ブッククラブニュース
平成29年12月号新聞一部閲覧 追加分

静かなクリスマス

 今年はゆめやのクリスマスは閑散としたものでした。トホホです。いつも23日の天皇誕生日というのが大きなネックです。日曜・祭日休業のゆめやでも、クリスマス前日ということもあって例外的に23日は営業しているのですが、やはり客足は少なく、ある意味ちょっと迷惑な休日でもあります。とくに今年は24日が日曜日、25日は月曜なのでもう完全にアウト! 閑古鳥が鳴いていました。・・・しらけ鳥、飛んでいく南の空に・・・という状態でもありました。
 でも、グチは言うまい、こぼすまい・・・ブッククラブの皆さんにはこの一年、いやいや何年もお世話になっていて店をやっていけるのですから、感謝こそあれグチなどはありません。今年もお世話になりました。年末のお礼をブッククラブの皆様にまず申し上げます。書店がどんどん減っていく中で、いずれの本屋も悪戦苦闘です。ゆめやはブッククラブを大きくしなかったので、なんとか維持できていますが大きいところは大変でしょう。客の好みがどんどん変わり、消費形態まで変わっているのに、ゆめやはすべてを37年前と同じに行っていて変えません。一番早く、時代の波に飲み込まれなければいけないのに、どういうわけか継続できています。

書店の衰退

 2017年の書籍と雑誌を合わせた紙の出版物推定販売金額は約1兆3700億円となり、ピークだった1996年の約52%まで縮小したとのことです。
漫画単行本も売上が前年比約12%減で、売上の数字が全体的に低迷しています。
 哀しい話なのか良い話なのかわかりませんが、出版界を支えてきた紙の漫画単行本の売り上げが、前年比約12%減とかつてないほど落ち込んでいることが12月25日(クリスマス)に、出版科学研究所(東京)の調査で分かったとのことです。書籍と雑誌を合わせた今年の紙の出版物推定販売金額は約1兆3700億円となり、市場規模はピークだった1996年の約52%まで縮小する見通しです。出版不況は深刻さを増しているようです。漫画がダメということではなく、その程度のものならスマホで見る、読むと言うことでしょうか。

だんだん馬鹿になっていく

 この調査は、出版物の1〜11月の販売実績(電子出版を除く)を基に、通年の推定金額を予測したものです。雑誌(漫画単行本を含む)は前年比約10%減の約6600億円、書籍は前年比約3%減の約7150億円になるとみられるのです。雑誌も20年連続の前年割れです。コンビニにあれだけおいてあっても売れないのですね。漫画本も読めなくなり電子画面で・・・でしょうか。もっとも、これは電子書籍の数字は除外されていることから、電子書籍を含めた市場規模になるとかなり大きいものとなるようです。そのため、紙の出版物が全般的に低迷しているだけで、インターネットを含めると漫画やアニメのようなコンテンツは世界的に発展していると見ることが出来ます。まったく悲惨な話で、日本人ばかりか世界中の人々がバカになっていくということでもあります。英国のわらべ歌「マザーグース」にこんながありますので、思い出しました。
   わたしが子どもであったころ
   わたしは知恵を持っていた
   それはずいぶん前のこと
   それから毎日 日が過ぎて
   だけどかしこくなりゃしない
   長く生きれば生きるだけ
   時が過ぎれば過ぎるだけ
   わたしはだんだん馬鹿になってゆく

本から離れていく

 これは、ここ数十年の日本を表しているような気がしてきます。現代の世相は知性のない異常な現象に満ち溢れているではありませんか。しっかり考えることのない人間が増加しているからです。それは、あきらかに漫画やアニメの文化、SNSやゲームなどによるサブカルチュアの影響でしょう。
 スマホなどの電子画面は、単純に知識や観た画像の消費、それも大量消費にすぎいません。もっといえば見ている時、読んでいる時だけのもので、ほとんど頭に残らないものです。おそらく何度も読むより、次から次へ新しいものを観ていくからでしょう。
 それはテレビで観た映画をすぐに忘れてしまうのと、映画館で観た映画をずっと覚えていることの違いに似ています。しかし人間は時流に弱いので、ほんとうのものより流行るものに走ります。
当然、現実には本から離れていくのですが、ここでちょっとストップ。紙の本が売れなくなったと言いますが、紙の本にも種類があり、いわゆる良書と言われるもの・・・あるいは哲学・思想の棚にあるもの、まっとうな小説や物語・・・は、この数十年、ちゃんと読まれていたのでしょうか。私はそうは思いません。その意味での本離れなど最初からずっとあったのです。まともな読書をする人など50人に一人はいるのでしょうか。たいていは、雑誌、週刊誌、漫画、ライトノベル、流行本、ビジネス書、実用書の類を読んで読書と言っているだけです。子どももまた同じでしょう。だから、スマホのようなものが出現すれば本離れなどたやすいのです。

大人も子どもも本離れ?

