ブッククラブニュース
平成29年10月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本

⑤ 3歳児と絵本(1)

 3歳までの読み聞かせが何に有効か?というと「人格のおおもとになる脳(大脳旧皮質)の成長に良いからだ」と前々回に述べました。旧皮質は3歳で完成してしまうので、ここまでに安定した状態があるかどうかで、その後の個性や行動パターンが決まるというわけです。3歳でもう旧皮質はそれ以上発達しないのです。つまり3歳までの成育環境が大切だということです。
「愛されているという感覚」「自分は周囲の誰かとつながっているという感覚」「自分は否定されていないという気持ち」が人格の形成の基礎にないと成長の過程、あるいは成人で問題行動が出ると言われています。近年、世間を騒がす事件の根元には「乳幼児期(0〜3歳までの育児」が関係しているのではないかと思うものが多いのですが、高度成長で忙しかった親に育てられた子、外部に委ねられた子、虐待を受けた子……それぞれの時代の乳幼児期の結果が、起きる事件のそれぞれの本質と深く結びついていると思うのは私だけでしょうか。
 繰り返しますが、1歳から始まる読み聞かせは、子どもの大脳旧皮質の成長に必要なさまざまな良い影響を与えます。どのような読み方をするにしろ、「自分のために読んでくれている」という感覚はあるでしょうね。抱っこによる暖かい皮膚感覚、親を独占する満足感、静かでおだやかな部屋での語りかけの言葉……このような点から読み聞かせは、人格の基礎になるような部分の成長に大いに効果的なものであると考えられています。

自分と周囲をつなぐ物語

 こうした時期を経て、外部に適応し始める3歳の段階で与える本は、やはり「自分と社会をつなぐ物語」。「相手とのバランス感覚」や「自分は周囲とどういう関係にあるのか」を知る物語絵本を主に与えたいところです。「ぐりとぐら」もそうですし、「ちいさいわたし」や「よるくま」など。
 実際、そういう本は適宜、配本に組み入れていきます。「ガンピーさんのふなあそび」などはその代表。ガンピーさんの操る舟にいろいろな動物が乗り込んできて、ハラハラドキドキ。やさしいガンピーさんがうまく受け入れてくれて、舟遊びがうまくいくというお話ですが、子どもは身勝手な動物たちに自分を重ねて見ていることでしょう。なかなか楽しいストーリーですが、社会性を芽生えさせるにはうってつけの作品です。「おばけのバーバパパ」なんかも同じように、だれもが世の中の何かの役に立つことを奇想天外なスジ運びで描いています。これは、もう少し年齢が高い方がいいですね。子どもを良い方向に持っていく本はたくさんありますが、3歳はオチがあったり、展開が大きく変わる物語でも十分についてこられます。2歳のときの繰り返し主体の物語で訓練した成果ですね。だから空想力、連想力を全開させるパワーのある絵本を、逐次、組み入れます。プログラムを個別に作っていても、この時期は「絵本の佳境」とも言えます。3歳代の絵本は大人でもじゅうぶん面白く楽しめますよ。(つづく)

サブカルを再び考える(2)
本当はみんな読書や本が好きなのに・・・・!

 私は、「本を読んだり、文を書いたりすることが嫌な子はいない」と思っている。誰かがあるいは何かがどこかで嫌にさせるのだ。その証拠にコスプレの姉ちゃん、ヤンキーの兄ちゃんでさえスマホでメッセージを打っているではないか。考えなどありそうもないオバちゃんだって不倫特集のある週刊誌を読み、世の中のことなど何も考えないオッちゃんだってスポーツ新聞を読む…彼らはどこかで「より上の文を読む段階」へ行くことに失敗しただけだ。おそらく人間はもともとのところでは読むことや書くことは好きなのである。
 それはなぜか。文には文が作り出す別の世界があり、それを想像することで人は楽しくなるからである。このへんが世の大人にはわかっていない。いやいや、わかろうとしていない。とくに学校がよくわかっていない。学校の国語の基本は、どこまでいっても「読み書きソロバン」の「読み書き」である。読解も作文もお定まりでマニュアル的に「学力」を要求する。おもしろくもなんともない「お勉強」である。読書は、まず楽しくなくてはいけない。
 コギャルたちのメール文を読んで見よ。あの修辞技法の下手さ、語彙の少なさのなかで、いかにメッセージを楽しくするかばかり考えている。絵文字を使ったり、キャラを入れたり、流行語をつくったり・・・。
 言うのがはばかれるが、彼らに読書推進運動のおばさんたちが薦める古びた名作やとんでもない古典がおもしろいわけがない。それらはただ、過去において特定の人々が「名作」とラベルを貼っただけのものにすぎない。やはり本を推薦するにも「アップデート」は必要なのである。「タメになる」という触れ込みでおもしろくもなんともないものを薦められたら私だって嫌だ。当然サブカルチャーやメディアに犯された現代の少年少女が面白いと思うわけない。

しかし、楽しさにはレベルがある!

