ブッククラブニュース
平成29年12月号(発達年齢ブッククラブ)

今年も一年ありがとうございました。

 まったく一年は速いもので、もう年末、あと少しで平成も最後の年ですね。この一年会員のみなさんは何事もなく過ごされたでしょうか。読み聞かせる時間は確保できているでしょうか。お子さんたちは快い眠りについているでしょうか。世の中を見ていますと、かなり陰惨な事件、悲惨な事故が増えているように思います。これを書いている日の五年前、中央高速・笹子トンネルで落盤事故があり、たくさんの人が死傷しました。裁判では自己責任はほとんど問われず書類送検で終わり。原発事故裁判もどうなることか。誰も責任を取らず、逃げの一手です。高度成長期につくられたものの劣化が進んでいます。笹子トンネルは1975年。左の黒部ダムは1956年、福島第1原発は4号機が1978年ですから1号機はその8年前、こういう施設やインフラの老朽化が進んでいます。コンクリートの劣化は35年過ぎると急速に脆くなる。黒部ダムなんかもう60年も経ってますよ。なにかあってもおかしくないですね。
 うかうか車でも走れなくなる時代がすぐそこに来ているのかもしれません。新しく造ることより、より早く、より大きく造ることばかりがイケイケドンドンで、誰も責任を取りません。無理せず、気をつけて動くことでしょう。ミサイルなんかよりずっと身近な事故、事件のほうが怖いですから。
 今年も、ご利用をありがとうございました。なにかと忙しい時代になり、時間に追われる毎日ですが、寒くなりますので、ご家族のお体に気を付けて年末年始をお過ごしください。

おおきなもののすきなおうさま

 さてクリスマスが近くなりました。やはり、この時期は読み聞かせもサンタクロースやクリスマスのお話ですよね。
 我が家には、むかし「聖夜に開く1ページ」・・・という習慣があって、読み聞かせ(もちろんクリスマスもの)をしたあとで、親が好きな本を1冊読むという習慣が数回のクリスマスイブにありました。親の身勝手ですから子どもたちにとってはむずかしい本もあっただろうし、「なんでこの本!?」と思われたかもしれないのですが、たまには大人の好みを押し付けるのもいい、きっとイエスさまはみんな許してくださる、なんて勝手に思って読み始めたものです。
 それはホフマンの「クリスマスのものがたり」だったり、ジオノの「木を植えた男」だったりします。子どもには、ちと、むずかしいが、それでも読み聞かせに慣れているので、いろいろ言わずに読めば聞く。わからないながらも「イエスの誕生がこういうものか」と思ったり、「ドングリを一人で死ぬまで植え続けると森ができる」ということも知ったことでしょう。
 そんな本のなかに安野光雅・作「おおきなもののすきなおうさま」というのがありました。この秋(12月3日まで)、南アルプス市立図書館で行われた安野光雅展はメイン展示(ほかには「私の好きな子どもの歌)が「おおきなもののすきなおうさま」(写真)で、なつかしくなって原画と随筆を観に行きました。

おおきいことはいいことか

 さて、この絵本の内容はすごいのです。「おおきなもののすきなおうさま」は、なんでも大きなものが好きで、歯を抜くときでさえも巨大なペンチを作らせる。とにかく大きなものが大好きで、大きなものばかり作らせていく話がつづきます。そんな王様の欲望を家来が「忖度(そんたく)」して、言うなりになんでも作る。なんだか時代的にタイムリーな展示ですよね。年金を削りながら巨大なオリンピックスタジアムをつくる。市場が機能しているのに新たに大きな市場を造る。個人の財布から出るお金ならともかく、みんな国民の血税なんですけど、どうして権力を持つと「おおきなもの」をつくりたくなるのでしょう。さて、王様は、大きな花を育てるために大きな植木鉢を作らせる。そして、家来たちは、これまた必死になってとんでもなく巨大な植木鉢を作るのですが・・・。でも、そこに植えられた球根はふつうの大きさで、咲いたのもふつうの小さな小さなチューリップ.
 あたりまえといえばあたりまえです。愚劣と言えば愚劣な話・・・じつに皮肉が効いています。
 我が家でも3歳の子どもが、ケーキは大きい方がいい。積み木も大きい方がいいと言って、砂で大きなケーキを作り、積み木も自分の背丈まで積み上げます。子どもは大きいものが好きなのかもしれません。
 私など、なるべく小さい物、邪魔にならないものを求めますが、それでもゴミになるときは大きくなります。最近は活字が大きい本がほしくなっています。歳は取りたくないですね。  でも、王様のように大きなものがゴメンです。