 そういう現象を象徴するかのようなニュースが今月、耳に飛び込んできました。名古屋のメルヘンハウスの閉業です。メルヘンハウスといえば日本の児童書専門店の草分け、創業40数年の老舗です。多くの児童書専門店が目標にしていた大きな専門店でした。展示書籍3万冊を誇り、ブッククラブの会員は最盛時には1万5000人もいたそうです。それが経営不振で2018年3月で閉業・・・他人事ではありません。ゆめやなど店売などはほとんどなく、ブッククラブだってメルヘンハウスの20分の1です。1万5000で閉業なら、規模からいえばゆめやは「風前の灯」状態じゃないですか!ね。
これも、子どもたちの親世代が漫画やアニメで育ち、自分の子に本を読み聞かすという習慣を持たない世代になったからでしょう。平気でスマホで赤ん坊をあやし、無意味な動画を幼児に見せる親・・・そんな連中が増えれば、本など売れなくなって当たり前です。さらには、国民総動員じゃなかった国民総活躍で親は長時間労働・・・子どもは保育園で乳児期から長時間保育・・・これでは家庭生活は壊れ、ますます本など読み聞かせたり、読んだりする人口は減ることでしょう。こういう深刻な文化事情を上は政治家から下は学校の先生、親までほとんど何も考えていません。生きるのに必死なのかもしれませんが、そこで育つ子どもはどんどん荒れていくことでしょう。「最後は金目」で生きる国の末路です。クリスマスだから一言聖書から引用しましょうか。「神よ、かれらは自分が何をしているのかわからないのです。」・・・あ、これ、教えの言葉ではなく嘆きの言葉でした。
さて、もうそういうことを百万回言っても流れは変わらないわけですから、ここは思った通りに突き進んでするべきことだけはしていきたいと思います。で、今月は、そのクリスマスということで、クリスマス関連の絵本について語る会に出てしゃべったので、そのことをお伝えしたいと思います。

Alice’s Tea Book Talk

 12月10日、恒例のAlice’s Tea Book Talkが大月市立図書館のホールで行われました。今回のテーマは「クリスマス絵本」。時期にぴったりのテーマですね。でも、山のようにあるクリスマス絵本のなかから選んで話すのはとてもむずかしいです。そこで、トークをする三人が個人的な好みで選んだ本がいくつか挙げられました。そうそうトークをする人たち、いわばコメンテーターですが、いつも三人です。まず、都留文科大学の白須康子先生、猿橋幼稚園園長の仁科美芳先生、そして、ゆめやのおやじです。司会は大月市立図書館の館長・絵本作家の仁科幸子さん・・・
白須康子さんは英文学が専門の緻密な研究をされる方で、イギリスに11年留学していたという、すごい体験の持ち主です。初回は英語が連発されるんじゃないかと不安の中で話しましたが、英語がすぐれているということは当然、日本語もすぐれているわけで、一安心。仁科美芳猿橋幼稚園園長は、長い間現場で子どもと接して、絵本の反応や子どもとの心理的な関係に習熟されている先生。その説得力のある言葉はときおり私の不勉強を刺激する。こういう方々と、本について語り合うのは怖さもあるけれど、いい勉強、いい経験にもなるので、何回もお付き合いをさせていただきました。

