ブッククラブニュース
平成29年11月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本

⑥ 3歳児と絵本(2)

 3歳で配本する本はおもしろいものが他の年齢にくらべてひじょうに多いです。代表的な本は有名な「ぐりとぐら」ですが、これは子どもが食べ物に強い関心を持っていることに着目してつくられた作品です。最後にカステラが出来上がる・・・子どもの期待通りの楽しい結末で、悪く言えば「食い物で釣る」わけですが、視聴率が落ちないように必ず食べ物コーナーを設けるテレビの番組は大人向けのものですから、人間はどこまで言っても食べ物に固執する存在なのでしょう。最後にできあがるカステラ・・・これは子どもの期待通りの結末で、受けないわけがありません。
 3歳児への配本は最後がみんな楽しく終わる本がすべてです。ハラハラドキドキがあっても最後は必ず大団円。まちがいなくハッピーエンドになります。まだ世界の動きに「不条理」というものを感じない3歳児に哀しい結末、残念な終わりの物語はふさわしくありませんし、快い眠りに入っていくには重要(これはとても大切なことです)で、幸福感がなくてはいけません。
 ただ、いい大人がハッピーエンドの物語ばかり好きと言うのも問題です。ディズニー作品はあらゆるものが(人魚姫のような悲劇ですら)ハッピーエンドになりますが、これを楽しんでばかりいる大人は3歳程度の頭しかないと言えるかもしれません(笑)。

3歳は3歳なりの自立

 やはり成長に応じて、悲しい結末やおどろきの展開がなくてはいけないのですが、3歳はまだまだ幸福感、安心感が必要な精神性、脳の構造の発達過程です。安心を必要とする人格の形成期です。そのつもりで読み聞かせてください。ブッククラブでは、そのような配本を男女それぞれに配分してあります。
 じょじょに自分がどういうものかわかっていくような本(例えば女子には「ちいさいわたし」、男子には「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」)のようなものを選んでいますが、とにかく3歳児の本は多様でおもしろいのです。これは読み聞かせるほうも2歳のころに比べてはるかに楽しいものを感じるということでわかるでしょう。
 だるまちゃんシリーズの一部やまゆのシリーズの一部などシリーズものもたくさん入ります。全部シリーズを配本に加えるわけにはいきませんので、続編は借りるなり、求めるなりして楽しんでくださればありがたいです。シリーズはおもしろいから続編ができるのですが、あんまりシリーズが続くと中には気が抜けたような作品も出てきます。

サブカルを再び考える(3)

 今回はサブカルチャーがどのような影響を与えてきたかということについて、原因と思われる事件を列記したものを掲げておきます。PDF資料です。解説は2月号になります。→クリック

生活って? ⑤ 重要な情報はほとんどない

 「おはなし会Ⅱ」で、カウンセラーであり、落語家でもある川邉修作先生と話し合ったことは述べましたが、その後、話し合ったのは、「生きる上で大切なものは生活情報にはない!」という話でした。  現代は情報洪水です。マスコミやメディア、そしてネットで拡散され、膨大な情報が飛び込んでくる。1990年代初頭に(まだWindowsが出てこない時代)・・・識者が「多くの情報が手に入るのは選択肢が多くなってとてもいいことだ」と言い合っていましたが、私はゆめやのニュースで「その多くはほとんど何の役にも立たない流れていくだけのものになるだろう」と書いたことがあります。案の定そうなっています。
 たとえばいろいろな悩みを抱えてネットで調べる人がいますが、そこには助けてくれる情報はどのくらいあるのでしょう。情報に助けてもらうには、受け取る側もかなりの読み取り能力が必要で、けっきょくは読み取れないまま流れていくことが多いと思われます。そんな悩みは身近な見識のある人に尋ねたほうがずっと早く解決するというものですが、多くは洪水の中でおぼれています。人間関係など面倒だと思ってつなぎません。これだけ情報が多くなると、目を通す量が増えるので、たいていの人は重要、不要は関係なく、どんどんスルーします。もちろん、そうすることで人間関係もスルーする癖がついていきます。
 川邉先生は、「江戸時代は情報などほとんどなかったが落語とか歌舞伎で庶民はけっこう高い批判力や物事を考える力あったようです。」と言われてました。人が情報で頭がよくなるということはなく、すべて「物語」「ストーリー」「芝居」という一貫性のあるもので物を考えて生活や生き方を処理するのは私に言わせればあたりまえのことです。それは情報には「情」がなく、物語には「情」があるからです、このことは、読み聞かせをしてきた方々は、子どもが物語から論理的なことを学んだり、言葉と行動の重要性をいつのまにか身に着けていくことで、実感しています。