子ども並みの欲望ならいいが・・・・

 この話は、昔も今も権力者の欲望は限りなく、しかし、じつはやっていることに何の意味もないことを皮肉ったものなんですね。さすがは安野光雅先生です。ピラミッドという巨大な墓を造らせた王も、大きな花を咲かせることだけはできなかったという逸話があります。現代の王様も家来の科学者や細胞学者に大きな花を咲かさせたり、潰瘍性大腸炎で死なないような薬まで作らせる。しかし、どんなに医学が進んでも人間というものは必ず死ぬ。花は枯れる。生命を人間がつくることができないことは、大昔からわかっていることなのですが、わからんのですね、こういう人たちには・・・。生命をつくるより、生命を軽んじることのほうが多い時代です。こうしたバカな人間にイエス様も嘆いていることでしょう。大きな植木鉢に小さな花一つ、巨大な虫かごに小さな虫が一匹。バカな夢は見ないで、身近なものの命がかけがえのないものであることを考えねばならないのに・・・欲が優先。いつでもどこでも王様は大きなものが好きです。絵本の中ばかりでなく・・・・。困ったものですね。

わたしの好きなこどものうた

 展示の最後は「わたしの好きな子どものうた」。「この道はいつかきた道」がありました。絵には懐かしさが漂う田舎道が描かれていましたよ。
 キャプションには次の言葉。・・・・・・・「この道はいつか来た道と、あれこれ昔の出来事を結び付けて考えるのは子どもにはできない。これは大人の心の中に残っている思い出が投影されているのだろう。さすがは白秋の詞である。童謡というものは、こういうものだと思う。
 軍隊にいたとき、思い出したように行われた演芸会で「♪〜この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、アカシアの花が咲いている」と歌った友だちがいた。みんな声も出さずに聞いた。」・・・・
 これだけの文だったのですが心に沁みました。
 そして、安野さんが戦争や原発嫌いなのがなんとなくわかった気もします。戦争や原発が好きな人間などいるわけもないのですが、人間の中には「人でなし」もいる。この国が、また「いつか来た道」を歩き始めているということは、老人の中にも若者の中にも「大きなものが好きで、あとのことはどうでもいいという人でなし」が多くなっているということでしょう。現代の王様も「この道を力強くまっすぐに!」などと言いいますね。しかし、そんな言葉に乗せられて行ってみると、それは「いつか来た道」ということもあります。
 まあ、子どもがあまり大きなものを好きにならないようにクリスマスプレゼントはなるべく小さいものにしたいですね(笑)。では、良いクリスマスを、佳いお年をお迎えください。(ニュース一部閲覧)

今年もありがとうございました。

 残りの日もわずか。今年も、ブッククラブをご利用いただきましてまことにありがとうございました。
 さて、この一年、県外の会員のお客様からのお便りで一番多いのは、「なんと一日が早く終わってしまうのだろう!」というものでした。もちろん、来店のお客様からも同じような言葉が出ます。今年は夏休みを中心に連休や土日で、県外の(初顔合わせ)のお客さまのご訪問をたくさん受けました。「みなさん、どんなお店だろう?」と期待に胸を膨らませていたと思いますが、あまりにも小さい本屋なのでびっくりされたのではないかと思います。秋にはカナダやニュージーランドの会員までいらっしゃって、なんだか恥ずかしいくらいです。ゆめやはともかくゆめやの周辺は世界に誇れる絶景があります。それだけでも楽しんでおかえりになっていただければと思います。
 どのご家庭の方々も、今年もいつもと同じように楽しいクリスマスが過ごすと思います。子どもたちは、サンタクロースもクリスマスのケーキも大好きです。一年の終わり、暖かい部屋で夕食を食べることができる幸せ・・・これは何にもまして子どもの心に安心をもたらしてくれるでしょうね。そして、季節と一年が過ぎ去っていきます。

