ブッククラブニュース
平成30年4月号(発達年齢ブッククラブ)

入園おめでとうございます

 氷点下が続いた寒い山梨の夜が終わり、ゆめやの店先にも春の日の光が差してきました。この時期は巣立ちの季節。  まずは入園おめでとうございます。
 出がけに「行きたくなーい!」と騒いでいますか? それとも、親がさみしくなるほどサッと通園してますか? そのどちらも成長の証しですね。子どもは信じられないほど早く大人になっていきます。
 ゆめやの近所では、帰宅する親子を街角で蛍光色のジャンパーを着た「安全隊」のおじいちゃんが笑顔で見守る・・・いい風景があります。我が家が子育てをしているころは、そんなこともなく、母親がママチャリの前に次女、後ろに長女を乗せて汗水垂らして戻ってきました。少子・高齢化・・・わずかな間に日本も大きな変化をしているようです。
 でも、子どもはどんなこととは関係なく、元気に跳ね回り、遊んでいます。ほっとします。

そんなに心配しなくても・・・・

 さて、入園とは、子どもが初めて親の手から離れて世の中に出るとき。
 0歳のときから保育園に行っている子は、それほど心境の変化もなく登園していくでしょうが、3歳、4歳入園だと緊張もあるでしょうし、親のほうもじれったさや不安も感じることでしょう。スーっと園生活に入れる子もいれば、なかなかなじめない子もいます。同じ環境で育てても「むずかしい子」と「すんなり行く子」の違いがあるのと同じです・・・同じように育てたはずなのに・・・と思いながら、親は戸惑います。でも成長してから考えると、そんなのは子どもの性質の違いのようなもので、あまり神経質になる必要がないような気がします。
 子どもは、本来、自分の力で育っていくものです。もちろん、ある程度のガイドは必要ですが、あまりにも手をかけすぎ、心を砕きすぎると、子ども自身が、成長のための力を出せなくなってしまいますからね。

違う環境に慣れる・・・

 違う環境に慣れていくというのは、人間が持たなければならない能力のひとつ。いつまでも親に保護されていたら、快い環境でしか生きられない人間になってしまいます。いますよね。そんな若者、あるいは中年が・・・。自分の好きなことだけして、人との会話もできなくなる可能性も出てくるので親離れは必要不可欠です。ひどい場合は、ゆがんだ人間になってしまうことになりかねません。そんな人間が引き起こす事件が最近、多いと思いませんか。この間の鹿児島の身内を殺していった事件の犯人などおそらく過保護、したいことしかしない、やがて異常性格にというものだと思います。
 そこまで行かなくても、アイドルのコンサートにコミケに←群がるオタク系男子やコスプレ系女子などを見ていると、「その親たちはどういう子育てをしてきたのだろうか」と思うことしばしばです。こんな人間にしたら、お先真っ暗。どう考えても、「あんな大人にはしたくないなぁ!」と他人事ながら心配に思ってしまいます。生まれたときは、同じだったのに、わずか二十年くらいで、あんなに変わっていくということは、子育ては半分以上、生育環境だと思うのです。
 きちんと叱る、しなければならないことは教えていく・・・そのくらいをしていれば、あとは子ども自身の成長する力で切り抜けられるものです。

ゆっくり、ゆっくり・・・・

 園は、子どもがまず最初に社会性を養うところです。みんなと一緒に何かする、同じ時間に同じ場所で・・・「共同すること」を学ぶところです。極端に異常な行動をとったりしなければ、見守っているほうが効果的です。言ったからといって、すぐに実行できないのが幼児。何回か繰り返せばできるようになりますから急がないことです。最近、その社会性がない子が増えてきているといいますが、それは、行動の原型になる家庭生活がなかったからでしょう。最近、見ていると、「夕食を食べさせて入浴させて寝るだけの場所」という子育ても見受けられます。さらに子どもの時間的余裕がなくなるほど過度なお稽古事、過密スケジュールの日常では、幼い子は親が絶対なので言うことを聞くでしょうが、やがて成長すれば「大きな反発」として戻ってきます。言うことを聞かなくなる思春期の反発は小さい方がいいのですが・・・。

