ブッククラブニュース
平成23年1月号(発達年齢ブッククラブ)

あけましておめでとうございます

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます 平成二十三年元旦
多くの会員の皆様から今年も早々に年賀状をいただきました。心よりお礼を申し上げます。年末年始の繁忙のため、ゆめやからは年賀状が出せませんが、このニュースを新年のご挨拶に代えさせていただきます。
 写真年賀状は全点を店頭展示させていただいています。来店受け取りの方ばかりでなく、配達の会員の方もたまにはぜひご覧になってください。
 政治も経済もほとんど子どもの先行きを考えることがなく進んでいるため、ますます、子どもを取り巻く状況はよくなくなっていますが、年賀状の写真には屈託のない子どもたちの笑顔が溢れ、見ている大人が癒されます。いつの時代も子どもの笑顔があることで私たちは先に進めるような気がしています。今年のNHK大河ドラマは「江」ですが、戦乱の絶望的な状況の中で生まれた「江姫」の笑顔をみんなが「これは希望だ」という場面があります。子どもとは笑顔を見せるものです。屈託なく笑う、その顔と声を嫌う人はいないでしょう。いつの時代も子どもは希望で、だからこそ親はがんばれるのだと思います。豊かさの中で見かけは幸せに見える平成の末期ですが、

年の初めに

 さて、甲府は寒い冬となりましたが、ゆめやはこれまでと変わることなく新年を迎えました。我が家では暮れの28日から大掃除をして正月飾り。注連を水場や火を使う場所に貼って、新しい年を迎える準備をします。そして、元旦には初詣に・・・。これは恒例で欠かしたことはありません。特別な宗教信者ではないのですが、お正月は神社に詣でて、新たな年が良い年になるようお祈りします。
 まあ、ふつうの日本人です。すぐ近くに武田神社があるのですが、ここは一度も詣でたことがなく、あまり詣る人の多くない氏神様(稲積神社/甲府市太田町)への初詣が子どもの時から欠かしたことがない慣習です。武田神社はたかだか90年の歴史しかなく、なんとなく格が低いように思えるからです(笑)。この国では戦さで活躍した人は神社に祀られるという風習があります。乃木稀典を祭る乃木神社、東郷平八郎を祀る東郷神社など・・・・一人殺せば殺人者ですが、たくさん殺せば英雄にも神にもなれるわけで、そういうご利益はあまり受けたくない感じもします。
 次に、愛宕神社という甲府城の鬼門の守護神を祀る神社でお祓いを受けます。こうした一年の区切りの儀式をしないと気持ちが改まらないので、ずっと続けています。記憶をたどる限り、もう50年以上は大晦日から元日にかけて初詣をします。子どもができ、成人してもずっと家族で続けている行事。まあ、どこかへ出かけても人でいっぱいの年末年始ですから、のんびりゆっくり近くで満喫というところでしょうか。何事にも飽きっぽい私が欠かしたことがないのですから・・・我が家に定着している年中行事といえます。

お祓い

 さて、新年のお祓いを受けるとすっきりします。大麻(おおぬさ/左右三回振って祓う幣のついた神具)を頭の上で受け、神鈴を鳴らしていただきます。冷たい空気に鈴の音は爽やかです。そして、そのあと玉串を奉納して、土器(かわらけ)でお神酒をいただき、身は温まり、心は改まるというわけです。
 ここで、宮司さんから、今年の注意を受けます。「○○に気をつけること」、「心にスキが出ると悪い結果につながる」・・・「今年の破魔矢は西に向けて置くように」・・・などと・・・・日ごろ小さな心の判断で動いている自分が戒められるのも反省につながって良いことだと思います。非合理的な迷信などと思ってはいけません。人間などおよそ何もできない卑小な存在です。やはり謙虚に目に見えない何かの力を感じることは大切なことだと思うのです。
 それでなければ毎年多くの人がお賽銭を握り締めて初詣に行くわけはありませんよね。ただ、百円玉でいくつもの願いをして御利益をいただこうというのはあさましい考えです。やはり謙虚に身の穢れを落とし、目に見えない力を感じ取ることは必要でしょう。
 ふつう初詣には行ってもお祓いを受けません。でも、やはり今年気をつけることや行うことなどの言葉を聞いいて自分の立脚点を静かに考える時間を設けてもいいのではないでしょうか。
 こういうことは一年の初めに家族揃って気持ちを新たにするにはとても良いことだと思うのです。現代人は「宗教行事など迷信」「生活とは関係ない」として遠ざけますが、心のどこかでは満たされないものを抱えています。太古の昔から行われてきた行事や慣習は、それなりの内的な意味があり、心の衰えを修復する力を持っていたからこそ長く行われてきたと思います。ところが、近代の個人主義は自分の考えや行動が一番で、反省とか内省から遠ざかっていました。そして、超自然的なものを軽んじた結果、自分の生活や人生を見直すことができなくなっているのも事実なのです。私は、この国の年間三万人を超える自殺や親殺し、子殺しが生活の中(成育過程)で超自然的なものを軽く見てきた結果だと思うのです。