 しかし、この「楽しい」という感覚には程度というものがあり、ある人にとっては楽しいものが他の人にとって楽しくないということが生じる。教育界は、このバラツキに困り果て、読書感想文の選書などでマンガに等しいようなものまで選定するようになった。とんでもないレベルの幼児絵本を学校図書館に備えることすら行っている。それはレベルの低いほうに合わせないと公教育の大義名分がたたないからである。しようもない本で読書感想文を書いて賞をもらっても意味はなかろう。
 本を一冊も与えられなかった子もいれば、読んできてもスポーツや稽古事やマンガやゲーム、アニメやテレビなどに影響されて挫折する子もいる。もちろん山のように読み聞かせを受け、高度な読書に進んでいる子も一方ではいるが数が少ない。
 さらに読書の前には現実の類似体験が絶対必要である。言葉は想像しなくては意味がなく、想像するには現実体験が必要だ。ギャルがLINEでスマホを必死につなげようとし、絵文字で愛の告白をしようとしても、しょせん記号は記号。コンピューターのアイコンは指示伝達はしても想像力を引き起こして、いろいろなことを広げる力はほとんどない。同じように、悲しいかな彼女(彼ら)たちは、まともな本を読まないし、きちんと演劇も見ないので相手に想像力を引き起こすボキャブラリーをぶつけることができない。

ニュアンス「黄昏」と「夕方」

 言葉は、自分と他人の共通言語だが、想像は個人的なものである。「想像するには、エネルギーが必要だ!」というのは、その個人的体験が引き起こす膨大な広がりがあるからである。例えば、「たそがれ」という言葉。暮れていく時間の中の過去の個人的な体験(ここでは淋しさ)が体験できていない人間は、ただ時間的な「夕方」「夕暮れ」を示すだけの伝達言語でしかない。しかし、大きな違いがある。
 想像力の発揮にはエネルギーが必要だから苦痛にも思えるが、じつは訓練すれば容易に苦痛は楽しさに変わる。これは「読み書き」という伝達技術の訓練では無理で、どうしても実体験(少年期の遊び)がなければダメなのだ。そして、それをもとにした読書訓練も並行していかなければ獲得できないのが「楽しさ」なのである。
 読書の最初の効果は、この「楽しみ」を得ることなのである。低いレベルで、この「楽しみ」の獲得はできない。ある本をおもしろく読めるようにすること・・・果たして、それが単発のお話会や学校図書館貸出競争をきっかけにして達成できるだろうか。・・・より高度な楽しさの獲得・・・それに向けて、くだらないものを避けることで、大人が手本を見せ、その効果を見せるよりないような気がする。(新聞十月号一部閲覧)

生活って? ④

 「おはなし会Ⅱ」の第四回目は、私・ゆめやが話させてもらった。このニュースを読んでいる人ならもう何十回も聞いたというテーマ。「現在の生活が時間に追われるものになっている」ので、多くの人は「物が考えられなくなっている」というものだ。家庭でも会社でも能率を上げることだけが良いことのように思われて、完全に余裕をなくしているというような話だ。みなさん、もう耳にタコができている(笑)。いや目にイカができているかもしれない。
 時間に追われれば、読み聞かせの時間や回数も減り、それどころではない変化も起こる。前回のニュースで述べたように会話のある楽しい食事ではなく孤食となったり、人と話したり、じっくり本を読む時間さえ惜しむようになるということ。それは利便性と効率がもたらした結果である。ヒマなこと、何もしないでいることが悪いことのように見られる恐ろしさがある。

時間に追われて・・・・

 子どもはお稽古事や塾で一日の6分の1を奪われ、睡眠で3分の1を奪われ、ゲームやスマホで8分の1を奪われる。学校や園で3分の1が消える。人とじっくり交流するどころの話ではない。親は「早くしなさい!」「早くしなさい!」を連呼し、しないでいることで取り残されていく不安感を周囲にまき散らす。  世代によって消費時間はちがうだろうが、読書時間を例にとっても2001年と2009年ではかなりの差が出て、大幅に減ってきている。当然、それ以前とそれ以後ではさらに大きな差が出る。「こんなことで人生が終わってしまうのではないか・・・?」ということも考えられないうちに時間だけがどんどん経って行く。
「おはなし会」では、これを表とグラフにして説明したが、説明しながらやはり前回述べたように「人はなかなか生活を変えられないな」とも思った。
 以上が5月に話したおおまかな内容だが、じつは、3月に福井の会員からメールが来て「忙しさ」の問題をやりとりしていたら、その方が福井新聞の記事を送ってくれた。次のようなものである。
 「長時間労働で疲弊した人は新聞を読む気力もなく,物事を深く考えなくなる。少しの情報だけで自分の意見を決める。それが世論になってしまう。欧州では家族で食事をとりながら会話をしたり,広場やカフェで自由に議論をしたりする。時間に余裕があるかどうかは,民主主義の成熟と深く関わっている可能性がある(福井新聞,2017年3月20日・一部抜粋)」・・・つまり「日々の仕事で精一杯」,「知の肥やしを得ることができなくなる」ということ。この記事が「おはなし会」で話すきっかけだった。ここでは大人の話だが、同じことは大学生でも幼稚園児でも起きているのではないだろうか。
 これでは、バカが上で力を振るい始めると世の中は総崩れになるだろう。この新聞にも触れられているが,国民の読書の頻度も急速に減ってきている。とくに,働き盛りと学生の世代が減っている。しかもきちんと議論も話し合いもしないで一部はサブカルチャーに走り、一部は仕事に埋もれていく。これは危険だが、学校も会社もこの危険性について何も考えていない。問題視もしない。効率よく回すことだけが先決になっているというわけだ。
 こういう状態では、働く人間が孤立すると電通の過労自殺のようなことも起こるだろうし、子どもの世界でもイジメや燃え尽き(バーンアウト)がどんどん起こる。デマにも乗せられ、詐欺にも遭いやすくなる。気がついたら最悪の状態になっていたということだけは避けたいが・・・もう手遅れなのだろうか、それとも改善ができるだろうか。(終)

