憶の中で鮮明に残っていて、夜の散歩のときに山際の暗闇を歩くと思いだします。体験的記憶は、何かの折にふと湧き出しても来ます。ある風景を見たときに何かを思い出す、感じる、ある匂いを嗅いだ時に何かを思い浮かべる・・・・人間の五感はそういう不思議な作用を引き起こします。

風景におどろいたときにも

 雨が大降りのときに駒ヶ岳・千畳敷に上ったら、雨雲ははるか下の方で、美しい青空の中に剣ケ峰が見えた感動は、山岳小説を読んだときにいつも心の中に浮かんできます。あの美しい風景はたった一時間の滞在でも忘れることがありません。
 こういう体験は、前述のように視覚だけではなく嗅覚(匂い)や触覚でも記憶できます。そして、それは言葉(文章)から世界を広げる想像力としてひじょうに影響力があると思うのです。
 さらに、想像力というのは、先を見る力にもなり、危険を察知する能力にもなり、物事を企画する力ともなります。大人になってからの体験では、遅いわけで、やはり小学生くらいからがいちばんいいでしょう。
 暑い夏になりそうですが、ぜひ時間を取って、自然に分け入ってみませんか。

幼少期の体験

 この時期になると、虫を追いかけていた少年時代を思いだす。以前は「かみきりむし」が庭に出始めると虫を採る少年団が動き回ったが、いまは、そんな子どもの姿が見られない。私の少年期では、カマキリとか蛍という収集したくない昆虫も含めて、夏休み中はトンボ、カブトムシ、クワガタムシ・・・を追いかける日々が続いた。
 当然、追いかける虫にはランクがある。トンボならオニヤンマが最終獲得目標、甲虫ならミヤマクワガタだ。シオカラトンボやカナブンなどは価値の低い虫で飛んでいても追わない。
 しかし、私たちが追うあらゆる昆虫の頂点にいるのは玉虫だった。あの法隆寺の「玉虫厨子」の玉虫である。最近でこそまったく見かけないが、私の子どもの時代にはなかなか捕まえられなかったがひと夏に一匹は取れる虫として存在していた。あの緑色が七色に輝く玉虫の美しい背中は少年採集団の憧れの的だったのである。
 虫というのは、あんなに種類が多いのに、それぞれの虫がかなり個性的な形や色をしている。あいまいなものは少ない。見れば何の虫かすぐ分かる。あとは、昆虫図鑑でさらなる細かな分類を調べるだけである。いずれも美しく輝く翅や目玉を持っている。

玉虫と言葉

 しかし、大人になってから、「玉虫色とは曖昧さ」を意味する表現で、あまり立派でない形容に使われているのを知った。つまり批判や個性的内容を取り除いた誰にでも快く迎えられる八方美人型のものを指すときに「玉虫色」という言葉を使うのである。
 政治の世界でよく聞いたり見たりする表現だが、玉虫色は「曖昧にする」という意味合いが強い。「玉虫色のコメントを発表した」とか「見解は玉虫色だった」とか、なかなか微妙な形容のこと名となる。こういうふうな使われ方がいつごろから始まったのかは分からないが、個人的には玉虫色の人間にはなりたくないと思っている。もちろん表現も玉虫色にはしたくない。ときおり、ゆめやの新聞を読んだ方が、「なんだか過激な自己主張が多いような気がしますが、いろいろな考え方があるので、あまり偏っては・・・」などと言われることがある。玉虫色の批判だが、私は答えて言う。「これは私が発行している新聞で、印刷代も発行費用も全部自費です。広告もまったくありません。だから誰に気兼ねもせずに、私の意見を述べます。それが何か・・・!」と。
 最近は、その玉虫もまったく見かけなくなった。あいまいな表現でもいいから美しく光る言葉が欲しい。しかし、見るのはクソコガネばかりである。(新聞7月号一部閲覧)



(2016年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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