気楽に話せるのが一番

 つまり、この三人は、いろいろな本について語ってきた間柄なのですが、参加者も常連という感じの方々が多く、いろいろおもしろいことが言える雰囲気になってきています。今回も遠く甲府や勝沼からブッククラブの会員で来館された方々がいました。ありがたいことです。やはり、何度も続けるということは大切なことですね。無意味なようでもジワジワ染みわたって行くと言うのは、物を伝える本道なのかもしれません。
このトークショーは、仁科幸子館長のアイディアや遊び心、さらにはホスピタリティがいっぱい込められていて、なかなか楽しいものでもあります。「Tea Book Talk」というくらいで途中でティーブレークなんかもあるんです。紅茶にアーモンドケーキとかスコーンなど手作りのものが出ます。今回は温かいアッサムティーに左のように見事なクッキーが出ました。クリスマスの彩り満載でした。まったく公立図書館とは思えないすてきなサービスでした。

どんな本を選んだか・・・

 で、今回はクリスマス絵本について語ったのですが、何を選んだかというと。メインに選んだそれぞれのコメンテーターの1冊は次のものです。白須先生はアリスン・アトリーの「クリスマスのちいさなおくりもの」、仁科美芳先生はアンデルセンの「マッチ売りの女の子」、私はレイモンド・ブリックスの「さむりやのサンタ」でした。
その他の紹介本は館長が導入部で朗読した不朽の名作「サンタクロースっているんでしょうか?」・・・あの8歳の女の子の質問に米・サン新聞社が答える形のものです。これは、子どものサンタクロースに対する意識と大人が答えるべきものを明快に表したものでした。
あと副読本は「クリスマス人形のねがい」バーバラ・クーニー(白須先生)、「クリスマスのまえのばん」クレメント・C・ムーア、「急行北極号」C・W・オールズバーグ(私)、「マッチ売りの少女」スベン・オットー、「ビロードのうさぎ」マージェリィ・W・ビアンコ(仁科美芳先生)・・・などでした。

はじまり、はじまり・・・

 まず、「サンタクロースっているんでしょうか?」の朗読・・・読んだ人ならわかるでしょうが、少女の素朴な疑問とそれに明快に答える新聞・・・アメリカがまだ善意に満ちていた時代のことでしょうね。「サンタクロースを見た人がいないのは、サンタクロースがいないことの証明にはならない」って・・・こんな簡単なことに今まで気がつかない人々を納得させるに十分な回答です。サンタクロースを信じない、ちっぽけでつまらない大人にはなりたくないですからね。
いまのアメリカは(日本も)拝金主義者がトップに立って、サンタクロースの存在ではなく、稼いで(稼げるなら原発でも戦争でもOKという)プレゼントを持ってくる親となってしまっていますから最悪です。子どものサンタクロースへの思いはできる限り保証してやらなければ親ではないし、大人ではありません。そこから始まる物語が日本では(いや世界でも)クリスマスの物語なのです。キリストの生誕も大切かもしれませんが、世界はクリスチャンばかりではありません。イスラム教もあれば仏教もある。儒教もあればロシア正教もある・・・しかし、子どもたちにあるクリスマスは「サンタクロース」以外のなにものでもないのです。それは日本でもインドネシアでも中国でも韓国でもそうでしょう。もちろん、米英、独仏の子どもたちも同じです。

不平、不満を言ってはいけない?

 で、まず私から始めました。私は前述のように「さむがりやのサンタ」を選んだのですが、選んだ視点は2つありました。ひとつは不平、不満をたらたら言いながらプレゼントを配るサンタという点です。もうひとつは、これが絵本らしくないコマ割という漫画型式だからです。
 この本は4歳くらいから6歳くらいまで子に読み聞かせるのがいいと思うのですが、読み聞かせるとほとんどの子が魅せられます。そして、イヴの夜には本の中の子どもをまねてサンタを迎える準備をしたりするのです。この圧倒的な力は「不平タラタラのサンタ」にあるのです。この絵本が長く人気を博してきた理由は、この不平の意味を子どもが自分たちへの苦労として感じ取ってきたからでした。
 ところがですね。この十年くらい、どうもこの絵本についての感想がとどきません。不思議に思っていたら、あるお母さんが「こんな不平不満のサンタクロースを子どもに見せるのはどうかと思う。もっとまじめにプレゼントを配り、立派な姿を見せてもらいたいと思う。」と書いてきました。私としては「ドヒャー!」という感じです。
そんな受け取りをしていたのか、いやそんな、まるで学校の優等生のようなものの考え方で絵本をよむ人がいるのだとおもってビックリでした。こういうお母さんは真面目に学校で勉強して、真面目に生活して、真面目に子育てをしているとは思うのですが、その真面目さによって真実を見る力を失っているのではないか・・・それが学校では優等生であり、世の中に出ては生真面目な社会人であり、GDPの増加に寄与する期待される人間像なのですが、その裏に仕組まれた悪に目が向かないような気がするのです。教科書は真面目に習うが、それ以外のものには目を向けることができない狭い視野の持ち主になっているのだと思うのです。
さむがりやのサンタは無報酬で世界中の子どもたちにプレゼントを配る仕事をしているのです。きっと、その真面目な親は、その意味すらわからないのでしょう。学校や国の期待される人間像を目指して子どもを育てたところで、それは豊かな心を持つ人間にはならないということをもっと知るべきだと考えます。いくら成績が良くても人の気持ちのわからない大人になったら、こりゃあもう子育てとしても失敗でしょうね。