お年玉の話

 お掃除をして、年迎えの準備をする・・・日本人は、つい数十年前までどこにも降りて来る神様というものを信じていました。神様をお迎えして新たな力や命をもらうというおだやかな信仰です。どこかの国の宗教のように「この神を信じない奴は殺す」という原理主義的な怖い宗教ではなく、ちょっと原始的と言えば言える何もかもに神様が宿っているという信仰です。「家のそこここに神様が降りて来る・・・・だからお迎えの準備をする」という考え方が生活の中に根付いていたのです。折口信夫博士は、これを「稀人(客人/まれびと)信仰」だと述べています。冬至で太陽の力が衰えるとその復活を祈り、また力を与えてくれる行事にもつながる日本人独特の自然信仰(すべてが神様)です。
 こうしたものの一つとして「お年玉」というものがあることを、今年はお祓いのあとに愛宕神社の小山利行宮司(左・写真)から、教えていただきました。「えっ?お年玉って子どもが親からもらうお金のことじゃないの?」と思いましたが、もともとは、そういうものではなかったそうです。
 お年玉は戦前まではお米の粉で作った団子や丸餅だったと教えてくださいました。これは神様が降臨して宿る床の間や神棚に上げられていたものです。それを家長が床の間や神棚から家人(子どもたち)に分け与えていました。つまり、それは歳神さまの力のおすそわけ。貴重だったお米から作られたものが「年玉」という形で、新たな年に命を吹き込むものとして分けられたのです。「物を大切にするように」、「人を大切にするように」、「道に外れたことをしないように」・・・その分け与えの中で子どもたちは歳神さまを見て、家庭の中心や求心力として床の間や神棚、そしてお父さんやお母さんを見ていたというお話をしていただいたのでした。お年玉は「自分を磨く」「誰かの役に立つ」という象徴的な意味を持っていたということです。

ところが

 太平洋戦争でお米の粉は不足していき、その代わりに年玉は小銭になりました。それでも子どもたちは、まだ歳神さまが見えていたので、お金を大切にすることも知り、分けてもらう喜びも感じていたのです。
 ところがです。高度成長、バブル・・・小銭は大枚のお金に変化していき、「お年玉」は、「労なくして手に入る安易な稼ぎ」になってしまったのです。こんな「お年玉」が子どもの心に良い影響を与えるはずがありません。さらに、困ったことに、そのころから給料は銀行振り込みとなり、親のありがたみも希薄になってしまったのです。そればかりではありません。「亭主元気で留守が良い」という風潮が起き、親の名前を呼び捨てにすることが「仲の良い家族である」という誤った考えも横行し、子どもの目には親が家族をまとめる存在として映らなくなりました。歳神様の代理である親という意識も消えました。さらにジェンダーフリーをこれまた原理主義的に唱えるヒステリックな人々によって、「父親像」は矮小化し、輝きを失って行ったのです。本来父親とは家庭を守り、周りに優しさで接する存在なのですが、中には権力的に横暴になる人もいて、そこがジェンダーフリーの人々に追求されることになってしまったわけです。
 小山宮司は、この結果「子どもたちは、親や神棚を通して超自然の力(歳神さまや色々な神様)を見ることができなくなり、自分の心の置き場、心の向け所を失っていった」と。
 「目に見えないものを見る」・・・これは読書も同じですが、その行為は自分の居場所を決め、家庭や友人とのつながりを作っていくことでもあるわけです。ところが、そんな気持ちは消え、正月は心を新たにする行事ではなくなってしまいました。

いったんバラバラになって再び復活するか?

