ブッククラブニュース
平成21年4月号新聞一部閲覧

入園おめでとうございます







早咲きの桜


 温暖化で早咲きの桜、甲府では四月になったとたんに落花狼藉となりました。花びらが散る中の入園式・・・子どもたちの笑顔と笑い声がひときわ目立つ季節です。入園、おめでとうございます。0歳から保育を受けている子どもたちも多くなっていますが、「入園」とは親から離れて集団のなかに初めて入っていく、つまり大人になっていくための「はじめの一歩」です。
 「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉にあるように、親はいつも成長の結果を確認したがるものです。なるほど、その期待に応じるかのように子どもの成長は速いです。発達対応の選書をしていると、生まれてからまだ一年も経たないうちに絵本に関心を示します。二歳も過ぎれば、絵本の内容を丸暗記してしゃべる子も・・・大人の言うことも十分に分かってきます。すごいですよね。この短期間で・・・でも、あまりにも慌てて成長を煽ると今年の桜と同じで散るのも早いかもしれません。用心、用心です。

何も足さない、何も引かない


 ・・・というお酒造りのコツを表現したCMがありましたが、自然な成長というのも「酒造りと同じかも・・・」と思います。熟成は短時間ではできないもので、やはり時間がかかります。手をかける部分ではかけないといけませんが、じっくりと待たねばならないものもあります。放っておいてもいけないが、手をかけすぎてもいけないわけで、この辺のコツが何も足さない、何も引かないという意味なのではないかと思うのです。
 たしかに、子どもが大きくなってしまうと、「あれもしておけばよかった!」「これもしておけばよかった!」という思いもありますが、実際にそれをしていたら子ども自身が壊れてしまったかもしれません。ただでさえ、成長過程でいろいろなものが襲ってくる時代です。黙っていれば、アニメから始まり、ゲーム、パソコン、ケータイ・・・と精神に影響を与えるものはゴマンとあります。生活自体が依存症や鬱病を引き起こすシステムに変っています。放っておいては、そういう影響を受ける怖れは十分にあります。

園もいろいろ


 私の子どもは年子だったので二人とも四歳から幼稚園に入れました。送迎バスなし・歩きでの通園、給食なしのお弁当持参、目玉教育なし・遊び主体の教育方針・・・まさに時代に逆行するような幼稚園で、行事への親の参加も多かったです。園長先生の基本方針は「幼児期の保育の主体は家族」「園は集団生活を学ぶ場」でした。それでも当時は多くの親の賛同を得て、園児も多かったのです。でも、今の若いお母さん方には敬遠され尽くす内容を持つ園でもありました。年々、園児数は減少しているといいます。
 「どんなに近くてもバスが送迎します」「栄養バランス満点の給食完備」「英語、算数・・・お勉強はもちろんお稽古事も行います」が、いまでは主流です。さらに家庭の補いのようなものまで企画されている園もあります。「母と子の遊び教室」「お行儀教室」・・・ここまでやってくれるなら家庭は不要と思えるほどの懇切丁寧、かゆいところに手の届く教育・・・すごいです。でも、そこには何か不必要なものが加え入れられ、大切なものが引かれていると思うのは私だけでしょうか。

その年齢でするべきこと


 二人の子どもは二年間、一日も休むことなく幼稚園に通いましたが、それは園が楽しかったからだと思います。彼らは大人になってから「子ども時代で一番楽しかったのは幼稚園だ」と言っていました。私は何度か園長先生と話しました。そこで印象に残っているのは「子どもには、年齢によってするべきことがあって、この時期の子どもたちは友達との遊びからいろいろ学ぶことだと思います」という言葉でした。
 それ以前の子ども(赤ちゃんや未満児)は、親の庇護のもとで「自分の存在を肯定する感覚」や「愛されているという感覚」を育てるわけです。これは他人(たとえば保育園の先生)より身近な親のほうが、確実に効果があるということです。おそらく遺伝子の中に親が信頼や安心を与えてくれるというものが含まれてういるからではないかと思います。よく二歳児くらいで、親がそばにいないとダメという子を見かけます。でも、それはそれでいいのですね。これを四歳、五歳でやっていたら正常な成長ではなく、一、二歳児のときに欠落した親の存在を取り戻したいという自我が働くバランス取りの行動なのではないでしょうか。

二つの脳


 なるほど、それはブッククラブの選書の基本になっている発達形態学でもいえることです。二歳半くらいまでは大脳の旧皮質(帰属意識や自己認識を司る原始的な部分)の発達があり、それは一般的には家庭・家族のサポートで完成していくわけです。親の存在は重要です。「安心を与える保護者とゆっくりとした生活時間がないと幼児はうまく心が成長しない」といわれているのもきっと同じことなのでしょうね。三歳くらいから先は、じょじょに新皮質が発達していきますが、これもまた知識の詰め込みよりは遊びからじょじょに学ぶのが自然の発達に即した学習だといわれています。下等動物は脳幹だけで生き、高等動物が新皮質だけで生きるのではなく、成長の過程で脳の進化のプロセスに合った環境が用意されないと大人になったときにおかしな精神や価値観の持ち主になってしまうのです。「天才を育てる」「頭の良い子を作る学習法」などというものは信用しないことです。お手軽にそんなことができたら、人類はもうとっくに平和で不安のない社会を作りあげていたことでしょう。うまい言葉に引っかかって無意味にお金を費やすのはジジババのオレオレ詐欺ばかりではなく、早期教育に狂う若い親たちもまた・・・・になるかもしれません。