本が読めなくなる分岐点

 子どもが本を読まなくなるのはある時点で、本を読む、話を聞くということが面倒になる何かが起こったからです。その面倒をつくりだすものは、忙しいスケジュールだったり、電子ゲームの魅力だったり、スポーツへの没頭だったりします。あるいはいつもいうようにわかりやすいマンガ、ビデオなどで、「瞬時にわかった!」という錯覚体験をしてしまうと「読むこと、聞くことが面倒くさい」というふうに変わっていきます。ここが育て方のターニングポイントで、読み聞かせが終わる時期の重要な課題でしょう。多くが低学年でこのターニングポイントを迎えます。注意!注意!ですが・・・ いつも言うことですが、読み聞かせをしたから読書に向かうということはありません。
 では、本を読まねばダメかということですが、本を読まなくても、昔は親や祖父母が「体験談」や「物語」を語ってくれました。そして、「こういうばあいは、こういうことをするものだ」という考えを身につけていったものです。つまらぬ情報は山ほどあるのですが、重要な情報はほとんどない。つまらぬ情報に左右されて時間を消費するまえに、大切なものの考えをつくる「話」「ストーリー」「おしばい」をひとつでもよけいに見たり聞いたりすること・・・これが大切ですね。きちんとした本、しっかりした話を知らないで大人になると底の浅い軽い人間になってしまう可能性は大きく、不幸になる確率も高いようです。(ニュース一部閲覧)

私の好きな一冊 ⑦ よるくま 

 振り返ってみるともうかれこれ20年くらい前に、この本を手に取って、なんともいえぬ「やさしさ」「なつかしさ」を感じた。そこで吟味することなく配本に加え入れた。絵本は多くの子どもの目を通して、また長い時間を経て、一人前の絵本になる。いくら人気があっても数年で忘れ去られたら、本物とは言えない。本物を探すには手間と時間もかかるが、そこで絵本も吟味され、人の心に染み入り、成長していくと思う。
 さて、そのやさしさとなつかしさ・・・それは理屈抜きの子ども時代を思い出す感覚。たしかに子どもの頃、人間以外のものと対話していた記憶がある。その記憶が、きっとなつかしさを引き出しているのだろう。それから何とも表現しようのない母というものの安心感だ。
 やさしさ・・・あどけない子ぐま。これは「ぼく」でもあるのだが、おかあさんを探していく姿がなんとも切なさがある。働いて帰ってきたお母さんと会えた感激・・・そういえば、あのころから女性がフルタイムで働き始めて、子どもは少しさびしくなった時代でもあった。そのころ、Y園の保育士さんから聞いた話が心に響いた。
 「私たちといっしょに8時間以上もいる子がね。お母さんが迎えに来ると私たちなんか振り捨てて『ママ〜!』って飛んで行ってしまうのよ。こっちは気落ちしてしまうけど、それだけお母さんって子どもには必要な存在なんですよね。」そうなんです。「母は誰よりも偉大なり!」なんです。

⑥ 心と言葉

 歳を取ってから、つくづく日本語は不思議な言語だと思い始めた。若いころにはいろいろな議論をしたり、生活上で理屈を言ったりして、メッセージ言語として使ってきたが、しだいに、「そんな論理とか理屈を通すための言葉ではないなぁ」と思うようになった。
 それは、いろいろな本を読んでいると、理屈で書いてない本がけっこうあり、そういうものに心を動かされたからだ。この典型的なものは俳句とか和歌で、ここにはまったく理屈がない。それでもなにか心で感じるものがある。
 「遠山に日の当たりたる枯野かな」高浜虚子・・・これを理屈で考えたらじつにおもしろくない風景だ。そりゃあそうだろう。枯野があって、傾き始めた秋の日が遠くの山だけを照らしている・・・という意味しかない。しかし、心で感じるものはそれを乗り越えて、膨大な感覚を引き起こしてくれる。
 枯野・・・例えば漱石がこの枯野を俳句にすると
 「枯野原汽車に化けたる狸あり」夏目漱石・・・・となって、なんとなく彼一流の面白さが伝わってくるが、じつは、このふたつの句、得にも損にもならない日本語である。だから近代では心のある日本語はどんどん失われてきた。
 福澤諭吉が、「そんな得にもならないようなことは捨てて現実を生きる実学が大切だ」と言ってから日本人は言葉も「得になるよう」に使ってきた。その結果、心が失われていくと言うことも知らずに、である。

