ブッククラブニュース
平成29年2月号新聞一部閲覧 追加分

たかが絵本、されど絵本

F4〜5歳の読み聞かせ

 4歳代は社会性を学ぶ時期で自己主張の始まる反抗期でもあります。反抗期といっても中学生の反抗とは違って最初の自立が始まる時期なので、ただ親に左右されたくないだけの話。もちろん、一方でわけのわからないことを言ったりしたりしていても、他方では物事が急速にわかり始めています。だからこそ、内部の自立しようとする気持ちと親がしつけようとする世の中のルールの間で「葛藤(かっとう=もつれ」するわけですね。 それが、この時期の特徴。
 配本では、3歳代の物語絵本をより深化させたものを相応に配分してあります。また反抗・自己主張は批判力や疑問を持つ力にも通じるので、いわゆる特定の価値観で形成された「昔話」などもこの辺から与えると良いように思えますので入れます。3歳以前に与えると古い価値観(男女不平等や長幼の序など)を鵜呑みにしてしまって、固定が起きることも予想されるからです。
 ただ、現在では昔話でアニメ版のものが横行しているので、他の物語絵本と同じように粗悪な絵や端折った昔話は極力避けたいです。いずれ6歳でまとまった日本昔話、グリム童話は配本で紹介しますので、代表的なものにとどめますが、あまり焦って前述のはしょった内容のアニメ版でごまかしたくないものです。(これ以後は省略、詳しくはニュース増ページ印刷版で)

周囲との関係を知る

 また、この時期は協調性や周囲との関係にも関心が強まるので「もりのこびとたち」や「からすのぱんやさん」などのように家族の役割や対外的な関係をテーマにした絵本もきちんと入れてあるのでご心配なく。
 発達に応じて適切な読み聞かせをしてきた子どもは、この時期になれば内容的に深く、長いものでもけっこう聞くことができるようになります。古典的な名作などの発達に応じて理解できる長さや内容の本を性差に応じて適切に配置しているつもりです。
 4歳・・・社会性の芽生えはまず家族や身近な人間関係をつかんでいくことから始まりますね。いま、0歳児から保育園に行き、長時間保育で協調性を学んできたはずの子が小学校で学級崩壊を起こすような不思議な現象も起きています。すべては家庭、家族から始まる社会性。そのへんのことを読み聞かせ〜始めたいものです。

ナンセンス絵本がわかる

 この時点では、いわゆる社会的な常識が身につき始めているから、それに反した展開のあるいわゆるナンセンスものも、また与え時です。「おおきなおおきなおいも」「ある朝ジジジャンボーはおったまげた」「キャベツくん」などは親にとって「?」という本かもしれませんが。性差・月齢に応じて一冊は加え入れてあります。なるべくサブカルチャーものを避けながら、発達に応じた形で読み聞かせを楽しむと4歳後半からは、かなりオールラウンドな分野の本の読み聞かせが可能になります。もう読み聞かせは完全に定着した時期。好みで固まることなく多様なものが楽しめる・・・これは読書への第一歩ですね。どんなものでも楽しめる読み聞かせを心がけてください。

「本とともに過ごしてきて」

 東京都 山本幸恵さん
 姉が自信満々で薦めたゆめやさん。ゆめやさんの年齢に沿った配本プログラムに妙に納得して、すぐに参加を決めました。「赤ちゃんに難しい本を読んで頭のいい子に育てるってどうなのか」と思っていたので、ゆめやさんに答えがあった気がしました。読み聞かせのアドバイスを真面目に、大切にしながら絵本と関わっていたら、いつのまにか読み聞かせをしなくても眠るようになり、いつのまにか一人で読書をするようになりました。
 そんなかわいらしい時期もあっという間に過ぎ、生意気な反抗期小6男子になった長男も春には中学生です。いまやテレビ、ゲーム、パソコンの誘惑に負け続けていますが、ゆめやさんからの毎月の一冊は、嫌がらずに読んでいます。ゆめやさんからの本が来なかったら、毎月一冊本を読む習慣がなくなってちょっと想像力がない、さびしい大人になるかもしれないと思い、怖くなります。
 小さい頃に読み聞かせた絵本を開くと小さかった子どもの様子が目に浮かび、心がほかほかします。この気持ちは私がおばあちゃんになっても忘れないと思います。振り返るとゆめやさんの言う通り、短い時間でした。(ごくたまに)反抗的な態度をとっても数時間後に謝ってくる時は、赤ちゃんの頃からの読み聞かせが心のどこかに残っていて素直なのかな、と思います(思いたいです)。中学生になってもゆめやさんの本は読む!と言っています。本当に読むのか!?と思ってしまうこともありますが、長い目で見守りたいと思います。

学校図書館をどう利用するか

D本を読めるようになるか?