異常の原因


 大学生たちが大麻や覚醒剤に汚染されているといいます。それも偏差値の高い有名大学・・・若い人たちの自殺も多いですね。ま、そういう先端的な現象まで行かなくても、異常な言動、ファッション(かわいい系なども精神病的)を見かけます。犯罪のパターンも論理的でない「誰でもよかった」・・・こういう原因は直接的にはゲームや映像媒体などサブカルチャーにあるでしょうが、私は幼少期の生活に大きな原因があるように思うのです。また、そういう悪影響を及ぼすものが野放しになり何の吟味も加えられず子どもの生活の中に入り込んできていることを実感します。そういう子ども(大人)たちは、なぜ異常な行動に走るのでしょうか。
 おそらく、幼少期になんらかの原因があるのでしょう。だって、まだほとんど人生経験をしていない世代なのですから、生活に疲れてとか、人生を悲観してなどいう原因は考えられませんものね。
 つまり、彼らの親の中に幼児期に「新皮質の発達ばかりを要求」し、「旧皮質の大切さを無視」した親がいなかったかどうか・・・そして、自己肯定感がなく、愛されているという感覚が抜け落ちてしまった状態・・・・知識だけが詰め込まれた頭・・・偏差値は高くなったかもしれませんが、人間値が下がってしまった原因は幼児期の生育環境にあるとしか考えられません。

答えはそれなりに・・・


 とは、言っても、いちがいに親ばかりが悪いとはいえません。その背後には国や社会の流れがあって、これにはなかなか逆らえるものではないからです。この国が四十年ばかり前から方向を失って迷い道に入ってしまったことをどのくらいの国民が認識していることでしょう。
 豊かさの維持と言う大義名分のもとに働くことが重要視されました。親は赤ちゃんを預けてでもお金を得ようとする風潮が社会を覆っています。最初のうちは社会枠も人倫も安定していたので何とか大人になっていきましたが、1980年代からはそうは行かなくなったように思います。周囲に粗悪なものが満ち溢れ、精神性の維持があぶなくなってきました。でも女性も含めて家庭外で労働することが進められました。0歳児保育、長時間保育・・・この意識の正当化に学校教育もジェンダーフリー運動も加担してきたように思います。そんな中で、大脳旧皮質の安定成長がないまま置き去りにされた子どもが出てきたように思います。そういう子どもが三十歳になろうとしているのです。
 働くことは悪いことではありませんが、子どもを見失ってまで働く必要はないのではないか・・・
 これは単純に労働力不足に悩む国の施策に乗らされているだけではないか・・・とも思います。
 それぞれの家庭の中で子どもに伝えていくものは必ずあります。箸やエンピツの握り方から始まって、どう人と接するか、どう危険を回避するか・・・・これを学校や園はやってくれませんよ。子どもたちがどう育って、どういう大人になるか・・・それは三十歳くらいにならないと答えがでません。子育てはリセットしてやり直しは利きませんから幼児期には良い環境、良い体験を与えるよりないでしょうね。その始まりが入園です

《フレンドシップニュース一部閲覧》

入学おめでとうございます


日本列島は長いので・・・


 甲府は三月二十日(記録的な早さでした)に桜が咲きましたが、寒風が吹きすさんで五分咲きが長く続きました。四月に入るやいなや満開、散り始めた桜も・・・・なんとか入学式まで花が持ってほしいですね。温暖化で生態系が狂い始めているなか、自然も健気に踏んばっています。日本列島は長いので桜が五月にならないと咲かないところもあるでしょう。ブッククラブも北から南までいろいろ。各地、各人、入学に関するイメージもそれぞれでしょうね。
 水蒸気を含み始めた青い空、風に乗る桜の花びら、真新しいランドセルの輝き・・・桜の下を新入学の子どもたちが学校に歩いていく姿は「始まりの季節」を感じさせて、いいものです。このような連想は私だけかもしれませんが、初めて世の中に出て行く子どもに桜のある風景はピッタリだと思うのも私の記憶がなせるわざでしょうか。

良い記憶は良い人生をつくるかも・・・


 現在の自分が過去の自分の積み重ねであるなら、良い人生は良い体験と記憶でつくられるような気がします。多くの人生は問題もなくスンナリと行くことはありません。私自身の記憶をたぐっても小学校入学は緊張と不安と怖れだったように思います。それは、まさに「くんちゃんのはじめてのがっこう」のくんちゃんと同じで「新しい場所に入っていく緊張と不安」でした。私の幼いころは幼稚園へ行く子が少なく、私も幼稚園へは行っていません。誰でも初めての場所へ入っていくのは不安があります。私ばかりではなく、じつは幼稚園経験のある私の子どもたちも入学のときは落ち着きがありませんでした。やはり緊張はあったのでしょう。
 でも、私の入学のときも子どもの入学のときも、くんちゃんと同じように安心させてくれる先生や見守ってくれる人がいました。そして緊張や不安や怖れは消えていきました。それが青い空やハラハラ散る花びらやランドセルの輝きの記憶と重なって残っているのだと思います。