短文の意味が分からない中高生

 もうひとつ、この絵本ではコマ割りでという問題があります。それは一貫した物語を読み聞かされてきた子にはあるコマから次はどのコマの話になるか当初はわからないのです。問題は、それが、すぐにわかるようになること。3,4回読み聞かせればすぐにわかります。コマ割りものは多くは漫画ですが、ここに慣れてしまうという問題があります。そして一般的には、アニメ動画から漫画、友人間のメール、LINEなど成人するまで「吹出し」に書かれたしゃべり言葉ばかり体験していくことになります。しゃべり言葉は論理性がありませんから、ほとんど言葉を受けても論理的に考える力が生まれません。
このため短文でも文が示す微妙な意味の違いが分からず、同じものだと思い込んでしまいます。ですから、たまにコマ割りの絵本もいいのですが、すべてコマ割りで行くとしゃべり言葉しかわからなくなり、書き言葉の意味が取れなくなると言うわけです。子どもをそうはさせたくないですよね。
右はその例ですが、主語が受動態になると意味が変わると言うことが理解できない一例です。たった2行の文ですが能動態と受動態になっていて、主語が変わるのですが、それが読み取れないという生徒がものすごく多くなっているらしいです。
「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」(能動態)・・・「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」(受動態)・・・完全に意味が違います。読み取れないのは書き言葉を読む習慣が少なかったからでしょう。
「さむがりやのサンタ」は名作なのですが、ここがコマ割り漫画の会話語だけの言葉の出発点になってしまったのでは困ります。この国は漫画文化を誇っていますが、じつは漫画では深くはわからないわけで、山ほど読んでもケシ粒ほどしか理解できないでしょう。

例えば漫画化された名作は?

 いま、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が漫画化で話題です。左の写真のもっとも左が原作のもの、真ん中が漫画、右がリメーク版の梨木香歩さんのもの・・・・なのですが真ん中を読んでも感覚的には心を打たれて納得したような感じにはなります。原作は冗漫な感じがしますので、一回読んだのでは当然全容とテーマはわかりません。二度、三度読まねばならないのですが、現代の若者は文章語に弱いのでまず放り投げることでしょう。そこでお薦めが右の梨木香歩版ですが、なんとなく「生きるシチュエーション」が違うような感じもします。真ん中の漫画本は半年もすれば心の底にも残っていないでしょう。左右の本は深く沈み込みます。マンガはわかったような感じになるだけで、じつはすぐに忘れてしまうものなのです。ですから、やはり書き言葉は重要なのです。読むうえでも自分が書くうえでも。
少し話が脱線していますが、漫画などで読んだつもり、わかったつもりにならいということを言いたいわけです。あらゆる名作は作家の生の「書き言葉」でつづられているもので、しゃべり言葉だけというものはありません。