 甲府市で起きたこと・・・「働き方改革」などと言ってもほとんど中身は信用できないが、民間ならともかく自治体が「非正規職員」を軽く扱う傾向が甲府市でも見られる。昨年秋から山梨の地方紙(山梨日日新聞)が、甲府市の学校図書館司書の「雇止め」問題を何回も報じている。非正規の学校図書館司書十六名が雇用期間が過ぎたために雇止め(早い話「解雇」である)になった問題だ。この報道が繰り返されるのは、雇止めが「労働」と「教育」の両方にかかわる深刻なものをはらんでいるからだと思われる。
 行政が非正規職員の権利や待遇を考えないばかりか、司書を守る側の校長会や教員組合も積極的に学校図書館司書を擁護しないのは、どう考えても働き方改革にいちじるしく逆行しているといえないだろうか。甲府市の学事課の方針も「現職の学校司書の新年度の応募は認めない」と言っているのだから、「非正規に対して民間より自治体のほうが冷淡だ」と言われてもしかたないだろう。まあ、天下り官僚が月二回の勤務で年間1000万円の報酬をもらえる省が管轄する学校である。非正規など目にも入らないのかもしれない。

二つ目の懸念

 この問題の重要なところは、ベテラン司書の大量解雇が調べ学習などでの授業のサポートや子どもたちの読書をリードする仕事の質を落とすのではないかというものである。甲府の市内に三十数校ある小中学校の半数の司書が一気に解雇となると、図書活動の質の維持はかなりむずかしくなる。司書の仕事は子どもに本を貸し出して、書棚を管理するだけではない。授業で使う資料を用意したり、先生の要望に応じて適切な本を探したり、それはそれは大変なもので、昔とは大違いの仕事内容になっている。学力と教養の二つの力を向上させる役目も負っているといえば言い過ぎだろうか。それが雇止めで司書の質が低下したら子どもたちは、さらにまともな本を読まなくなるだろう。やはり、「経験豊かな司書を残しながら新人の司書を養成していく」という、あたりまえの雇用が望まれるのだ。

言葉が通じなくなると・・・

 例えば首相が国会答弁で「・・・訂正云々」と書かれた原稿を読めずに「ていせい、でんでん」と読んで失笑を買ったことはご存知かと思う。この水準の漢字は大学を出ていれば読めるのだが、まあ、漢字はたくさんある。私も読めない漢字がゴマンとある。その意味では批判はできないが、ゴロゴロ前科があればやはり教養がない!と思われるだろう。宮澤喜一首相は英語も漢詩も強い総理だったが、若手のA議員が「ガイチセイ」「ガイチセイ」と言うので、知らない英単語かと思っていたら「画一性」を「ガイチセイ」と読んでいたので驚いたというエピソードもある。それから見ればマンガ好きの副首相が「未曾有」を「ミゾユウ」と発音するくらいたいしたことではないわけだ。
 しかし、本を読まないと、この程度の漢字さえ読めない人が、どんどん増えて言葉がうまく通じない世の中になる。それは自治体にとっても国にとっても「益」をもたらさないことになるではないだろうか。つまり、子どもたちに、きちんと読書指導ができる学校図書館司書は重要な存在なのである。