 宮司さんは、この背景には「神社や寺がお金に走ったことに原因がある」と述べておられました。「社会の崩壊とともに宗教も腐敗して、お正月の意味や日常の祭祀の意味を教えることがなくなった」と・・・。先祖からのつながりの一部であることを子どもに認識させる行事(お年玉や神迎えの生活行事)は家庭が行うものです。我々は神社や寺の教えを受けて生活していく部分もあるのですが・・・私たちも宗教者側も共にやらなくなったということでしょう。小山宮司のようにお祓いの際に声をかけ、言霊で人々の生活を導く神社や仏閣は激減してしまったのです。以前、このニュースで作家・藤本義一さんの「少年殺人犯の家庭調査の結果」を書きました。少年たちに共通するものは何もなかったのですが、ひとつだけ「どの家庭にも仏壇や神棚がなかった」と報告していました。神々を見失った子どもたちは、人を殺さないまでも家族や、そのほかの人々のつながりをバラバラにしていく可能性は高いです。そんな時代が、すでにやってきたように思います。悲劇は避けたいです。切り抜ける最後の手段は、精神的な行事を大切にして、家族の絆や周囲とのつながりを復活させることなのかもしれません。大変な時代ですが、今年もがんばりましょう。
(ニュース一部閲覧)

本年が佳い年になりますよう

 今年もたくさんの会員から年賀状をいただきました。いまや、写真年賀状が90%で、昨年、一昨年にいただいた賀状と過去のハガキファイルで見比べると同じお子さんが年毎に大きくなっている姿を見て取ることが出来ます。写真は一瞬を切り取るものなので、会員の「過去」と「現在」を知るための大きな手がかりとなっています。それにしてもお子さんたちの成長は速く、ハガキファイルのバックナンバーはまさに成長と変化の記録にもなっています。ありがとうございます。
 家族揃っての微笑み、お子さんの笑顔・・・皆さんが幸せな一年を過ごしている様子がそのまま伝わってきます。家族と言うのは国や社会を構成する最小単位で、これが健全なら細胞が生き生きとしている肉体と同じで国や社会も健康です。2011年が皆さまにとって何事もない平穏な一年になりますよう心からお祈りいたします。

去年の予想の検証

 さて、毎年のことですが、昨年の一月号のこの欄でも年頭の予測をしました。言い放しではフェアではないので、まず去年の予測を検証してみます。その予測とは、以下のようなものでした。
「2010年の世の中では卑劣な力押しの現象がいろいろなところで起こる。」「何が正しく、何が悪いかではなく、単純にそうしたい!というだけで起こってしまう現象。マスコミは、それを増幅させて実体を隠してしまう装置になっている。」「仮想や誇張で現実を見せない状態が起こる。」「やわらかい子ども達の頭はバーチャルな世界そのものを現実だと思うようになる。」「影響が近いうちにわれわれの間にも出てくる」と結びました。
 実際、こういう現象は昨年いたるところで起きました。もし、「そうでない」というなら、それはその人が気がつかないだけです。
 例えば、去年の予測で現代の「陶片追放(オストラコン)」の例を挙げましたが、政治の世界は世論調査(支持率)を妙に気にした形で動いています。これでは何も出来ません。気にしすぎは、やがて人気取りの政治になっていく危険な傾向です。数字がそんなに大切なのか・・・じつのところ、メディアが出す世論調査の実数は確実なのかどうかも不明なのです。でも報道されれば信じるよりありません。もしメディアにやる気があればですが、この力押しですべてを壊すこともできないことではないでしょうね。