狸はタヌキ、狐はキツネ

 「汽車に化けたる狸あり」と言ってもなんということはないが、最近、ある緑色が好きなおばさんが「緑のタヌキ」とあだ名をつけられている。この言葉を聞いて多くの人は左のようなカップそば、うどんしか思い浮かべられないことだろう。広がりのない言葉だからだ。
 しかし漱石の句はそれこそいろんなことを考えさせてくれる。最後は、ひょっとして汽車に化けた狸は文明批判なのではないかなどと・・・。実際、漱石は彼の文明論集の中で汽車について書いているのだから、まんざらパロディを俳句にしたのではないだろう。
 さて、たぬきそば、きつねうどんは、それだけしか意味しない。底が浅い言葉だ。そこで私はそれだけではおもしろくないのでこのイラストを使ってみた。この画面を逆立ちして逆から読んでほしい。何と読めますか? ・・・まあ、言葉の力の内人間はひねったところで、このくらいの面白さで、そこから話は広がらない。
 思うに言葉は日本語では、深く自然の風景や季節とつながっていて、その共通性で心が感じ取ったものを人に「心」で伝えるのではないか、などと思ったりする。上の虚子の句では「枯野」であり「遠山」であり、秋の日差しだ。漱石は枯野を行く汽車の風景だ。このように自然の中の心象が言葉になって現れる・・・それを受け取る、まさに言葉のキャッチボールは心のやりとりにもなるのだろう。

この世をば我が世とぞ

 今月は月がきれいな夜でもあった。月でもたくさんの歌が歌われてきた。和歌から歌謡曲まで・・・。たとえば平安時代に、藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という有名な歌を作った。傲慢極まりない歌と悪評だったのは自分の思いが入りすぎているために自然から遠ざかっってしまったからだ。
 バカは言葉を多様に使えないので、ひとつ覚えを何度も繰り返す。「印象操作」という言葉を覚えるとオウムのように繰り返す。官房長官記者会見でも女性記者がしつこく質問すると「その指摘は当たらない」「問題ない」とまったく心に響かない言葉を繰り返す。自分は偉いと思っている人間はわれわれが心に響く言葉がほしいとは思っていることがわからないようだ。しかし、バカだから「この世をば我が世とぞ思ふ望月の質問すべて無しと思へば」と、道長ほどの歌も作れない。(注・しつこく質問したのは望月さんという記者)
 このように考えると、やはり子どものころから自然を体験し、自然をよく見ている人間ほど心に対する感性が高まるような気がする。そして、ものを見る力や批判する力が心から出てくるということもわかるだろう。
 「都民ファースト」という言葉に騙されて人々は「ファースト」に心を感じたのだろうが、「レディ・ファースト」の「ファースト」であることを感じ取った人は少ない。アメリカのレディ・ファースト・・・一説によると馬車から先に女性を下す習慣、先に女性に食べ物を進める慣例。馬車にインディアンの矢が飛んできたら男性が後から応戦するために女性を先に、毒が食べ物に入っていないか確かめるために、と、かなりエゲつないファーストでもあるらしい。本心を隠した言葉は心の言葉ではない。人と人のつながりは利害ではなく心と心・・・子どもにはそれを学ばせたい、(新聞・一部閲覧)

なぜ本を読まねばならないか
ふつうの人間を育てるひとつの方法

対論「自分の頭で考える」

 写真はアラブの大富豪ではありません。旅する写真家「向井俊雄さん」です。すでにピースボートで世界を2周し、そのほかの旅行で世界80数ケ国を巡っている人です。「家はベースキャンプにすぎない!」と豪語しているのですが、家事全般すべてやる繊細な生活技術を持った方で、さまざまな面で教えられることが多いです。今回からおはなし会は対論に移りました。
 私が向井さんと出会ったのはちょうど十年前のことでした。そのとき向井さんはまだ現役の経営者で、山梨にあるバンディツクという会社を再建するために京都の本社から派遣された方。専務取締役でありながら代表取締役でもある立場で社長職をやっている最中でした。
 私はNPO法人の「山梨子ども図書館」を起ち上げる仕事を始めたにもかかわらず、NPOそのものがよくわかりませんでした。経営方針がわからないまま、定款設定や登記など具体的な作業に入ろうとしていたのですが、理事長予定者から、NPOの経営理念について向井さんが講義してくれるということで、理事全員で聞くことになりました。しかし、そのまえに「向井さんが貸してくれた本なので事前に読んでおいてくれ。」とP・ドラッカーの『非営利組織の経営』という本を設立者の方が渡してくれました。本を読む子どもを育てるNPOを作る設立者なので「自分が読めよ!」と内心思いましたが、私が読むこととなりました。

非営利=非利益?