期待は当然だけれど・・・


 親は子どもに期待します。子どもへの期待がない親はいないわけで、期待も愛情のひとつだと思います。でも、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、過度な期待や励ましは良い体験や記憶をつくらないかもしれません。子どもの不安定な心を黙ってバックアップすることは大事なのです。「思い=期待」はいくらでもふくらませることはできますが、「行動=サポート」はそうそう大きいことができないからです。「子どもは親の言う通りにはならないが、親がする通りにはなる」・・・。ホメロスも『オデッセイア』で英雄たちの子どもを評して「親を超える子は少ない」と言っています。たいていは、親と同じようになるものです。過度な期待よりは、ちゃんとしたサポートのほうが大切だ、というのはそういうことかもしれません。

とは言え、私にも期待が・・・・


 私にもBCの子どもたちに期待があります。「どろぼうがっこう」や「かいじゅうたちのいるところ」、「げんきなマドレーヌ」や「こんとあき」を楽しんでくれた子どもたちが、「南総里見八犬伝」や「はてしない物語」も楽しんでもらいたい、という期待です。
 読み聞かせから一人読みへ、絵本から本格的な物語の読書へ・・・そして、いつか高度な内容の本へ。
 でも、長年やってきて思うのは、「読め!読め!」と言ったところで、関心がほかに向けば読まなくなるのはよくあること。これも自然に任せたほうがいいわけで、読書できる環境があれば子どもは黙っていても読んでいくものです。
 これもまた言うばかりではなく、親もまた「する」必要 があります。
 子どもだけが読むようになることは稀です。読むようになる子の家庭はやはり親が本に関心がある家庭です。こういうことを言うと一般からは批判を受けますが、本を買い与えて読み聞かせをする家庭からは、それなりの手間に見合った子どもが成長していくように思うのです。ですから私はブッククラブの子どもたちの多くは信用していますし問題を感じてはいないのです。ただ、その子たちも、学校で、そうでない子たちと混じるわけです。昔のように先生が子どもにひとつの基準を持っていて、ナイーヴで繊細な子を守ってくれる学校ならいいのですがね。先生自体が、受験勉強で育ち、サブカルチャーは当たり前で、価値観に問題があるような人なら、子どもも守れなくなります。モンスターペアレントに怯えている先生だっているでしょう。本を読むよりネットで調べることを重要視する先生と出会ってしまうかもしれません。

山のように問題はあるが・・・


 たしかに小学校に入っても山のように問題はあります。読書ひとつ取っても学校図書館の「蔵書問題」「貸し出しコンテストの弊害」「子どもたちの間で流行るサブカルチャー」・・・「お稽古事やお勉強での余裕のなさ」・・・いずれ皆さんが直面することです。「夢新聞」紙上に載せて、警告や注意を促してきた問題でもあります。
 でも、私は長年の経験から自分でも不思議なくらい意外に楽観的なのです。
 「読む子は読んでいくし、読まない子は初めから読んでいかない」そういうことはわかっています。幼児期の読書環境が小学校での読書を決めてしまうことが多いのです。それならば、ブッククラブのお子さんたちは、あまり心配することもありません。成長に応じた読み聞かせを受けていますから、自分で読んでいく力の基礎は黙っていてもできています。あとは、「どういう環境なのか」で「読む」、「読まなくなる」は決まるでしょう。

御意見、御提案をお寄せください・・・


 子どもが成長するのは、それだけでうれしいものです。新入会員の方には、この新聞でいろいろお知らせをいたします。小学生の周囲にある多くの問題を捉えて考えてみようというものです。問題は時代の問題なので解決はできないでしょうが・・・。
 この国は、三、四十年くらい前に進む方向を間違ってしまったように思います。不安も緊張もなく新しい道に踏み込んでしまったのですから、親も学校も対策がないのはあたりまえかもしれません。子どもに関わる問題も年を追うごとに山積みです。初めのうちは問題視もされましたが、今では問題があるとも思われていません。学級崩壊が起きてから時間が経つと「同じような状態がクラスで起こっていても、もうそれが普通の状態になってしまう」からです。人は、異常の中にいると異常も正常に見えてくるものです。俗に言う「教育熱心」ではなく「子どもの生育環境に熱心」な大人になりたいものですね。こういう道に進んでしまった責任は大人にあるわけで、子どもにはないのですから・・・春・・・キラキラした子どもの瞳をたくさん見たいです。今年もそういうキラキラしたブッククラブの修了生がたくさん出ました。よりよい状況を作るのは大人の仕事です。今年度も、ご意見、ご提案よろしくお願い申し上げます。



(2009年4月号ニュース・新聞一部閲覧)

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