ブッククラブニュース
平成29年9月号(発達年齢ブッククラブ)

太陽フレア

 九月初旬、大きな太陽フレアが起きた。大百科事典によると「フレアの大きさは通常1〜10万km程度であり、威力は水素爆弾10万〜1億個と同等である。100万度のコロナプラズマは数千万度にまで加熱され、多量の非熱的粒子が加速される。同時に衝撃波やプラズマ噴出が発生し、時おりそれらは地球に接近して、突然の磁気嵐を起こす。」・・・とある。こんな解説、読んでも何も想像できない。何もかもが想像力を越えた数値だからだ。ただ、地球にも影響が大きいと言う。どんな影響が出るかと数日見守っていると、北海道でオーロラが見えたり、メキシコや日本など環太平洋火山帯で地震が起こったりして、たしかに言われているような現象が起きた。太陽の黒点活動の周期は11年だというが、現在のピークは2015〜17年で、2018年から収束しつつあるとのこと。ピークに影響が起きて人間の活動で何か変化があったでしょうか。2015年〜今年にかけて・・・ここがピークらしき社会的な現象はなんだろうな。子どもたちに何か悪い影響が出るようなことが、この時期進んだのでしょうか。まあ、じっくり見ればそれがなんだかわかるでしょうね。
 まあ、太陽フレア・・・なんらかの影響はあるでしょう。月の満ち欠けで海の満干があるんですから、コップの水だって微妙に満ち引きしているのでしょうね。ま、そんな微妙なことよりは悪い方向に行かないようなんとか努力した方がよさそうです。
九月・・・暑かった甲府も九月の声を聞いたとたん、秋の風が吹きはじめました。夏の疲れは出ていますが、さわやかな季節はもうすぐです。さて2学期・・・食欲の秋が始まります。みなさん、夏の疲れを吹き飛ばしてがんばりましょう。

食事は何のためにするのだろう?

 夏バテで食欲が出ない方もいるでしょうが、お子さんも含めてちゃんと食べているかな? 我が家は朝食は子どもたち以外はテンデバラバラに食べるが、昼食よ夕食は、よほどの時間的事情がないかぎり外食をしない。まして一人だけで食堂に入って食べることなどほとんどない。私は旅先でも必ず誰かといっしょに取る。
ときどきファミレスで出版社の営業の人と食事をしたりするが、一人で食べている人を見ると、なんともわびしい感じがする。一人の食事は見るからにさびしい。観察してみると、みんなスマホを見たり、雑誌を読んだりしながら食べている。黙々と食べている人もいる。しかし、食べてはいるが、決して食事を楽しんではいないようだ。
ヒトの食事は、歴史を見ても必ずみんなでとるものだった。これは、しかたなくそうなったのだと思う。およそ200万年前、人類が森から出たとき、狩りも、採集も一人ではできず、獲物を獲りに行くには仲間が必要だった。当然、得たものはみんなで分け合って食べなくてはならない。 そうしなければ次からの協力が危うくなる。
20万年前でも、狩猟採集生活は変化しないから、これは遺伝子に刷り込まれたのだろう。獣肉や魚肉は、獲った後で食べられるように加工するには手間がかかる。植物でも種や地下茎、葉や実も、そのままは食べられない。アク抜き、毒抜き、煮る、蒸すなどの調理が必要だ。ガスなどないから、火をおこすのはこれまた大変。だから、作業集団が炉のまわりに集まって食べることになる。
1万年前に牧畜と農耕が始まったが、この「狩」と「刈り」、「料理」と「食事」の本質は変わらなかった。家族が炉のまわりに集まってみんなで食べる。客も来ただろうが、ともかく、食べるときは協力者といっしょだった。
この習慣がまだ一部には残っている。協力を得るために食事をおごるという習慣だ。マスコミの人におごって都合の良い記事を書いてもらったり、あるいは悪事をたくらむときに食事をおごるのはまだまだ現代でも残っている風習だろう。これも原始時代から刷り込まれた意識だともいえる。

便利が一番?