仕掛けで売る商法

 去年の、ゆめやの新聞の記事などは忘れたという方もいるでしょうから分りやすい例を出しましょうね。一週間で百万部を売った本があります。言わずと知れた村上春樹の「1Q84」ですが、ほんとうに売れたのでしょうか。印刷所が印刷した数を確かめたわけでも全国の書店の売り上げ統計を取ったわけでもないのです。出版者が公表した一方的な数字なのですが、この数は発表された数字をメディアがそのまま垂れ流しただけなのです。
 さらに、それを具体化した例が水嶋ヒロの「KAGEROU」です。売り出す前から42万部発行というものですが、これはもう芸能人の人気と報道宣伝の効果を当て込んだ仕組みで、「ハリーポッター」から始まった販売戦略にすぎません。賞を出すときに出版社側は著者が「斉藤智祐」ではなく「水嶋ヒロ」であることを知っていた可能性もあり すでに売り部数を大きくする目算があったことは明白のようです。内容の良し悪しで売るのではなく、一般大衆に宣伝を仕掛けて買わせる力押し。良いも悪いもなく、売りたいというだけの意図で起こした現象です。はじめは売れなくても「売れた!」と報道されれば買うのが日本人の意識。最終的に40万部行けば嘘でなくなるわけで、こういう商法がハリポタ以後、柳の下のドジョウとして何回も行われているのです。
 日常的にこういう強引なやり方を利用しているのがネットショッピング、テレビショッピングです。「残りあと○○だけ!」とか、「一ヶ月で○○○○個売れている」と言われれば日本人は弱いのです。テレビを「報道」と錯覚していますから「おテレビ様の言うことなら間違いない!」と思ってしまう人がほとんどです。テレビ発祥から50年・・・その意味でもテレビは日本人の信頼を勝ち取ってしまったようです。さらにまた、ウソでも信じやすい民族ですから・・・ね。乗り遅れるのが怖い人々は、「とりあえず買う」のです。3Dテレビもi-padも中身の良さでもなく自分が欲しいかどうかでもなく・・・報道されているからという理由だけで買う人は多いのです。
 このように、かなりの勢いで卑劣ともいえる強引な商法が行われ始めたのが昨年でした。そして、メディアがその商法を後押しするような形で存在しているわけです。垂れ流されたものをそのまま、事実を覆い隠して報道してしまうやり方は、視聴者を真実から遠ざけるものですが、商法の実態を覆い隠す装置にもなっているというわけです。まったくひどい傾向が出てきたというよりありません。

テレビの質と視聴者の質

 おバカギャルが「水嶋ヒロが書いたんだって!買っちゃったぁ。」という場面を報道すれば、それだけでまた本が売れる可能性は十分にあります。
 さらに芸能やスポーツの世界で人気取りのために事件作りや反道徳的ことを言ったりやったりすることも毎日、報道されています。彼らにとって「離婚」ネタも「再婚」ネタも人気を取るため・・・・と、いうよりはテレビカメラが向いてくれればなんでもするという状態になってしまったというのが正確なところでしょう。
 日本のバラエティ番組の質の低さは世界一ですが、見ているうちに視聴者の意識もだんだん鈍くなって、質の低い笑いやきわどい言葉に影響されてどんどん頭が悪くなっていくというわけです。ここ二、三年の番組の質の低下はひどいものがあり、公器を使って言ったり、やったりするものではないレベルのことが平気で行われています。その中には当然、デタラメや嘘があり、見抜けない人はそのまま受け入れます。こういうデタラメや嘘をそのまま報道する状態で多くの人が影響を受けていくのはもはやどうしようもない状況なのです。今年はさらに進むでしょうね。
 テレビでコメンテーターをやったりすれば信用度が高くなるとばかりに教育評論家や学者、作家が出てきます。知名度のみで自作本などを売ることを狙うさもしい人々ですが、ここでもテレビは著作内容そのものを論議しません。

今年は辛卯年(しんぼうのとし)

 さて、今年は卯年。いよいよ卯年の予測です。
 ウサギ年は「飛躍」とか「跳躍」の年だとか言われますが、それは真っ赤な目ではなく、真っ赤な嘘。ウサギから連想した思い違いにすぎません。
 干支では「卯」の字は「門を押し開く」という字形で、行き着くところまで来た状態が門を押し開いて「矛盾や「闘争や犠牲を噴出する意味を持つ」といわれています。変わるべき状態をそのままにしておくと、こうしたことが起こる確率が高くなります。
 「辛」の字は噴き出すエネルギーや力を表していますから、飛び出たらさらに危険が増します。怖いのはこの字が「殺傷」を含んでいる年だということです。大きな犠牲を伴う殺傷が起きなければいいのですが・・・・。
 しかし、実際にはまったく、こうした危険が配慮されずに、このまま行くことでしょう。テレビやサブカルチャーに汚染された一般大衆の抑制はもう効かないのです。かれらは流行っているものは正義、常識、真実であり、「誰もが認めている」だから「安心」という意識の中にいます。つまりテレビやネットが認めているもの(実際はただ垂れ流しているもの)は正しいものというわけです。
 ですから、もうサブカル批判などまったくできない状態になっています。世を挙げてアニメ全盛、ネット全盛・・・「サブカルは危ない!」など言おうものなら、「何言っているの?頭おかしいんじゃない?」「みんなが受け入れているものを受け入れられないなんて変わり者」ということになります。
 世の中は、サブカルやネット社会の背後にある暗闇にはフタをして、良し悪しの判定もなく、儲かれば何でもする状態になっています。これにやられていく子どもも多いことでしょう。そういう子どもも、また大人も、もう出現していますけれどね。でも、誰にも止められない。
 映像や情報が溢れるので、一見、便利で豊かな感じがし始めますが、その便利さの裏におどろくべき悪が潜んでいるのが見えません。冷静な目で、着実な生活をしようとする人にとっては、ここは辛抱していく年になりますね。