だまされたと思って遊ばせてみよう

 どこの園だって、管理教育をしているようなところはほとんどありません。分刻みでスケジュールが組まれているようなところはまずありません。先生がストップウォッチを持って、子どもの行動を管理するような園もないでしょう。過度な教え込みや極端な整列、挨拶を要求する軍隊のような園もないと思います。いや、あったかな。「森友」なんて名前の・・・。
 なかには早期教育に熱心な園もあるかもしれませんが、テキトーに付き合わないと大変です。この時期は、ゆるやかに社会性をつけていく時期で、無理をすれば「成長の基礎」などブッ飛んでしまいますからね。そこまでは、しない。
 ただ、最近は「親のニーズがあるから・・・」ということで知識教育を塾なみに組み込む園もあります。そういうところを選ぶのなら、これはもう親の「自己責任」。「早く、正確に」は、じょじょに身につけないと、どこかに歪みが出てくるものです。「能力が伸びればいい」という最近の風潮は、やはり先行きの成長を考えると困ったものだと思いますよ。
 いつも言うように、現代は多くのシステムが市場経済で動いているため、それに乗る企業は目玉になる宣伝をして消費者の気を引くことをします。この傾向は園(学校)も例外ではありません。子どもの知識教育に頭がシフトしてしまった親は、この宣伝に目が奪われやすいのです。若い親たちの中には家庭外教育だけで成人してしまった世代も多いので、外部(園や学校、塾)依存することに抵抗がないのですが、これからの時代を切り抜けられるとは思えません。
 子どもに必要なのは昔から想像力と創造力を与えること、これさえあれば大人になって人に頼ったり、反知性になったりはしません。
 子どもは遊ばせましょう。何が無くても子どもというのは自分の頭を使って遊ぶものなんです。遊びが想像力と創造力を生み出します。

新入学のアルバムの中で

 今年の入学式は四月第二週の七日か八日の学校が多かったようです。甲府の桜はちょうど散ってしまい、桜吹雪の中を新入生が歩いていました。ゆめやの周辺には半径500m内に三つの小学校、二つの中学校があり、この時期は新入生が目につきます。大き目の制服とかきれいな私服が目立ちます。
 さすがに田舎なのでアルマーニの制服を着た子はいませんが、ピカピカのランドセルは、まさに新鮮です。こういう風景を見ていると私はいつも自分の子どもたちや、あるいは自分自身の入学のときのことを思い出します。着慣れない制服に身を包んで緊張していた娘の顔が貼ってあります。さらに古い私のアルバムには、セピア色の写真。直立不動の私が写っています。新しい世界への不安と期待がにじみ出ている写真です。
 個人的な体験で言いますと、やはり小学校の入学式から始まって高校の卒業式まで、それぞれの年代なりに入学の緊張がありました。不安も・・・ね。もちろん、そういう緊張がほぐれて何かに夢中になったこともあれば、努力もしないでダラダラ過ごした日々もありましたが・・・それでも学校に入るたびに何かしらの緊張はしていたように思います。みんなピチっとしていました。いまは、どうなんでしょう。0歳から保育園で育ち、外の世界にいる時間が長い子どもにとっては、外の世界など緊張する度合いも少なくなっているのではないでしょうか。

不安はあるでしょう

 さて、その入学式が行われた日に、何組か新入生のお子さんを連れてお子さんを見せにきてくれた方がいました。そのうちの3人の方がちょっと不安そうな面持ちで、同じことを話してくれました。
 「写真を撮るために動き回る親がけっこういた」「子どもが式の最中に立ち歩く」「落ち着かないで体をゆすっている子がいる」・・・などなどなど・・・目にした新鮮な?話題ですから「学級運営がうまくいくのかしら?」「巻き込まれないようにするにはどうしたら?」という話題が出ました。
 でも、聞いている私には、目新しいことではありません。二十年くらい前から起きている現象なので、「今に始まったものではない」と思っています。
 そういうことは、親が躾けてこられなかったから起こることで、学校が悪いわけでも保育園や幼稚園が悪いわけでもありません。小さいときから「場に応じて緊張する」という経験や訓練がなければ、どういう場なのかということも子どもにはわかりません。
 これまでも場の認識ができない子がクラスを崩壊させてきたわけで、恒常的に「学級崩壊」状態である学校だってあります。山梨のような狭い地域でも、地域によってはあることなのです。地域の家庭の問題が、学校格差にもつながっているようですね。
 「何でもあり」の家庭で育った子は、どこに行っても緊張感はなく、場を読むこともありません。そして、一見、そういう子が強く、躾(しつ)けられてきた子は弱いように見えます。