もう富士山は真っ白です。

 ゆめやの裏側の山から見ると甲府は、左の写真のような、狭い町だとわかるでしょう。でも、3千メートルの山々に囲まれている一年は季節の変化をまだまだ実感できる自然環境です。小さい田舎の町なんですが、昔からの自然はまだまだ残っています。でも、おおきなものがすきなおうさまは、そこにとんでもなく巨大なリニア新幹線の軌道を造っています。どんどん自然が壊れ、事故も多くなるでしょう。
 もう、この時期、夕方4時半には日が沈んでいきます。一日が短いので、なんとなくせわしさを感じます。
 そして、年末になると、せわしさが「一日の忙しさ」から「一年の終わりのせわしさ」に変わります。「あっと言う間に一年が経ってしまった!」・・・と言う感じでしょうか。子どもの中を流れる時間は、ゆっくりとしたものだと昔から言われていますが、その子どもの口からさえも「忙しくて何もできない!」という言葉が洩れます。当然、いそがしければ、物を考える時間も減っていきます。

忙しいですか!

 言葉だけでなく、忙しさがにじみ出ている方も多いです。ゆめやは、通常、配本を受け取りに来るお客様にはお茶を出して、短い時間でも会話を交わすように心がけていますが、「急いでいますから・・・・」とすぐに帰られる方も多くなってきました。親が忙しければ当然子どもも・・・。
 お子さんたちは、わずかな時間でも店頭にある遊び道具で時間をつぶしますし、私も少しは遊びを誘うこともしますが、昔にくらべて子どもが親についてくる数も減ってしまいました。
 実際、ここ数年、配本を毎月受け取りに来ることができず、溜めてしまう方も増えています。冬になって秋がテーマの配本を渡すというのも季節対応を心がけている私どもとしては何とも辛いものがあります・・・・紅葉が秋しか見られないように、配本にも旬があるのですが・・・それを失うと日本に住む人特有の季節感、その他もろもろの感覚が失われてしまいそうです。
 忙しい!・・・なるほど、そりゃあ、そうでしょう。一週間の間に塾から始まり、各種お稽古事で放課後が詰まり、留守家庭学級で時間をつぶさなければならないとなれば、子どもも息つく暇もないでしょう。余裕なく過ぎていく毎日のなかで追い立てられるような生活・・・・これでは、子どもたちが大人になったときが思いやられますが、これも時代の流れでしかたのないことなのでしょうか。

どんなプレゼントが来るのだろう?

 世の中、何もかもがお金の追求になって、人は忙しさの中に身を置いています。
 この調子で行くと、大人も子どももあわただしい人生を送るだけになってしまうような気がしてきます。国民総生産を上げるお手伝いをするのもいいけれど、それでは貧富の差が開くばかり。富=幸福ならいいけれど、幸福を伴わない富裕はマッチうりの少女が覗いた窓ガラスの向こうの世界のようなものですよね。  どんどん物を売るのにも合理化で、人はつねに忙しさの中で物を売り、物を買い、消費し・・・江戸時代の人が見たら「バカじゃないか!」と思うような生活になっているんでしょうね。
 「一日が早く終わってしまう!」「あっと言う間に一年が経ってしまった!」というお客様の言葉にハガキや口頭で、私はこんな返事をしています。「もう一度、絵本を開いて時間泥棒との戦い方を工夫したいと思っています。そんな今日この頃です。」
 世の中、どうも何が大切か、そうでないかがわからなくなってきているようです。いちばん大切なのは。「一緒にいる時間」「心が通う関係」しかないと思います。

私が絵本屋を始めた理由

 私が絵本屋を始めたのは、いまから37年前。
 まだまだゆるやかに世の中が動いていた頃でした。バブルが始まる前でした。ふつうなら、どこか会社に勤めてお給料をいただくのが最善の道だったと思います。でも、なんとなく時間に追われ、人間関係が薄くなるという予感がありました。そのころ勤めた方々はバブルでかなり豊かな生活もできましたし、安定した企業ならいまでも豊かな生活でしょうが・・・。
 本屋など利益がでないのは常識なのですが、いきなり向こう見ずに始めてしまいました。それは生まれたばかりの二人の娘となるべく長い時間を親子として共有したかったからです。商店というのは忙しいようにも見えますが、一日中、子どもと過ごすことができます。家族というのは、短い人生で「せっかく偶然に出会った者同士」なのです。子どもは成長していきます。いずれは親から離れていく。短ければ18年、長くても・・・。ならば子どもが小さい時に長時間一緒にいるというのは、いろいろな意味で、意義があることかもしれません。
 もっとも子どもというものは大きくなると長時間家庭内滞在する父親は、うるさいうえにうっとうしい存在になるので、口ゲンカも絶えませんが、それもまた交流なわけです。接していなければケンカにもなりませんからね。
 「亭主、元気で留守がいい!」という言葉は流行しましたが、我が家では出ない言葉でした。力を合わせなければやっていけないくらいの環境が人間のためにはいいのです。