個人責任ということになります

 もはや、テレビ、ネットが作り出すキワモノの世界は良し悪しの区別なく何でも出してきます。つまり、すべての「なんでもあり」状態が世の中にあふれ出てくる年が今年なのです。もう、誰も「これはダメです!」と言えない状態になると思います。こういう状態になると、さらに悪いものが入って来るのを防ぎきれません。情報など山ほどあっても人の頭はよくならないのですが・・・いまや多くの大人がメディアが流す情報に右往左往させられています。
 大きな声では言えませんが、若い親の世代はもう生まれたときからゲームソフトがあった世代、アニメにドップリ漬かってきた世代ですから、サブカルを子どもに与えるのが常識になっています。彼らは「何がホンモノか?」というよりは「流行っているものがホンモノ」だと考えます。子どもたちは、それを受け入れざるをえませんから、良し悪しの区別を失った成長が始まることでしょう。かれらが何を起こしてもおかしいことではないです。
 学校図書館にも公立図書館にも右のような本が満ち溢れるかもしれません。いえいえ、もう入っている・・・そうなんですね。性的なものも全然問題にされずに子どもたちの目に触れていきます。ケータイだってネットにつなげばアダルトサイトは見放題ですから、こういう影響も大きくなるでしょう。大人に影響が出ているものは子どもにも影響が出るのは自然現象です。いえいえ、もう影響は出ています。影響だけならなんでもないのです?が、事件でも起こしたら、いやいや、事件もまた毎日起こっています。これはもう個人責任です。

「開国元年」の危機

 菅首相は、いみじくも年頭所感で「開国元年」という言葉を使いました。なるほど、これが「卯」年の流れそのものを表す言葉です。明治の開国、戦後の開国に続く、第三の開国ということですが、門を押し開いて「矛盾」「闘争」「犠牲」が生まれる開国になりそうです。六十年前の辛卯年(1951)も同じような社会でした。60年安保に続いていく再軍備の問題など・・・ソビエトを中国に置き換えれば同じ。今度の開国は食糧問題や環境問題がくっついていますから、さらに大変です。
 もう多くの人が温室効果ガス25%削減などということは忘れ果てています。ビジネスチャンス、ビジネスチャンス、ビジネスチャンス・・・消費すること、儲けることばかりが先行して行きます。儲かればなんだっていいのです。兵器を作って売ったっていい。すぐに捨てるものを買いまくったっていい。
 しかし、ですね。日本は少子・高齢化で人口減少のスパイラルの中に落ち込んでいくのです。労働力確保どころか5人の老人を一人の子どもが支える状態になりかねないのです。この経済体制では、女性は子どもを捨てて(子育てを投げ捨てて)働かざるを得なくなります。生産と消費で世界一を目指そうという勢いのバカな政治家がいて、どう考えても足腰不自由な老人国家なのに働け、働け・・・そのうち共倒れしそうな勢いで働け、働けです。鼻先にニンジンをぶる下げられた馬のように子どもを半日以上、保育園に預けて働く親たち・・・・親も大変だが、子どももツライ。そんな子が大きくなってどういう大人になるのでしょう。
 こういう時代を生きる子どもも大変です。何でも受け入れるしなやかな体質で行った方がいいのか、きちんと自分の考えを持って生きたほうがいいのか・・・・選択はむずかしいですが、しなやかに受け入れて影響をモロに受けたらどうなんでしょ・・・これも親の育て方ひとつです。つまりは、また個人責任ということでしょうか。
 侵入してくるもの(経済的な欲望から始まり教育方法、さらには悪辣な情報などもろもろ)についていろいろ言えませんが、できれば、・・・できれば子どもの成長や家族の崩壊につながるものは避けてくださることを願うばかりです。すぐ消える情報や物など人間性を作る上では何の役にも立たないものだからです。そして、子どもの幸福、家族の平和とは何の係わり合いもないものなのですから・・・・。(新聞一部閲覧)



(2011年1月号ニュース・新聞本文一部閲覧)



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