ブロッター
ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。
2025/春 | comment |
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いわずと知れた芥川龍之介の子ども向き三部作のひとつ。しかし、現代っ子には難解な文で描かれる作品でもある。初版以後戦後もまだ旧字体、旧仮名遣いで書かれたからだが、なかなか現代文調にはならなかったため、多くの戦後の青少年が読めない本でもあった。 それがやっと出た。少年文学が売れない時代に、この本を出すには出版社にも大きな決意が必要だったと思う。敬服するよりない この本は、金で薄汚くなっている現代日本に必要不可欠な本だと思われる。金、金、金・・・を追及した結果、世の中は反モラルと騙したり、力を行使する犯罪社会と化してしまった。人との付き合いも金があるかないかとなり、ひたすら金を持つ人に群がり、そうでない人を謗る・・・これでは豊かな社会にはならない。考えても見よう。戦後の物のない時代からちょっと進んだ頃、金はあまりないが意欲があった時代には人と人のつながりは強かった。つきあいのある相手を見捨てる、人を抹殺することはなかったように思う。それをバブルが壊してしまった。人は孤立して生きるよりない。 これを「杜子春」は赤裸々に描き、ひょっとするとそこから脱け出す道まで提示してくれているような気がする。 もちろん表題の「杜子春」だけでなく芥川の切れ味の少ない短編も収録。 |
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30年以上も前の本で紹介するのもなんだか気が引けるが、どうも最近、きな臭い匂いが立ち込めてきた。なんとなく大戦前夜という感じだ。政治家もかなり頭が悪い人たちの集団になり、その意味で「新しい戦前」という感じもする。いまや平和慣れしたこの国の人々の頭は、歴史も身につけていないから、戦争やそれに伴う危機的な状況も浮かばないことだろう。 そこで思い出したが、1930年生まれの妹尾河童が同時代(戦時)を少年の目で描き出した、この「少年H」だ。見事に、そして具体的に、戦争の始まりから終わりまでが書かれている。そこには微妙にジェンダーの問題、外国人への視点(外人が多く住んでいた神戸が舞台)、あほくさい軍事教育、何の疑問も持たない日本人の姿が描かれる おもしろいのは主人公Hと、その父の考え方のやりとりだ。どんな酷い時代でも、なんとか生き抜く手法が描かれ、戦争推進派への庶民的な批判が込められている。こういう本を現代の青少年に読ませないと、SNS情報に踊らされて、自分が何を考え、行うかの視点が生まれないだろう。 そしてその軽佻浮薄は、やがて戦争への道を開いていくわけだ。世の中の流れにどう立ち向かって生き抜くか・・・その方法のひとつが、このなかに隠されているような気がする。 |
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世の中を見ていると、さまざまな大きな変化や問題があるのに、教育者や識者の意見の多くが20世紀の遺物を引きずっているように思う。自由、平等、個性、多様性・・・これらが金科玉条で、学校の先生も、学者たちも疑わずに、この考えを子どもたちやわれわれに押し付ける。 よく考えて見よう。本の中に理論的に書かれた「自由」「平等」は、なるほど非の打ちどころのない論理だ。しかし、それが現実に摘用されれば、すぐに「身勝手」と「ハラスメント」につながることがわからないようだ。なぜこれをいつまでも掲げるのだろう。自由平等が引き起こす事件が跡を経たないのに・・・。何をしても自由、俺もお前も平等、先生と生徒も同じ立場・・・その結果の現実は、またハラスメントやイジメの山だ。 なにより必要なのは「モラル」なのではないか。そのモラルの前提となる考え方なのではないか? この本は現代文学で御法度の「死」について、それが生命の循環であり「個」の問題ではない巨大なサイクルの中の事象であることが語られる。この考えは近世まで、我が国では庶民まで持っていた人生観であり、そこから礼儀や倫理が世の中に存在するようになってきた。消えた原因は明治以降の発展主義による欲望社会や科学至上主義だろう。これにより人と人のつながりが希薄になり崩壊する。もう一度「死」は何かを考え、生を考え出すきっかけに、この本は寄与できると思う。 |