マッチ売りの少女

 二番目のコメンテーターは、仁科美芳猿橋幼稚園の園長先生。左の絵本を挙げました。もちろん原文はハンス・クリスチャン・アンデルセンですが、この絵本はスベン・オットーの文です。多くのマッチ売りの少女が刊行されましたが、もはやまともな本はこれを含めてひじょうにわずかになっています。仁科先生や私が子どもの頃に読んだ本は、講談社の少年少女世界文学全集の中のもの。古いと言えば古いのですが、二人とも読んだ時期は、昭和30年代初頭です。この時期、まだ日本は貧しく、クリスマスを豪華な食事で過ごす家庭はほとんどありませんでした。空襲のあった都市では、まともな建築の家は少なく、家も立て付けが悪く、隙間風が入ってきます。そういう時代では、じつは子どもの私たちでも、マッチ売りの少女の足の冷たさが分かるのです。お金持ちの家の窓からおいしそうな七面鳥やケーキが並んでいるのも、うらやましさからわかります。そういうマッチ売りの少女が置かれた環境にまで共感できる心の働きは、やはり貧しい体験から生まれているというわけです。仁科先生は新潟の生まれ・育ち、当時の新潟は雪ばかり多くて、「裏日本」という言葉が示すように貧しかったと思います。おそらく私よりはるかにマッチ売りの少女を憐れむ感受性は強かったことでしょう。
デンマークという国は今でこそ豊かな繁栄を誇る国ですが、いまから150年くらい前はひじょうに貧しい小国だったのです。アンデルセンの絵本に有名な「絵のない絵本」というのがあります。月が世界中の家庭、子どもの姿を見ながら、その様子を語る小話の連なりですが、この最後の部分に、女の子が眠る前に神様に祈りをささげる場面があります。「きょうもパンをありがとうございました」と。しかし、その後に続けて「明日はたっぷりバターのついたパンを・・」とお願いするのです。「酪農王国のデンマークにバターがない!?」と思うでしょうが、そのくらい当時は貧しかったのです。
そこにマッチ売りの少女がマッチを売り歩くのですが、この哀れさを感じ取れるのは自分自身が貧しく、あるいは不安な生活を体験した人でなくては無理でしょう。おそらく、またこの「マッチ売りの少女」のような子どもたちが町をさまよう時代がやってくるでしょう。どのくらい、そういうものに同情できるかは想像力の問題ですが、現代人が決定的に欠けているのは、その「他に対する」想像力や思いですね。このマッチ売りの少女の心境に自分の心がシンクロできるというのが「人間性」なのではないでしょうか。
仁科美芳先生は、現場で子どもたちを長い間見てきていますから、当然、その子の家庭も見えていることでしょう。幼児教育ばかりではなく学校教育でも、すぐれた先生は子どもが感じる子どもなりの「悲劇」を知っていて、それにシンクロし、より良い方向を示すものでした。ところが最近の生徒のいじめ事件や自殺事件を見ていると学校の先生の鈍感さを感じるのです。ひどい場合は鈍感を越えて、加害に加担している教師さえ見受けます。
仁科美芳先生のように、マッチ売りの少女の足の冷たさやひもじさまで感じることのできる教師は激減していると言っていいかもしれません。かなり子どもたちにとってはつらい学校生活の時代になっていくかもしれませんね。

サンタクロースが来なくなる日

 しかし、仁科先生や私たちの世代が持っていた感性は、現代の若い人たちは持ち合わせていないでしょう。バブル以後、とにかく拝金主義の結果が出て、それは相手を思いやる気持ちを薄くし始めたからです。いまや、貧しい子どもをイジメる子どもや大人が出現しています。もうクリスマス・プレゼントを以前のように喜ぶ子どももいないことでしょう。そして、サンタクロースが親であることを知る年齢もどんどん低下してきています。思いが減ってきているわけです。
プレゼントが安ものであっても満足できた時代の方が幸運なのかもしれませんね。映画「オールウエィズ三丁目の夕日」の一場面に主人公の少年に血のつながらない貧しい父親が少年が欲しがっていた万年筆を安ものなのですがプレゼントするシーンがあります。知り合いの医師に頼んでサンタクロースになってもらって少年を騙しながら、プレゼントを贈る・・・そして、少年の喜び・・・感動的なシーンです。それから長い時間が経って、プレゼントした親に無形の幸せなプレゼントがもたらされるのですが、それは思いをかけたことに対する本当のサンタクロースからの贈り物なのではないでしょうか。
しかし、現代の子どもは欲しがるものもそんじょそこらのありきたりの流行もの、与える親もほとんど慣習的な流れでプレゼントを買います。それは、もうサンタクロースがやってこなくなった時代を意味しています。実利だけを追い求めている人間の不幸なのかもしれません。