歳を取ってもプレゼントは来ますよ

 子どもが10歳くらいまでは父がサンタクロースの役もこなしました。5歳くらいのときは店がヒマな真昼間に父娘で公園へ遊びにいって、子どもを遊ばせているお母さん達から変な目で見られたこともあります。
 そりゃそうでしょう。砂場で遊んでいる娘たちの横の木陰で文庫本を読んでいる父親ですからね。見ているお母さんの夫たちは忙しく働いているときにです。娘たちが「とうちゃん、アイスクリームが食べたい!」と言ってくると「いまお金ないよ。冷たいものなら、そこに水道の水があるよ!」なんて言っているわけです。そんな貧しい絵本屋でも38年目に入ります。大きくして経営者になったら商品である本への思いも消えてお金、お金になっていたでしょうね。
 いま、この年齢になって、なんだか貧しい一生だったけれど大きなプレゼントをもらっているなぁ!と思います。出会った人といる時間の長さ・・・大切なプレゼントです。
 人は、何かをし始めると、仕事でも事業でもやたらと大きくしたがります。それが壊れて周りが迷惑することなど考えません。先も読まずにやたらと巨大化する。そして、時代が変わってうまくいかなくなって経営不振に陥ると倒産したりします。そこで迷惑を振り撒いても誰も責任は獲りません。ゆめやはどこにも負債を持っていない小さな商店経営です。お客さんとのつながりだけが大事です。
 みなさんも後々に大きなプレゼントをくれる家族と過ごす良いお年をお迎えください。(新聞一部閲覧)

子どもの発達と絵本
⑦ 3歳児の絵本(3)

 3歳になると内容的にかなり深いテーマの本も楽しめるようになってきます。3歳代では家族や周囲の人との関係や外の世界への対応力がまだまだ未熟で、個人差も大きくなりますが、いろいろなものとの関係や外の世界への関心がどんどん増します。
 3歳の読み聞かせは回数を多くするとともに毎日読んでいく体制づくりをしっかり生活の中でつくることはかなり大切です。
 2歳の後半からの外の世界への関心は、「なぜ?」「どうして?」という疑問につながります。この疑問については、「りくつ」の学習でもありますから、きちんと説明をすることも大切です。とくに3歳では「わかっているようでわからない」という現象も出てきますので、「どうして?」と尋ねられたらきちんと答えないとまずいでしょう。子どもは、そこから「論理」や「意味」を学びます。いいかげんに答えるのは言葉を受け取る最初の時期なのでまずいでしょうね。

なぜ、どうして?には。

 場合によっては、「なぜ」「どうして」が口癖になり、無意味に「なぜ?」「どうして?」を連発してくる子もいるでしょう。これは読み聞かせをしていくうえで大きな障害となるのですが、いちいち答えて教えることができません。この場合は、口癖としての「なぜ?」「どうして?」は止めさせて、きちんと聞くように注意することもしなければならないでしょう。
 また3歳では自我もふくらみますのでわけのわからない自己主張も起こってきます。これは自分の感情をもとに主張をしたり、好き嫌いが激しくなったり感情の不安定を引き起こしたりしますが、こっちは無理やり押さえ込まないようにしたいところです。「自我の形成」に必要なことを試行錯誤している状態だからです。親の押し・引きがむずかしい時期でもあります。
 3歳後半になると言語の獲得量は表現(しゃべる)・理解言語(わかっている)の両方ともひじょうに多くなるので、まあ、一般的には親との会話はひじょうに豊かなものとなってくるでしょう。(今月は増ページ一部閲覧はこれだけです。2月号に続きます)



(2017年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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