私の好きな一冊
⑥ 「風が吹くとき」 レイモンド・ブリックス

 いまの時代、高齢者の電話詐欺から始まり、国の経営までウソや欺瞞でいっぱいである。しかし、この国は、正直でまじめで善良な人が多い。「正直でまじめで善良が悪い」というのではない。正直、まじめ、善良は大切なことだ。だが、「疑問を持つことは悪い」「言うことは聞いていた方が賢い」という教育をどこかで刷り込まれてはいないだろうか。「さからうと損をする」「何か言うとロクなことはない」と小学校の時から雰囲気的に叩き込まれてはいないだろうか。もちろん、おとなしくしていてもかまわない。
 しかし、それが利用されるのが怖いと思うのである。「ミサイルが飛んできたら頭を抱えてしゃがむ」・・・こんなバカなことがまじめに練習される・・・その裏にウソがあることくらい見抜かねばまずいだろう。ゴマカシをする人間には、ゴマカされる側がバカ正直でクソまじめなほうが都合がいいからだ。上は平気で下を騙(ダマ)す。それを知らせてくれる重要な絵本が、この「風が吹くとき」だ。この主人公の老夫婦は何一つ悪いことがない善良な人間だが、だまされてひどい目に合っている。同じことが繰り返されないように、どこかで一度目を通してほしい大人の絵本である。

正直者は損をする?

 レイモンド・ブリックスといえば一番有名な本は「さむがりやのサンタ」だ。これはブッククラブでも子どもに人気のある絵本で、人気では配本中で五本の指に入るもの。予想外で型破りのサンタクロースというのが子どもに受けているのだが、よくよく読むと、このさむがりやのサンタのおじいさんの物の見方がわれわれにも必要ということがよくわかる。でも一般的な日本人は嫌いな物の見方で、まじめで正直なお母さんから、「こんな、不平ばかり言って、イヤがりながらプレゼントを配るサンタなんて!」という話も出てくるが、子どもには受ける。
 それは子どもの方が、大人社会が尊重している「まじめで正直なもの」がウサンクサイものだということを直感的に感じるからかもしれない。まじめで正直・・・言葉上では否定できない。しかし、そのまじめで正直は「ダマされる」要素の代表なのではないだろうか。
「風が吹くとき」では、まじめで正直な善良そのものの老夫婦が上からの情報を真に受けて悲惨な生涯を終える話である。絵本としてすごい本だと思うが、ブリックス独特の国家観や情報を信じない生き方が見え隠れしている。こういう絵本はそうそうない。日本製ではなかなか見かけない。だから「私の好きな一冊」になったというわけである。

⑤ 心と言葉

 心を伝える言葉といっても言葉だけのものもあれば、文学だけではなく演劇や映像の中の言葉もある(前回の「タイニック」「チャーリーとチョコレート工場」のような)。  また画集や図版などの解説文、絵画といっしょになった詩などの言葉もある。言葉が気持ちを伝達させる分野は広い。
 しかし、単純なマニュアル文や伝言メッセージは別として、多くは自分の考えや意見、生活雑感を伝えるものだ。たとえば、その究極は「絵本」で、子どもにとって絵の補助は想像力を高めて、作者のメッセージを理解するのに好都合なものとなる。作者や親などの大人から子どもに伝えたいメッセージでもあるのだ。
 また、心を伝えるので昔から行われているものは「手紙」で、ここでは前回述べたラブレターに代表されるように、いろいろなものを伝えるとても良い手段だ。
 その反対は、選挙などで候補者からメルマガや個別のメールがやってくるが、どうも味気がない。ネット通販のメールなど完全に自動返信式の定型文で、そこに温かみなどないことは誰もが感じ取れる。メッセージの意味は分かるが、相手とつながっている感じがないのである。一回電気を通したものはダメだというが、かなり相手に特化した文章を送るか、個別に伝えるかでないとメールでは気持ちが伝わらないような気がする。
 私がブッククラブをネット通販化しなかったのは、客数が増えればネットでは丁寧なコミュニケーションができなくなり、こちらの、あるいはお客さんの心が言葉を通して響いてこなくなるからである。