読書は不必要・・・

 いまや忙しいスケジュールで月に1冊の本も読めない小学生が出てきている。いや、塾や習い事ばかりの影響ではない。ゲームやSNSで文章を読む力そのものがなくなってきているのである。中学生ともなれば部活と勉強でさらに読書などできなくなる。学校が意図的にそういうふうに持っていっているのではないかと疑われるほど部活とテスト勉強で縛っている。高校も同じようなもので、教室で本など読んでいると「変わった奴」としてイジメの対象にもなりかねない。
 親も親で成績にばかり目が行き、教養などメシの種にはならないのだから、まずはテストで良い点を取って!となっていく。大人になったときに無教養だとほんとうに困るんだけれど、どうも学校もあまり本など読んでもらいたくないかのようだ。
 小学校では、学校図書館が中心になって読書推進活動をしているが、中学では手のひらを返したように読書の「ド」の字も出てこない。中学の図書館は学校に合わない中学生のタマリ場となる。学校はほんとうに子どもに本を読んでいってもらいたいのだろうか。そんな疑問さえ起こる。
 勉強の成果が出ている人もいるかもしれないが、その多くは「学歴の利用で役に立っている」と思っているだけで、大人になってから、社会に出てから、ほんとうに教わった内容が役に立っているかどうかは疑問なのである。口幅ったい言い方だが、やはり本は読んでおいた方がいい。スマホから引く情報は利用者本人の教養ではない!

むかしばなし裁判 パロディ
Dうさぎとかめ

 ある時、ウサギに歩く遅さをバカにされたカメは、山のふもとまで走るレースで勝負を挑んだ。かけっこを始めると、あたりまえだが足の速いウサギはどんどん先へ行き、とうとう後ろのカメの姿も見えなくなってしまった。ウサギは少しカメを待とうと居眠りを始めた。その間にカメは休まずに進み、ウサギが居眠りから目覚めたときに見たものは、山のふもとのゴールで大喜びをするカメの姿であった。

提 訴

 競技会の公正判定委員会に訴えたのはウサギだった。ウサギは、こう申し立てた。「私は時速でいえば70km平均で走ります。山のふもとまでは15分もあればついてしまうのがふつうです。ところがカメの速さは時速0.3kmで、私の200分の1、ものすごい遅さです。私が居眠りをしたのは、ほんの2,3分ですから、どう考えてもカメが追い越せるわけがない。これには何かカラクリがあるはずです。お調べください。」
 公正判定委員会は「カメが走った沿道には係員がいて見張っていたので近道をしたという不正はなかった。報道のカメラも何ケ所かで撮影していて、いずれにもカメの走行が写っているので、何かに乗っかって移動したという形跡も見当たらない。」という見解を示した。
 ウサギは、それでも納得せず「では、カメの血液かオシッコを採取してドーピング検査をお願いします。かならずや何かの薬物が検出されると思います。」と食い下がった。
 するとある公正委員が「いやいや、それは不必要だろう。ウサギが油断で寝過ごした時間をカメがまじめに走りぬいて勝利したことを認めなければいけない。この判定をくつがえしたら公正判定員会の沽券(こけん=品位、値打)にかかわるからそこまでする必要はない。」と言った。
 ウサギはなおも反論した。「沽券とか権威の問題ではないでしょう。このコース選定にも疑惑がある。なぜ山の頂上がゴールではなく、ふもとがゴールになったのか、この選定に何か意図はなかったのでしょうか。カメにとっては平たんな道の方が有利ですよね。」
 もう一人の公正委員が色めき立って言い始めた。「バカを言うな。これは文科省主導ですべてを決めたもので、ワシらはそれに従ったものだ。カメに有利にコースを決めたとか、ドーピングとか負け惜しみ(自分の負けや失敗をすなおに認めないで強情をはること)もはなはだしい。いいかげんにしろ!公正判定委員会はこれにて終了だ。」と叫んで、閉会になった。

ウヤムヤ・・・世間の噂

 このやりとりは大手のメディアでは取り上げられず、テレビはもちろん新聞の多くも沈黙していた。しかし、ネットニュースでは流れたので視聴者からはたくさん批判が出た。
 「これは、物事をまじめにすれば必ず勝てるという刷り込みの一環で文科省はそういう言いなりになる真面目人間を作りたいんじゃない?」・・・「だいいち、はじめから勝敗がわかっているウサギとカメを競争させること自体おかしいじゃないか。」・・・・・「ドーピング検査をしないというのは何かを隠しているな。なにも問題がなければ検査したっていいじゃん。」「コースの選定はなんだかクサイね。うしろに利権があるんじゃない?」・・・などと、ツイッターやフェイスブックで騒がれていた。しかし、真相は法廷でも追及されず、すべては「藪の中(芥川龍之介の有名な作品で、誰が真犯人か不明になることがテーマ)」となってしまった。(増ページ一部閲覧)



(2017年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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