 まあ、そういう刷り込まれたものは残るが、変化するものもある。文明が発展して、材料から加工・保存・販売までが分業になっている。分業の結果も食品として最終的に売られることになるわけで、その食品を人々は買ってきて、家で食事を作るようになる。それでも、家に「炉」は一つしかないので、調理はそこでして、出来たものを家族は炉の近くで一緒に食べる時代となり、それが今も続く。
すべての動物は何かを食べねばならないが、動物は栄養とエネルギーの摂取だけで食事の楽しさは感じていない。
しかし、人間の場合は食べることが、前述の「おごる」こともふくめて集団や社会行動でもあった。誰かと一緒に食べることは楽しいし、一緒に食べる相手がいれば、一人よりも食が進む。食事への招待はおもてなしでもある。一緒に食べることは親密さの表現ともなる。
しかし、この十年で、食事の様子がどんどん変化してきた。まず料理して食事を作る人が減ってきた。すでに調理されたものを買ってきて食べる状態だ。これを進める食品もかなり進化している。家族が好きなときに好きな物を好きなところで食べる「別食」、人から離れて一人で食べる「個食」、子どもが家に帰ってきても誰もいないので一人で食べることとなる「孤食」など現代の食生活の変化は哀しい。

会話を奪う食生活スタイル

 社会の変化もあるが、技術の発達はもっと大きく影響した。電子レンジ、冷凍・加工食品、ペットボトル・・・電子レンジは、火をおこさなくても食事ができる技術だ。
 「チン」とやってすぐに食べられるものならいいが、食材にするには冷凍やレトルト食品を作る技術といっしょの進歩となる。このようなものが安く手に入るようになれば、食事は簡単で雑になる。そして、誰もそれを期待していたわけではないが、みんなが集まって同じ時間に同じ物を食べなくても暮らせるようになったわけである。
ペットボトルという技術は、その最たるものだ。自分の好きな飲み物を持ち歩き、好きなときに飲むことを可能にした。こんなものがなかった時代には、「お茶を飲む、お茶を出す」のも準備が必要であり、「お茶の時間」は、茶道に見られるように複数の人が集まる社会的行為でもあった。ペットボトルがある今は、その必要はない。歩きながら、電車の中でも、あるいは学校の教室でも平気でペットボトルから飲み物を飲む。
食事を作る手間を省きたい、簡単に食べたいという要求は忙しさからである。その結果、電子レンジや加工食品やペットボトルが生まれたわけだ。しかし、これらの技術は、ヒトが「食べる」という行為から社会性を奪っているだけではない。人をどんどん孤立させ、自分勝手にする。食事に必要なものはかつては会話だった。それがテレビやスマホを見ながらひとりでご飯を食べる。さて、数年後、そこからどんな人類が生まれるのだろうか。(ニュース九月号一部閲覧)

頭を良くするということ

 9月1日・・・先月号の新聞で「暑い!暑い!これでは何も考えられない、何もできない!」と騒いでいたら台風で急に甲府は涼しくなり・・・かと言って、考えられるか、何かできるか、と思ったけれど、どうもできない。けっきょく頭の悪さを気温のせいにしていたようで、「自分自身を知る」こともできない状態でした。
このように「考えられない」というのは「頭が悪い」ということですが、この国では「頭が悪い」と言われることを極端に嫌うようです。それは子どもたちばかりでなく大人も嫌なこととなっています。「おまえ、頭が悪いな!」なんて言おうものなら、殴られたり殺されかねません。
知性や思考力が人間の優劣を決めるかどうかはわかりませんが、一般的には「知的であること」は現代の日本では有利ですし、学校や企業や社会は知的な人物を求めています。もちろん、親も子育ての目的は「子どもの頭を良くすること」で・・・とくに現代ではいろいろ習い事、お稽古事をさせて親は必死になります。
でも、いつも言うように「どのような人物が知的なのかあるいは頭が良いか」については、さまざまな考え方があって決定打はありません。