アトリーとクーニー

 さて、三番目は都留文科大学で英文学をやっている白須康子先生がアリスン・アトリーの「クリスマスのちいさなおくりもの」やバーバラ・クーニーの絵本を取り上げました
まず「クリスマスのちいさなおくりもの」ですが、このストーリーはいたってかんたん。お母さんが病気のため、クリスマスイブの晩になっても、その家ではクリスマスの用意ができていないのです。家主の代わりに、心配した猫とねずみが協力し合って、家主の代わりに、クリスマスケーキを作ったり、飾り付けをしたり・・・・・・。私はその中の猫とねずみのやり取りがじつに読んでいる私たちの心に深くしみ込んでくるのです。
ねこ:「クリスマスイブだからって、あんまりずうずうしくするんじゃないよ。そうさ、かざりつけはないんだよ。おかみさんはびょうきでにゅういんしているし、こどもたちだけじゃなんにもできないだろ。だんなさんはすっかりふさぎこんでいるしね」
ねずみA「ねこさん、あんたがなんとかしてくださいよ。」
ねずみB「こんやはみんながなかよくするよるでしょ。」
ねこ:「なかよくするよるだって?ああ、そうだったね、こんやは。じゃあ、あたしもおまえたちをたべたりしないようにするよ」・・・などという、これはまさに司会の仁科幸子さんが「ひろすけ童話賞」を取った「星ねこさんのおはなし」のような展開です。天敵どうしが近寄っていくストーリー・・・現代では重要なテーマですよね。
クリスマスはみんなが仲良くする日。この日だけではないでしょうが、天敵であろうが仲たがいしている人々であろうが、何か困ったことを前にしていがみ合っていたのでは話になりません。現代は欲の深いネコと鼻柱の強いネズミが、やれ制裁するの、ミサイルを撃つのと力を合わせようとはしませんが、この話の中ではネコとネズミさえ手を携え合って難局を乗り切るというわけです。
そういえば、第一次大戦中のクリスマスの日にはイギリス兵とドイツ兵が休戦し、一緒に食事やサッカーを楽しんだというエピソードもありました。しかし、第二次世界大戦ではそういうことはなかったし、その後もクリスマス休戦なんていうのもありましたが、宗教が違う国と国の戦いではなかなかそうはいきません。
それは国のことですが、例えば現代、いがみあって離婚した家庭も多いです。しかし、それとは無関係な子どもの健やかな成長のために、年に一度クリスマスのほんのひと時、事情あって別れた夫婦が「楽しい時間」を共有して、「未来を見せてあげる」ことへつなげるというのもクリスマス休戦のひとつです。これもアトリーの話は別の形で教えてくれているわけです。
これについて白須先生は多角的に英文学の質の高さを説明しておられました。たしかにアトリーは「むぎばたけ」にしても深い意味を作品に込めています。ふつうの動物たちに何気ない会話に人間が解決できない問題や思いつかないアイディアのヒントを込めています。こういう質の高さが日本の絵本には少ないような気がします。なぜ少ないのか・・・まだ日本では絵本は成熟していないのか、そのへんはむずかしい話となります。

日本でロングセラーになる本

 すると仁科幸子さんが、私に「日本の絵本でも、ねずみなどが出てくる人気絵本『ぐりとぐら』がありますが、どう思われますか?」といきなり振られました。そこで日ごろ思っていたことを「洗いざらい」言わせていただきました。
「1960年代では日本にあまりきちんとした絵本がなかったので、質の安定している絵本はみんなヒットしました。それがずっとロングセラーになったというわけです。
しかし、本をよく分析すると、この本の特徴はひとつは「食べ物」、もうひとつは「みんなで」というくくりだと思います。子どもは食べ物には釣られます。引き付けられますね。特にお菓子など甘いものには、ね。それから一人だけで食べるよりはみんなで食べたいと思うのは自然です。これも子どもの関心をひきつけます。そこから導き出されるのは、みんなで協力。でも本、そのものは食べ物で釣るわけですから、すくなくとも3歳児から5歳児くらいが対象で、これを小学生に読み聞かせたり読ませたりするのは、ちょっと子どもの成長に合ったものとはいえませんね。」
この意見には会場の反応は複雑なような気がしました。日本人は物事を否定したり、批判したりするのはよくないことと思う人も多いのです。ですから、私のような意見はあまり受け入れられませんが、すぐに子ども受けする絵本が少なかった時代にヒットしたものは、ほとんど批判なく現在まで「名作」となっているのです。
これを支えてきたのは当時、文庫活動をしていた人たちで、中には時代にそぐわず古びたり、色あせてしまった本も「当時の感覚」で大きな評価をしているところがあります。
その後、膨大な絵本が生まれましたが、長い目で見ると粗悪化しているところもあり、だからこそ、かつての「名作」は命脈を保っているところがあるわけです。