アナログな交流と交信

 例えば、私は発送配本している方々にはすべて振替用紙が届いたときに返信をする。返信率は120%である。ほとんどは絵本の絵柄のある絵葉書で返信を書くが、何も通信のない方には季節のご挨拶を定型文で、何かお便りがあれば字が下手くそだけれどものすごい速さで返事を書く。それで交流が高まり、心が通じれば、それに越したことはないので面倒で手間がかかっても手書きという方法を取っている。
 すると、あるていど交信関係が繋がってくると、お客さんのほうからも手紙、はがき、FAX、メールが来るようになる。もちろん手紙には手紙で、メールにはメールで返す。最近、「おもしろいなぁ!」と思うのは、いただく手紙やハガキに自筆どころか自分で描いた絵を添えてくれる人が増えたことだ。上は宮城と岡山の会員のハガキだが、絵による説明と感想はこちらの心を打つものがある。私だけにこんなに丁寧に絵を描いてくれているかと思うと感動だ。この忙しい時代に、こんなに丁寧で細かい絵を描いてくれるのだから、その気持ちが伝わる感動なのだと思う。

若いお母さんは絵が上手

 私は、どうも絵が下手で、ゆめやはイラストレーターや挿絵画家をとても雇えないので、新聞やチラシのイラスト・挿絵は自分で描かねばならない。とくに人の顔の表情が一番むずかしいので、すべて後ろ姿で描く。もう30年以上、後姿ばかり描いている。会員の方は、絵を見ただけでゆめやの新聞とわかるだろう。似顔絵は模写したものをイラスト化するよりない。どうも絵は苦手だが、最近の若い人たちは子どものころからカンガやアニメの影響があると思うのだが、絵が上手である。上の会員(石川県)の絵のように、絵が手紙の一部分だが、体験したことが図解で描かれた部分があり、よくお祭りの様子がわかる。図鑑などより個性的な説明で、図鑑・事典のコピペではない個人の体験の温かみがあるのでこれもまた心に響く。

絵の上手な人はうらやましい

 とにかく、電子画面ばかり見ていると温かみを感じないので、紙に手書きで描かれた絵、文章に接するだけで気持ちまでフワリとなる感じがする。楽しい。
 絵に慣れている人はササっと描いてしまう。毎回カットで入れさせていただいている堤春生さんの児童画(左)はフンワリ感が漂う暖かなタッチの水彩画で、チョチョっと筆で描いてしまうらしい。それもそのはず、この方は本職は油絵画家で、この絵とはまったく違う重厚な油絵を描く。それもカンバスではなく、古い乾燥した木の板に描くのだ。プロの画家なのだ。
 絵本を取り扱う限り、絵は描けた方がいいが、昔から絵は見るもの、わかりやすくなる手段としか考えたことがないので、描く技術を磨く努力をしないで来てしまった。
 すべてを絵で見るということに抵抗があったのかもしれない。
 ただ、心は絵から感じて、そこからまた言葉が生まれてくることがあるので、それはそれで素晴らしいことだと思う。
 例えば、ここのお月見の満月を見ながら、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という和歌が浮かぶ。驕りを表した藤原道長の歌だ。こういう歌を見ると(文字だからね)官房長官記者会見で果敢に質問する女性新聞記者・望月衣朔子さんの姿が浮かんでくる。まさに驕った者にとっては「この世をば我が世とぞ思ふ望月の質問すべて無しと思へば」という歌になるな、なんてパロディも浮かぶ。月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月・・・今年の仲秋の名月・・・晴れるといいですね。

天と地

 秋は自然を見る季節、紅葉、山、海、空、・・・
 満月にはお月見だが、今年の十月の新月(10月21日夜)にはオリオン座流星群が見られる。見られれば感動的なスペースショーになるだろう。2001年の獅子座流星群を見たが、あれは無数の流星痕が尾を引いて空に残り、まさに一大スペクタルだった。獅子座は見つけにくいが流星群ははっきり見て取れる。星座盤や星座図を持ち出して位置を確認してからでもいい。子どもに星座を教えるいいチャンスでもある。夜空は不思議に満ちている。
 星空を眺めていると人間が地球上でやっているイザコザなどまったく小さいものに感じる。地球が核戦争で破滅しても星空は何の変化もなく残ることだろう。しっかり自然を見て育った子どもはそういうこともよくわかるようになると思う。夏から秋へ・・・自然は変わっていき、あらゆるものごとも変化する。猛き者もついには滅びぬ・・・1000年も前の言葉が今も通用するのは、自然のことだから。10月21日は晴れますように。