身びいきではありませんが・・・・

 ただ、昔とちがい読み聞かせを受けた子は受けなかった子とは決定的にちがうものがあります。
「ブッククラブの子たちとは違うけれど、ああいう子たちのほうが普通なんでしょうね。」と言った会員がいましたが、決して身びいきではなくて「読み聞かせを幼児期に受けてきた子は、家の内と外の違いや身内と他人との違いを即座にわかって行動できます。だから、それなりの言動、行動もできると思うのです。ところが雑な家庭の子は場が読めない!叱られることがなかった子は、まったくの注意力欠陥障害で、気配り、配慮、行いでの注意が散漫です。きちんと躾けられていれば、物を壊したり、お茶をこぼしたりはしないものです。それをやる子は、極端にいえば、1・2歳児と同じ注意力しかないと思われます。たった5年くらいで、これだけの違いができてしまうのですから、家庭での成育環境は大切なものだというのがわかるでしょう。
 相手をよく見て、おかしなことを言わないでいるのは、読み聞かせの背後にある家庭の底力でしょうし、ブレない人間になっていく大本を形作るはずです。多くは親の力、そして育つ環境の力、やさしいジジババでもお金で釣ろうとすることをしていては、孫や子はどんどんダメになってしまいます。緊張感を持って、危機が回避できる人間に!がんばってほしいですね。

緊張感と場を読む力

 ただ、皆さんはこう言うかもしれません。「早期教育で字が書ける、九九や英語も言える、そういう子の前で自分の子は萎縮してしまうのではないか」「場が読めると控え目になるので、場の読めない子の傍若無人に引きずられてしまうのではないか」・・・親は不安ですが、それは短い期間でみた話。長い目で見れば、緊張感を持って場に臨み、真面目にこなしていく子の方がしっかりした生き方ができるのです。これは嘘ではないですよ。一番いけないのは、親が周囲に流されて、ブレてしまうことでしょう。子どもは親の揺らぎをすぐに見抜きます。ここは頑固(ガンコ)な親になって、「ダメなものはダメ」「よそはよそ、ウチはウチ」「我が家はそういうことをしない」という方針を貫かないと、子どもは親を疑ってブレていきます。親の頑固さに反抗が出るかもしれませんが、長い時間が経てば、子どものほうで「ブレなかった親を評価してくれる」ものなのです。
 いま、政治家や企業家ももはや何でもあり。これでは人は疑いを強めるだけで、いくらお金を積まれても周りから去って行くことになるでしょう。状況に応じてコロコロ言葉を変える人間など信用できないじゃないですか。ブレはすぐに見抜かれます。

状況に負けないで・・・

 たしかに小学校に入っても山のように問題はあります。読書ひとつ取っても学校図書館の「赤ちゃん絵本まであるひどすぎる蔵書問題」「貸し出しコンテストの弊害」「子どもたちの間で流行るサブカルチャーを抑えられない学校」・・・「お稽古事やお勉強での余裕のなさ」・・・いずれ皆さんも直面することでしょう。でも「読む子は読んでいくし、読まない子はいずれ読めなくなる」そういうことはわかっているのです。
 幼児期の読書環境が小学校での読書を決めてしまうことも多いし、読み聞かせてきたのに流行りのものに流れて読まなくなる、読めなくなることも多いのです。それならば、ブッククラブのお子さんたちは、あまり心配することもありません。成長に応じた読み聞かせを受けていますから、自分で読んでいく力は黙っていても身についています。あとは、「どういう環境なのか」で「読む」、「読まなくなる」は決まるでしょう。これも、親がブレずに行けば大丈夫です。
 学校に入っても、焦らず、騒がず、力まないでいきましょう。成績など気にすることはありません。東大を出たって人間としてどうにもならない人が山ほど出てきました。もう学歴の時代は「時代遅れ」なのです。 (4月号一部閲覧)



(2018年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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