クリスマス人形のねがい

 さて、ゴッデン作、バーバラ・クーニー絵の「クリスマス人形のねがい」なのですが、当然、日本では広く知られている絵本ではないのです。地味な絵本といえばいえますね。白須先生がが挙げたものですが、原題はThe Story of Holly & Ivy(ホリーとアイビーの物語)といい、知る人は知っていることですが。賛美歌の『The Holly and the Ivy』からとられたものであるとのことです。
私は、キリシタン・バテレンではないので、賛美歌はまったく詳しくないが、訳詩を見ると、「ヒイラギ」と「ツタ」は固く結び合っている存在であることがわかりますから、これも心のつながりをイメージした題、内容だと思うのです。
 さて、日本では、なぜ『クリスマス人形のねがい』と訳されているのか・・・よくわかりませんが、ページを開くと「これは、ねがいごとのお話です。それに、お人形と小さな女の子のお話でもあります。・・・」で始まっていますからね。
また、最後にも象徴的な一言があり、「ねがいごと」がテーマであることを最初と最後で強調している物語です。
「女の子のねがい」ではなく、「クリスマス人形のねがい」という題に訳されている点が深いものを暗示しています。
ホリー(ヒイラギ)はお人形で、アイビー(ツタ)は小さな女の子なのです。
人形と少女は、服装からして縁が深い存在であることを示していますが。
ホリーは、「ドレスは赤、くつも赤、ペチコートとソックスは緑」のクリスマスカラーなのです。
ホリーは箱から出されたばかりで、いちばんあとからおもちゃたちに仲間入りしたのですが、そのおもちゃたちは、「きょうこそ、だれかに買ってもらわなくちゃならないわ」という願いをしながらお客を待っているというわけです。
子どもに触ってもらったことがない彼らは、「もみくちゃにされる」ことさえ願っているのですが、人形が主人公であることが暗示されているのですね。
 ここからはあまり書くとネタバレになりますが「心から強くねがえば奇跡は起こる、あるいは、求めれば願いは通じる」というメッセージが全編を貫いているのです。
それが願いをかなえる要素の1つ目だとしよう。本文の中で、ホリーとアイビーをガラスが隔てているという描写のあとで、登場人物たちがお互いに感謝することが語られる美しい描き方で、願いという自分自身の力を超える何かが引き起こす出来事があると人と言うものは「生きる喜び」のようなものがるのだ、と、子どもにも伝わるような気さえしてきます。
 これは、海外翻訳絵本には多いパターンなのですが、絵に対して、文字数が多い、絵本ですが、いわゆる日本でいう絵物語・絵童話に入るものです。そして、文体も語り口調で、クリスマスの夜の読み聞かせ向けのような雰囲気になっています。絵もまた美しい。
しかし、アニメ絵本に慣れた子どもたちは果たして、このナイーブな内容を読み取ることができるかどうかも心配な時代になってきているのもまた事実です。
例えば、日本の教育では、この絵本を読んだ後、親や教師はすぐに問いかけをします。この物語が言いたいこと、述べていることは何ですか?・・・です。そこでは答えは決まっている! さきほど述べた「心から強くねがえば奇跡は起こる、あるいは、求めれば願いは通じる」というようなものでしょう。そう答えれば〇。しかし、どのすぐれた物語でも、そこに行きつくまでのプロセズで、各人さまざまな想像力を働かせ、いろいろなことを考えます。そうすると決まった答えに行きつかないで別の答えになったり、あるいは答えがなかったり、さまざまな読み取りが出てくるわけです。ところが学校教育は画一的に答えを決め、その答えを正解とし、その総数をできるかぎり多く暗記したものが勝ちというバカげたことをやるわけですね。これでは多様なものが育たないわけで、文化は多様性でできていますから、多様性をなくしたら衰退するばかりです。江戸時代に比べ明治以降何も独自の文化が育たなかったのは、こうした実学(実用性だけしか考えない)教育が跋扈し始めたからです。