偏と字

 秋は読書の季節でもある。会員の皆さんは、本は日ごろ読んでいるのだから秋の夜長は辞典を広げるのもいい。それもなるべく電子辞書を使わないで、ページをめくりながら、いろいろな字や言葉をさがしてみたらどうかと思う。例えば、左の雲が三つ、龍が三つ集まって一字の漢字は日本で一番画数の多い漢字だ。84画もあり、「たいと」と読む(大漢和辞典)。もちろん造漢字らしく、名前で用いられたとか言われているが、実際に使われた形跡はない。雲が龍を呼ぶ。龍が雲を呼ぶ・・・なんだか想像力が湧いてくる。諸橋大漢和辞典は「四角号碼」という独特の引き方で引くこともできる。0から9までの10種類を四隅の形状により割り当て、附碼を横画数とする方式で、漢字を引くことができる。これも辞典ならではのもので、電子画面ではおもしろくもなんともない引き方となる。
 ところで、上の右の文字は、世界で一番画数の多い漢字で「ビャン」と読む。これは大漢和辞典には載っていない中国系の漢字だ。それにしてもあらゆる偏とつくりを組み合わせたような漢字・・・中国4000年の不思議から生み出されたものである。文字の世界も不思議に満ちている。(新聞増ページ一部閲覧)

なぜ本を読まねばならないか
ふつうの人間を育てるひとつの方法

■いまの物の価値■

 現在のような市場原理の社会では売らんがために世の中に悪影響を与えるものでも規制が緩和され、消費者は価値判断の基準がなくなります。この流れの中には個人の自由が無制限に広がっていることも見逃せないです。本来「価値」を基準にして選択されるべきものが、個々の感性やブームの影響を受けたいい加減な基準によって行われるようになります。
 この結果、ごく単純な「好き・嫌い」「かわいい・かわいくない」「楽・きつい」「合理的・非合理的」というものに代表される勝手な選択が行われ、「なんでもあり」という状態になっているのが一般的傾向であるといえます。ここでは、もはや「いい・悪い」の判断も働かずに一方では「個性的選択」という名のもとに乱雑な選択がされ、他方では流行に乗せられるだけの消費となります。教育さえ消費者を引き付ける目玉で行われている始末です。
 これは選択対象が目を引けばなんでもよいという現象を引き起こしてきて、物の価値がどんどんなくなることも意味しているといえるでしょう。この背後には、「それぞれ勝手な大衆の選択を認めなければ、自由を否定する側に回ってしまう」という、ひじょうに深い問題が横たわっていて、なかなか表立って、「ふつう」の、「自然な」選択基準を示すことができないむずかしいものが出てきます。

■本も消耗品に■

 これは知的消費財でも同じことが起きています。市場原理では本であろうが映画DVDであろうが、それそのものには何の意味も価値もなく、とにかく売れて儲かればいいのです。それが目的になっていますから商品に思い入れなどがないほうがいいというわけです。売り手にもですが、買い手のほうにもそういう風潮は影響をしてきます。こうなると作り手は売り手といっしょになって、いかに目を引くか、いかに手に取らせるかということに腐心します。
 ただ、こういう考え方もあります。物にはそれ自体に価値があるかどうかは相対的なもので、例えば骨董は価値を感じる人には価値があり、感じない人にはない、ということとなるので、とにかく売れればなんでもいいのだろうという論です。たしかにイエスの聖杯も見方によれば「汚らしい古い器」で、ニトリで売っているコップのほうが価値があると思う人もいるでしょう。これは卑弥呼の円墳が発見されても宅地造成者にとっては、なるべくなら平らにして売ってしまいたいと思うのと同じです。
 これが歴史形態学的には「大衆の無意識」を生み、物から何も得られなくしてしまうのです。本の内容はいかに知的に高度なものでも「情報」にすぎなくなり、これは映画や音楽媒体でも同じで内容そのものよりも集めること観たこと、知っていることに力点が置かれるようになります。
 だいたい昔の人が聞けば「知的消費財」という熟語の意味もわからなくなるでしょう。知的なものが消費されるこということ自体に違和感が出るからです。いま、書店に行けばあらゆる分野の本が並んでいます。これはあらゆる産業が独自品種を作って売るのでは利益が出ず、「よろずや」的になんでも扱うことで利益を上げようと言うのと同じです。書店にとってはプラトンの全集より人気ライトノベルのシリーズの方が売れるという点ではライトノベルに軍配を上げます。夏目漱石や芥川龍之介の単行本より村上春樹や東野圭吾のほうが売れるので置くわけです。
 それはコンビニが老舗の和菓子より客受けする色や形の工場生産の和菓子を置くのと同じです。物がこういうふうに見られるようになると、じつは物が人に影響を与えて、人も平均的で見た目が良く、それなりの妥当性があればそれでいいようになります。これは学校教育を見ていると個性より、みんなと同じを目指していることでわかるでしょう。