 そこで講義の前にP・ドラッカーを読んだのですが、ひじょうに画期的なもので、従来企業にありがちな方針ではなく、社会還元が目的、社会問題を解決する作業、得た利益は雇用などでより良い労働環境を作ることなどが書かれていたのです。しかも、最近こそNPOと騒がれているが、じつは「この原型は古代の日本にあった」と述べられていたのです。古代のNPOとは「寺」で、「寺の僧侶たちが農民や漁民などが抱える問題を知恵と力を使って解決していく姿があった。それが最初のNPOだ。」ということです。そして問題解決した際には、農民たちからなにがしか食物などをもらうというものでした。労働は奉仕の精神もあるが、対価として報酬もあるわけです。それがなければ雇用が継続的に生まれません。
 で・・・、向井さんが、このやり方について講義をしてくださいました。ところが、その後問題が起こりました。多くの理事が「NPOは、協力する人がボランティアでやっていく」というのです。本の内容とはずいぶん方針が違ってしまいました。よくよくみなさんの意見を聞くと「NPOは訳せば、特定非営利活動法人だから非営利ということで利益を上げてはいけないのだ。」というのです。これでは字面解釈だけで本当の意味がわからなくなってしまいます。本を読まない人間がよくする解釈です。すべてのことが、字面で理解されていくというすごい話で、これこそ本などまったく読む必要がないこととなります。字面で解釈されると、解釈した人の狭い料簡や少ない体験だけで物事が進められていき、すべてが本質を見ずに上っ面で行われることになります。やっておけばよい、やった、やったでおしまいです。これが政治的言語になるとさらに利用されやすくなります。第一回のおはなし会で述べたように「集団的自衛権はみんなで集まって攻撃を防ぐ」という意味だけの理解になってしまいます。

ぶらさがり症候群

 私が、その理事たちに、ドラッカーの考えをうまく実現できなかったと向井俊雄さんにいきさつを話すと、なんと!何もアドバイスや意見をくれずにニヤニヤしているだけでした。そして、それから頻繁にメールをくれるようになり、「山梨はブドウやモモなどが有名だが、人間もまったく同じで、ぶらさがっている人が多い。いわば、『ぶらさがり症候群』ですね。」というのです。
 山梨の会社、工場の再建の際でも、およそ自分の頭で考えず、自分の意見は言わず、みんなといっしょ、あるいは、だれかにぶらさがって行動するというのはよく見て、わかっていたようです。しかし、私も山梨県人ですので、私自身も「ぶらさがり」と思われるのがシャクで、よく抗弁しましたが、どうもこれは山梨県人だけでないと思うようになりました。「日本人全体が『和』を重んじる人種で、聖徳太子が十七条憲法でも最初に『和をもって貴しとなす』と言っているくらいです。「自分の発想より集団との和が重要だと思っているのではないか。」ということです。それなら周りに忖度して、出方を見てから自分が動く、なにもしなければただぶらさがって樹液を飲む。
 しかし、そういう症候群があるとどっちつかずになり、改革や改善はむずかしくなるようです。なにしろ、自分がなく、こっちの旗色が良くなるとこっちにつき、あっちの旗色が良くなるとあっちにつく・・・そういう変わり身は上手になりますが、当然、意見や考え方、行動の責任はまったく取られないことになります。余談ですが、山梨1区の衆議院議員でおもしろい人がいました。所属政党が旗色が悪くなると勝ちそうな党に移っていくのです。ですから必ず当選します。8回所属を変えて8回当選しました。まるで鳥獣戦争のコウモリです。でも最後は運が尽きました。9回目、新しい「希望の党」に鞍替えして出ましたが、勝てると思っていたのが最後は落選。やはり志がなかったからでしょう。
 このぶらさがりは、「本を読まないからだ!」と向井さんは言います。向井さんの読書量は私たちが冊数で数えるのに対して、重さKg単位で計算するとのことです。とにかく2500年前の哲学者が書いた本でも現代の経済学者でもザックリと読みこなし、言わんとすることを頭に入れ、それを実行に移すというわけです。しかし、実行するには、狭い経験主義だけで生きている集団、あるいはボスとも戦わなければならない、と言われていました。