詩的風景と詩的文章

 アトリーやクーニーの絵には詩的風景と詩的文章が満ち溢れています。でも、これが、じつは日本人になかなか受け入れられない要素であり、多くの親、多くの子どもがなかなかなじめない部分なのだと思います。
白須先生は、英国に十一年も留学し、その環境から「詩的なもの」を多く体験したり学んだりされたので、違和感なくアトリーやクーニーの作品に入り込めるのですが、福沢諭吉以来、実学を刷り込まれた日本人は、私も含め「詩など役に立たないもの」「無意味なもの」「人生にとって価値のないもの」というような教育を受けたので詩に対しての重要性がわからないのです。その証拠に、みなさんに小学校、中学校の国語の詩の授業を思い出していただきましょう。何か感銘を受けたことはありますか? どのくらいの詩を暗唱しましたか? おそらくほとんど頭のスミにもないことでしょう。ただ、枕草子とか平家物語とか長恨歌などは暗唱させられた記憶はあるでしょうが、ふつうの詩は記憶の底にもないかと思います。教える側が詩について思いや情熱があるわけもないので、当然、生徒にもそういう浅い、あるいは薄い学習としか思えないものになっているのです。
この点について、トークでは詩というものの重要性について話してみました。そこで例に出したのが映画「いまを生きる」(この項の写真)でした。ロビン・ウイリアムズが先生役になって、それこそ熱い熱い詩の講義をするものです。悲劇も含めてかなりインパクトのある映画でした。人生での詩の重要性が語られるのです。つまりヨーロッパでは伝統的に詩というものが文学上、重要な位置を占めているので国語の授業ではかなりきちんと教えられる伝統があるというわけです。
前述のように日本も和歌、漢詩などが豊富な文化を持っていた時期がありました。時期があったと言うより歴史の大部分が詩歌に満ちていたのです。そして、素養として知ることから始まり、作ったり、観賞したりということが生活の中でなされていたのです。ほんの150年くらい前までは詩歌は生活の一部だったのです。それが明治になって消えてしまいました。詩歌では食えないというような感覚が生まれたのです。おそらくは、福澤諭吉の「学問のすすめ」からでしょうね。学校教育がその影響を大きく受け、今に連なっているのです。その辺(明治初期)から人間性(自然を楽しめない、無責任な行動をする・・・)もかなり落ちてきたように思うのは私だけでしょうか。

日本の詩歌の授業は心もとない

 私は、ここで白須先生がこの作家たち(アトリーやゴッテンなど)の本を挙げたことに深い意味を見出したいと思いました。つまり、学者は私たちが知らない世界を研究し、それを私たちに次々と提示してくれるのです。しかもそれは体験的に得た知識としてではなく、きちんとした学問のかたちでです。ところが、ある時期(おそらくバブルの前あたりからですが)、こういう学問を軽視する人々があふれ出しました。いわゆる反知性の波です。じつは読み聞かせおばさんたちの大部分が、ろくに本を読まずに子どもの本ならわかるという「弱知性」で子どもと接しています。ここはひとつ、大学では白須先生のように深く学問的に考える人に活躍していただき、一般では学校から切り離した形で、何らかの「知性」や「教養」を与えていかないと、芸能やスポーツだけに興じる底の浅い人間しかできなくなります。写真をごらんください。これは浜松市の小学校6年生に対する市の授業ですが、まどみちおさんの有名な童謡詞の「ぞうさん」です。6年生に・・・なんだかなぁと思います。「詩歌に弱い子どもたちだから、ここから」というものなのでしょうか。けっして、まどさんの詩を否定はしませんが、6年だったら宮沢賢治の詩くらいはやれないのでしょうか。
詩をつくるには風景を詩的に見る目が必要です。想像力がなければ詩的な文章をつくったり観賞したりすることはできません。それには「知性」が必要ですし、幼少期からの成育環境が必要です。日本の子どもたちがアトリーやクーニーの絵本を楽しめるようになる日は来るのでしょうか。
トークが終わった後で、白須先生と「この問題はさらに考え深めなくてはいけませんね。」と話し合いました。
(12月10日、アリスのブックトーク、大月市立図書館ホールにて)



(2017年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