■教育も消費のひとつ■

 学校教育も基本的には前回述べたように明治以来の立身出世が目的にありますから「偏差値」という目標にとどまらざるをえません。前回、触れたように立身出世のために良い大学に入り、有名企業や役所に入ることが一般的には成功なので、それをクリアするための目安である学校の成績=偏差値が目標になります。ここでは、個人の資質に係わる「人間性」とか「善性」とか「相互扶助」の気持ちとか「惻隠の情」などは一切考慮されません。じつは、こういう資質こそ社会的に生きていく重要な要素ですが、実際には成績を上げるため、偏差値を高めるために教育投資が行われているのが多くの家庭の方針でもあり、学校のするべきことになっています。しかし、いまや偏差値は人間の質とはまったく関係ないか、正比例しない尺度となりました。
 しかし、近年では少子化で誰でも大学に入れるため、一方で差別化のために相変わらず無意味に偏差値を高めることが推し進められていますが、他方では、それこそ何でもありで進学できる状態があるので大学生の資質の低下が顕著になっています。偏差値は、1回目のところでお話したように「記憶」がすべてです。答えを丸暗記すれば偏差値は上がります。このことは、学年で一番のビリギャル(ギャルで生きていた娘が)、暗記に挑戦して慶応大学に入ったことで有名になりました。

■敗者復活?■

 また有名な話では、大平光代弁護士は暴走族上がりのうえ、極道の妻となり、発奮して司法試験を受けて暗記一辺倒で合格、弁護士になっています。さらにものすごい低い偏差値でも東大を受けて合格するマニュアル本・・・これらの本は、暗記の仕方が大部分を占めています。こういう履歴はニュース価値としては取り入れられますがギャルも極道の妻も初めからならないほうがいいのです。ふつうでないことがもてはやされる好例かと思います。
 かと、思うと行く高校がなかったような子が留学・スポーツ・一芸などの入試でけっこうな大学に入れると言う事態も起きています。ここでも、なんでもありは進行しています。
 もっとも少子化は、ものすごい大学を生み出しています。
 スマホさえあれば4年間62万円の学費で、通学する必要もなく、すべてスマホで講義を受け、学位を取れる・・・究極のユビキタス教育ですが、もう学歴がお金で買えますよ。大安売りですよ!と言っている状態になっているわけです。
 再度、言っておきますが、ギャルはどちらかというとならないほうがいいのです。さらに極道の妻などまったくならないほうがいいのです。なぜ、あまり成績の良くないまっとうに生きてきた子が評価されず、慶応大学に入った不良娘が評価されるのか、これが現代の日本社会の価値観倒錯だといわれてもしかたのない事態ということでしょう。

■頭の良さと成績の良さ■

 では、大学までに習ったものが、その後どのくらい役に立つか、あるいは、そういう実用的な考え方ではなく、どのくらい人間の成長にプラスになっているか・・・・を考えるとかなり問題が出てくるように思います。最近、大学生と話をしても、あの高度なセンター入試をクリアしてきたとはとうてい思えない。ごく基本的なことさえ知らない人が多く、このため話が進まないことが起こるようになりました。塾の勉強、受験勉強・・・これが学歴だけを形作ることになり、学歴だけで判定されるようになった時、人間の質の劣化が起こります。よく、「あの人は、○○大学を出ている。」「あの方は□□の資格を持っている。」という語り口をする方がいますが、それが人を判定する基準ならさみしいものがあります。
 頭の良さと成績の良さは別物で、当然、人の良さもそれとは関わり合いがないと思われます。「○○学部で△△を学んできた」とか「どういう方向の考え方をしている人か」という見方がないのもちょっと問題でしょう。しかし、前述の学位をスマホ受講で取れるという状況になると、もはやこれは誰も学歴などでは判定できなくなります。創造する力がなければ人間は、マニュアルでしか動かなくなり、さらにはマニュアルがあっても動けない状況になるかもしれません。教条主義というか上位下達主義というかそういう環境でないと生きられなくなってしまいます。

■衰退への道■

 一つの国が衰退していく原因は、こうした官僚化(学歴や職歴だけで判定する見方が支配する)が原因であることは歴史の通説になっています。いくら教育改革をしても人間の質を高めることが行われない限り、個人個人の遺伝的な「善性」に頼るより方法はなくなります。
 頭の良さは必要かもしれませんが、これとても、じつは人間が社会で生きていくうえで絶対条件ではありません。これも3回目で述べたことですが、近代の教育が「功利主義」を目指したあげく、目的が立身出世・・・平たく言えば高給を取り、責任を取らず、地位を上げ、人格を上げない・・・ということになっているからだと思います。これは教育がその上に達成目的として「社会倫理を保つ=人格」を置かなくなったからでしょう。
 さらに2回目とその補講で述べたように日本人全体がテレビなどから始まるサブカルチャーの影響を受けて価値観を消失させ、その影響で人格崩壊まで起こしている現状もあります。

■どういう基準で人間を育てるか■

 子どもが生まれて親になると親は子どもに期待をかけます
 しかし、その子育て観はひじょうに曖昧で世間一般の流れに乗るだけということが多いようです。
私も自分の子どもが生まれたときにどうしようかと考えました。立って歩き始めるころまでには子育ての方針も決めなくてはならないだろうと思っていました。そして、ほんとうに立って歩いている子どもを見たとき、『これだ!』と思ったことがあったのです。