権威を持つ人が問題

 自治会などという小規模な組織でもとかくそこにボスがいて、それがわけのわからない「見識」を振り回すと、みんな「おかしいな?」と思いながらも賛同してしまうという例が出てきます。
 向井さんの住む白根高校南団地でもそういう例があったといいます。白根高校の校長(元)が、「ここに住んだらみな諏訪神社の氏子だから・・・」と平然と言い放ったそうです。向井さんは「それはおかしい。あなたは憲法の信教の自由のところを読んだのですか?」と言ったのですが、多くは怪訝な顔つきをしていたということです。
 意見を言うと「あの人は変わっている」の一言で片づけられてしまうのが日本社会で、その側で力を持てば「ぶらさがり症候群」の人など操るのは簡単になってきます。多くの人は自分の頭で考えずに、より声の大きい人についていくからです。
 とくに、この和という独特の考え方は日本中のいたるところで発揮され、他と異なった意見は排除されていきます。これでは憲法をいくら読んで考えても、読まない「権威ある人々」が勝手なことを言って、どんどん物事を進めても文句が言えない社会であるともいえます。

こういう社会を支えるのが偏差値教育

 このある種の「権威」を作っているのが、学歴社会で、それを支える基準が偏差値です。向井さんは、この「答えが必ず一つしかない資格社会は、自由な思考や行動ができないで枯渇する」と言います。ですから、なるべく就職を目前にした大学生に「同じ失敗を二度としないようして、多くの経験(失敗)をすること」を講義します。
「失敗から逃げず、失敗を自分の頭に入れること」
「様々なことに興味を持つこと」
「本を片っ端から読んでみることで自分の考えが生まれる」
「自分が社長だったらどうするのかを考えること」
「自分の頭で考える習慣をつけることが大切」
「少しずつ努力した人が勝つ」
「我慢とロジカル、自分のスキルの向上が必要」
「仕事は誰かに与えられるものではなく、自分で作り出すもの」

 などという話をしたそうです。多くが偏差値を高めるために汲々として、与えられた仕事しかしない現代社会で「自分のしたいこと」を「自分の頭で考える」というものです。
 実際、ゆめやが近くの大学の就職部の教授に頼まれて、学生の就職面接を向井さんがやっている会社に頼んだことがあります。就職先がなくて弱っていた学生なのですが、決められた時間に会社訪問をしませんでした。慌てた私は教授に連絡しましたが、その学生と連絡がつきません。ようやく数日後に会って訊くと「いっしょに行く友人が探せなかった」ということでした。自分の就職ができるかできないかの瀬戸際に、このような有機、やる気のなさは何でしょう。私も恥ずかしくなって、就職部の教授に向井さんに謝りにいくようにつたえたくらいです。
 これでは企業の活力も何もなくなります。そのうちマニュアルでしか物事ができないのではなく、マニュアルですらできなくなる可能性があります。

できたときから腐り始める。

 自分の頭で考えられない人間が増えて、マニュアルや慣例で物事を行い始めると、何か起きても誰も責任を取らなくなります。トップが責任を取らなければ下が取るわけはないので、ますます組織は歪み、経営の分析もなくなり、言い逃れやごまかしが進んでいきます。これは東電原発事故や東芝粉飾決算の例を見ればわかることです。小さい規模のものでは山ほどあるでしょう。この原因は近くでは先の大戦の責任をトップが何一つ取らなかったために、その後の戦後の社会に大きな禍根を残すことになったということです。敗戦処理は大きな失敗の一つだったと向井俊雄さんは言います。
 まして、偏差値で一つの答えしか出せない人間が組織や社会の上層部に行くと下の者はたまりません。現代社会は、市場原理で欲が拡大していますが、人間は必ず死ぬので、どこまで欲を拡大するのか、アベノミクス(原発再稼働、国債乱発、経済成長論)がどのくらい日本をダメにするか・・・日本国内での社会変化、および地殻変動などの問題、それに対してどう向き合うか、自分の頭で考えられる子どもを期待したいところです。
 まずは、若い人は本をたくさん読んで多様な考え方を知る・・・そこから自分の頭で独自の生き方をする・・・たった一回の人生ですので、周りに左右されて「和」だけでいきることはしないほうがいいように思います。(おはなし会レジメより一部閲覧)



(2017年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