どういう人が頭がいいのか・・・

 例えば、不思議なことですが、世の中では「頭の良い、悪い」は、学歴や職業、資格、その人の行為、あるいは財産の多さなどで判定します。これが「知的レベル、頭の程度」などの尺度で使われていて、根拠があるような、ないような・・・。中には「私は○○大学出身」「□□資格がある」「時間50万円の講演をした」「年収3000万円ある」などが、「頭の良い証拠なのだ」と言う人までいます。
検証してみましょう。全部が全部というわけではありませんが、「東日本大震災が東北でよかった(首都だったら大変!)」と言って復興大臣をクビになった人がいますが、この人は東大法学部出身です。「このハゲー〜!」と言って日本中の毛の薄い人たちの反感を買ったのも東大出身でした。「テロ等準備罪」についてまともな説明も答弁もできなかった法務大臣は一橋大学出身です。もちろん、こういう人は数が少ないのかもしれませんが、そういう不届き者を生んでしまう体質が「〇〇大学出身を評価し、誇る」という発想がどこかにあるわけです。
けれど、私の「頭のよさ」に対する考え方は、「その尺度と知的なことはあまり関係がない」というものです。もちろん個人的見解ですが、いろいろな人に会って話を聞くと、次のような結論が出てきます。だいたい自分自身の反省も含めてケースごとにまとめたものが以下のものです。
● 話をしていて異なる意見が出たとき
頭の良い人は異なる考え方を受け入れて話の中で考えていこうとするが、頭の悪い人は異なる考えを「自分への攻撃」と感じて、単純な反論ばかりする・・・こういう人、けっこういます。男性にも女性にも。
● 自分の知らない話題に入るとき
知的な人は、わからないことを怖れす、恥ずかしいとも思わないから聞こうとする。そうでない人はわからないことがあると恥だと思うから、無知を隠そうとして話を広げない。これって、次のステージに話を進められないので、そこで対話はストップとなります。
● 人に物を教えるとき
頭が良い人は、自分に「教える力がないとマズい」と思います。ところが頭が悪い人は、「教わる方に理解力がなくてはならない」と思っています。
● 知識について
知的な人は、まず知識を大切にします。それから、その知識がたくさんあるということと知的は関係がないと思っています。知的でない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしないし、役に立たない知識を蔑視します。
たとえば、ある特定の職業の人は本(まともな本、文学書など)など役に立たないから読む必要がないと思っています。
● 人の批判について
知的な人は、「問題を正確にとらえて論理的に考えるために、あるいは深く考えていない相手の知力を高めるために批判」をしますが、そうでない人は、「相手の持っている力を貶(おと)しめるために批判」をする傾向が強いです。
「頭が良い、知的である」というのは頭脳が明晰であるかどうか、あるいは知識が豊富か貧困かということではなく、自分自身とどれだけ向き合えるか、という話です。

観光好きと西行法師

 たとえば、現代はお金さえあれば海外旅行はどこまででも行くことができます。いや月面とか火星くらいまで行けるかもしれません。世界130ケ国を訪れることもコロンブスやマゼランの時代から比べてみればたやすいことでしょう。さらにガイドブックにはとんでもない量の情報が載っていますから、それを読んで観光すればものすごい「世間通」の若者、あるいはおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんとなるでしょう。それができなければ、困ったときにはスマホを検索すればアイスランドの噴火口がリーデンブロック博士が地底旅行に出発したところとまで解説してくれるかもしれません。なにもかもお金で知識や体験が手に入ります。
 ところで、およそ1000年くらい前に西行法師という人がいましたが、いや西行ではなく親鸞でもいいし、鴨長明でも吉田兼好でもいいのですが、その人たちは隣国の朝鮮や中国にさえいけませんでした。では、彼らは観光好きな人々と比べて知的に劣っていたかというとそんなことは少しもありません。彼らは観光好きな人々が考えもしない世の中の真理とか自分自身について深く考えていたからです。彼らが考えていたことは、いまでも人が考えるうえでの重要なモチーフになっています。
 その意味では、いまから2500年も前にソクラテスという偉い人が言った「自分自身を知れ!」という言葉は、2500年間も多くの人間が自分をしることもなく生まれては死に、それでも私たちの頭があまりよくならなかったことも示しているように思うのです。
 成績と学歴/知性と行動履歴・・・最近は夏休みの宿題もネット上で販売されていて、感想文1200字 =12000円〜とか、自由研究作品=2000円〜なんてのも出てきました。習い事やお稽古事のほうがまだ自分を高める要素があるかもしれませんが、こんなネット販売の感想文やレポート、自由研究グッズやキットを買ったところで、それが知性を高めるとは思えません。この状況で勉強するってなんなんでしょうね。頭を悪くすることかな・・・。(新聞九月号一部閲覧)



(2017年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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