■人は進化を再学習して生まれる■

 子どもは一歳前後で立って歩く。それまでは、ハイハイです。つまり、生後一年で進化の歴史から見れば直立原人になるわけです。そういえば、胎内にいる十か月の間に子どもは単細胞生物から多細胞生物に……エラのある魚類からだんだん高等な動物に……いわゆる進化を繰り返すということははっきりわかっています。誕生時もまだ人間ではない。哺乳類にすぎないし、四つ足歩行する時期だってかなり長いではありませんか。
 世界や物事が分かってくる時期もある。なめたり、しゃべったりする認識から、目による高度な判断まで、生まれて一年くらいで行えるようになる。問題はここです。直立歩行できる人間にまで達するのが生後一年。それ以降は人類の歴史なら文化獲得の時代です。
 ところが親の考え方や生活行動のパターンによって、子どもの性格や行動は変わってしまうことも知られています。生まれて直立歩行するときまでは「人類の進化」を繰り返すのですが、じつは、直立歩行しはじめたころから親の影響が出て来るのです。すべては真似から始まりますから。

■人類の進化と宗教や哲学は参考になる■

 子どもを育てようとするとき、「何か良いものを与える必要性はあるのではないか」ということは、親になれば思います。たいていの親は・・・。
 スポーツ的なことばかりに力を入れるとどうなるか、記憶練習ばかりさせるとどうなるか・・・世界の歴史でも長期的に残る文明は、戦える力、高等な宗教や思想、現実に対応する高度な技術を持っていることが知られています。そこの文化の発展段階に応じて無理のない『速度』で自己表現をしていくと、それなりの長い歴史を持った文明ができます。
 それでは、その高等な宗教(キリスト教、仏教、イスラム教、儒教・・・)や多くの哲学は何を言ってきたか、それを大まかに読み解くと「相手を愛せ!」「悪いことをするな!」「情け深くあれ!」「お互いに助け合え!」というような善を教えています。「欲をかいて物をたくさん取れ!」とか「他を出し抜いて自分が一番になれ!」「罪はみんな水に流してしまえ!」などということはまったくありません。哲学も「自分とは何か?」「世界とは何か?」をいつも考えて、それなりの思想を出してきたのです。

■ひとつの試みですが・・・■

 (資料1参照 発達段階に応じた絵本や書籍の一覧表です。申し訳ありませんがWEBでは公開しません。これで仕事をしているものですから)説明上で回覧しますが、説明があってもよくわからないと思います。とにかく、子どもが発達し始めて、それ以後をこの表の進み具合に合わせたものが発達段階に応じてふつうの人間を作る基本となっています。)
 もし、子どもをそういう形でバランスよく育てたいのなら、やはり子どもの発達段階に応じて、それなりの速度で、その段階なりの対応をしていく必要があるのではないか、そう思ったことがあります。それも、良いと思われるものを選んで・・・。

■ふつうの人間に育てる■

 『赤ちゃんでも人格を尊重して自由に育てる』などという考え方もありますが、相手はまだ哺乳類か原人なのです。世界がどういうものなのか教える役目は、やはり親にあるでしょう。過去の例をたくさん見て、良いものを選ぶ。
 世界が過去を教訓としてより高度な文化を達成してきたのと同じに、自分の子に安定した人生が送れるように努力する子育て観が必要のような気がします。過去を見ないと同じ過ちを何度でも繰り返してしまうのです。同じことは子育てでも言えるでしょう。誤った子育てをすれば社会規範が薄くなっている現代では、かなりの失敗を生み出す可能性があるのです。
「結婚したら子どもをたくさん産め!」「お国のためになるように・・・」などという、ついつい地を表して時代錯誤の発言をする政治家もいますが(2015年9月29日 福山雅治の結婚に関連してこう述べた菅官房長官)、こういうのも歴史を教訓としない人の発言です。それ以上に、歴史的事実をなかったことにする総理大臣もいます。
 おそらく、今の偏差値教育のような無目的な教育では何も育たないし、異常の方が起こりやすいでしょう。実際、前述のように昔よりはるかに難しい入学テストをクリアした者が、自分の頭で考えることもロクにできないことをみればわかることです。それだけならいいのですが、妄想や異常行動まで起こっているのは2回目の「おはなし会」の内容でじゅうぶんご承知のことと思います。どこかで原因を断たなければダメだと思うのです。
 私は子どもたちが歩き始めたころに本を読み聞かせ、発達に応じてそれに応じた選書してきました。塾にも高3までやりませんでした。子どもは、成長してから、自分で読む本も選ぶようになりました。もちろん、この親の子ですから大した人間になったわけではありません。ごくふつうの人間になり、今ではただの親になったにすぎないのですが、ひきこもりや逸脱した行動はしていません。大人になり親になって、今は、自分の周りの現実をどう処理するか、その技術の獲得に忙しくなっているはずなのですが、ふつうの人間であることに間違いはありません。おそらく今後もふつうでいくでしょう。歌手やタレントになりたいとかスポーツ選手になりたいとかいう無用な夢や希望は持たせなかったからです。天才や英雄などになれるわけもありませんが、真の天才や英雄は育てなくとも自分でそうなっていくものです。ふつうの親である私たちは、そんなものは目指さず、子どもを悪いことをしないふつうの人間にすればいいのではないかと思います。

■バランスよく考えるふつうの人に■

 そういうことを考えて、さまざまな世界や考えが描かれる本というものを媒体にして壮大な実験を試みました。
 発達に応じて、不自然なものを入れず、どのくらい子育てに反映できるか・・・・これをブッククラブ配本という仕組みで多くの子どもで実験してみることにしました。会員の方々には申し訳ありませんが。
 男子 16パターン 女子 16パターン の配本構成で、発達に応じて個別に配本を練り上げていくものです。もちろん、状況に応じてランダムに配本を組み合わせますから、ある意味、基本は同じでもパターンは無数になります。
 年齢ではなく月齢を重視しました。他のブッククラブでは、1歳児の九月には○○という配本となりますが、これはおかしな話です。同じ1歳でも1歳になったばかりの1歳児と2歳に近い1歳児では理解度、言語獲得レベルなどまったく違います。これは先々も同じことです。幅が拡大し、個人差が大きくなることは考慮できませんが、標準で発達を考えて選書したものを配本してきました。
 以下の資料は、部分的なものでの説明となります。
 ただ、ある意味企業秘密でもありますので、以下は公開しません。資料2は紙でおはなし会参加者には配布済み

■発達対応の選書例■

 講座ではすべて紙で配布《生後10ケ月歳〜12歳まで》2014年〜2017年選書設定 これはWEBでは公開いたしません。

■ドロップアウトさせないためにも■

 12歳、つまり小学校6年生のレベルです。ここまで来られる子どもは、全体の60%弱です。ただ、ここまで来れば、大人の本は射程距離に入ったわけで、この一連の選書が読めれば、もう大人の本はいずれ読めます。高度な本は別として、ふつうの大人の本は読める力がついています。
 では、残りのドロップアウトした40%はどうでしょうか。当然、発達過程で、さまざまな障害物があり、本が読めなくなってしまうことが起こるわけです。これはいつもブッククラブのニュースで述べているものが原因です。
 家庭の価値観が違えば、幼児期に読み聞かせを受けることもないでしょう。親によっては、本は文字を早く覚えさせ、国語の成績を上げる手段にすぎないこともあります。また、その前に物の与え方によって車や電車、アニメ・キャラなどの幼児オタクをつくってしまうこともあります。学校に入れば、周囲の影響から粗悪な漫画やゲームに染まることもあるでしょう。また、高度な本へ入っていく前に、勉強のウエイトが高くなり、段階に応じて読書ができなくなることもあります。
「立身出世」の魔法にかかっている人は多いのです。

■世の中に同調する失敗■

 また12歳くらいで読書が可能でも、中学・高校でまったく違う世界にはまってしまう例もあります。
 バランスよく考えられるふつうの人間へ持って行くのはとても大切なことなのですが、現代ではそれを阻むものが多いということはおわかりでしょう。それが一般社会の風潮となっていますのでね。
 きっとみなさんの周りには、みなさんを焦らせる人もいるはずです。「ウチの子はもう字が読める」とか「字の小さい本も読める」という人です。またその逆に子どもを「〜マンもの」や図鑑オタクにしている人、拙劣な教育情報に踊らされている人もいることでしょう。しかし、周りの人はどっちでもいいのです。読み聞かせや読書はどこまでいっても個人的なものなので、親子が楽しめればいいし、その子自身が本を読んで中身を理解すればいいのですから……。その成果は、やがてそれなりに出てきます。おかしな大人になったら、これは親の苦労の種になります。

■子どもを困った大人にしない■

 多角的に本が読めないと、1回目で述べた教科書の答を常識として疑わなくなります。そういう大人が山ほどいるから、いまのような政治も行われてしまうわけです。世の中には、かなり嘘をついたり、騙したり、ごまかしたりすることが多いのですから、やはり自分で考えて、物事を自分でとらえることは必要だと思われます。人に合わせることは、自分の人生を生きないことでもありますのでね。
 世の中をごらんなさい。上(?)を見れば自分の利益のためなら公の財を平気で使う人、規範を守れない人、倫理的に生きられない人、あるいは精神的に病んで引きこもってしまう人・・・それこそ山ほどいます。もちろん、まっとうな人の方が多いから持っているのですが、見た目がまっとうでも、マイルールで生きている人、自分の世界だけに埋没している人・・・そのやみ具合は歴史的に見ても割合が多くなっているように思います。
 多角的に本を読んで、さまざまな考えを持つことは、いずれ時代が変われば大切なこととなると思います。いまは、こんな時代ですが、いるまでも続くわけがありません。ルーズソックスが流行っていた時代に穿いた女性たちが「周りと同じに穿いたけれど何で穿いていたのか不思議です。」と言います。時代が変われば常識だったことが必ず異常なことだったとわかってくるものです。いま、現在・・・そのまっとうさを維持したいものですね。(つづく)



(2017年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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